光がほどける
──仮面の奥で、彼女の瞳が揺れる。
煌びやかなシャンデリアの光が、磨かれた大理石の床に反射し、音楽はゆるやかに流れている。
人々の笑い声やグラスの触れ合う音が遠くに霞んで、ここだけが別世界のようだ。
僕は黒い仮面をつけ、彼女の前に一歩進み出る。
「お嬢さん、この夜を、私と踊っていただけますか」
差し出した手は、わずかに震えている――緊張か、それとも期待か、自分でもわからない。
彼女の手が触れた瞬間、温もりが指先から胸の奥へと広がる。
名前も、素性も、何も知らない。
けれど、この一曲の間だけは、彼女を誰よりも近くに感じていたい。
「ええ、もちろん」
その言葉に、僕は静かに息を吸い込む。
仮面の奥で、彼女の瞳がわずかに細められ、微笑みが浮かんだ気がした。
指先を絡め、ゆっくりと一歩踏み出す。
弦楽器の柔らかな旋律が、二人の間に見えない糸を紡いでいく。
周囲のざわめきは遠く、ただ彼女の体温と、ドレスの裾が床をかすめる音だけが近い。
仮面越しに交わす視線は、名前よりも深く、素性よりも確かに、互いを知ろうとしていた。
「……不思議だ。顔も、名前も知らないのに、こうして踊っていると、まるで、ずっと前から知っていたような気がする」
ふ、と彼女は笑った。周りの空気を一気に解くように、優しく、嫋やかに。
「不思議ですね。私もです」
その声が、音楽よりも近く、胸の奥に響く。
僕はわずかに腕の力を強め、彼女を引き寄せる。
仮面と仮面の間、ほんの数十センチの距離に、互いの吐息が触れ合った。
「……なら、この夜はきっと、偶然じゃない」
囁きながら、ゆるやかにステップを踏む。
ドレスの裾がふわりと舞い、甘い香りが一瞬、僕を包み込む。
周囲の視線も、名前も、過去も。
すべて仮面の向こうに置き去りにして、ただ、この瞬間だけを信じるように。
曲が終わると同時に、拍手と笑い声が広間を満たす。
けれど僕は、彼女の手を離さなかった。
仮面の奥で視線を交わし、ほんの短い沈黙のあと、軽く頭を下げる。
「こちらへ」
人混みを抜け、バルコニーへと導く。
夜風が、舞踏会の熱気を冷ますように頬を撫で、遠くの街灯が金色の粒となって瞬いている。
下では馬車の車輪の音がかすかに響き、ここだけが静かな時間に包まれていた。
「不思議ですね」
欄干にもたれ、彼女を横目に見ながら呟く。
「名前も知らないのに、こうして隣にいることが、自然に感じる」
月明かりが、仮面の縁を淡く照らす。
その光に誘われるように、僕は彼女の手をもう一度取った。
「……この夜が終わっても、あなたを忘れたくない」
声は低く、けれど確かに震えていた。
遠くから、次の曲の前奏が聞こえてくる。
「戻りますか? それとも……もう少し、この静けさを二人だけで」
彼女は、すべてを肯定し、包み込むような笑みを湛えて僕の瞳をじっと見ていた。
僕は欄干に片肘をつき、彼女の横顔を仮面越しに盗み見る。
月明かりがドレスの布地を淡く照らし、その影が床に揺れている。
「この夜は、きっと誰にも見つからない秘密になる」
そう呟くと、彼女はわずかに首を傾け、仮面の奥で微笑んだ気がした。
僕は彼女の手を引いて再び歩き出す。
広間を避け、回廊を抜け、庭園へ。
噴水の水音が近づくにつれ、香り立つ夜の花々が、まるで二人を包み込むように咲き誇っている。
仮面を外せば、きっと名前や立場が流れ込んでくる。
だからこそ、今はこの匿名の温もりを壊したくなかった。
「もし、また会えたら、その時は、仮面を外してもいい」
僕の言葉に、彼女は少しだけ歩みを緩める。
「でも、今夜は……」
「ええ、今夜はこのままで」
短く交わされたその合意が、どんな誓いよりも強く胸に刻まれる。
噴水の縁に腰を下ろし、夜空を仰ぐ。
星々は静かに瞬き、風がドレスの裾と僕のマントを揺らす。
互いの素性を知らないまま、ただ呼吸のリズムを合わせ、沈黙を共有する。
その沈黙は、言葉よりも雄弁に、僕たちの距離を近づけていった。
◇
最後の曲が終わると、広間に漂っていた熱気が、ゆっくりと冷めていく。
拍手と笑い声が波のように広がり、やがてそれも小さくなっていった。
シャンデリアの光は変わらず煌めいているのに、そこに集う人々の数は目に見えて減っていく。
ドレスの裾を引きずる音、靴音、別れの挨拶が重なり合い、扉の向こうへと吸い込まれていく。
グラスを片付ける給仕の銀のトレイが、かすかに金属音を立てた。
さっきまで満ちていた香水やワインの香りは、空気の中で薄まり、代わりに夜風がカーテンを揺らして忍び込む。
仮面を外した人々の顔には、満足げな笑みや、少しの名残惜しさが浮かんでいる。
親しい者同士は肩を寄せ合い、別れを惜しむように言葉を交わし、
一人で帰る者は、静かに背筋を伸ばして扉をくぐっていく。
やがて、広間の中央に残るのは、磨かれた床に映るシャンデリアの光と、
まだ片付けられていない花々の香りだけ。
音楽は止まり、代わりに遠くの廊下から、馬車の車輪が石畳を転がる音が響く。
その中で、僕と彼女は仮面を外さず、ただ立ち尽くしていた。
人の波が引いていくたび、空間は広く、静かになっていく。
まるで舞踏会そのものが、二人のためだけに幕を閉じたかのように。
──広間の片隅、最後の客が扉をくぐり、重い扉が静かに閉まる音が響いた。
シャンデリアの光はまだ煌めいているのに、そこに集う視線も笑い声も、もうない。
残されたのは、仮面を外さないまま向かい合う、僕と彼女。
「静かになりましたね」
僕は低く呟き、足音を響かせながら彼女に近づく。
「ええ……さっきまでの喧騒が、嘘みたい」
彼女の声は、広間の空気に溶けていくように柔らかかった。
「こうして二人きりになると、不思議と、もっと話したくなる」
「何を話すんですか? 名前も、どこから来たのかも、知らないのに」
「だからこそ、です。知ってしまえば、きっと普通の会話になってしまう。
でも今は、何も知らないから、想像だけであなたを描ける」
彼女は少し笑って、視線を床に落とす。
「じゃあ、私のこと、どんなふうに想像してるんですか」
「そうですね……」
僕はわざと間を置き、仮面越しに彼女を見つめる。
「きっと、誰にも言えない秘密をひとつ持っている。
でも、それを抱えていることを、どこか誇りにもしている」
「……そんなふうに見えますか」
「ええ。今夜、あなたが仮面を外さない理由も、その秘密の一部なんでしょう」
彼女は答えず、代わりにゆっくりと歩き出す。
僕も隣に並び、広間を横切る。
足音が高く響き、天井の装飾がその音を反響させる。
「あなたは?」
「僕ですか」
「ええ。あなたは、どんな秘密を持っているんです」
「……それを話すと、きっとあなたは僕を探しに来てしまう」
「それは困りますね」
「だから、今は言わない。ただ、もしまた会えたら……その時は」
僕たちの声が、広間の静けさに吸い込まれていく。
外では、馬車の車輪が石畳を転がる音が遠くに響き、夜が深まっていく。
「……この夜が終わるのが惜しい」
