空気税―環境対策として導入された「空気税」は、国民一人ひとりの呼吸回数に課税する仕組みだった。
空気は、もともとタダだった。
そんな当たり前の事実を、わざわざ教科書に書くようになったのは、空気税が始まってからである。
神谷翔は、朝目を覚ますと、枕元の端末に目をやった。
「本日の呼吸残高 三千五百二十四息」
青白い数字が、寝ぼけた視界にぼんやりと浮かぶ。昨日、残業中にうっかりため息をつきすぎたせいで、予定より百息ほど目減りしていた。
枕をどけると、首元に巻かれた細い黒いリングが視界に入る。皮膚と一体化したように軽いが、これが一息ごとの出入りを報告し、税額を計算する。正式名称は「呼吸計測端末」。人々は面倒なので、ただ「カラー」と呼んでいた。
「……はあ」
危うく、本物のため息をつきかけて、神谷は慌てて喉を閉じた。喉仏のあたりで、浅い空気が引っかかる。
額を押さえながら、彼は意識的に、「節約呼吸モード」に切り替えた。鼻から少しだけ吸い込み、すぐ口から細く吐く。胸を膨らませすぎないよう、肺の半分くらいで止める。ここ数年で、多くの国民が身につけた生活スキルだ。
寝室のドアが、そっと開いた。
「パパ、起きてる?」
小さな声が、空気をあまり揺らさないように気をつけながら、部屋に入ってくる。小学二年生の娘、美咲である。
「起きてるよ」
神谷も、小声で答えた。会話も、できるだけ短く。五文字十文字の違いが、月末の請求に響く。
「今日、学校で持久走のタイムはかるんだって。みんな、酸欠で倒れないかな」
美咲は、肩で小さく笑った。笑い声も、喉の奥で飲み込んでいる。
「走ってる間は、体育用の『運動枠』があるから大丈夫だよ」
「でもさ、そのあと先生が『深呼吸しましょう』って言うんだよ。あれ、高いんだよね」
娘が、ふくれっ面をする。
小学校にも、空気税の仕組みはきっちり導入されていた。時間割に合わせて「追加呼吸枠」が配分されるが、深呼吸となると話は別だ。学校側は「環境教育」の名のもと、なるべく児童に浅い呼吸を教えようとする。体育の教科書からは、「大きく息を吸って」という文言が削除された。
「先生の分の深呼吸も、子どもたちに割り振られてるって噂だよ」
美咲は、どこで聞いてきたのかという情報をさらりと言う。
「そんなことない……と、思いたいな」
神谷は、あいまいな笑みを浮かべた。
キッチンから、妻の沙織が顔を出す。
「二人とも、朝ごはん、冷めちゃうわよ。話は、歩きながらにして」
家の中とはいえ、会話時間を長くすると、どうしても呼吸が増える。家族の団らんは、かつてよりずっと静かになった。
テーブルには、トーストとサラダと目玉焼きが並んでいた。かつては、湯気の立つ味噌汁もあったが、今はなるべく「すすらない」メニューが選ばれている。
「ニュース、音なしで字幕ならいいかな」
沙織がリモコンを手に取り、テレビをつける。画面には、「今年も空気税率据え置き」と大きくテロップが出ていた。アナウンサーは笑顔だが、口の開き方は最小限に抑え、腹式呼吸を徹底しているのが見て取れる。
「税率据え置きだって。よかったね」
沙織が言う。
「どうだろう。物価は上がってるけど、空気だけは高止まりのままだ」
神谷が、トーストをかじりながら答えた。パンくずが飛び散らないよう、口の中でゆっくり噛む。
空気税が導入されたのは、十年前だ。
地球温暖化、都市部の大気汚染、さまざまな環境問題への「決定打」として、政府はこの税を打ち出した。はじめ、多くの国民は反発したが、華やかなキャンペーンがその声を上書きした。
『未来の子どもたちに、きれいな空を。今、ひと息を見直そう』
どこに行っても、そんなスローガンが流れた。
呼吸計測端末は無料で配布され、「一定回数までは非課税」と宣伝された。だが、実際に生活してみると、無料枠はすぐに尽きることが分かった。人は思った以上に息をしているのだ。
その現実に直面したとき、国民は二つの道のどちらかを選んだ。
ひとつは、働く時間を増やし、残業や副業で空気代を稼ぐ道。
もうひとつは、呼吸を減らし、静かに暮らす道。
