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第二話 欠けたピースと再会

 六月の湿った空気が、そのまま拓海の肌にまとわりつくようだった。

 あれから一週間が経っていた。

 路地裏の質屋で記憶を買い戻した拓海は、再び貧乏なフリーター生活に戻っていた。

日雇いの警備員、深夜の倉庫整理。体はきつかったが、不思議と心は軽かった。汗をかき、筋肉痛に呻き、安い弁当を美味いと感じる。それが「生きている」という実感だったからだ。


 だが、一つだけ、胸の奥に棘が刺さったままだった。

『美咲との約束』だ。


 高校二年の秋、放課後の教室。夕焼けに染まるカーテンが揺れていて、俺たちは二人きりだった。

 そこで俺は何かを言った。あるいは、言われた。

 それが何だったのか、思い出そうとすると頭の中に砂嵐が走る。まるで、そこだけフィルムが焼き切れているみたいだ。


「金は払ったはずだろ……」


 拓海は休憩中の自販機の前で、苦いコーヒーを飲み干しながら呟いた。

 居ても立ってもいられず、拓海はSNSを駆使して美咲の現在の職場を突き止めた。

 都心のオフィスビルにある広告代理店。華やかな世界だ。

 拓海は警備員の制服を着替え、少しだけマシなシャツを羽織って、ビルのエントランスで待ち伏せた。ストーカーじみた真似だとは分かっていたが、どうしても確かめたいことがあった。