「終わらせなければいいんです」
「どうやって」
「こうして、歩き続ければ」
僕たちは扉を抜け、月明かりの差す回廊へ。
仮面の奥の表情は見えないまま、けれど互いの声と歩幅だけが、確かに重なっていた。
扉の前で、二人は立ち止まった。
広間の灯りはまだ背後で揺れているのに、その光はもう互いを照らしてはいなかった。
仮面を外さないまま、最後の視線だけを交わす。
言葉にすれば壊れてしまうと分かっているから、どちらも口を開かない。
彼女は先に背を向け、回廊の奥へと歩き出す。
僕はその背中を追わず、ただ見送る。
足音が遠ざかるたび、胸の奥で何かが締め付けられるように痛む。
──名前も知らない。けれど、もう二度と会えないかもしれないという予感だけが、やけに鮮やかだった。
◇
外に出た私は、夜風を吸い込みながらも、心は落ち着かなかった。
仮面の奥で交わした視線、手の温もり、耳元で囁かれた低い声。
それらがまだ肌に残っていて、歩みを進めるたびに、振り返りたい衝動が胸を叩く。
けれど、振り返ればきっと、あの人はもういない。
だから前を向くしかない──そう言い聞かせながらも、心は後ろに置き去りのままだった。
◇
僕は、広間の片隅に立ち尽くしていた。
扉の向こうに消えた彼女の姿を、頭の中で何度もなぞる。
名前を呼ぶこともできず、探しに行く理由も持たない。
ただ、あの夜の匿名の温もりだけが、胸の奥で燻り続ける。
忘れようとしても、思い出そうとしても、同じ場所に戻ってしまう。
◇
それは、あの夜から幾つもの季節が過ぎた頃だった。
海沿いの小さな街で、灯りが水面に揺れる夜。
港の先に伸びる桟橋は、観光客もまばらで、波の音と遠くのジャズが混ざり合っていた。
潮の香りと、夜風に運ばれる花の匂いが、どこか懐かしい。
僕は、ふと足を止めた。
桟橋の先端、ランプの下に立つ女性のシルエット。
風に揺れる髪、その立ち姿――仮面はないのに、あの夜の面影が一瞬で胸を締め付ける。
近づくほどに、心臓の鼓動が速くなる。
声をかけるべきか、ただ見つめるべきか。
けれど、彼女が振り返った瞬間、迷いは消えた。
「……あなた」
その一言で、時間が逆流する。
舞踏会の光、仮面越しの視線、触れた手の温もり。
すべてが蘇る。
「やっと……見つけた」
僕の声は、波音にかき消されそうに小さかった。
けれど彼女は確かに聞き取って、ゆっくりと歩み寄ってくる。
二人の間に、もう仮面はない。
けれど、あの夜と同じように、互いの名前を呼ぶことはしなかった。
名前よりも先に、目が、表情が、すべてを語っていたから。
「ずっと……あの夜のことを考えていました」
「私もです。あの夜が、終わらなければいいと思っていました」
桟橋の下で波が砕け、白い飛沫がランプの光を反射する。
僕はそっと彼女の手を取る。
あの夜と同じ温もりが、指先から胸の奥へと広がっていく。
「今度は、離しません」
「ええ。もう、離れたくない」
この手を離したら、もう二度と会えない気がしたから。
僕たちの影が、ランプの下でひとつに重なる。
潮騒と夜風が、まるで祝福するように寄せては返す。
そして、あの夜の続きを、ようやく歩き始めた。
港町の桟橋で再会した夜から、二人はゆっくりと歩き出した。
波の音が足元で寄せては返し、ランプの光が水面に揺れている。
互いの名前をまだ口にしていなかったあの夜とは違い、今は少しずつ、言葉で距離を縮めていく時間だった。
「……蓮見 篠さん」
僕は、あえてゆっくりと彼女の名前を呼んだ。
その響きが夜気の中でほどけていくのを、耳で確かめるように。
「やっと、呼べました」
「……私も、あなたの名前を知りたいです」
「凌です。桐ヶ谷 凌」
名を告げると、彼女は小さく頷き、まるでその音を胸の奥にしまい込むように目を伏せた。
歩きながら、互いのことを少しずつ話し始める。
どこで育ったのか、どんな景色を見てきたのか、好きな季節や、嫌いな食べ物。
それは特別な秘密ではないけど、相手の輪郭を少しずつ描き出すための色だった。
「海の匂いが好きなんです。落ち着くから」
「僕は……夜の街灯が好きです。人が少なくなったあとの、静かな光が」
そんな何気ない好みが、なぜか深く響く。
あの舞踏会の夜、仮面越しに感じた“似ている何か”が、言葉になって現れてくるようだった。
桟橋を抜け、海沿いの小道を歩く。
潮風に混じって、どこかのカフェからコーヒーの香りが漂ってくる。
「篠さんは、あの夜……どうして仮面を外さなかったんですか」
少し迷ってから、彼女は答える。
「……あの夜の私を、現実の私に結びつけたくなかったんです。
あの瞬間だけは、誰でもない私でいたかったから」
僕はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「僕もです。だから、あの夜のあなたを探すのは、きっとできないだろうと思っていました」
「でも、こうして会えた」
「ええ。だから、今度は、知りたい。あなたの、篠さんのことを」
二人の会話は途切れながらも、途切れるたびに視線が交わる。
その沈黙は、言葉よりも多くを伝えていた。
互いの歩幅が自然に揃い、肩が時折触れ合うたび、距離は確かに縮まっていく。
やがて、小道の先に小さな灯台が見えてきた。
白い壁が月明かりを受け、静かに輝いている。
「あそこまで行きませんか」
「ええ」
灯台の下に立つと、海が一望できた。
波の音と風の匂いが、二人の間に流れ込む。
「篠さん、これから少しずつでいいので……あなたの好きなものも、嫌いなものも、全部教えてください」
「じゃあ、あなたも全部、教えてくださいね」
その約束は、握手でも誓いの言葉でもなく、ただ重なった視線の中で交わされた。
あの夜は匿名の温もりだった。
今夜は、名前を知った上での温もりが、静かに灯り始めていた。
◇
それからの日々は、特別な出来事よりも、静かな時間の積み重ねだった。
港町での再会の夜を境に、僕たちは、互いの生活の端を少しずつ見せ合うようになった。
朝、まだ人通りの少ないカフェで待ち合わせる日もあれば、仕事帰りに駅前のベンチで缶コーヒーを分け合う日もあった。
彼女はいつも、少し遅れてやってくる。
その姿は、急いでいるわけでも、のんびりしているわけでもなく、
まるでどこか遠くから帰ってきた人のように、静かで、少しだけ影を帯びていた。
「本を読むのが好きなんです。特に、結末がはっきりしない物語」
ある日、カフェの窓際でそう言った彼女は、カップを両手で包みながら、
「終わりが決まってない方が、ずっと心に残る気がして」
と、少しだけ笑った。
その笑みは柔らかいのに、どこか儚く、触れたら消えてしまいそうだった。
僕は、休日は海辺を歩くのが好きだと話した。
「波の音を聞いていると、考えすぎていたことが全部どうでもよくなる」
彼女は頷きながら、
「私は逆に、波の音を聞くと、考えなくてもいいことまで思い出してしまう」
と答えた。
同じ景色を見ても、感じ方は違う。
