間話 追悔
1
琢真はお祖母ちゃんっ子だった。
今でこそ母親は専業主婦になっているが、琢真が幼い頃は共働きしていた。なので必然的に幼い琢真の世話は、当時一緒に住んでいた祖母が担っていた。
祖母は若い頃は厳しい人だったらしいが、祖父が亡くなり、息子が成長し、年をとってからは人が変わったように穏やかになったという。琢真が見た祖母はいつもにこやかに微笑んでいるような人だった。
琢真が学校のテストで悪い結果だった時も、琢真が学校で殴り合いの喧嘩をした時も、決して怒ることなく「そうかそうか」と笑ってその話を聞いてくれた。
祖母はいつも琢真の味方だった。
琢真が悪さをして両親に叱られた時にも、間に入ってそれを取り成してくれた。
自然、琢真は祖母に懐くと共に、祖母は自分が何をやっても許しくれる人間だと、そう誤解をするようになったのも、物心付いてからそう遠くない頃の事だ。
その思いを抱いたまま、琢真は成長していった。
まだ小さい頃はどこに行くにも祖母は付いて来てくれていたし、琢真も祖母の手を引っ張るようにして連れまわしていた。
祖母はそれにいつも「たっくんは速いね~~」と笑いながら、腰の少し曲がった姿勢で琢真に従っていた。
ただ年齢を重ねて徐々に学年が上がっていくにつれ、徐々にその存在が煩わしくなっていった。祖母は琢真の足についてこれないから思う存分遊べない、祖母といるのを友達に見られるのが恥ずかしい。そんな理由からだった。
その事を初めて告げた時、祖母がとても悲しそうな顔をしたのを、琢真は今も覚えている。正確には、今ならそれを思いやることができ、慙愧から自分の身を砕きたくなってくる。
だが当時の琢真は最初こそ気まずそうにしたものの、すぐにそれを忘れ、祖母を置いて友人と遊び回っていた。
そして、それから半年程経った頃だろうか。
学校で授業参観が行われた。
母親に来てくれるようにお願いしたが、今は仕事が忙しいから悪いけど祖母に行って貰う、と言って来てはくれなかった。ただ、なおも愚図る琢真を父親が叱ったので、渋々聞き入れた。
当日、自分の両親が来てくれているかとドキドキしながら待っているクラスメイト達を尻目に、琢真だけはそんな感情を持てないでいた。寧ろ自分だけ年老いた祖母なのが恥ずかしくて、来ないでくれと願ってさえいた。
しかし、琢真の願い虚しく祖母は現れた。余所行きの着物を着て、どの親よりも早く。
この辺の子供は、着物を着ている人を見る機会は今までなかったのか、突然現れたその着物姿の老婆に、誰もが驚いていた。今思うと、クラスメイト達の食い入るような視線は、老婆であることを馬鹿にしていたというのではなく、ただ着物が珍しくて見ていたのだと分かる。
だが、その時の琢真は恥ずかしさに襲われ、クラスメイトの誰もが老婆を、強いては自分を馬鹿にしていると思い込んでいた。
授業は無事に終わった。
祖母は琢真に話しかけてくるような事もなく、その老婆が自分の祖母である事も特定されるような事もなかった。そのまま学校は終わり、保護者会が教室で行われていた。
正直助かった、と琢真は思った。これでいつも通りに明日が始まると、意気揚々と家に帰った。
その下校途中、校庭で一人のクラスメイトとバッタリ会う。そいつは大人しく運動神経も鈍いため、クラスでもあまり目立たない、そんな少年だった。家はわりと近い為遊んだ事もあったが、最近はあまり自分から話しかけたりしていなかった。
ただその時は、気分が良かったので「何しているんだ」と声をかけた。
その少年は母親を待っているのだと答えた。面倒だけど一緒に帰る約束なのだと。
その言葉に、晴れていた気分が突然に曇っていった。