神谷は、後者を選んだつもりだった。
会社に向かう電車の中。
車内は、満員であるにもかかわらず、異様な静けさに包まれている。吊革に捕まるサラリーマンたちは、顔色こそ健康そうだが、胸の動きは浅い。誰もが、最低限の酸素だけで生きている。
かつてのように咳払いをする者もおらず、電話の着信音も聞こえない。通話は息を使うので、現代人はほとんど文字で連絡を取る。
窓の外に目をやると、空は、確かに昔より青く澄んでいる。高層ビルの輪郭もくっきりとしていて、遠くの山並みまで見えた。
「きれいだな」
思わず、そう口の中でつぶやいてしまい、神谷は慌てて、肺の動きを制御する。危ないところだった。
駅に着くと、改札口の上に設置されたモニターが、通行人の「本日分呼吸消費率」をグラフで表示していた。政府は、透明性のためだと言うが、実際には互いを監視させる効果の方が大きい。
「おはようございます」
会社のエントランスで、同僚の安井が、口角だけで挨拶した。
「……おはよう」
神谷も、できるだけ少ない音で返す。
オフィスの中では、さらに呼吸の節約が徹底されていた。
彼らが所属する「環境対策推進部」の壁には、「一息一円、百人で百円の節約」と書かれたポスターが貼られている。
「昨日の会議、ちょっとしゃべりすぎましたね」
安井が、パソコン画面から目を離さないまま言った。
「課長が熱弁してたからな。あの人、多分月末に破産する」
二人は、声を出さずに、チャット画面で短い文を打ち合う。それが、新しい世の中の「雑談」だった。
午前十時。週に一度の「呼吸効率報告会」が始まる。
会議室に集まった社員たちは、円形に並べられた椅子に腰掛け、それぞれの前に呼吸グラフを表示したタブレットを置いた。
「えー、それでは今週の効率の集計を……」
課長の佐伯が、喉を鳴らして話し始める。その声は、以前より明らかに小さくなっていた。
「まず、個人別平均呼吸数。トップは安井くん、一日あたり七千二百三呼吸。すばらしい。健康を損なわずに、よくここまで削りました」
パラパラと、小さな拍手が起こる。拍手も、指先だけを軽く打ち合わせる無音のものだ。
「ビリは……神谷くん、一万一千六十呼吸」
会議室の視線が、一斉に神谷に向いた。
「す、すみません」
思わず、普通の声量で口を開きかけて、神谷は自分の失敗に気づいた。あわてて声を絞る。
「今週、残業続きでしたので……」
「仕事で消費した呼吸は、経費計上される。問題は、プライベートだよ」
課長が、眉をひそめた。
「えーと、データによると、帰宅後から就寝までの呼吸数が多い。ご家庭での会話が多いのかな」
神谷は、言葉に詰まる。娘と宿題の話をした時間、妻とニュースの感想を言い合った時間、その一つ一つがグラフにはっきりと刻まれている。
「……もう少し、家族全員で意識を徹底したまえ。君は、『青空推進モデル家庭』にモニター登録しているはずだ」
「はい」
神谷は、うなだれた。
昼休み。
社員食堂は、いつもながら低いざわめきに包まれている。といっても、声ではない。トレーの音、椅子のきしむ音、スマホの画面をタップする音。人の声はほとんど聞こえず、ところどころから、息を殺した笑いが漏れるだけだ。
「神谷」
背後から、ひそひそ声がした。振り返ると、同じ部署の先輩、藤堂が立っていた。
四十代半ば。かつては喫煙者だったが、空気税導入を機に禁煙し、代わりに呼吸節約に燃えている人物だ。
「ちょっと、いい店があるんだ。仕事終わりに、付き合わないか」
藤堂の目が、どこか悪戯っぽく光った。
「いい店、ですか」
「まあ、来てみれば分かる」
神谷は、しばし迷ったが、気分転換も必要だと考え、うなずいた。
その日の残業を終えると、二人は会社を出て、駅と反対方向に歩き始めた。
夜の街は、ネオンこそ明るいが、やはり静かだ。繁華街にも、かつてのような笑い声はなく、酔客たちは、無言でスマホの画面を見つめている。
「ここだ」
藤堂が、古びた雑居ビルの前で足を止めた。薄暗い階段を降りると、地下に扉がひとつ。看板には「オーツー」とだけ書かれている。
