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空気税―環境対策として導入された「空気税」は、国民一人ひとりの呼吸回数に課税する仕組みだった。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/13

 空気は、もともとタダだった。


 そんな当たり前の事実を、わざわざ教科書に書くようになったのは、空気税が始まってからである。


 神谷翔は、朝目を覚ますと、枕元の端末に目をやった。


「本日の呼吸残高 三千五百二十四息」


 青白い数字が、寝ぼけた視界にぼんやりと浮かぶ。昨日、残業中にうっかりため息をつきすぎたせいで、予定より百息ほど目減りしていた。


 枕をどけると、首元に巻かれた細い黒いリングが視界に入る。皮膚と一体化したように軽いが、これが一息ごとの出入りを報告し、税額を計算する。正式名称は「呼吸計測端末」。人々は面倒なので、ただ「カラー」と呼んでいた。


「……はあ」


 危うく、本物のため息をつきかけて、神谷は慌てて喉を閉じた。喉仏のあたりで、浅い空気が引っかかる。


 額を押さえながら、彼は意識的に、「節約呼吸モード」に切り替えた。鼻から少しだけ吸い込み、すぐ口から細く吐く。胸を膨らませすぎないよう、肺の半分くらいで止める。ここ数年で、多くの国民が身につけた生活スキルだ。


 寝室のドアが、そっと開いた。


「パパ、起きてる?」


 小さな声が、空気をあまり揺らさないように気をつけながら、部屋に入ってくる。小学二年生の娘、美咲である。


「起きてるよ」


 神谷も、小声で答えた。会話も、できるだけ短く。五文字十文字の違いが、月末の請求に響く。


「今日、学校で持久走のタイムはかるんだって。みんな、酸欠で倒れないかな」


 美咲は、肩で小さく笑った。笑い声も、喉の奥で飲み込んでいる。


「走ってる間は、体育用の『運動枠』があるから大丈夫だよ」


「でもさ、そのあと先生が『深呼吸しましょう』って言うんだよ。あれ、高いんだよね」


 娘が、ふくれっ面をする。


 小学校にも、空気税の仕組みはきっちり導入されていた。時間割に合わせて「追加呼吸枠」が配分されるが、深呼吸となると話は別だ。学校側は「環境教育」の名のもと、なるべく児童に浅い呼吸を教えようとする。体育の教科書からは、「大きく息を吸って」という文言が削除された。


「先生の分の深呼吸も、子どもたちに割り振られてるって噂だよ」


 美咲は、どこで聞いてきたのかという情報をさらりと言う。


「そんなことない……と、思いたいな」


 神谷は、あいまいな笑みを浮かべた。


 キッチンから、妻の沙織が顔を出す。


「二人とも、朝ごはん、冷めちゃうわよ。話は、歩きながらにして」


 家の中とはいえ、会話時間を長くすると、どうしても呼吸が増える。家族の団らんは、かつてよりずっと静かになった。


 テーブルには、トーストとサラダと目玉焼きが並んでいた。かつては、湯気の立つ味噌汁もあったが、今はなるべく「すすらない」メニューが選ばれている。


「ニュース、音なしで字幕ならいいかな」


 沙織がリモコンを手に取り、テレビをつける。画面には、「今年も空気税率据え置き」と大きくテロップが出ていた。アナウンサーは笑顔だが、口の開き方は最小限に抑え、腹式呼吸を徹底しているのが見て取れる。


「税率据え置きだって。よかったね」


 沙織が言う。


「どうだろう。物価は上がってるけど、空気だけは高止まりのままだ」


 神谷が、トーストをかじりながら答えた。パンくずが飛び散らないよう、口の中でゆっくり噛む。


 空気税が導入されたのは、十年前だ。


 地球温暖化、都市部の大気汚染、さまざまな環境問題への「決定打」として、政府はこの税を打ち出した。はじめ、多くの国民は反発したが、華やかなキャンペーンがその声を上書きした。


『未来の子どもたちに、きれいな空を。今、ひと息を見直そう』


 どこに行っても、そんなスローガンが流れた。


 呼吸計測端末は無料で配布され、「一定回数までは非課税」と宣伝された。だが、実際に生活してみると、無料枠はすぐに尽きることが分かった。人は思った以上に息をしているのだ。