恐らく琢真は、この目立たない少年にも両親が来てくれていた事に嫉妬したのだろう。その為琢真は、はにかむ様な笑みをうかべていた少年を、突き飛ばした。
少年はその衝撃で倒れこみ、何が起こったのか分からないという表情を浮かべていた。それを見て更に苛立ちは募ったが、その場では何もせずにそのまま家に帰った。
次の日から、琢真のその少年への嫌がらせは始まった。
と言っても、靴を隠したり、教科書に落書きしたり、殴ったり、そういう事はしなかった。琢真がした事は、皆で遊んでいる時にそいつだけ混ぜてやらない、というだけだった。
だが当時ガキ大将だった琢真の影響力とでも言うのか、徐々にその少年と遊ぼうとする人間は減っていった。やがて少年が教室で一人ポツンとしているのを何度か見かけ、琢真は満足だった。
特にそうなる事を予想して始めたことではなかったが、自分の力が強くなったような気がして嬉しかった。
なので、その自分の強さを誰かに話したいと思い、家に帰って祖母に話した。
最初は久しぶりに孫が自分に話しかけてくれた、という風で喜んでいた祖母だったが、琢真の話を聞くにつれて表情は曇っていった。
琢真はこの時本当に、祖母は「たっくんは凄いね~~」と称えてくれると思っていた。
しかし、琢真に向けられたのはそんな称賛の声ではなく、今まで聞いた事のない厳しい叱責の声だった。いつも浮かべていた笑顔は見る影もなく、険しい鬼の様な表情を浮かべていた。そして一度だけ頬を張られ「謝っておいで」と厳しい口調で言われた。
突然の祖母の変容に琢真は驚いていたが、徐々に持ち直すとそれには従わず何か祖母に怒鳴って部屋に閉じこもった。
驚いていた。あのいつも自分に優しかった祖母が、あんなにも怒る事があるとは夢にも思っていなかった。祖母は何があっても自分の味方で、自分を何より可愛がってくれる存在だとばかり思っていた。
なので祖母に殴られた事は、物凄い裏切りに感じていた。
完全に逆切れだが、琢真は冷静になる事は出来ず、祖母に対しての理不尽な怒りを抑える事は出来なかった。
後に聞いた話だが、祖母はこの後菓子折りを持って、その少年宅に頭を下げに行ったらしい。余所行きの一張羅を着て。
ところが少年は、琢真が思っていた程琢真のしたことを気にしてはいなかったらしく、親にも誰にも自分がそういう風にされている事は言ってなかったので、突然現れた老婆に家族皆で驚いてしまったと言う事だった。
少年の母親は事情を聞いて、「本人が特に気にしていないので気にしないで下さい」と苦笑しながら言ったそうだ。自分の息子の図太さに呆れていたのだろう。
その言葉を聞いて、祖母は深々と頭を下げると少年に「ほんに強い子やねえ」と優しく頭を撫でながら微笑んだと、成長した少年は感慨深げに言っていた。
少年に対しての悪感情はもう既になく、琢真の中にあるのは自分を裏切った祖母への怒りだけだった。
そのまま、祖母と口を聞くことなく一ヶ月程が過ぎた頃――――ある日突然祖母が倒れた。
第一発見者は、近所の主婦だ。
夕飯の買い物で買い忘れたモノを買いに行こうと商店街へ向かった帰り道に、家の前で倒れている所を発見したらしい。祖母は声をかけても返事はなく、苦しそうに呻くだけだったと言う。
その時琢真は、外で遊んでいた。夕飯の時間が近づき一人二人と帰っていく中、一人最後まで残って夢中になって遊んでいた。だからきっと、祖母は夕飯時になっても帰ってこない琢真を、心配して探しに行こうとしていたに違いなかった。
連絡を受けて会社から帰ってきた両親と一緒に、病院に向かった。
琢真は特に何も思っていなかった。そんな深刻な話だとは思っていなかったのだ。