扉を開けると、ひんやりとした空気が、ふっと頬を撫でた。
店内は狭く、十人も入ればいっぱいになる。壁には換気装置のようなものが並び、天井からは透明なホースが何本も垂れ下がっている。
カウンターの中には、髭を生やしたマスターらしき男が立っていた。
「いらっしゃい。初めての顔だね」
「会社の後輩でね。ちょっと体験させてやろうと思って」
藤堂が言うと、マスターはにやりと笑った。
「ここはな、公式には存在しない店だ。税務署にも環境省にも、どこにも登録されていない。つまり……」
彼は、天井のホースを一本指さした。
「ここで吸う一息は、誰にもカウントされない」
神谷の胸が、どくん、と鳴った。
「ど、どういう仕組みなんですか」
「解説すると長くなるが、簡単に言えば、この店の中にいる間は、カラーが誤作動を起こすようになっている。『睡眠中』と誤認識させるんだよ。睡眠時の呼吸は非課税だろう?」
マスターは、黒い端末を掲げて見せた。
「もちろん、その分の危険もあるけどね。監査に引っかかったら、店ごと吹っ飛ぶ」
店内には、すでに何人かの客がいた。皆、細いホースの先を口元に当て、目を閉じている。その顔は、どこか恍惚としていた。
「どうだ。一本、やってみるか」
藤堂が、いたずらっぽく言った。
神谷は、喉の奥が熱くなるのを感じた。ここ数年、意識的に抑え続けてきた欲求が、じわじわと顔を出してくる。
「……少しだけなら」
「よし、初心者コースだな。五十息分」
マスターは、メニュー表を差し出した。そこには、「一息=百円」と書かれている。合法的に課税される空気より、よほど高い。
「高い、と思ったかい?」
マスターは、神谷の表情を読み取ったように笑った。
「でもね、ここで吸うのは、ただの酸素じゃない。『誰にも見られていない一息』だ。値段の中には、その自由のぶんも含まれてる」
自由。
その言葉が、神谷の耳に残った。
「お願いします」
彼は、覚悟を決めるように、深くうなずいた。
マスターがホースを一本取り、先端を神谷の手に握らせる。
「ゆっくり、大きく。お好きなだけ」
神谷は、目を閉じた。
ホースの先を口元に当て、肺の奥まで空気を引き込む。
それは、久しく味わっていなかった感覚だった。胸が大きく膨らみ、肋骨が押し広げられる。頭の先まで、冷たい風が駆け抜けていく。
「……っ」
彼は、思わず声を漏らしそうになった。
もう一度、深く吸い込む。今度は、鼻から。空気が、鼻腔を洗い、喉を滑り、肺の奥に落ちていく。
世界が、少しだけ明るくなったような気がした。
「どうだい」
耳元で、藤堂の声がした。
「……こんなに、気持ちよかったんですね。息を、するって」
自分がそんな当たり前のことを言ったのがおかしくて、神谷は笑った。笑うと、また肺が大きく動き、空気が出入りする。
その夜、彼は、久しぶりに胸いっぱいの呼吸を味わった。
店を出るころには、足取りがふわふわと軽く、頭の中には青い空が広がっていた。
「ありがとう、藤堂さん。本当に、感謝してます」
「礼には及ばないさ。俺だって最初は衝撃だったからな」
二人は、地下から地上の夜風の中に出た。
その瞬間。
耳元で、ピッ、と鋭い音が鳴った。
首のカラーが、赤く点滅している。
「え?」
神谷が目を見開いたとき、路地の奥から、黒い制服を着た男たちが現れた。胸には、「環境省 呼吸監査庁」のバッジが光っている。
「神谷翔さんですね。『オーツー』への出入りを確認しました。不正呼吸の疑いで、同行をお願いします」
男の一人が、淡々と言った。
「ど、どうして……」
「この店は、以前から監視対象でしたので」
後ろで、藤堂が小さく舌打ちする音がした。
「すまないな、神谷。俺も、仕事なんでね」
彼は、いつのまにか制服組の一人の隣に立っていた。胸には、同じバッジが輝いている。
「最初から、そういうつもりで……?」
「世の中、きれいな空のためには、多少の汚れも必要なんだよ」
藤堂は、肩をすくめた。
神谷は、抗う間もなく、腕を取られた。
監査庁の事務所で、彼は延々と説明を聞かされた。睡眠状態を偽装したことによる重加算税、不正端末使用の罪、社会的信用への大きなダメージ。