でも、その違いが、なぜか心地よかった。
ある夕暮れ、古い商店街を歩きながら、好きな食べ物の話になった。
僕は迷わず「カレー」と答えたが、彼女は少し考えてから、
「……あまりないかもしれません。食べることは好きですけど、何を食べても、どこかで“これが最後かもしれない”って思ってしまうから」
と呟いた。
その言葉は冗談のように軽く言われたのに、胸の奥に小さな棘のように残った。
価値観の違いは、時に会話の中でふと顔を出す。
僕が「やりたいことは全部やってみたい」と言えば、彼女は「やらないで終わることにも意味がある」と返す。
僕が「人は変われる」と言えば、彼女は「変わらない部分があるから人なんだ」と言う。
そのたびに、彼女の中にある深い水面を覗き込むような感覚になる。
夜道を歩くとき、彼女はよく空を見上げた。
「星って、見えてるのに、届かないでしょう。
でも、届かないから、ずっと見ていられるんだと思う」
その横顔は、街灯の光に照らされて淡く浮かび上がり、まるで今にも夜風に溶けてしまいそうだった。
僕はまだ、彼女のすべてを知らない。
けれど、知れば知るほど、彼女の中にある切なさと儚さが、なぜか僕を惹きつけてやまなかった。
それは、触れたら壊れてしまう硝子細工のようで、
同時に、ずっとそばに置いておきたい灯りのようでもあった。
◇
その日は、冬の終わりを告げるような冷たい風が吹いていた。
夕暮れの街を歩いていると、彼女がふと足を止めた。
視線の先には、小さな花屋。店先には、色褪せたカスミソウの束が並んでいる。
「これ、」
彼女は足を踏み入れ、迷うことなくその束を手に取った。
白い小花を見つめる横顔は、どこか遠くを見ているようで、僕は声をかけられなかった。
会計を済ませたあと、彼女は花を抱えたまま歩き出す。
沈黙が長く続き、やがて小さな声が風に混じった。
「昔、病院に通っていた頃、よくこの花が飾られていたんです」
僕は驚いて彼女を見た。
彼女は視線を前に向けたまま、淡々と続ける。
「母が長く入院していて。お見舞いに行くたび、病室の窓辺にカスミソウがあった。
でも、あの花はいつも少し枯れかけていて。
新しい花に替えられることもなく、ただ色が褪せていくのを見ていました」
その声には、怒りでも悲しみでもない、もっと深い諦めのような響きがあった。
「母は、花のことを一度も話さなかった。
私も聞かなかった。
聞いたら、きっと“どうでもいい”って言われる気がして」
歩道の街灯が灯り始め、彼女の横顔を淡く照らす。
その光の中で、彼女の瞳はどこか濡れて見えた。
「だから、私は花を飾らないんです。
でも、今日は、なんとなく」
彼女は小さく笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
抱えた花束の白が、夜の中でやけに儚く浮かび上がる。
その姿を見て、僕は初めて、彼女の中にある“触れられない場所”の輪郭を感じた。
それは、長い時間をかけて閉ざされた扉のようで、
無理に開ければ壊れてしまうことがわかるから、ただそっと隣を歩くしかなかった。
その夜、別れ際に彼女は花束を僕に差し出した。
「あなたの部屋で、枯れるまで置いてください」
その言葉は、まるで自分の中の何かを託すようで、
僕はただ黙って受け取った。
あの白いカスミソウを渡された夜から、数日が過ぎた。
僕の部屋の窓辺に置かれた花は、ゆっくりと色を失い、茎は少しずつしなっていった。
その変化を見つめるたび、彼女のあの夜の横顔が、胸の奥で静かに疼く。
ある夕方、僕はその花束を抱えて、彼女に会いに行った。
海沿いの小道、冬の名残を引きずる冷たい風が吹き抜ける。
待ち合わせ場所に現れた彼女は、いつもより少しだけ疲れた顔をしていた。
それでも、僕の手にある花束を見ると、ふっと微笑む。
「……枯れましたね」
「ええ。でも、捨てられなくて」
「そういう人だと思ってました」
二人で並んで歩きながら、彼女はぽつりと話し始めた。
「母が亡くなった日も、病室の窓辺にはあの花がありました。
もう色も抜けて、ほとんど影みたいになっていて。
でも、誰も片付けなかった。
私も、できなかった」
その声は、淡々としているのに、どこか深く沈んでいた。
「母は、私にあまり優しくなかったんです。
でも、嫌いになれなかった。
あの花を見ると、どうしても思い出すんです。
“愛されなかった”っていう事実と、それでも愛そうとした自分のことを」
僕は何も言えず、ただ歩幅を合わせる。
彼女は視線を海に向けたまま、続けた。
「だから、あの夜。舞踏会で仮面を外さなかったのは、
私の中の“欠けた部分”を見られたくなかったからです。
名前や顔を知れば、きっとあなたならそこまで辿り着いてしまうから」
海風が、彼女の髪を揺らす。
その横顔は、夕暮れの光に溶けて、輪郭が少し曖昧になっていた。
「でも、あなたには、少しずつなら話してもいい気がします」
その言葉は、まるで長く閉ざされていた扉の鍵が、ほんのわずかに回ったようだった。
僕は枯れた花束を見つめた。
「じゃあ、これは、僕がまだ持っておく。
あなたの中の欠けた部分も、僕が少しだけ持っていたいから」
彼女は驚いたように僕を見て、そして小さく頷いた。
その瞳の奥には、まだ深い影があったけれど、
その影の中に、かすかな光が差し込んでいるのを、僕は確かに見た。
その夜、別れ際の彼女の背中は、以前よりも少しだけ軽く見えた。
◇
それは、何の前触れもなく訪れた。
前日まで、いつも通りのやり取りをしていた。
「今度、あの灯台まで行きましょう」
そんな他愛ない約束を交わして、短い「おやすみ」で終わった夜。
翌朝、僕はいつものようにメッセージを送った。
けれど、既読はつかなかった。
最初は忙しいのだろうと思った。
昼になっても、夜になっても返事はなく、電話をかけても呼び出し音だけが虚しく響く。
二日目、三日目と過ぎるうちに、胸の奥に小さな不安がじわじわと広がっていった。
四日目。
彼女の部屋の前まで行った。
ポストには数日分のチラシが溜まり、カーテンは閉じられたまま。
呼び鈴を押しても、返事はない。
隣人にそれとなく尋ねても、「最近見かけないですね」と首を傾げるだけだった。
彼女は、まるで夜の海に沈むように、音もなく姿を消した。
理由も、行き先も、何ひとつ残さずに。
それからの日々、僕は無意識に彼女の痕跡を探すようになった。
港町のカフェ、灯台へ続く小道、古本屋の奥の詩集の棚。
どこにも彼女はいなかった。
けれど、潮風の匂いや、夕暮れの光の中に、ふと彼女の横顔が重なって見える瞬間がある。
あの夜、カスミソウを渡されたときの言葉が、何度も頭をよぎる。
「枯れるまで置いてください」
あれは花のことだけじゃなかったのかもしれない。
自分の中の何かが終わるまで、僕に預けていたのかもしれない。
それでも、僕は信じている。
彼女は完全に消えたわけじゃない。
ただ、深い水の底に潜って、息を整えているだけだと。
