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第一話 灰色のビー玉と夕焼け

 六月の雨は、街の輪郭を曖昧に溶かしていくようだった。

 拓海たくみは、擦り切れたスニーカーの爪先を濡れたアスファルトに叩きつけるようにして歩いていた。傘はない。コンビニで買ったビニール傘は、さっきの突風で骨が折れ、ゴミ箱に突っ込んできたばかりだ。


 財布の中身は三百円。銀行口座の残高は二桁。派遣切りの宣告を受けたのは昨日のことで、アパートの更新料の支払いは明日まで。

 詰んでいた。どこをどう考えても、人生が詰んでいる。


「金さえあればな……」


 吐き捨てた言葉は、湿った空気の中に吸い込まれて消えた。

 その時だ。路地裏の奥、ビルの隙間に挟まるようにして建っている古びた木造家屋が目に入ったのは。

 周囲の近代的なコンクリートの壁とは不釣り合いな、昭和初期から取り残されたような佇まい。軒先には裸電球が一つ揺れており、その下に『質』と書かれた暖簾が下がっている。


 質屋か、と拓海は足を止めた。

 売れるものなんて何もない。スマホは画面が割れているし、腕時計は千円の安物だ。だが、魔が差したとしか言いようがない。雨宿りついでに、何か難癖をつけてでも数百円くらい恵んでもらえるかもしれない。そんな浅ましい考えが頭をよぎった。

 引き戸を開けると、カランコロンと乾いたベルの音が鳴った。


 店内は薄暗く、線香と古本が混ざったような独特の匂いがした。ショーケースはあるが、中には何も並んでいない。ただ、カウンターの奥に、一人の老婆が座っていた。

 白髪を上品に結い上げ、着物を着崩している。年齢は七十とも八十ともつかない。深く刻まれた皺の奥にある瞳だけが、妙に若々しく、鋭い光を宿していた。


「いらっしゃい」


 老婆の声は、枯葉を踏む音に似ていた。


「……雨宿りさせてくれよ。金はないけどな」

 拓海が悪態をつくと、老婆はふふっと喉の奥で笑った。

「うちは雨宿り屋じゃないよ。質屋だ」

「質屋って言ったって、俺には売るもんがねえよ。このボロい靴くらいだ」

「いいや、お前さんはたくさん持っているよ」


 老婆は長いキセルを指先で回しながら、拓海の顔をじっと見つめた。


「『記憶』だよ。うちはね、思い出を預かって金を貸す店なんだ」


 新手の詐欺か、あるいはボケているのか。拓海は鼻で笑おうとしたが、老婆の目が真剣そのものであることに気づき、言葉を飲み込んだ。


「記憶……? そんなもんが金になるのか」


「なるさ。人は忘れたい過去ほど、高く売りたがる。辛い失恋、恥ずかしい失敗、消えないトラウマ。そういう『重たい記憶』ほど、質草としては上等だ」


 拓海は唾を飲み込んだ。

 忘れたい記憶なら、山ほどある。父親の借金取りに怯えた幼少期、受験に失敗して親に罵倒された日、そして昨日、派遣先の上司に「お前は代わりがいくらでもいる」と言われた屈辱。


「……昨日の記憶だ。クソみたいな上司にクビを言い渡された時の、あの惨めな記憶。それでもいいか?」

「ああ、いいよ。鮮度もいいし、感情もしっかり乗っている。三万円でどうだい」


 三万円。たった数分の嫌な記憶が、一ヶ月の食費になる。


「頼む。やってくれ」


 老婆がカウンターから身を乗り出し、枯れ木のような指を拓海のこめかみに当てた。


「力を抜いて。少しだけ冷たくなるよ」


 指先から、脳みその芯をスポイトで吸い上げられるような感覚がした。痛みはない。ただ、頭の中の霧が晴れていくような、奇妙な爽快感があった。

 老婆が手を離すと、その掌には直径二センチほどのガラス玉が転がっていた。

 濁った灰色をしていて、中には黒い靄のようなものが渦巻いている。


「はい、三万円。利子はトイチだが、まあ、こういう記憶は『流質ながれ』にする客がほとんどだ。買い戻しに来るやつなんて滅多にいないからね」


 渡された封筒を受け取り、拓海は呆然とした。

 昨日の出来事は覚えている。「クビになった」という事実は知っている。だが、あの時感じた胃が焼け付くような屈辱や、将来への絶望感が、嘘のように消え失せていた。まるで他人事のニュースを見ているかのように、心が凪いでいる。

 金が手に入り、苦しみが消える。

 こんな魔法のような話があるだろうか。


「……また来るよ」


 拓海は震える声で言い残し、店を飛び出した。雨はまだ降っていたが、不思議と冷たくはなかった。

 それから、拓海は常連になった。

 生活費に困るたび、あるいは少しでも不快なことがあるたびに、路地裏の店を訪れた。

 高校時代、クラスメイトに無視された記憶は五万円になった。


 元カノに振られ、雨の中で泣いた記憶は七万円の高値がついた。

 もっと金が欲しい。もっと楽になりたい。

 拓海は次第に、特に「悪い記憶」ではないものまで切り売りし始めた。

 退屈な授業の風景、通学路の桜並木、友人と交わした中身のない馬鹿話。それらは透明に近い色や、薄いピンク色のビー玉となって、老婆の棚に並んでいった。


 身なりは整い、生活は豊かになった。嫌なことは何一つ思い出せない。

 拓海は、自分が無敵になったような気がしていた。

 悩みも苦しみもない、完璧な人生。

 だが、その「完璧」に亀裂が入ったのは、季節が秋に変わる頃だった。

 街中のカフェで、偶然、高校時代の同級生である美咲みさきを見かけたのだ。


 彼女は、かつて拓海が密かに想いを寄せていた相手だった。栗色の長い髪、笑うと三日月になる目。高嶺の花だった彼女と再会できたなら、心臓が跳ね上がるほど嬉しいはずだった。