「今回の件で、あなたの空気税滞納額は、年収の三倍に達します」
担当官は、事務的な口調で言った。
「法的には、自己破産の手続きも可能ですが、その場合、一定期間、『公共呼吸管理施設』での生活となります」
「公共……?」
「まあ、簡単に言えば、国が管理する簡易収容所ですね。最低限の呼吸は保証されますが、外出や家族との通信は制限されます」
その説明を聞きながら、神谷の頭の中には、家族の顔が浮かんでいた。
美咲の笑顔。沙織の、少し疲れた横顔。
彼のせいで、家族の呼吸枠まで削られるかもしれない。
「……分かりました。分割払いで、何とか」
神谷は、肩を落としながら答えた。
その日から、彼の生活はさらに息苦しくなった。
給料の大半は空気税の返済に消え、家計は火の車だ。エアコンは極力使わず、電車では一駅分歩いて節約する。
家族の会話は、以前にも増して短くなった。
「ごめんな」
ある晩、テレビを消したあとで、神谷は沙織に謝った。
「私も、ついて行くって決めたから。なんとかなるわよ」
沙織は、そう言って微笑んだが、その笑みはどこか薄かった。
美咲は、最近、日記を音声入力から文字入力に切り替えたと言った。声でしゃべると息を使うから、と。
神谷は、自分が家族から少しずつ「余分な呼吸」として浮いていくような感覚を覚えた。
ある週末、彼は久しぶりに、郊外の老人ホームを訪れた。
そこには、空気税が始まる前に自分を育ててくれた世代の老人たちが、静かに暮らしている。
「お久しぶりですね、神谷さん」
受付の女性が、小さな声で挨拶した。ここでも、会話は節約されている。
「母は、どうですか」
「お変わりありません。『省呼吸モード』で安定しています」
母の部屋に入ると、細い身体がベッドに横たわっていた。胸の上下は、ほとんど分からないくらい小さい。
「……母さん」
神谷は、ベッドの横に椅子を置いて座った。
母の首にも、薄いカラーが巻かれている。ただし、老人用のそれは、「生命維持に必要な最低限」の呼吸だけを許可する仕様になっていた。
「空気税なんてものがない時代に、あんたを育てたつもりなんだけどねえ」
かつて、母は笑いながらそう言ったことがある。
今、その口元はわずかに開いていたが、言葉は出てこない。呼吸を節約する生活に慣れるうちに、話すこと自体を忘れてしまったのだと、施設の職員は説明していた。
「空、きれいだよ」
神谷は、窓の外を見ながら、小声で言った。
「昔、母さんと行った海、覚えてる? あの時の空の色に、ちょっと似てる」
もちろん、母からの返事はない。
彼はしばらくのあいだ、母の浅い呼吸のリズムに、自分の呼吸を合わせていた。
それでも、胸の奥には、どうしようもない違和感が残る。
――これで、本当に、いいのだろうか。
空気税のおかげで、大気中の汚染物質は減ったとされている。環境省の発表によれば、過去十年で都市部のPM2.5濃度は半減し、子どもの喘息発症率も下がった。
その代わり、人々は、笑い声もため息も、ほとんど失った。
街はきれいになったが、どこか死んだように静かだ。
そんな世界で、神谷は、「普通に息をしたい」と願っている自分が、わがままなのではないかと、何度も自問した。
そして、ある日の朝。
彼は、いつもと同じように目を覚まし、いつもと同じように浅い呼吸をした。
枕元の端末には、「本日の呼吸残高 二千八百九十四息」と表示されている。返済が進むにつれて、無料枠も削られていった。
カーテンの隙間から、光が差し込む。
いつもより、少し強い光だった。
何気なくカーテンを引くと、窓の向こうに広がる空が、目に飛び込んできた。
そこには、雲ひとつない、抜けるような青が広がっていた。
ビルのガラスに反射する光も、遠くの山々の輪郭も、すべてがあまりにくっきりとしている。
彼は、しばし、息をするのも忘れて見とれた。
その瞬間まで、彼は「空気税が嫌いだ」と思いながらも、その結果としての景色を認めている自分にも気づかなかった。
これほどまでに澄んだ空を、自分は見たことがあっただろうか。