いつかまた、あの港町の夜のように、ふいに現れて、
何事もなかったように「久しぶり」と笑う日が来ると。
それまで、僕は探し続ける。
名前を呼ぶこともできず、行き先も知らないまま、
ただ、あの儚い背中を追いかけるように。
◇
彼女が姿を消してから、どれほどの時間が経っただろう。
港町のカフェも、灯台の小道も、古本屋の奥の棚も、どこにも彼女はいなかった。
探すほどに、彼女の輪郭は遠く霞んでいくようで、胸の奥に残るのは、あの夜の声と、儚い笑みだけだった。
そんなある日、共通の知人から、ふいに名前を聞いた。
「篠さん、今は田舎の病院にいるらしいですよ」
その一言は、胸の奥に沈んでいた水面を大きく揺らした。
◇
電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られて辿り着いたのは、山と川に囲まれた小さな町だった。
空気は澄み、風は柔らかいのに、どこか時間が止まったような静けさがある。
町外れの坂道を上った先に、その病院はあった。
白い壁は少し古び、窓辺には季節の花が飾られている。
けれど、その花の色はどこか淡く、控えめだった。
受付で名前を告げると、案内されたのは二階の端の病室。
ドアを開けると、窓際のベッドに彼女が座っていた。
薄いカーディガンを羽織り、膝の上には読みかけの本。
驚いたようにこちらを見て、そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……来てくれたんですね」
その声は、以前よりも少し細く、けれど確かに彼女の声だった。
「体調が、あまり良くなくて」
彼女は視線を窓の外に向けた。
「都会にいると、息が詰まるような日が続いて。
ここなら、少しは呼吸が楽になる気がして」
窓の外には、畑と川と、遠くの山並み。
風がカーテンを揺らし、花の香りがかすかに漂ってくる。
「朝は鳥の声で目が覚めます。夜は虫の音が子守唄みたいで。
でも、静かすぎて、時々、自分が世界から切り離されたみたいに感じるんです」
その言葉には、安らぎと同じくらい、孤独の影が混じっていた。
「誰にも迷惑をかけたくなくて、連絡もしませんでした。
でも、本当は、誰かに見つけてほしかったのかもしれません」
僕は何も言わず、ただ彼女の隣に腰を下ろした。
彼女は少しだけ肩を預け、窓の外を見つめ続ける。
「ここにいると、時間がゆっくり流れます。
だから、過去のことも、未来のことも、全部同じ距離にあるように感じるんです」
その横顔は、やはり儚く、けれどどこか安堵しているようにも見えた。
僕は心の中で、彼女がまた都会に戻る日が来ることを願いながら、今はただ、この静かな時間を壊さないように、同じ景色を見続けた。
それからの日々、僕は彼女のいる田舎の病院へ、できる限り足を運ぶようになった。
山あいの小さな町は、都会の喧騒とは無縁で、時間がゆっくりと流れている。
病院の廊下には、消毒液の匂いと、窓から差し込む柔らかな光が混ざり合い、
その静けさは、彼女の呼吸に合わせているかのようだった。
最初のうちは、彼女はあまり多くを話さなかった。
「今日は少し眠れた」とか、「外の桜が咲き始めてた」とか、
そんな短い言葉をぽつぽつと紡ぐだけ。
けれど、その声には、都会にいた頃よりも少しだけ柔らかさがあった。
ある日、病室の窓辺に腰掛けて、二人で外を眺めていたとき、
彼女がふいに言った。
「ここにいると、自分が透明になったみたいに感じるんです。
誰も私を知らないし、私も誰のことも知らない。
それが、少しだけ楽で、少しだけ寂しい」
僕は何も言わず、ただその横顔を見つめた。
頬は少し痩せ、肌は透けるように白くなっていたけれど、その瞳の奥には、まだ消えていない光があった。
◇
季節はゆっくりと移ろい、病院の庭には菜の花が咲き始めた。
彼女は少しずつ体調を取り戻し、短い散歩にも出られるようになった。
僕はそのたびに付き添い、庭のベンチで他愛ない話をした。
「子どもの頃、この町に似た場所に住んでいたんです」
「そうなんですか」
「ええ……でも、あまりいい思い出はなくて。
だから、こういう景色を見ると、懐かしいのに胸が苦しくなる」
その言葉のあと、彼女はしばらく黙り、
庭の端に咲く白い花をじっと見つめていた。
「でも、あなたと一緒に見ると……少し違って見えるんです」
その小さな告白は、春の風よりも静かに、僕の胸に沁みた。
◇
ある夕暮れ、病室に行くと、彼女は机に向かって何かを書いていた。
「日記ですか?」と尋ねると、彼女は首を振った。
「……いいえ、手紙です」
「誰に?」
「まだ、誰にも渡さない手紙。
でも、もし私がまたいなくなったら、これを読んでほしい人がいる」
その言葉に、胸が締め付けられる。
けれど、僕はそれ以上は聞かなかった。
彼女が自分の中の影と向き合う時間を、無理に奪いたくなかったから。
◇
日々は静かに積み重なっていった。
病院の窓から見える景色が、少しずつ色を変えていくように、
彼女の表情も、ほんのわずかずつ変わっていった。
まだ儚さは消えない。
けれど、その儚さの中に、確かに生きようとする意志が芽吹いているのを、僕は見逃さなかった。
僕はどこかでわかっていた。
この穏やかな日々が、永遠には続かないことを。
◇
それは、春の光がようやく柔らかくなり始めた頃だった。
その日も、僕はいつものように彼女の病室を訪ねた。
窓辺には淡い色の花が飾られ、外では菜の花が風に揺れている。
けれど、ベッドに横たわる彼女の顔色は、いつもよりずっと白く、呼吸も浅かった。
「少し、胸が苦しいんです」
か細い声でそう言った彼女は、笑おうとしたが、その笑みはすぐに消えた。
看護師が駆け寄り、血圧や脈を測る。
その表情がわずかに曇ったのを、僕は見逃さなかった。
◇
午後には医師から説明があった。
「容体が不安定です。こちらでは対応に限界があります。
都会の大きな病院に転院した方がいい」
その言葉は、静かな病室に重く落ちた。
彼女は黙って聞いていたが、視線は窓の外の山並みに向けられたままだった。
「……ここ、好きだったんです」
ぽつりと漏らしたその声は、風に紛れてしまいそうに小さい。
「朝の鳥の声も、夜の虫の音も……全部、私を包んでくれてた」
僕は何も言えず、ただ彼女の手を握った。
その手は少し冷たく、けれど握り返す力はまだ確かにあった。
◇
転院の日の朝、町は薄い霧に包まれていた。
救急車が病院の前に停まり、ストレッチャーが運び込まれる。
彼女は毛布にくるまれ、静かに横たわっていた。
「都会に行ったら、また、あの喧騒の中に戻るんですね」
「でも、そこでなら、きっと良くなる」
そう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「信じていいですか」
「もちろん」
救急車のドアが閉まる直前、彼女は小さく手を振った。
その仕草は、別れの挨拶というより、
