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振り返った琢真の視線の先には、琢真と莉理の姿があった。
もっと正確に言えば、小学生の頃の琢真と莉理の姿だ。その少女は餓鬼の琢真の手を掴んで、真剣な表情で咎める様に見つめていた。
その餓鬼は、少女に掴まれた手を必死に振りほどこうともがいている様だった。だが少女はそんな猛烈な拒否にも全く手を緩めようとはしないまま、まるで叱る様にその餓鬼を諭していた。
『だから……逃げちゃ駄目だよ! 絶対に今逃げたら駄目だよ!』
『うるさい! おめーには関係ないだろ!!』
餓鬼は吠えるように彼女を威嚇する。
鬼気迫る形相だったが、どこか僅かに不安が見え隠れしている。
『うん、私には関係ないよ……。でも、それじゃきっと、芳垣君が自分のこと嫌いになっちゃうのは分かってるの!』
『黙れ! 何でそんな事がお前に分かんだよ!!』
琢真が心の中で思った台詞と全く同じ台詞を、その餓鬼は吐いた。
自分を呼び止めた少女に飛びつく様にして、両手で思い切り突き飛ばしながら。
彼女がどんな思いでその台詞を告げているか、その時の餓鬼は全く知らない筈だったが、全てを知っている今の琢真からすると、慙愧に耐えない。
『分かるよ!! 私も……私も同じだもん!!』
少女は身を転ばせ膝をすりむいていたが、そんな自分を全く省みずに、餓鬼に訴える様に言った。
少女の独白に、餓鬼は僅かに心を乱したようだった。
『だから分かるの! 自分が嫌いで嫌いで、大嫌いになって……』
少女はゆっくりと立ち上がりながら、ピンクのリストバンドを付けている自分の手首を、そっと隠すように押えた。だが言葉に詰まったのは一瞬の事で、再び強い光を帯びた目を餓鬼に向ける。
『だから、だから今逃げるのは絶対に駄目!!』
『う、うるさいうるさい!! じゃあどうしろって言うんだよ!?』
怒りと悲しみで一杯になっている餓鬼は、その感情を扱いかねて瞳を潤ませながらも必死に声を張っていた。
『大丈夫だよ! 勇気を出したらきっと大丈夫! そしたらきっと全部上手くいくよ! 私も手伝うから!! だから…………』
少女はそう言って、小さな手を餓鬼に差し出した。
実際には全部上手くいったなんて事はなかった。絶対になくしたくなかったものを、なくしてしまう事もあった。
だけど――――
『一緒に、頑張ろう?』
その時のその言葉がどれほど欲しかったか、どれ程餓鬼を勇気付けたのか、彼女は知らないだろう。
その時のその言葉が支えとなり餓鬼の力となって、後に起こる全てに耐えられた事を、彼女は知らないだろう。
餓鬼は何の返事もしなかった。
その代わり、少女から差し出されたその小さな手を、まるで壊れ物を扱うかの様に手を震わせながら、そっと握り締めたのだった。
少女はその握り締めてきた手に満足そうに柔からく微笑むと、その手を引きながらもう一度餓鬼を……琢真の家まで連れてくる。
家の前まで来ると、餓鬼の手を引っ張り背中を押して、自分の前に立たせた。
途端に心細そうに振り向いた餓鬼に、少女は静かだが力強く言葉を掛ける。
『大丈夫だよ。だから……絶対に負けないで』
琢真を……琢真の家の方見つめながらそう言った後、再び餓鬼の顔をしっかりと見つめる。
餓鬼……少年は、顔を引き締めなおすと、今度は自分自身の確かな足取りで少女と共に家の中に消えていった。
それは、琢真の大切な記憶だった。
動悸が止まらなかった。
あの時と同じ場所に立ったのが原因だったのだろうか。何が切欠で突然思い出したのか分からない。
ただ、最後の言葉が、彼女の全ての言葉が、まるで今の自分に発せられているように琢真は感じた。
少女の最後の言葉によって、少年は最後には幼いなりにも男の顔をしていた。今、自分はどんな顔をしているのだろうか? そんな事を琢真は思う。
あれから何年も過ぎて、力もついて、体もデカくなった。あの頃と比べて、比較にならないくらいに成長し強くなった筈だ。
――――そう思っていた。
『……逃げちゃ駄目だよ! 絶対に今逃げたら駄目だよ!』
彼女の言葉を思い出し、
『学校を辞める事になっても決して悪くないな』
ついさっきまで考えていた自分の結論を思い出す。
どう考えても逃げだった。現状に押され、逃げ回っていたあの頃の最初の自分と全く同じだった。