胸の奥から、何かがこみ上げてきた。
それは、怒りでも諦めでもなかった。
ただ、どうしようもない衝動だった。
――吸いたい。
誰に見られていなくても、誰に責められても。
この空を、肺いっぱいに吸い込みたい。
それは、あまりにも原始的で単純な欲望だった。
神谷は、ゆっくりと窓を開けた。
朝の空気が、部屋に流れ込んでくる。
冷たく、透明で、ほんのわずかに土と緑の匂いがした。
彼は、目を閉じた。
そして、心の中で、何かを諦めた。
「……っ」
次の瞬間。
彼は、肺が破れそうなほど大きく、空気を吸い込んだ。
胸が痛くなるほど、深く。
何年分かの「我慢」をまとめて取り戻すかのように。
カラーが、首元でけたたましく鳴り始めた。
「――――――」
警告音が、部屋中に響き渡る。
端末の画面が、真っ赤に点滅した。
『深呼吸検知 深呼吸検知 本日分無料枠超過 本日分無料枠超過』
彼は、それでも、もう一度吸い込んだ。
今度は、鼻から。肺の奥まで、青い空が流れ込んでくる気がした。
息を吐くとき、彼は笑っていた。
涙が、頬を伝っていた。
窓の外を見ると、向かいのビルのベランダから、誰かがこちらを見ているのが分かった。
隣のマンションの窓も、次々に開いていく。
人々の視線が、一斉に彼の方に向けられた。
彼らの表情には、驚きと戸惑い、そしてわずかな怒りが浮かんでいる。
「なにやってるのよ、あの人」
遠くから、かすかな声が聞こえた。
「深呼吸なんて……非常識だ」
「環境への裏切りだ」
その批判のすべてを、神谷は、どこか現実感のないまま受け止めた。
彼らの胸は、相変わらず浅くしか動いていない。
誰も、空を見上げていない。
彼だけが、青すぎる空を見つめていた。
しばらくすると、通りの方から、サイレンの音が近づいてきた。
環境省のロゴをつけた小型ドローンが、窓辺に浮かぶ。
『呼吸税滞納および悪質な深呼吸を確認。これより、現地徴収手続きを行います』
機械的な声が、彼の耳元で告げた。
端末の画面には、「本日分呼吸残高 マイナス二万五千六百三十二息」と表示されている。
深呼吸二度で、それだけのマイナスだった。
彼は、苦笑した。
「思ったより、高くついたな」
ドローンから伸びたアームが、彼のカラーに接触する。瞬間、ひやりとした感覚が首筋を走り、カラーの点滅が止まった。
『神谷翔さん、あなたは本日付で「空気税破産者」に認定されました。これより、公共呼吸管理施設への収容手続きに移行します』
ドアの向こうで、インターホンが鳴る音がした。おそらく、監査官が到着したのだろう。
彼は、窓の外をもう一度見た。
空は、相変わらず青い。
さっきよりも、少しだけ、色が濃くなったようにさえ見えた。
隣のマンションのベランダに、小さな影が立っているのが見えた。
子どもだ。
その子は、神谷をまっすぐに見つめ、ためらいがちに、胸をふくらませた。
ほんの少しだけ。
浅い、しかし彼らなりの「深呼吸」を真似しようとしているのかもしれない。
すぐに、その背後から大人の手が伸びてきて、子どもを部屋の中に引っ張り戻した。
窓が、勢いよく閉まる音が聞こえる。
神谷は、もう一度だけ、ゆっくりと息を吸った。
今度は、ごく普通の、日常の一息だ。
だが、それさえも、これから先は許されなくなるのだろう。
インターホンの音が止まり、ドアが開く気配がした。
背後で、誰かが彼の名前を呼んでいる。
それでも、彼は振り返らなかった。
ただ、空を見ていた。
初めて自分の意思で選んだ「無駄な呼吸」が、胸の中に残っている。
それは、税金では買えない感覚だった。
連行される途中、廊下の掲示板に、環境省の新しいポスターが貼られているのが目に入った。
『次のステップへ。未来のために、「思考税」の導入を検討しています』
そこには、笑顔の子どもと透き通る空が並んで描かれていた。
「今度は、何回考えたら、課税されるんだろうな」
神谷は、小さくつぶやいた。
その声は、誰にも聞こえなかったが、廊下の空気だけは、わずかに震えた。
外の空は、相変わらず、以前より少しだけ澄んでいた。




