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『火曜日』
今日は珍しく莉理の登校が遅かった。
と言っても、莉理自身の問題ではない。彼女はいつも通りの時間に家を出ていたのだが、道中に道に迷っていた人と遭遇し、親切にもその人を目的の場所まで送り届けていた為だった。
生憎まだ大通りに出る前だったので、琢真はそれを手伝う事が出来ず、後方の物陰で様子を見守るだけに努めていた。
いつもとは違う出来事に、何か起こるのではと緊張したものの、特に何事も無く学校へと向かう事が出来た。
大通りに出ると、既に登校している生徒は疎らで少し早足で向かったほうが良い時間帯だった。莉理もそれは分っている様で彼女なりに早足で進んでいたが、校門を抜ける頃には遅刻ギリギリという時間になっていた。
琢真は玄関で莉理に追いつき、偶然を装って挨拶する。白々しくも「今日はどうしたの? 遅いね」という言葉をかけながら。
莉理は恥ずかしそうにしていた。しかし、先程の事は言おうとせず「ちょっと色々あって」とはにかむだけだった。
そんな莉理と肩を並べて教室へ向かう。
二階とは言え朝からの階段はきつい。特に運動があまり得意ではない莉理はかなり辛そうだった。
ただ何とか、チャイムの鳴る前に教室の前の廊下に辿り着く事ができ、二人で「良かった間に合ったね」と微笑み交わす。
いざ中に入ろうとして、どうも教室がいつも以上に騒がしい事に気付いた。クラスメイト達の何事か、怒鳴りあうような声が外に漏れてきている。
二人して怪訝そうに顔を見合わせながらも、ゆっくりと教室のドアを開いた。
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開いた瞬間、皆急に黙り込んでしまい、教室の外まで漏れていた騒音も一気に静まった。それと同時に、クラスメイト達の微妙な視線が莉理、そして琢真を貫く。莉理には何か気遣うような視線で統一されていたが、続く琢真への視線は複雑さに彩られていた。
その大部分たるものが、一言で言えば警戒。そんな表情からの視線だった。その他は、嘆き、怒り……何れにせよ良い感情からの視線では決してなかった。
それらは、主に女子生徒達から向けられていた。男子生徒達は皆一様に戸惑っている様な、そんな表情だった。
「な、何だ?」
朝いきなりそんな視線を向けられては、当然浮かぶ疑問である。
その琢真の問いには誰も答えようとはせず、視線を強くするだけだった。
莉理も琢真も、驚きから教室のドアの所で立ち止まってしまっていた。異様な雰囲気に飲まれ、一歩も動けない。そのまま、暫し時間が経過する。
彼らがこんな目を向けてくる理由がピンと来ず、琢真は愛に事情を尋ねようと思ったが、残念ながらまだ登校していなかった。仕方なく、琢真は心配そうに自分を見つめていた金子に「どうした?」という視線を送った。
「あ……いや、その……」
金子は口ごもるばかりで、明快な答えを返してはくれない。
続いて吉田、山口に視線を送るも、同様の反応が返ってくるだけだった。
よく分らなかったがそのままでいてもしょうがないので、琢真は自分の席に移動しようとする。だがそれは、意を決してという態で近づいてきた高橋によって止められた。
「待ちなよ、芳垣」
高橋は琢真に近づいてくると共に、傍にいた莉理の手を掴んで自分の背後に隠すように引いた。
「きゃっ、ど、どうしたの那奈美?」
莉理は焦ったように声を上げる。高橋はそれには答えず、ただジッと睨むようにして琢真の顔を見上げた。
「どうした? そんな怖い目をして」
「…………これ、どういうこと?」
琢真の問いにも答えず、ただある数枚のA4用紙を教卓の上に叩きつけた。
(何だよ……)
と思いながら、琢真は視線をそれらに移し――――時が止まった。
恐らく携帯か、デジカメで隠し撮りしたのだろう。A4サイズの紙に印刷されたそれには、二人の人間の姿が写されていた。
被写体はブレており、ハッキリとした詳細までは捉えられていない。しかし、琢真にはそれらが誰なのかは一目で分かった。
それには、莉理の後をつける琢真の姿が写されていたのだった。映っている服装で、ここ数日間の写真であることが分かった。
ただ一枚だけだったら、偶々同じフレームに入っただけという事も言えただろうが、場所も違い、服装も違う。そんな何枚もを見せられては、誰もが同じ結論に辿り着くに違いない。
――――琢真が莉理をストーカーしている、という結論に。
莉理の顔はブレている割りに比較的ハッキリ映っているものもあったのだが、琢真のものはかなり遠目から撮影されいるようで、親しい者でない限り、顔を判別するのは難しいだろう。
だが、このクラスには琢真の親しい人間の大部分が集まっている。ようやく琢真はクラスメイト達の視線の意味が理解できた。
琢真はまず莉理の様子を伺った。
彼女も同じ見解に達したのか、驚愕の表情で息を呑んでいる。ましてや、自分の顔が盗み撮りされているのだ。衝撃は決して少なくない事だろう。
だが、琢真にはそんな彼女を心配する暇は与えられていなかった。高橋が再度同じ質問を投げかけてくきたからだ。クラスメイト達も一人残らず、同じ事を問い正したいという目で琢真を見つめていた。