「また会いましょう」という約束のように見えた。
◇
都会の病院は、白く広い廊下と、絶え間ない人の流れに満ちていた。
窓の外にはビル群が立ち並び、遠くに海が小さく光っている。
彼女は新しい病室のベッドに横たわり、しばらく天井を見つめていた。
「……音が多いですね」
「慣れるまで、少し時間がかかるかもしれません」
「でも……ここなら、まだ先の景色が見える気がします」
その言葉に、僕は胸の奥で小さく息をついた。
田舎の静けさは彼女を守ってくれたけれど、
ここでは、彼女を未来へと押し出してくれる何かがあるかもしれない。
◇
都会の大きな病院での生活は、彼女にとっても僕にとっても、まるで別の世界に足を踏み入れたようだった。
田舎の病院で包まれていた静けさはもうなく、ここでは昼も夜も絶え間ない足音と機械の電子音が響いている。
窓の外には山も川もなく、代わりに高層ビルの窓明かりが、夜空に無数の星のように瞬いていた。
彼女は最初、その光景をじっと見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「……きれいだけど、少し息苦しいですね」
◇
検査や治療のスケジュールは、以前よりもずっと密だった。
朝早くから看護師が来て、血圧や体温を測り、点滴の交換や採血が続く。
彼女はそれを淡々と受け入れていたが、時折、窓の外に視線を逃がす。
「ここは時間が早く過ぎていく気がします。
田舎にいたときは、朝から夕方までが長くて。
でも今は、気づいたら一日が終わってる」
僕はできるだけ毎日病室を訪れた。
差し入れの本や雑誌を持っていくと、彼女は嬉しそうに受け取るが、読み終えたページを指でなぞりながら、どこか遠い目をしていた。
「都会の音って、耳に残りますね。
夜になっても、車の音や人の声が消えない」
「眠れない?」
「……眠れるけど、夢の中まで少し騒がしいです」
◇
ある日、病室に入ると、彼女はベッドの上で小さなノートを開いていた。
「何を書いてるの?」と尋ねると、彼女は少し迷ってから答えた。
「……ここに来てから見た景色のこと。
田舎では、毎日同じ景色を見ていたけど、
ここでは窓の外が毎日違う。
ビルの明かりの数も、空の色も、雲の形も」
ページには、短い言葉がいくつも並んでいた。
〈夜のビルは、星よりも近い〉
〈窓の光は、誰かの生活の証〉
〈都会の夜は、眠らないけど、孤独は消えない〉
その最後の一行を読んだとき、胸の奥が締め付けられた。
「……孤独、感じてる?」
彼女は少し笑って首を振った。
「あなたが来てくれるから、大丈夫です。
でも、病室に一人でいる時間は、やっぱり長いから」
◇
日が経つにつれ、彼女の体調は日によって上下した。
顔色が良く、会話も弾む日もあれば、
ほとんど言葉を交わさず、ただ窓の外を見て過ごす日もあった。
そんな日は、僕も無理に話しかけず、同じ景色を黙って眺めた。
ある夕暮れ、彼女がぽつりと言った。
「もし、また元気になれたら……もう一度、あの港町に行きたいです」
「行こう。必ず」
「約束ですよ」
その時の彼女の笑みは、ほんの一瞬だったけれど、
確かにあの舞踏会の夜に彼女が浮かべた微笑みと同じだった。
都会の病院での日々は、田舎の静けさとは違う形で、彼女を少しずつ変えていた。
それは回復への道かもしれないし、ただの通過点かもしれない。
けれど、僕は知っていた。
この場所で過ごす時間も、彼女の物語の一部になるということを。
◇
その夜は、都会の病院でも珍しく静かだった。
廊下の足音も少なく、窓の外には雨上がりの街灯が滲んでいる。
僕は病室の椅子に腰を下ろし、彼女が眠るのを待っていた。
けれど、彼女は目を閉じず、天井をぼんやりと眺めたまま、ぽつりと口を開いた。
「ここに来てから、ずっと考えてたんです」
声はかすかに震えていたが、吐き出すような重さがあった。
「私、昔から“居場所”ってものがよくわからなかったんです。
家にいても、学校にいても、どこか借り物みたいで……
誰かと一緒にいても、心の奥はずっと一人だった」
僕は黙って耳を傾ける。
彼女は視線を窓の外に移し、遠くのビルの灯りを見つめながら続けた。
「母が亡くなったあと、親戚の家を転々として……
そのたびに“いい子”でいなきゃって思ってました。
迷惑をかけないように、嫌われないように。
でも、そうやって笑っているうちに、本当の自分がどこにいるのか、わからなくなったんです」
言葉の合間に、点滴の滴る音が静かに響く。
「だから、あの舞踏会の夜……仮面をつけて、名前も素性も隠して、
ただ踊っていられた時間が、私には奇跡みたいだった。
あの時だけは、誰でもない私でいられたから」
僕はゆっくりと息を吸い、彼女の手に触れた。
その手は少し冷たく、けれど握り返す力は確かだった。
「でもね」
彼女は小さく笑った。
「あなたと会ってから、少しずつ“誰でもない私”じゃなくてもいいのかもしれないって思えるようになったんです。
名前も、過去も、全部知ってもらっても……怖くないかもしれないって」
その言葉は、長く閉ざされていた扉の隙間から、初めて光が差し込んだようだった。
けれど同時に、その光はとても儚く、触れれば消えてしまいそうでもあった。
「でも、まだ全部は話せません」
「いい。全部じゃなくていい」
「少しずつで、いいですか」
「もちろん」
彼女は安堵したように目を閉じた。
外では、雨上がりの街が静かに瞬いている。
彼女の呼吸がゆっくりと深くなっていくのを感じながら、僕はその夜、彼女の手を離さずにいた。
◇
その夜、病室の空気はどこか張り詰めていた。
昼間は少し笑顔を見せていた彼女が、夕方になるにつれて急に言葉少なになり、やがてベッドの上で浅く短い呼吸を繰り返すようになった。
モニターの数字が不安定に揺れ、看護師が慌ただしく出入りする。
「蓮見さん、少し横になってくださいね」
「はい」
かすかな返事とともに、彼女は目を閉じた。
その横顔は、いつもよりずっと白く、まるで光を透かしてしまいそうだった。
医師からの説明は、短く、そして重かった。
「容体が急に悪化しています。今夜は特に注意が必要です。
もしもの時のために、ご家族や大切な方に連絡を」
その言葉が胸の奥に沈み、冷たい水のように広がっていく。
僕はベッドのそばに座り、彼女の手を握った。
その手は驚くほど軽く、指先まで冷えていた。
「……聞こえてますか」
「……ええ」
かすかな声が返ってくる。
「もし……もしもの時のこと、考えたくはないけど」
「でも、考えなきゃいけない時もあります」
彼女はゆっくりと目を開け、僕を見た。
その瞳は、恐怖よりも静かな覚悟を湛えていた。
「私、ずっと“消える”ことばかり考えてきました。
誰にも迷惑をかけずに、静かにいなくなる方法を。
でも、あなたと会ってから、それが少しだけ怖くなったんです」
僕は言葉を失い、ただ握る手に力を込めた。
「だから、もし私がいなくなったら……」
