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第三話 共有された嘘

 六月の長雨はまだ続いていた。

 拓海たくみは、広告代理店のビルが見える公園のベンチで、コンビニのサンドイッチを齧っていた。


 あれから三日。美咲の出社と退社を見守るのが日課になっていた。ストーカーじみている自覚はあるが、彼女が何か大きな荷物を抱えているような気がして、目が離せなかったのだ。

 美咲は毎日、完璧な笑顔で同僚と挨拶を交わし、深夜まで残業をして、疲れ果てた顔でタクシーに乗り込む。

 その姿は、かつて自分が「嫌な記憶」を売り払って得た空虚な成功者の姿と重なって見えた。


「あいつ、無理してんな……」

 

拓海は呟き、冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。

 その日の夜、拓海は意を決して、美咲がよく利用する駅近くのバーで待ち伏せた。

 彼女は一人でカウンターの隅に座り、強い酒を煽っていた。横顔は青ざめ、今にも泣き出しそうだ。


「……美咲」


 拓海が隣に座ると、彼女はビクッと肩を震わせた。


「拓海くん……? また会ったね」


 彼女は少し酔っているようだった。焦点が定まらず、目元が赤い。


「偶然だな。仕事帰りか?」

「うん。……ねえ、拓海くん。私、もう疲れちゃった」


 美咲はいきなり弱音を吐いた。普段の完璧な彼女からは想像もできない姿だ。


「大きなプレゼンがあるの。失敗できないやつ。でも、どうしてもアイデアが出なくて……」


 彼女はグラスの氷をカランと鳴らし、自嘲気味に笑った。


「私って、何のために頑張ってるんだっけ。昔はもっと、何か熱いものがあった気がするのに」

 拓海は胸が締め付けられた。

 彼女の中には、あの頃の情熱や夢を語り合った記憶がないのだ。それらは全て、路地裏の質屋で換金されてしまったから。


「……なぁ、美咲。高校の時の文化祭、覚えてるか?」


 拓海は慎重に切り出した。


「俺たち、クラスの出し物で揉めたよな。お化け屋敷にするか、喫茶店にするか」


 美咲は眉をひそめた。


「うーん、そうだっけ? 私、文化祭なんてサボってた気がする」


 嘘だ。彼女は実行委員長として誰よりも張り切っていた。

 拓海は確信した。彼女の記憶は改竄されている。あるいは、都合の悪い部分だけごっそり抜け落ちている。

「俺は覚えてるよ。お前、一人で準備してて泣いてたろ。誰も手伝ってくれなくて」

「え……?」


 美咲の目が大きく見開かれた。


「俺が手伝ったんだ。二人で遅くまで看板を描いて、ペンキだらけになって……。その時、お前が言ったんだ。『私、将来は自分の会社を作って、世界中の人を驚かせたい』って」


 美咲の手からグラスが滑り落ちそうになった。拓海は慌ててそれを支えた。


「……そんなこと、言った?」


 彼女の声が震えている。


「ああ。俺、すげえ感動したんだ。お前の夢、カッコいいなって」

 拓海が真剣な眼差しで見つめると、美咲はふいと視線を逸らした。

「……やめてよ。そんな昔話」


 彼女は拒絶するように席を立った。


「私、もう行くね。明日の準備があるから」


 逃げるように店を出て行く彼女の背中は、ひどく小さく見えた。

 拓海は追いかけた。


 雨の中、傘も差さずに歩く彼女に追いつき、その腕を掴んだ。

「待てよ! なんで逃げるんだ!」

「離して!」


 美咲が振りほどこうとする。その目には涙が溜まっていた。


「思い出させないでよ! 私が必死で忘れたのに……!」


 彼女の口から零れた言葉に、拓海は息を飲んだ。


「忘れた……?」

「そうよ! 辛かったの! 夢なんて見ても叶わないし、期待しても裏切られるだけ! だから全部捨てたの! あの店で!」


 美咲はその場に崩れ落ちた。雨が彼女の涙を洗い流していく。


「拓海くんとの約束も、全部……。だって、あの日、拓海くんはいなくなったじゃない!」


 拓海の心臓が激しく脈打った。

 高校中退の日。借金取りから逃げるために夜逃げ同然で街を出たあの日。

 俺は美咲に何も言わずに消えた。

 それが彼女をどれほど傷つけたか、考えもしなかった。


「……ごめん」


 拓海は彼女の肩を抱いた。雨に濡れた彼女の体は氷のように冷たかった。


「俺が悪かった。ずっと謝りたかったんだ」

「今更よ……」


 美咲は嗚咽を漏らした。


「でもね、拓海くん。私、一つだけ嘘をついてた」


 彼女は顔を上げ、濡れた瞳で拓海を見つめた。


「文化祭の準備の日。私、本当は泣いてなんかなかった。……拓海くんと一緒にいられて、すごく楽しかったの」


 拓海は驚いた。自分の記憶では、彼女は泣いていたはずだ。

 なぜ食い違っている?

 いや、もしかしたら……。

 その時、拓海のポケットの中で、以前買い戻した「高校時代の記憶」のビー玉が、カチリと音を立てた気がした。熱を帯びている。

 まるで、二人の記憶が共鳴し合っているかのように。


「美咲。俺、もう一度あそこへ行くよ」


 拓海は彼女の手を強く握った。


「あそこって?」

「お前が記憶を売った店だ。質屋だよ」


 美咲の顔色が変わった。恐怖の色が浮かぶ。


「ダメ! あそこに行っちゃダメ!」

「なんでだよ! お前の記憶を取り戻したいんだ!」

「違うの!」


 美咲は首を激しく振った。


「私が売ったのは、ただの思い出じゃない。……拓海くんが知ったら、私を軽蔑するような『秘密』なの!」

「秘密……?」

「お願い、これ以上踏み込まないで。今のままでいいの。忘れたままで……」


 彼女の懇願するような声に、拓海は言葉を失った。

 彼女がそこまでして隠したい秘密とは何なのか。

 だが、ここで引くわけにはいかない。彼女の心が悲鳴を上げているのが分かるからだ。


「俺は軽蔑なんてしない。約束する」


 拓海は彼女の目をまっすぐに見つめた。


「俺たちは共犯者だろ? 同じ店で記憶を売っちまった、ダメな人間同士だ」


 少し自嘲気味に言うと、美咲は泣き笑いのような表情を浮かべた。


「……バカね、拓海くん」


 彼女の手が、微かに拓海の指を握り返してきた。

 その瞬間、拓海の脳裏に強烈なフラッシュバックが起きた。

 夕暮れの教室。泣いている美咲。そして、その横で笑っている自分。


 ―『約束だよ、美咲。俺が必ず……』


 そこから先はノイズで聞こえない。

 だが、確信した。この記憶の欠片は、美咲の中にある。

 そして彼女もまた、今この瞬間、同じ映像を見ているはずだ。

 雨足が弱まり、雲の切れ間から月が顔を出した。

 二人は無言のまま、濡れた体で立ち尽くしていた。

 共有された嘘と、隠された真実。

 パズルのピースが、音を立てて嵌まろうとしていた。




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