「今朝教室の黒板に貼り出されていたらしいんだけど………どういうこと?」
不思議と琢真は落ち着いていた。
こういった時の為に、何とか誤魔化し通せるような策もいくつか考えていた。しかし、この写真の前ではどの策も全く意味の無いものになっていた。
なので余計に慌てても良さそうなものだったが、これは焦りが限界を超えたという事なのだろうか。ならば、少しでも長くこの心境でいたいものだと、琢真は思っていた。
そんな超然としている琢真をどう捉えたのか、少し怯えるような色を僅かに覗かせて、もう一度高橋が質問した。
「なあ、どういうことなんだこれは? ここに写ってるのは芳垣……だよな?」
質問してはいるが、恐らく高橋にも分っているんだろう。この写真に写っている男が誰なのかということは。
琢真のクラスメイト達は他所のクラスと比較して、格段にクラスメイト同士の仲が良い。同性同士だけではなく、異性間でも。もちろん、それでも喧嘩したりすることもある。ただそういった場合、直ぐに誰となくそれを取り成してくれるために、関係が悪化する事もなく寧ろ仲が深まることに繋がるほどだった。
でも、だからこそだろう。琢真を疑いながらも、何か理由があるのではないかと、最後まで信じようとしてくれている。
だからこそ、琢真もそんなクラスメイト達に嘘をつくことは出来なかった。
「……ああ、そうだな」
息を呑む声がクラスメイト達から聞こえてくる。
彼らは何も言わずに高橋から続いて発せられるだろう質問を待った。琢真も次に何を聞かれるかは既に分かっていた。
「……何でこんなことしてたんだよ?」
当然の質問だった。
だが琢真も当然。その質問に答えることはできない。今本当のこと――予知のことを告げても、逆に猜疑心を深めるだけだ。
そのまま黙って答えようとしない琢真に、高橋は苛立ちの様子を見せ始める。
「何で黙ってるんだ?」
「…………」
「……じゃあ、一体いつからこんな事をしていた?」
その質問も、問い続けられると予知の事に繋がっていくのが分かったので、答えることは出来なかった。
だが、そんな葛藤などは知る由も無いクラスメイト達には、それが琢真のやましさに繋がっていると考えたのだろう。高橋を始めとする……それまではずっと黙っていたクラスメイト達も徐々に憤りを露にしていった。
「……何で答えられないんだ!? 答えられないって事は何か本当にやましい事があるって事じゃないのか!?」
「今までずっと藍田さんを、そういう目で見てたの!?」
「最低! 莉理の事を監視していたのはアンタだったのね!!」
「みんなの事をずっと騙していたのっ!?」
「まさか覗きとかしてないでしょうね!?」
一度決壊したら歯止めが利かなかったのか、次々に怒声、罵声を浴びせられる。
悲しかった。が、これらも皆莉理のことを思って言っているのだということを考えたら、何とか耐えることが出来た。
それらの言葉を一身に受けながら、琢真はゆっくりとクラスメイト達の様子を見回す。
高橋も、田中も、女子達は殆どが莉理に同情し、琢真を非難していた。
男達は特に何も言ってはこなかった。ただ、皆何か言いたそうな、そんな表情で琢真を見ている。特に琢真と仲の良い金子達は、琢真以上に悲痛な顔をしていた。琢真には何も言う事は出来ないので、ただ心の中で彼らに謝罪した。
一通りの罵声が浴びせられ僅かな間断できた時に、ポツリと声が掛けられた。
か細い声だったが、皆その人物に注目し一様に押し黙る。
「芳垣君……どうして?」
莉理の悲痛な声が琢真の耳を打つ。
他の誰から罵倒されても、怒鳴られてもそれはそのまま受け止めるだけの覚悟はあった。だが、彼女だけは例外だった。彼女の悲しげな声が、琢真の意志を根元から揺さぶっていた。
そして思い至る。
自分は彼女を悲しませないため、不安にさせないためにこんな事をしていたんじゃないのか、という事。
その自分が、今誰よりも彼女を苦しめている、という事。
だとしたらこの茶番劇は一体何なんだ、という事。
そして――――
「…………あ」
彼女に対して、無意識に何か言い訳じみた事を言おうと言葉が溢れ出しそうになる。琢真は寸前のところでそれを堪えた。一体何を言うつもりだったのか、自分でも分らなかった。思わずそうしようとした自分の弱さがたまらなく嫌だった。
そのままクラスはシンと静まり返ってしまう。
誰も一言も発しない。だが、非難の視線だけは鋭く琢真に深々と突き刺さっている。
唐突に静寂は破られた。
締められていた教室の扉が乱暴に開け放たれた音だった。同時に池山が中に入ってくる。
池山は何も言わず教室の中の生徒達を見回して、その中に琢真の姿を捉えた。途端にその表情が厳しさで覆われる。
「……芳垣。ちょっと話がある。一緒に来い」
タイミング的に、理由は明白だ。話がどこからか池山に漏れたのだろう。もしかしたら他の教師達にも。
クラスメイト達は話が大きくなりそうな予感を感じたのか、皆どこか戸惑っている様だった。
いつもの馬鹿騒ぎの騒動とは違う。ここで逃げ出すと、自分にとって最悪の事態が待ち受けている事は容易に想像できた。
「琢真君……」
金子だけが心配そうに話しかけてくる。それに何も答えられないまま、琢真は池山に連れられて教室を出ていった。