「あれ、拓海くん? 久しぶり!」


 彼女が気づいて手を振ってくれた。

 しかし、拓海は立ち止まったまま、何の感情も湧いてこないことに戦慄した。

 彼女が誰かはデータとして知っている。美咲だ。高校の同級生だ。

 だが、それだけだ。

 かつて彼女を目で追っていた時の甘酸っぱい気持ちや、文化祭の準備で一度だけ二人きりになった時の高揚感。それらが一切ない。

 なぜなら、それらは「金にならない些細な記憶」として、先週まとめて売ってしまったからだ。


「……ああ、どうも」


 無機質な返事をして、拓海は逃げるようにその場を離れた。

 背中越しに美咲の不思議そうな視線を感じたが、振り返ることはできなかった。

 恐怖で震えが止まらなかった。

 夕焼けを見ても「赤い」としか思わない。美味しいものを食べても「栄養摂取」としか感じない。

 感情がない。心が動かない。

 自分は人間ではなく、ただの呼吸する肉塊になりつつある。


 嫌な記憶と一緒に、それを乗り越えた時の安堵も、誰かを愛おしいと思う土壌も、すべて売り払ってしまったのだ。

 拓海は走った。息を切らして路地裏へ駆け込み、勢いよく引き戸を開ける。


「返してくれ! 俺の記憶を、全部!」


 持てるだけの現金をカウンターに叩きつける。これまで手に入れた以上の額を、必死で工面して持ってきた。

 老婆は驚く様子もなく、ゆっくりと紫煙を吐き出した。


「全部、かい? あの惨めな記憶も、恥ずかしい失敗も?」

「そうだ! 全部だ! あれがなきゃ、俺は俺じゃなくなる!」


 老婆は静かに拓海を見つめた。その瞳の奥が、冷ややかに光った。


「記憶を買い戻すには、利子がつくよ」

「いくらだ? これで足りないなら、働いて返す!」

「金じゃないよ」


 老婆はカウンターの奥から、拓海の記憶が詰まった大きなガラス瓶を取り出した。瓶の中では、灰色や透明、様々な色のビー玉がひしめき合って鈍い光を放っている。


「お前さんがこれから手にするはずだった『成功』や『安泰な未来』。それが利子だ。この記憶を取り戻せば、お前さんはまた、あの金のない、明日をも知れぬ生活に戻る。それでもいいのかい?」


 拓海は息を飲んだ。

 今の生活は快適だ。フカフカのベッドも、暖房の効いた部屋もある。

 それらを手放して、またあのカビ臭いアパートに戻るのか。あの惨めな自分に。

 だが、瓶の中で微かに光るビー玉たち――美咲の笑顔、母が作ってくれた味噌汁の湯気、悔しくて枕を濡らした夜、それらが失われたままの人生に、何の意味があるのか。

 痛みも苦しみも含めて、それが「拓海」という人間だったのではないか。


「……いいよ。それで」


 拓海が絞り出すように言うと、老婆は満足げに頷き、瓶の蓋を開けた。


「いい取引だ」


 老婆が瓶を傾けると、無数の光が溢れ出し、拓海の身体へと吸い込まれていく。

 頭が割れるように痛んだ。胸が締め付けられるような苦しさが蘇る。

 恥ずかしさも、後悔も、寂しさも、すべてが一度に押し寄せてきた。濁流のような感情の奔流に、拓海はうめき声を上げてその場に崩れ落ちた。

 気がつくと、拓海は店の外で膝をついていた。

 雨は上がり、ビルの隙間から鮮烈な夕日が差し込んでいる。


 路地裏の水たまりが、燃えるようなオレンジ色に輝いていた。

 腹は減っている。財布の中身は空っぽだ。明日の家賃の当てさえない。胃の奥がキリキリと痛む、馴染みのある感覚。

 けれど、その水たまりに映る夕焼けを見て、拓海はボロボロと涙を流した。


「……綺麗だ」


 そう呟いた自分の声が震えているのを感じて、拓海は自分が人間に戻ったことを知った。

 痛みがある。不安がある。だからこそ、この夕焼けが美しく見える。

 彼は袖で乱暴に涙を拭うと、重たい足取りながらも、確かな一歩を踏み出した。

 まずは日雇いのバイトを探そう。そう心に決めて、路地裏を抜ける。

 だが、大通りに出たところで、ふと足が止まった。


 頭の中に蘇った膨大な記憶の奔流。その中に、一つだけ、黒く塗りつぶされたような違和感があった。

 高校時代、美咲と二人で教室に残っていた夕暮れ。

 あそこで俺たちは、何か大切な約束をしたはずだ。

 思い出そうとすると、頭の奥にノイズが走る。


『金は全部払ったはずなのに』


 なぜだ?

 拓海は振り返った。暗くなり始めた路地裏の奥、あの質屋があった場所を凝視する。

 そこにはただ、古い板塀が続いているだけで、店の明かりも、看板も、忽然と消え失せていた。

 風が吹き抜け、拓海の背中を寒気が撫でた。

 俺はまだ、何かを取り戻せていない。





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