 夕暮れ時、社員証を首から下げた美咲が出てきた。

 相変わらず綺麗だった。栗色の髪を揺らし、ヒールの音を響かせて歩く姿は、高校時代の高嶺の花そのものだった。


「……美咲!」


 拓海が声をかけると、彼女は驚いたように足を止めた。

「拓海くん? どうしたの、こんなところで」

 彼女は微笑んだが、その笑顔はどこか余所余所しかった。まるで、取引先の相手に見せるような営業スマイルだ。


「いや、その……たまたま近くに来たからさ。少し話せないか?」


 美咲は時計を一瞥し、少し困った顔をしたが、「少しだけなら」と近くのカフェに入ってくれた。

 向かい合って座ると、高校時代の思い出話に花が咲くかと思ったが、会話は弾まなかった。


「へえ、今は警備の仕事をしてるんだ」

「ああ、まあな。美咲はすごいな、あんな大きな会社で」


 当たり障りのない近況報告。拓海は焦りを感じて、核心に触れた。


「なあ、覚えてるか? 高校二年の秋、文化祭の準備で遅くなった日のこと」


 美咲の手が止まり、カップの縁をなぞった。


「文化祭……? ごめん、よく覚えてないかも。私、あの頃忙しかったし」

「そんなはずないだろ!俺たち、あの日……」


 拓海は身を乗り出しかけて、ハッとした。

 自分が何を言おうとしているのか、自分でも分からないのだ。


「あの日、俺たちは何か『約束』をした気がするんだ。すごく大事な」


 美咲は不思議そうに小首を傾げた。


「約束? 変なの。拓海くんって、昔からロマンチストだったっけ?」


 彼女はくすくすと笑った。その笑い声を聞いた瞬間、拓海の背筋が凍りついた。

 違う。

 彼女は忘れているふりをしているんじゃない。

 本当に、心の底から覚えていないのだ。

 かつて自分が「どうでもいい記憶」を売り払い、感情が抜け落ちていた時の感覚。今の彼女の瞳には、それと同じ種類の空虚さが宿っていた。


「……そっか。俺の勘違いかもな」


 拓海は引きつった笑みを浮かべて店を出た。

 美咲は笑顔で手を振って見送ってくれたが、その笑顔の奥には、薄いガラス一枚隔てたような冷たさがあった。

 その足で、拓海はあの路地裏へ向かった。

 雨が降り始めていた。天気予報は晴れだったはずなのに、この一角だけ局地的な通り雨が降っている。

 前回、店が消えていた場所。

 だが、今日は違った。

 濡れたアスファルトの匂いと共に、カランコロンという幻聴のような音が聞こえ、目の前に古びた木造家屋が揺らぐように現れたのだ。

 『質』と書かれた暖簾が、雨に濡れて重たげに下がっている。

 拓海は迷わず引き戸を開けた。


「いらっしゃい」


 老婆は前回と同じ場所に座り、煙管キセルをくゆらせていた。拓海の顔を見ても驚く様子はない。


「やっぱり来たね。お前さんみたいな客は珍しいよ。一度買い戻した記憶に、まだ未練があるのかい?」

「ふざけるな!」


 拓海はカウンターに両手をついた。


「俺は全部買い戻したはずだ! なのに、一番大事なところが抜けてる。美咲との約束だ! あんた、ぼったくったんじゃないだろうな?」


 老婆は煙をゆっくりと吐き出し、紫色の煙が天井へ昇っていくのを目で追った。


「人聞きが悪いねえ。うちは信用第一だよ。お前さんが預けた記憶は、確かに全て返した」

「じゃあなんで思い出せないんだよ! あいつも忘れてたぞ!」


 拓海が叫ぶと、老婆はニヤリと口の端を歪めた。

 その笑みは、まるで悪戯を見つけた子供のように無邪気で、残酷だった。


「当たり前だろう。その『約束』の記憶はね、お前さんが売ったんじゃない」

「……え?」

「記憶というのは不思議なもんでね。二人で共有した強い想い出は、片方が手放すと、もう片方の記憶も曖昧になることがある。だが、今回は逆だ」


 老婆はカウンターの下から、小さな帳簿のようなものを取り出した。


「その記憶を売ったのは、『彼女』の方さ」


 拓海は言葉を失った。

 美咲が、記憶を売った?

 あの才色兼備で、いつも輝いていた彼女が、こんな路地裏の店に来ていたというのか?


「まさか……」

「彼女もまた、ここへ来ていたんだよ。お前さんよりずっと前にね。そして、お前さんとの『約束』が含まれる記憶を、ごっそりと置いていった」


 老婆は骨張った指で、カウンターの上の空気をなぞるように円を描いた。


「彼女が何を手放したかは言えないよ。守秘義務ってやつだ。だが、彼女がそれを手放したおかげで、今の『成功』がある。そういうことさ」


 拓海は崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。

 美咲も苦しんでいたのか?

 そして、その苦しみから逃れるために、俺との思い出を金に換えたのか?


「……買い戻したい」


 拓海は呻くように言った。


「彼女の記憶を、俺が買い戻すことはできないのか?」

「ほう」


 老婆は興味深そうに目を細めた。


「他人の記憶を買い取るなんて、前代未聞だね。それに、本人の同意なしに記憶を戻すのはルール違反だ。もし無理やり戻せば、彼女の精神が壊れるかもしれないよ」

「じゃあどうすればいいんだよ!」

「方法は一つだけある」


 老婆は煙管を置き、身を乗り出した。その瞳の奥には、底知れぬ闇と、わずかな光が見えた。

「彼女自身が、もう一度その記憶を必要とすることだ。今の彼女にとって、その記憶は『不要品』として捨てられたゴミ同然。それを『宝物』だと思わせることができれば、記憶はおのずと戻るだろう」


 老婆は拓海の胸を指差した。


「お前さんが持っている『片割れの記憶』。それを鍵にして、彼女の心の扉を叩くんだね。……ただし」

「ただし?」

「扉が開いた時、そこにあるのが綺麗な思い出だとは限らないよ。彼女がなぜそれを捨てたのか、その理由を知ることになる」


 拓海は拳を握りしめた。

 美咲の冷めた笑顔が脳裏をよぎる。

 彼女は何かを隠している。あるいは、自分自身さえ騙している。

 それでも、知りたいと思った。

 あの夕暮れの教室で、俺たちが何を誓い合ったのか。


「やってやるよ」


 拓海が顔を上げると、老婆は満足そうに頷いた。


「いい覚悟だ。なら、特別にヒントをやろう」


 老婆はカウンターの奥から、小さな鈴を取り出し、チリンと鳴らした。


「彼女が記憶を売った日は、雨の日だったよ。……お前さんが、高校を中退した翌日だ」


 拓海は息を飲んだ。

 高校中退。親の借金苦で、逃げるように学校を辞めたあの日。

 それが、全ての始まりだったのか。

 外の雨音がいっそう激しくなり、拓海の世界を白く塗りつぶしていった。



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