 その現実に直面したとき、国民は二つの道のどちらかを選んだ。


 ひとつは、働く時間を増やし、残業や副業で空気代を稼ぐ道。


 もうひとつは、呼吸を減らし、静かに暮らす道。


 神谷は、後者を選んだつもりだった。


 会社に向かう電車の中。


 車内は、満員であるにもかかわらず、異様な静けさに包まれている。吊革に捕まるサラリーマンたちは、顔色こそ健康そうだが、胸の動きは浅い。誰もが、最低限の酸素だけで生きている。


 かつてのように咳払いをする者もおらず、電話の着信音も聞こえない。通話は息を使うので、現代人はほとんど文字で連絡を取る。


 窓の外に目をやると、空は、確かに昔より青く澄んでいる。高層ビルの輪郭もくっきりとしていて、遠くの山並みまで見えた。


「きれいだな」


 思わず、そう口の中でつぶやいてしまい、神谷は慌てて、肺の動きを制御する。危ないところだった。


 駅に着くと、改札口の上に設置されたモニターが、通行人の「本日分呼吸消費率」をグラフで表示していた。政府は、透明性のためだと言うが、実際には互いを監視させる効果の方が大きい。


「おはようございます」


 会社のエントランスで、同僚の安井が、口角だけで挨拶した。


「……おはよう」


 神谷も、できるだけ少ない音で返す。


 オフィスの中では、さらに呼吸の節約が徹底されていた。


 彼らが所属する「環境対策推進部」の壁には、「一息一円、百人で百円の節約」と書かれたポスターが貼られている。


「昨日の会議、ちょっとしゃべりすぎましたね」


 安井が、パソコン画面から目を離さないまま言った。


「課長が熱弁してたからな。あの人、多分月末に破産する」


 二人は、声を出さずに、チャット画面で短い文を打ち合う。それが、新しい世の中の「雑談」だった。


 午前十時。週に一度の「呼吸効率報告会」が始まる。


 会議室に集まった社員たちは、円形に並べられた椅子に腰掛け、それぞれの前に呼吸グラフを表示したタブレットを置いた。


「えー、それでは今週の効率の集計を……」


 課長の佐伯が、喉を鳴らして話し始める。その声は、以前より明らかに小さくなっていた。


「まず、個人別平均呼吸数。トップは安井くん、一日あたり七千二百三呼吸。すばらしい。健康を損なわずに、よくここまで削りました」


 パラパラと、小さな拍手が起こる。拍手も、指先だけを軽く打ち合わせる無音のものだ。


「ビリは……神谷くん、一万一千六十呼吸」


 会議室の視線が、一斉に神谷に向いた。


「す、すみません」


 思わず、普通の声量で口を開きかけて、神谷は自分の失敗に気づいた。あわてて声を絞る。


「今週、残業続きでしたので……」


「仕事で消費した呼吸は、経費計上される。問題は、プライベートだよ」


 課長が、眉をひそめた。


「えーと、データによると、帰宅後から就寝までの呼吸数が多い。ご家庭での会話が多いのかな」


 神谷は、言葉に詰まる。娘と宿題の話をした時間、妻とニュースの感想を言い合った時間、その一つ一つがグラフにはっきりと刻まれている。


「……もう少し、家族全員で意識を徹底したまえ。君は、『青空推進モデル家庭』にモニター登録しているはずだ」


「はい」


 神谷は、うなだれた。


 昼休み。


 社員食堂は、いつもながら低いざわめきに包まれている。といっても、声ではない。トレーの音、椅子のきしむ音、スマホの画面をタップする音。人の声はほとんど聞こえず、ところどころから、息を殺した笑いが漏れるだけだ。