「やめて」
思わず遮ると、彼女は小さく笑った。
「……でも、聞いてほしいんです。
私がいなくなっても、あなたはちゃんと生きてほしい。
私のことを忘れなくてもいいけど、それだけで止まらないでほしい」
その声は弱々しいのに、どこまでも真っ直ぐだった。
「約束できますか」
「……できないかもしれない。でも、努力はする」
「それでいいです」
◇
夜が更けるにつれ、彼女の呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻した。
医師は「峠は越えた」と告げたが、胸の奥の緊張は解けなかった。
窓の外には都会の夜景が広がり、無数の光が瞬いている。
その光のひとつひとつが、彼女の命の灯りと重なって見えた。
僕はその夜、病室を離れなかった。
彼女が眠る間も、手を握ったまま、
彼女がもう二度と“消える”ことを望まないように、
この手で繋ぎ止めていたかった。
◇
あの夜の峠を越えてから、彼女の容体は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
それでも、病院での日々は決して楽ではなく、検査や治療の合間に訪れるわずかな休息が、彼女にとっての小さな救いだった。
僕は毎日のように病室を訪れた。
窓辺の椅子に腰掛け、他愛ない話をしたり、ただ同じ景色を眺めたり。
彼女は以前よりも少しだけ笑うことが増えたが、その笑みの奥には、まだ影のようなものが残っていた。
◇
ある午後、検査から戻った彼女が、ベッドに腰を下ろしながら言った。
「先生が、退院のことを少し話してくれました」
その声には、喜びよりも戸惑いが混じっていた。
「良いことじゃないですか」
そう言うと、彼女は小さく首を振った。
「嬉しいです。でも、都会に戻るのが、少し怖いんです」
彼女は窓の外のビル群を見やった。
「ここにいる間は、病気のことだけを考えていればよかった。
でも外に出たら、また“普通の生活”に戻らなきゃいけない。
ちゃんと笑って、ちゃんと働いて、ちゃんと人と関わって……
それが、今の私にできるのか、わからない」
僕はしばらく黙ってから、ゆっくりと言った。
「無理に“普通”に戻らなくてもいいと思います。
篠さんのペースで、少しずつで」
彼女は視線を落とし、毛布の端を指先でなぞった。
「でも、あなたと約束した港町には行きたいです」
「じゃあ、退院したら行きましょう。あの夜の続きを」
そう言うと、彼女はようやく小さく笑った。
◇
それからの日々、僕たちは退院後の計画を少しずつ話し合った。
港町のホテル、灯台までの道、海沿いのカフェ。
彼女は「海の匂いをもう一度嗅ぎたい」と言い、
僕は「夜の桟橋を一緒に歩きたい」と答えた。
けれど、その話の合間に、彼女はふと遠い目をすることがあった。
「もし、また体調が悪くなったら、どうしますか」
「その時は、その時で一緒に考えます」
「……そうですね」
そのやり取りは短かったが、互いの胸の奥に深く残った。
退院は希望であると同時に、また新しい不安の始まりでもあった。
◇
それは、退院の話が少しずつ現実味を帯びてきた矢先のことだった。
その日、病室に入った瞬間、空気が違うと直感した。
彼女はベッドに深く沈み込み、顔色は蝋のように白く、唇には血の気がなかった。
モニターの数字は不規則に揺れ、酸素マスク越しの呼吸は浅く、途切れがちだった。
看護師たちの足音が早く、医師の声は低く短い。
その光景だけで、これまでの悪化とは比べものにならないことがわかった。
「……来てくれたんですね」
かすれた声が、マスクの奥から漏れる。
その声は、まるで遠くから響いてくるように弱かった。
僕はベッドのそばに座り、彼女の手を握った。
骨ばった指先は氷のように冷たく、握り返す力はほとんどなかった。
「無理に話さなくていい」
そう言っても、彼女は首を小さく振った。
「……言わなきゃ、後悔するから」
途切れ途切れの言葉が、酸素の音に混じって届く。
「私……本当は、退院できるって聞いたとき、少し怖かったんです。
外に出たら、また“普通”を演じなきゃいけないって。
でも……あなたと港町に行く約束をしたら、少しだけ楽しみになった」
その瞳は、もう長くは開けていられないほど重そうだった。
それでも、僕を見つめる視線だけは、最後まで揺らがなかった。
「もし、私が行けなかったら……あなた、一人で行ってください。
私の分まで、あの夜の続きを見てきて」
「そんなこと言うな」
「でも、約束です。行って、私のことを思い出してください」
僕は必死に首を振った。
「一緒に行く。必ず」
「……強情ですね」
わずかに笑ったその表情は、痛々しいほど儚かった。
◇
夜が更けるにつれ、彼女の容体はさらに不安定になった。
医師や看護師が何度も病室を訪れ、点滴や酸素の調整を繰り返す。
窓の外では都会の夜景が瞬いているのに、この部屋だけは時間が止まったように重く沈んでいた。
僕は彼女の手を握ったまま、心の中で何度も祈った。
──どうか、この夜を越えてくれ。
港町の桟橋を、一緒に歩くその日まで。
欲を言えば、その先も、ずっと。
彼女は時折、浅い眠りに落ち、また目を開けて僕を探すように視線を動かした。
そのたびに僕は「ここにいる」と囁き、彼女の手を握り直した。
夜明け前。
彼女はかすかな声で言った。
「……朝が来ましたね」
「ああ。まだ、ここにいる」
「……よかった」
その瞬間、僕は確信した。
彼女はまだ諦めていない。
たとえ身体が限界に近づいていても、心の奥にはまだ、港町の夜を夢見る光が残っている。
◇
あの夜の危機を越えてから、彼女はゆっくりと意識を取り戻した。
けれど、その回復は以前のように軽やかなものではなく、まるで薄氷の上を歩くような不安定さを伴っていた。
医師は「一時的に持ち直しただけ」と慎重な言葉を選び、僕の胸の奥に小さな棘を残した。
それでも、彼女は目を開けるたびに僕を探し、見つけると微笑んだ。
その笑みは弱々しいのに、なぜか僕を安心させる力を持っていた。
◇
その日から、僕は毎日、港町の写真や地図を持って行った。
桟橋の夜景、灯台の白い壁、海沿いのカフェ。
彼女はそれらをじっと見つめ、時折、指先で写真の端をなぞった。
「……この灯台、覚えてます。あの夜、遠くに見えた」
「ええ。今度は近くで見ましょう」
「……行けたら、ね」
その「ね」の響きが、胸の奥に重く沈んだ。
◇
ある夜、病室の灯りを落とし、窓の外の街明かりを眺めていたとき、彼女が静かに言った。
「私、怖いんです。
また急に悪くなって、何も言えないまま終わってしまうことが」
「そんなこと、させない」
「でも、もしそうなったら」
彼女は僕の手を握り、ゆっくりと続けた。
「あなたが覚えていてくれるなら、それでいい。
私がここにいたこと、あなたと過ごした時間を」
その言葉は、まるで遺言のように静かで、重かった。
僕はただ「忘れない」とだけ答えた。
