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リミット  作者: 過酸化水素水
3章 ストーカー
26/61

(10)

 

   15


 琢真は莉理の母親の顔を小学校の頃に何度か見たことがあったので、既に知っていた。

 当たり前かもしれないが、莉理と彼女の母親は顔立ちが似ている。ただ莉理が物静かな印象を与えるのに比べ、母親の顔は派手……と言うと言葉が悪いが、どこか華やいだ印象を受ける。

 琢真は変質者に間違われ、警察を呼ばれたりしないか気が気でなかったが、相手の事を知っていたのは向こうも同じだったらしい。

 琢真の顔を見るなり、額に手を当ててじっと目を瞑り暫し何事かを考え込んだ後、ハッと目を開けるとポンと手を打った。

「君確か、莉理と同じ小学校だった……えーーと」


 そこまでは思い出したらしい。ただ、どうやら琢真の名前は覚えていないようだ。莉理の母親はそのまま考え込んでしまった。

 琢真と莉理が同じクラスだったのは小学校でも一・二年生の間だけだった。それ以後は今の学年になるまで一度も同じクラスだった事はない。その為彼女の母親とは会う機会もなかったので、琢真の事を覚えてないのも無理はない。琢真も当時一方的に見ただけで、特に顔を合わせたりはしていなかった。なので寧ろ僅かでも記憶に残っていることの方が奇跡だった。

「あ、よ、芳垣と申します」

 そのまま考え込ませておくのは忍びなかったので、琢真は自分から名乗る。

「ああ、そう! 芳垣君ね! そうそう、そうだった!」

 母親の声に喜色が浮かぶ。意外にも琢真の名前は頭のどこかに残っていたのか、嬉しそうに声を上げてくれた。


 一方、琢真は何と言えばいいか言葉に詰まっていた。息は大分整ってきたものの、全身汗まみれの男が塀にもたれ掛っていたのだ。怪しまれないと考える方がおかしい。意外にフレンドリーだった様子に緊張が解れていたのも僅かな時間の間で、再び琢真の動悸が激しくなってくる。

 だがそんな琢真の焦りとは関係なく、母親はフレンドリーさを維持したまま笑顔を浮かべた。

「大きくなったわねえ……見違えたわぁ」

 そう言って、汗に汚れているのにも構うことなく、琢真の肩をポンポンと数度叩いてきた。莉理と比べて、かなり明るく気さくな方だった。

 照れくささと緊張で、琢真はアガッてしまっていた。

「今は、どこの高校に行ってるの?」

 どうやらその事は娘からは聞かされていないらしい。

 琢真は少しショックだったが、まあそれも当たり前だと思い直し、同じ高校に行っていることを告げた。ただ、同じクラスだという事は伏せておいた。

 それに特に何か意味があった訳ではない。何となくだった。

「まあ、そうだったの! あの子ったらそんな事をちっとも言わないで……」

 残念ながら特別親しいという訳でも無いので、莉理が強いて言う事でも無いだろう。琢真はそれが悲しくもあったが、それを知らない風な母親の憤りが面白くもあった。

「それで今日はどうしたの? あ! あの子に用事?」

 いえ違います、と言いかけて、彼女の在宅を知る絶好の機会だと思い直した。あいまいに返事はぼやかしたまま、琢真は莉理が家に居るかどうかを尋ねた。


「え? うん、さっき外から帰ってきて、今部屋に居るわよ?」

 母親はあっけらかんと告げる。

 それを聞いてようやく緊張が解け、琢真をどっと安心が襲ってくる。そのあまりの襲撃に気を張っていた足が力を失い、思わずその場に崩れ落ちてしまう。

(良かった……本当に良かった)

「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」

 突然しゃがみ込んだ琢真に、母親が心配そうに近づいて顔を寄せる。

「い、いえ、何でもありません。ちょっと足がもつれただけなんで……」

 十分に回復したとは言えなかった。琢真はそれでも何とか立ち上がり、笑顔に努めた。

「そう。良かった。気をつけてね」

 琢真の言葉を特に怪しむことなく、莉理の母親はそのまま信じてくれたみたいだった。

 それにホッと胸をなでおろし、とりあえずこの場を去ろうと口を開きかけたが――――

「じゃあ、折角なので上がっていく? ちょっとあの子呼んでくるわね」

 という言葉によって、僅かに開いた琢真の口の隙間から「あえっ!?」という奇声が漏れ出た。

「い、いえ。も、もう自分は帰りますから!!」

 家の中に戻ろうとしている母親に声を掛ける。しかし、「気にしないでいいのよ」と言うだけで行動を止める事はなかった。

 家のドアを開いて「莉理~~」と大きな声で呼びかけている。


(ま、まずい!!)

 琢真の口からは泡……ではなく「あわあわ」という意味不明な声が漏れていたが、そんな場合では無い。事態はもう一刻を争う。 

「ほ、本当に結構ですから、すみません!! し、失礼します~~!」

 足がどうとか、体がどうとか、言っている場合ではなかった。

 残りの力を振り絞り、まだ家の中に呼びかけ続けている母親にそう一方的に告げる。琢真はこちらを呼び止める声を無視して、振り返る事無く坂下に向かって駆け下りたのだった。

 僅かの後そんな琢真を咎めるかの様に、遠くからあのドーベルマンの猛烈な吠え声が聞こえてきていた。


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