自分はまだ、何も出来ていない。何も彼女に返せちゃいない。
それなのに――――
『そうだ、これ以上は考えなくていい』
見捨てようとしていた。
修司達がいるから自分は何もしなくて良いと、自分に言い訳までして。
『分かるよ!! 私も……私も同じだもん!』
少女はあの時、自分の身を切られるほどの痛みを感じていたに違いない。自分の過去を、再び思い出させられるような出来事だった筈だからだ。
なのに少女は逃げなかった。逃げないどころか、琢真の手助けまでしてくれた。
どれ程の強さを持っていれば、そんな事ができるのか。
(……いや違う。そうじゃない)
『大丈夫だよ! 勇気を出したらきっと大丈夫! そしたらきっと全部上手くいくよ!!』
彼女は、どんなことがあっても大丈夫な強さを持っていた訳じゃない。ただ、彼女は決して引いてはいけない所を知っていただけだ。
だから彼女は自分の中にある勇気を振り絞って、歯を食いしばって琢真を助けてくれたのだ。
『じゃが――――あの娘の事だけは……本当に頼む』
琢真は老婆の言葉を思い出す。老婆も彼女と同じだった。
老婆の予知が本当に正しいのか分からない。そんなものが可能なのかも分からない。なので、琢真は老婆を拒絶してしまった。
だが、老婆はそれでも決して今は引いてはいけない所だと知っていたのだろう。琢真に非難されて罵倒されても、それでも頭を下げた。
自分も感じていたのではなかったか?
『いつか大変な事が起こる』と、直感で感じていたからこそ、老婆に話を聞きに行ったのではなかったか。そんな引いてはいけない事だとを感じていたのにもかかわらず、些細な事でそれを見失い、琢真は最後まで意志を貫けなかった。
彼女の身に百パーセント危険が起きるかどうかなんて事は問題じゃない。
彼女に危険が起きるかもしれない。ただそれだけで、琢真が体を張る理由は十分な筈だったのに。
(俺は――――)
どれ程馬鹿なのだろう。どれ程愚かなのだろう。
自分は今間違いなく、とんでもなく醜悪な顔をしているに違いなかった。あれからデカくなったのは体だけで、心はまるで成長できていない。
あの頃の少女にはもちろん、少年にさえ達していなかった。
琢真はまだ莉理に何も返せていない。それどころか、あの時の礼さえ、まだ莉理に伝えられてない。
『彼女を護る』と、あの夜誓った筈だ。
『必ず護ってみせる』と、つい昨日も誓った筈だ。
そして、『俺が絶対助ける』と、あの時誓った筈だ―――――
「ああああああああああああああああああああああっ!!」
琢真は自分の底から湧き上がった衝動に抗うことなく、そのまま感情に従い、叫び声をあげながら自分の頭を家の塀に激しく打ち付けた。
(俺はっ!)
一度では足りずもう一度。
(俺はっっ!!)
更にもう一度。
(俺はっっっっ!!)
四度目の一撃で、視界が赤いカーテンで覆われた。だが気にせず更に打ち付ける。何度も。何度も。
痛い。堪らなく痛い。痛いが、止められなかった。
そのまま打ち続けて、血塗れになり、意識が暗転するまで続けようと、更に大きく振りかぶったその激情は、
『――――有難う』
その記憶の中の言葉が脳裏に浮かんだ事により、ようやく静まった。
それは一体誰の発した言葉を思い出していたのか……琢真自身にも分からなかった。しかし、琢真への惜しみない感謝と優しさに溢れていたソレが、琢真の自虐を押し止めたのだった。
額から垂れ流れる血液は、瞼と言う堤防を決壊させ目の中に入り込んで、そのまま涙と共に顎先へ押し流されている。
その涙は果たして、異物が流れ込んだ事による体の反応で流れているのか、痛みによるものなのか、それ以外の理由で流れているのかは琢真には分からなかった。
ただ、この胸を覆いつくす郷愁に似た感情が、琢真に徐々に冷静さを取り戻させていった。
(……もう迷わない)
血で襟元が赤に染まっていたが、痛みは全く感じなかった。
どころか意識が徐々にクリアになり思考が洗練され、体はどこまでだって走り続けられそうな程活力に溢れ、何より不退転の意志が琢真を強く包み込んでいた。
(今度こそ俺は)
琢真は成長した少女を、莉理を、例え自分に何があろうとも今度こそ決してぶれたりせず最後まで護ると、幼き日の自分に、幼き日の少女に、そして――に、固く誓った。