「神谷」


 背後から、ひそひそ声がした。振り返ると、同じ部署の先輩、藤堂が立っていた。


 四十代半ば。かつては喫煙者だったが、空気税導入を機に禁煙し、代わりに呼吸節約に燃えている人物だ。


「ちょっと、いい店があるんだ。仕事終わりに、付き合わないか」


 藤堂の目が、どこか悪戯っぽく光った。


「いい店、ですか」


「まあ、来てみれば分かる」


 神谷は、しばし迷ったが、気分転換も必要だと考え、うなずいた。


 その日の残業を終えると、二人は会社を出て、駅と反対方向に歩き始めた。


 夜の街は、ネオンこそ明るいが、やはり静かだ。繁華街にも、かつてのような笑い声はなく、酔客たちは、無言でスマホの画面を見つめている。


「ここだ」


 藤堂が、古びた雑居ビルの前で足を止めた。薄暗い階段を降りると、地下に扉がひとつ。看板には「オーツー」とだけ書かれている。


 扉を開けると、ひんやりとした空気が、ふっと頬を撫でた。


 店内は狭く、十人も入ればいっぱいになる。壁には換気装置のようなものが並び、天井からは透明なホースが何本も垂れ下がっている。


 カウンターの中には、髭を生やしたマスターらしき男が立っていた。


「いらっしゃい。初めての顔だね」


「会社の後輩でね。ちょっと体験させてやろうと思って」


 藤堂が言うと、マスターはにやりと笑った。


「ここはな、公式には存在しない店だ。税務署にも環境省にも、どこにも登録されていない。つまり……」


 彼は、天井のホースを一本指さした。


「ここで吸う一息は、誰にもカウントされない」


 神谷の胸が、どくん、と鳴った。


「ど、どういう仕組みなんですか」


「解説すると長くなるが、簡単に言えば、この店の中にいる間は、カラーが誤作動を起こすようになっている。『睡眠中』と誤認識させるんだよ。睡眠時の呼吸は非課税だろう?」