それ以上の言葉は、喉の奥で絡まり、出てこなかった。
◇
その日、病室の空気は、言葉にできないほど重かった。
彼女の容体は、前回の悪化から持ち直したはずだった。
けれど、ここ数日、彼女の顔色は少しずつ薄くなり、声も弱くなっていた。
そして、その朝、医師から告げられた言葉は、僕の胸を深く抉った。
「……今度の悪化は、これまでとは比べものになりません。
体力の消耗が激しく、回復には長い時間がかかるでしょう。
正直に言えば、港町への旅行は現状では難しい」
その瞬間、頭の中で何かが崩れる音がした。
でも、彼女の前では、どうしてもその感情を見せたくなかった。
午後、病室に戻ると、彼女は窓の外を見ていた。
都会のビル群の間に、夕陽が沈みかけている。
その光は、彼女の横顔を淡く照らし、まるでガラス細工のように儚く見えた。
「先生から聞きました」
彼女は先に口を開いた。
「港町は、しばらくお預けですね」
その声は、思ったよりも穏やかだった。
でも、その奥にある諦めの色を、僕は見逃さなかった。
「必ず行けるようにしよう」
「ええ。でも、もし行けなかったら……」
彼女は少し間を置き、僕の方を向いた。
「一緒に行くって言っただろ」
「わかってます。でも、約束してください。
私が行けなくても、あなたは行くって」
その言葉は、まるで自分の未来を半分手放すような響きだった。
僕は喉の奥が詰まり、すぐには答えられなかった。
◇
それからの日々、僕たちは“最後の計画”を立てるようになった。
もし体調が少しでも安定したら、港町へ行く。
行けなければ、僕が代わりに行き、彼女にすべてを語る。
その二つの道筋を、まるで地図のように並べて話し合った。
彼女は弱った声で、行きたい場所や見たい景色を挙げていった。
「港のカフェで、海を見ながら温かい紅茶を飲みたい」
「灯台の下で、夜風に吹かれたい」
「桟橋の先で、波の音を聞きながら、あの夜の続きを話したい」
僕はそれを一つずつメモに書き留めた。
まるで、そのメモが彼女の命の延長線になるかのように。
夜、病室の灯りを落とすと、彼女は静かに言った。
「……私、怖いんです。
このまま何も叶えられずに終わってしまうことが」
「叶える。必ず」
「でも、もし叶わなかったら……」
彼女は僕の手を握り、かすかに笑った。
「あなたが覚えていてくれるなら、それでいい」
その笑みは、痛いほど優しかった。
◇
八月の終わり、病室の窓から見える空は、夏の名残をわずかに残しながらも、どこか秋の気配を帯びていた。
彼女の体調は、医師の言葉どおり、限界に近づいていた。
呼吸は浅く、会話の合間に小さく息を整える仕草が増えた。
それでも彼女は、港町の話をやめなかった。
「……もし、あと一週間だけでも持ち直せたら」
枕元で、彼女はかすかな声で言った。
「行けますかね」
僕は即答できなかった。
医師の顔、看護師のため息、そして何より、彼女の細くなった手の感触が、現実を突きつけてくる。
それでも、彼女の瞳の奥にある光を消したくなくて、僕はうなずいた。
「もちろん」
◇
その日から、病室は小さな作戦会議の場になった。
看護師が出入りする合間を縫って、僕たちは港町の地図を広げ、行程を練った。
「駅から港までの道は、坂が多いから……車椅子を借りましょう」
「灯台は……階段が無理なら、下からでも見られる場所を探す」
「夜は冷えるから、ブランケットを持っていく」
彼女は、まるで遠足前の子どものように、少しだけ頬を紅くして笑った。
その笑顔が、僕には痛いほど愛おしかった。
しかし、出発予定の三日前、彼女の容体は急に悪化した。
夜中、呼吸が乱れ、看護師が慌ただしく駆け込む。
酸素マスクがつけられ、モニターの音が早鐘のように響く。
僕はただ、彼女の手を握ることしかできなかった。
「……ごめんなさい」
マスク越しに、彼女がかすかに言った。
「行けないかもしれない」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
でも、涙は見せなかった。
「まだ、諦めない」
そう言うと、彼女はほんの少しだけ目を細めた。
翌朝、医師は静かに告げた。
「この状態では、長距離の移動は難しいです。
……ただ、病院の許可が出る範囲で、近くの海辺までなら」
港町ではない。
でも、海は海だ。
彼女が望んだ“波の音”は、そこにもある。
◇
出発の日。
病院の車椅子に座った彼女は、薄いストールを肩にかけ、ゆっくりと外の空気を吸い込んだ。
「潮の匂いがします」
海辺に着くと、風が彼女の髪を揺らし、遠くで波が砕ける音がした。
僕はそっと耳元で言った。
「港町じゃないけど、これは、予行演習だ」
彼女は笑い、目を閉じた。
「ええ……本番は、きっともうすぐ」
その声は、かすかに震えていたけれど、確かに生きていた。
海辺のベンチに移動し、二人で並んで座った。
潮の匂いが、肺の奥まで染み込む。
彼女は、目を細めて水平線を見つめながら、ぽつりと言った。
「もし、これが最後の海だったら、あなたは覚えていてくれますか」
「ああ。全部、覚えてる。」
「波の音も、風の匂いも、私の声も?」
「全部だ」
彼女は少し笑い、視線を海から外さなかった。
その笑みは、どこか遠くを見ているようで、僕の胸を締めつけた。
しばらくして、彼女はポケットから小さな紙片を取り出した。
折りたたまれたそれを開くと、港町でやりたいことリストが書かれていた。
「ほら、まだ全部消せてない」
「消せる日が来る」
「ええ。でも、もし来なかったら」
彼女は紙を僕に渡し、指先でそっと押しつけた。
「あなたが、私の代わりに消してください」
僕は何も言えず、その紙を握りしめた。
波の音が、やけに遠くに聞こえた。
夕暮れが近づくと、海は金色に染まり、風が少し冷たくなった。
彼女はブランケットにくるまり、僕の肩にもたれた。
「こうしてると、港町にいるみたい」
「そうだな」
「でも、違うんですよね」
「違う。でも、悪くない」
彼女は目を閉じ、しばらく黙っていた。
その沈黙は、言葉よりも深く、僕の胸に刻まれた。
病院に戻る車の中、彼女は窓の外を見ながら、かすかに呟いた。
「今日は、いい日でした」
その声は、もうほとんど風に消えそうだった。
僕はただ、その言葉を心の奥にしまい込んだ。
◇
その言葉は、海辺で見せた穏やかな笑みよりもずっと強く、はっきりとした響きを持っていた。
枯れかけた声なのに、芯があった。
まるで、彼女の中で最後に残った炎が、そこに集まっているようだった。
「作家、なんです」
その一言に、僕は一瞬、返す言葉を失った。
彼女が物語を書くことは知っていた。けれど、それが今、この状況で口にされるとは考えていなかった。
「まだ出来上がってない原稿があるんです。
推敲も、校閲もしていない、私の想いをただ書き起こしたものです。
小説です。
ここへ持ってきてくれませんか。
あれを未完のまま終わらせるのは、どうしてもできない。」
僕は頷きながらも、胸の奥がざわついていた。