だがそんな琢真を嘲笑うかのように、事態は深刻だった。
――――末期癌だったらしい。
既に体中に転移してしまっていて手の施しようがない、と医師は言った。
今まで普通に生活していたのが不思議だと、驚いていた。ずっと凄い痛みに襲われていたのに違いないのにと。
今にして思う。
琢真が祖母を敬遠せず、ずっと近くにいたら結果は違ったんじゃないだろうか、と。祖母の体のサインに気づけたのじゃないだろうか、と。
その事を改めて後悔した時には、もう全てが遅かった。
だが、当時の琢真は頭を捻っていた。驚愕し言葉を失くした両親とは違い、琢真はその医者が何を言っているのか解らなかったのだ。
「どういうこと?」と無邪気に尋ねる琢真に、ただ悲しそうな目を向けてくるだけで、両親は何も答えてくれなかった。
それから暫くして、母親が長期休暇を取った。
琢真は最初はそれに喜んだ。母親が自分といつも一緒に居てくれるというのが新鮮だったからだ。しかし、蓋を開けてみれば、母親は祖母の世話に病院に行ったきりで、琢真と顔を合わせるのは面会時間が過ぎた後で、琢真としては今までと何も変わらなかった。
その事に不満を覚えていた為、琢真は母親に催促されても一度もお見舞いに行かなかった。裏切りの事もあったからだ。
そのまま時が過ぎ、ある日両親が琢真を居間に呼んで真剣な顔で話を始めた。
その話が行われたのは、祖母の余命一ヶ月が告げられた日の夜の事だったらしい。以前、家を大掃除した時に出てきた祖母の遺品を見て、当時を思い出すような様子で母親が教えてくれた。
両親はもうすぐお祖母ちゃんと会えなくなるから、顔を見せに行ってあげてと真摯に琢真に語りかけてきた。お祖母ちゃんも凄く会いたがっているから、と。
両親は、一度も『死』という単語は使わなかった。恐らくそれを言うと、差し迫った事実を突きつけられる様で嫌だったのだろう。
流石に、頭の悪い琢真もこの時ようやく気づいた。祖母が死んでしまう、という事に。
その事に思い至った時、体は緊張し足は震え立つことも儘ならなかった。
母親はそんな琢真の様子を見て泣きそうな顔で、そっと抱きしめてくれた。親父はただ黙して、琢真を見つめていた。
次の日、母親に連れられて祖母の見舞いに行った。もう残り、数えられる程度しか行えないお見舞いに。
実際に会って、何を言おうかずっと考えていた。
学校の事、少年の事、好きなテレビ番組の事、そしてずっと無視していた事。色々な話せる材料が頭に浮かび――――愕然とする。
昔は何かある度に祖母に話をしていた為、祖母に話していない話題なんて殆ど無かった。それくらい祖母に何でも話していた。なのに、今はこんなにも話せる材料がある。その事が、琢真に痛切に現実を教えたからだった。
そんな思いの中、ともかく今までの事を謝ろうと、そう決めて病室に入った。
しかし、久しぶりに祖母の姿を見た瞬間。琢真は逃げ出していた。母親の静止の声に、振り返る事なく。
怖かった。物凄く怖かった。
元々痩せていた祖母が更に痩せ細り、皮と骨だけになっているその姿を見て、初めて『死』の気配を感じたのだ。『死』とは一体どういうものかが、解った気がした。
脇目も振らずそのまま病院を抜け出し、ただ闇雲に走っていた。走る事で、今見た光景を全て置き去りに出来るとでも言うように。
気づいた時には、公園に居た。
そのまま公園のブランコの所まで歩き、そこに座る。ゆっくりとブランコを揺らしながら、必死に脳裏の光景を振り払おうとする。
だか染み付いたソレは中々消えずに、いつしか絶叫していた。大声で叫べば、全て声と一緒に出て行ってくれると思ったのだ。
――――琢真が莉理と初めて話をしたのは、そんな時の事だった。