 マスターは、黒い端末を掲げて見せた。


「もちろん、その分の危険もあるけどね。監査に引っかかったら、店ごと吹っ飛ぶ」


 店内には、すでに何人かの客がいた。皆、細いホースの先を口元に当て、目を閉じている。その顔は、どこか恍惚としていた。


「どうだ。一本、やってみるか」


 藤堂が、いたずらっぽく言った。


 神谷は、喉の奥が熱くなるのを感じた。ここ数年、意識的に抑え続けてきた欲求が、じわじわと顔を出してくる。


「……少しだけなら」


「よし、初心者コースだな。五十息分」


 マスターは、メニュー表を差し出した。そこには、「一息=百円」と書かれている。合法的に課税される空気より、よほど高い。


「高い、と思ったかい?」


 マスターは、神谷の表情を読み取ったように笑った。


「でもね、ここで吸うのは、ただの酸素じゃない。『誰にも見られていない一息』だ。値段の中には、その自由のぶんも含まれてる」


 自由。


 その言葉が、神谷の耳に残った。


「お願いします」


 彼は、覚悟を決めるように、深くうなずいた。


 マスターがホースを一本取り、先端を神谷の手に握らせる。


「ゆっくり、大きく。お好きなだけ」


 神谷は、目を閉じた。


 ホースの先を口元に当て、肺の奥まで空気を引き込む。


 それは、久しく味わっていなかった感覚だった。胸が大きく膨らみ、肋骨が押し広げられる。頭の先まで、冷たい風が駆け抜けていく。


「……っ」


 彼は、思わず声を漏らしそうになった。


 もう一度、深く吸い込む。今度は、鼻から。空気が、鼻腔を洗い、喉を滑り、肺の奥に落ちていく。


 世界が、少しだけ明るくなったような気がした。


「どうだい」


 耳元で、藤堂の声がした。


「……こんなに、気持ちよかったんですね。息を、するって」


 自分がそんな当たり前のことを言ったのがおかしくて、神谷は笑った。笑うと、また肺が大きく動き、空気が出入りする。


 その夜、彼は、久しぶりに胸いっぱいの呼吸を味わった。


 店を出るころには、足取りがふわふわと軽く、頭の中には青い空が広がっていた。


「ありがとう、藤堂さん。本当に、感謝してます」


「礼には及ばないさ。俺だって最初は衝撃だったからな」


 二人は、地下から地上の夜風の中に出た。


 その瞬間。


 耳元で、ピッ、と鋭い音が鳴った。


 首のカラーが、赤く点滅している。


「え?」


 神谷が目を見開いたとき、路地の奥から、黒い制服を着た男たちが現れた。胸には、「環境省 呼吸監査庁」のバッジが光っている。


「神谷翔さんですね。『オーツー』への出入りを確認しました。不正呼吸の疑いで、同行をお願いします」


 男の一人が、淡々と言った。


「ど、どうして……」


「この店は、以前から監視対象でしたので」


 後ろで、藤堂が小さく舌打ちする音がした。


「すまないな、神谷。俺も、仕事なんでね」


 彼は、いつのまにか制服組の一人の隣に立っていた。胸には、同じバッジが輝いている。


「最初から、そういうつもりで……?」


「世の中、きれいな空のためには、多少の汚れも必要なんだよ」


 藤堂は、肩をすくめた。


 神谷は、抗う間もなく、腕を取られた。


 監査庁の事務所で、彼は延々と説明を聞かされた。睡眠状態を偽装したことによる重加算税、不正端末使用の罪、社会的信用への大きなダメージ。


「今回の件で、あなたの空気税滞納額は、年収の三倍に達します」


 担当官は、事務的な口調で言った。


「法的には、自己破産の手続きも可能ですが、その場合、一定期間、『公共呼吸管理施設』での生活となります」


「公共……?」


「まあ、簡単に言えば、国が管理する簡易収容所ですね。最低限の呼吸は保証されますが、外出や家族との通信は制限されます」


 その説明を聞きながら、神谷の頭の中には、家族の顔が浮かんでいた。


 美咲の笑顔。沙織の、少し疲れた横顔。


 彼のせいで、家族の呼吸枠まで削られるかもしれない。


「……分かりました。分割払いで、何とか」


 神谷は、肩を落としながら答えた。


 その日から、彼の生活はさらに息苦しくなった。


 給料の大半は空気税の返済に消え、家計は火の車だ。エアコンは極力使わず、電車では一駅分歩いて節約する。


 家族の会話は、以前にも増して短くなった。


「ごめんな」


 ある晩、テレビを消したあとで、神谷は沙織に謝った。


「私も、ついて行くって決めたから。なんとかなるわよ」


 沙織は、そう言って微笑んだが、その笑みはどこか薄かった。


 美咲は、最近、日記を音声入力から文字入力に切り替えたと言った。声でしゃべると息を使うから、と。


 神谷は、自分が家族から少しずつ「余分な呼吸」として浮いていくような感覚を覚えた。


 ある週末、彼は久しぶりに、郊外の老人ホームを訪れた。


 そこには、空気税が始まる前に自分を育ててくれた世代の老人たちが、静かに暮らしている。


「お久しぶりですね、神谷さん」


 受付の女性が、小さな声で挨拶した。ここでも、会話は節約されている。


「母は、どうですか」


「お変わりありません。『省呼吸モード』で安定しています」


 母の部屋に入ると、細い身体がベッドに横たわっていた。胸の上下は、ほとんど分からないくらい小さい。


「……母さん」


 神谷は、ベッドの横に椅子を置いて座った。


 母の首にも、薄いカラーが巻かれている。ただし、老人用のそれは、「生命維持に必要な最低限」の呼吸だけを許可する仕様になっていた。


「空気税なんてものがない時代に、あんたを育てたつもりなんだけどねえ」


 かつて、母は笑いながらそう言ったことがある。


 今、その口元はわずかに開いていたが、言葉は出てこない。呼吸を節約する生活に慣れるうちに、話すこと自体を忘れてしまったのだと、施設の職員は説明していた。


「空、きれいだよ」


 神谷は、窓の外を見ながら、小声で言った。


「昔、母さんと行った海、覚えてる? あの時の空の色に、ちょっと似てる」


 もちろん、母からの返事はない。