──危篤の彼女が、最後に望むのは港町でも、海でもなく、自分の物語の完結。
それは、彼女が生きてきた証そのものなのだろう。
「わかった。すぐに取りに行く」
そう言うと、彼女は安堵したように目を閉じた。
「机の右の引き出しにあります。……乱雑に置いてあるけど、全部、持ってきてください」
病室を出て、彼女の部屋へ向かう道すがら、僕は不思議な感覚に包まれていた。
港町の夢は、もしかしたらもう叶わない。
でも、彼女の物語は、まだ続けられる。
それは、彼女が生きている限り紡がれる“もうひとつの旅”だった。
部屋に入ると、机の上には原稿用紙の束と、インクのかすれた万年筆が置かれていた。
引き出しを開けると、メモや下書きが無造作に詰め込まれている。
その一枚一枚に、彼女の筆跡が生きていた。
僕はそれらをすべて抱え、病室へ戻った。
「……ありがとう」
原稿を受け取った彼女は、震える指で紙を撫でた。
「これで、続きを書けます」
その目は、病の影を超えて、確かに輝いていた。
そして僕は、その瞬間、悟った。
この原稿こそが、彼女にとっての港町なのだ。
辿り着くべき場所であり、最後に見るべき景色。
◇
それからの数日間、病室はまるで小さな書斎のようになった。
窓際のテーブルに原稿用紙の束と万年筆、そして彼女の手元には、まだ書きかけの物語が広がっている。
酸素吸入器の静かな音と、紙の上をペン先が走るかすかな音だけが、部屋を満たしていた。
彼女は、時折ペンを止めて、遠くを見るように目を細めた。
「この続きをどうするか、ずっと迷ってるんです」
「迷ってる?」
「ええ。主人公を幸せにするか、そうじゃないか」
「どっちにするんだ」
「まだ決めません。でも、ちゃんと最後まで辿り着かせてあげたい」
その言葉は、彼女自身のことを語っているようにも聞こえた。
書く時間は長くは続かない。
体力が落ちているせいで、数行書くと息が上がり、しばらく目を閉じて休む。
それでも、休憩の合間に僕と短い会話を交わす。
「この場面、港町が舞台なんです」
「やっぱり、港町なんだな」
「ええ。灯台も、桟橋も出てきます。
私が行けなかったとしても、物語の中では行けますから」
そう言って、彼女は少し笑った。
その笑みは、現実の港町よりも、紙の上の港町の方が、今の彼女には近い場所であることを物語っていた。
夜になると、僕は彼女の横で原稿を読み上げた。
彼女が昼間に書いたばかりの文章を、声にして届ける。
「やっぱり、人に読んでもらうと違いますね」
「どんなふうに?」
「物語が、ちゃんと生きてる気がします」
彼女はそう言って、目を閉じたまま微笑んだ。
その横顔は、まるで物語の中の登場人物のように静かで、凛としていた。
三日目の夜、原稿の束は目に見えて厚くなっていた。
「……あと少しです」
彼女はそう言って、震える手で最後のページをめくった。
「この物語が終わったら、私の中の港町も完成します」
僕はその言葉を聞きながら、胸の奥で何かがきしむのを感じた。
彼女は、自分の物語を終わらせることで、自分の旅も終わらせようとしているのかもしれない。
それでも、僕は何も言わなかった。
◇
数日後。
原稿は、最後の一行まで書き終えられていた。
机の上に置かれた束は、彼女の体温をまだ宿しているようで、手に取るとほんのり温かかった。
原稿を読み終えた僕は、胸の奥がざわめくのを抑えられなかった。
仮面舞踏会での出会い、別れを惜しむ夜、そして港町での再会。
病に倒れ、療養を続ける主人公。
その心情は多くを語らないのに、行間からは確かな慕情が滲み出ていた。
──これは、僕たちのことじゃないのか。
そう思わずにはいられなかった。
「これで、完成です」
ベッドの上で、彼女は静かにそう言った。
声は弱いが、目の奥には確かな光があった。
「この物語は、私の中でずっと続いていた旅なんです。
でも、もう、ここで終わらせようと思います」
僕は原稿を胸に抱えたまま、言葉を探した。
「終わらせるって」
「ええ。私の手で書けるのは、ここまでです」
彼女は少し息を整え、続けた。
「もし、私がいなくなったら、この続きを、あなたに書いてほしいんです」
その言葉は、まるで遺言のようだった。
「続きを……?」
「はい。港町のその先を、あなたの目で見て、あなたの言葉で書いてください。
主人公がどう生きるのか、どう愛するのか。
それは、私じゃなくて、あなたが決めることです」
僕は原稿を見下ろした。
紙の端には、彼女の癖のある筆跡が並び、インクの濃淡が時間の流れを物語っている。
この続きを書くということは、彼女の物語を生かし 続けることだ。
それと同時に、それは彼女がもう書けないという現実を受け入れることでもあった。
「……わかった」
そう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。これで、安心して眠れます」
「眠るって」
「少しだけ、長い眠りです」
その言葉に、僕の指が震えた。
でも、彼女の笑顔はあまりにも穏やかで、僕はそれ以上何も言えなかった。
その夜、病室の灯りを落としたあとも、僕は原稿を抱えたまま眠れなかった。
ページをめくるたび、彼女の声が耳の奥で蘇る。
──港町の桟橋で、主人公が相手の手を握る場面。
「この手を離したら、もう二度と会えない気がする」
その一文が、何度も胸を刺した。
◇
それは、あまりにも静かな朝だった。
窓の外は薄曇りで、光は柔らかく、病室の白い壁を淡く染めていた。
昼前、彼女は一度だけ目を開けた。
「……港町、行けませんでしたね」
「行けなかった。でも、行くよ。必ず」
「ええ。あなたが見てきた景色を、私に話してください」
「わかった。全部、話す」
彼女は微笑み、目を閉じた。
そのまま、呼吸はゆっくりと、そして静かに浅くなっていった。
モニターの音が一定のリズムを刻み、やがて、途切れた。
◇
葬儀のあと、僕は原稿を鞄に入れ、港町へ向かう電車に乗った。
窓の外を流れる景色は、彼女が描いた物語の舞台と重なって見えた。
海が近づくにつれ、潮の匂いが車内にまで入り込んでくる。
港町に着くと、彼女が行きたがっていた桟橋へ向かった。
夕暮れの海は、物語の中と同じ色をしていた。
波の音、灯台の影、遠くで鳴くカモメ――すべてが、彼女の言葉と重なって胸に響く。
僕は桟橋の先に立ち、原稿を開いた。
最後のページの下に、彼女の小さな文字があった。
「この続きを、あなたへ」
その瞬間、風がページをめくり、海の匂いが強くなった。
僕はペンを取り出し、白紙のページにゆっくりと書き始めた。
港町のその先を、彼女のために。
そして、僕自身のために。
その夜、港町の小さな宿に泊まり、窓から海を眺めた。
月明かりが水面を照らし、遠くで灯台が回る。
僕は原稿を机に置き、そっと呟いた。
「ちゃんと書いたよ。君の港町の、その先を」
返事はない。
窓から吹き込む潮風が、まるで彼女の手のように頬を撫でた。