 彼はしばらくのあいだ、母の浅い呼吸のリズムに、自分の呼吸を合わせていた。


 それでも、胸の奥には、どうしようもない違和感が残る。


 ――これで、本当に、いいのだろうか。


 空気税のおかげで、大気中の汚染物質は減ったとされている。環境省の発表によれば、過去十年で都市部のPM2.5濃度は半減し、子どもの喘息発症率も下がった。


 その代わり、人々は、笑い声もため息も、ほとんど失った。


 街はきれいになったが、どこか死んだように静かだ。


 そんな世界で、神谷は、「普通に息をしたい」と願っている自分が、わがままなのではないかと、何度も自問した。


 そして、ある日の朝。


 彼は、いつもと同じように目を覚まし、いつもと同じように浅い呼吸をした。


 枕元の端末には、「本日の呼吸残高 二千八百九十四息」と表示されている。返済が進むにつれて、無料枠も削られていった。


 カーテンの隙間から、光が差し込む。


 いつもより、少し強い光だった。


 何気なくカーテンを引くと、窓の向こうに広がる空が、目に飛び込んできた。


 そこには、雲ひとつない、抜けるような青が広がっていた。


 ビルのガラスに反射する光も、遠くの山々の輪郭も、すべてがあまりにくっきりとしている。


 彼は、しばし、息をするのも忘れて見とれた。


 その瞬間まで、彼は「空気税が嫌いだ」と思いながらも、その結果としての景色を認めている自分にも気づかなかった。


 これほどまでに澄んだ空を、自分は見たことがあっただろうか。


 胸の奥から、何かがこみ上げてきた。


 それは、怒りでも諦めでもなかった。


 ただ、どうしようもない衝動だった。


 ――吸いたい。


 誰に見られていなくても、誰に責められても。


 この空を、肺いっぱいに吸い込みたい。


 それは、あまりにも原始的で単純な欲望だった。


 神谷は、ゆっくりと窓を開けた。


 朝の空気が、部屋に流れ込んでくる。


 冷たく、透明で、ほんのわずかに土と緑の匂いがした。


 彼は、目を閉じた。


 そして、心の中で、何かを諦めた。


「……っ」


 次の瞬間。


 彼は、肺が破れそうなほど大きく、空気を吸い込んだ。


 胸が痛くなるほど、深く。


 何年分かの「我慢」をまとめて取り戻すかのように。


 カラーが、首元でけたたましく鳴り始めた。


「――――――」


 警告音が、部屋中に響き渡る。


 端末の画面が、真っ赤に点滅した。


『深呼吸検知 深呼吸検知 本日分無料枠超過 本日分無料枠超過』


 彼は、それでも、もう一度吸い込んだ。


 今度は、鼻から。肺の奥まで、青い空が流れ込んでくる気がした。


 息を吐くとき、彼は笑っていた。


 涙が、頬を伝っていた。


 窓の外を見ると、向かいのビルのベランダから、誰かがこちらを見ているのが分かった。


 隣のマンションの窓も、次々に開いていく。


 人々の視線が、一斉に彼の方に向けられた。


 彼らの表情には、驚きと戸惑い、そしてわずかな怒りが浮かんでいる。


「なにやってるのよ、あの人」


 遠くから、かすかな声が聞こえた。


「深呼吸なんて……非常識だ」


「環境への裏切りだ」


 その批判のすべてを、神谷は、どこか現実感のないまま受け止めた。


 彼らの胸は、相変わらず浅くしか動いていない。


 誰も、空を見上げていない。


 彼だけが、青すぎる空を見つめていた。


 しばらくすると、通りの方から、サイレンの音が近づいてきた。


 環境省のロゴをつけた小型ドローンが、窓辺に浮かぶ。


『呼吸税滞納および悪質な深呼吸を確認。これより、現地徴収手続きを行います』


 機械的な声が、彼の耳元で告げた。


 端末の画面には、「本日分呼吸残高 マイナス二万五千六百三十二息」と表示されている。


 深呼吸二度で、それだけのマイナスだった。


 彼は、苦笑した。


「思ったより、高くついたな」


 ドローンから伸びたアームが、彼のカラーに接触する。瞬間、ひやりとした感覚が首筋を走り、カラーの点滅が止まった。


『神谷翔さん、あなたは本日付で「空気税破産者」に認定されました。これより、公共呼吸管理施設への収容手続きに移行します』


 ドアの向こうで、インターホンが鳴る音がした。おそらく、監査官が到着したのだろう。


 彼は、窓の外をもう一度見た。


 空は、相変わらず青い。


 さっきよりも、少しだけ、色が濃くなったようにさえ見えた。


 隣のマンションのベランダに、小さな影が立っているのが見えた。


 子どもだ。


 その子は、神谷をまっすぐに見つめ、ためらいがちに、胸をふくらませた。


 ほんの少しだけ。


 浅い、しかし彼らなりの「深呼吸」を真似しようとしているのかもしれない。


 すぐに、その背後から大人の手が伸びてきて、子どもを部屋の中に引っ張り戻した。


 窓が、勢いよく閉まる音が聞こえる。


 神谷は、もう一度だけ、ゆっくりと息を吸った。


 今度は、ごく普通の、日常の一息だ。


 だが、それさえも、これから先は許されなくなるのだろう。


 インターホンの音が止まり、ドアが開く気配がした。


 背後で、誰かが彼の名前を呼んでいる。


 それでも、彼は振り返らなかった。


 ただ、空を見ていた。


 初めて自分の意思で選んだ「無駄な呼吸」が、胸の中に残っている。


 それは、税金では買えない感覚だった。


 連行される途中、廊下の掲示板に、環境省の新しいポスターが貼られているのが目に入った。


『次のステップへ。未来のために、「思考税」の導入を検討しています』


 そこには、笑顔の子どもと透き通る空が並んで描かれていた。


「今度は、何回考えたら、課税されるんだろうな」


 神谷は、小さくつぶやいた。


 その声は、誰にも聞こえなかったが、廊下の空気だけは、わずかに震えた。


 外の空は、相変わらず、以前より少しだけ澄んでいた。

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