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「……んあっ!?」
何か物音が聞こえたような気がして、琢真は静かに目を開ける。
とても嫌な夢を見ていた気がする。そのせいか、寝汗でTシャツがじっとりと濡れていた。気持ち悪さに辟易する。ゆっくりと琢真が立ち上がると胸の上に置かれていたらしい漫画が、どさどさと地面に落ちた。
それを拾い上げながら辺りを見回すと、寝る前に見た様子とは異なり人影は疎らで、その人達も席を立とうとしているようだった。
上がり調子のチャイムが鳴り響き、童謡をBGMに校内アナウンスが聞こえてくる。
『当館はまもなく閉館いたします。まだ館内にいらっしゃるお客様は――――』
そこまで聞いて――――琢真は唐突に意識が覚醒した。
(しまった!! 藍田さんは!?)
慌てて莉理が座っていた場所を見る。もうその付近には誰もいなかった。
「まじいっ!!」
寝起きと緊張で頭が全く回らなかったが、ともかくまず急いで外に出ることにする。
「すみません! これ頼んますっ!!」
手に持っていた数冊の漫画を棚に戻している時間も惜しく、見回っていた職員に強引に押し付ける。琢真の形相に恐れたのか、その女性職員は圧されたような表情で何も言わずコクコクと頷いた。
そのまま走って外に出る。同じく外に出ようとしている人達の中に彼女の姿がないか見回す。だが、この中には居ないようだった。
急いで駐輪場に回り込み、莉理の自転車がないか探る。
今置かれているのはママさん自転車と子供用の自転車が殆どで、それ以外は黒色のものばかりだったのでこの中にはないと判断した。莉理の自転車が何色だったかは注視してなかったせいで琢真は覚えてなかったのだが、彼女と黒色の自転車のイメージがつかなかったからだ。
(くそっ! どうすれば…………っと、そうだ! 誰かに電話で確認して貰おう!)
自分で直接掛けられたら一番いいのだが、生憎莉理の番号は知らない。
誰かに助けを求めようと脳内検索を行った結果、愛に居場所を電話で聞いて貰うのが一番早いと考え至った。しかし、そのまま数分待っても愛は出なかった。コールするので電源は入っているはずだ。
焦りから汗ばんだ指先で何度もコールするが、一向に繋がらない。
「出ろよ!! 何やってんだ!?」
琢真は思わず携帯に向かって怒鳴ってしまう。
どうしようかと思案して、琢真は高橋に連絡することに決めた。高橋は琢真が番号を知っている数少ない女子の内の一人で、莉理とも仲が良い。彼女の番号を知らないという事はまず無いだろう。事情を説明しづらいという問題はあるが背に腹は変えられない。
が、高橋も愛と同様でコールするが繋がらなかった。その後に掛けた田中も同様だった。
「くそっ!! どいつもこいつも友人が大変な時に何やってんだ!!」
そんなことは皆預かり知らない事だというのは分かっていた。しかし、琢真は毒づくのを止めることも出来なかった。莉理の番号を知っていそうな人間の連絡先は、その三人以外には知らなかったからだ。
(やばい、どうすればいいんだ!?)
莉理の姿を見失ったという事が、琢真に最悪の事態を連想させてしまい、完全にパニックになってしまっていた。頭は真っ白だったが、琢真の手は無意識の内に、そんな時の参謀役にコールしていた。
『何だ?』
数コール後、修司の声が携帯から聞こえてくる。
「修司!! 大変だ、どうすれば!? 自転車なくて。藍田さんも居なくて!」
琢真は縋る様に思いを伝える。ただ、慌てていたため支離滅裂になっていた。
修司は一通り話を聞いてから、呆れたような声で『いいから、落ち着け』と琢真を窘める。
その言葉で少し冷静さを取り戻し、琢真は何度も深呼吸する。ようやく落ち着いてきたので、今の状況を修司に説明して助力を請うた。
『ふむ……。なら先ず藍田の家に行って、彼女の自転車があるかどうかを調べたらどうだ?』
確かに彼女が家に帰ってるのであれば安全だ。慌てるのはそれを確認してからでいい。
修司の話を聞いてそれしかないと思い込み、琢真は「そうする!」とだけ答え返事を待たずに携帯を切る。そして、莉理の自宅に向かって全力で走り出した。
14
図書館の敷地内を飛び出し、来た時のように駅まで出てなどと回り道をしないで、琢真は文字通り真っ直ぐ莉理の家を目指す。
この辺りは琢真の家も近く、自分のテリトリー内なので裏道は熟知していた。
ただ運動は得意と言っても、毎日走っている部活動生達とは違うため、直ぐに息が切れてしまう。周囲の気温の高さもあって汗が溢れ出し、既にTシャツ全体が水分を含んでしまっていた。
足も重たくなっているのを自覚していたが、琢真はそれでも足は止めなかった。莉理に危険が襲っているという想像が、頭の中から消せなかったからだ。
(もしそんなことになったら、俺の責任だ……!)
彼女を護るべき自分が眠りこけて見失うなんて、自分自身が許せない気持ちで胸が埋め尽くされる。だがその怒りも原動力となり、速度が落ちることはなかった。
(藍田さん……頼む無事でいてくれ!)
長い坂道を一気に駆け上がる。体の痛みも、酸素を欲する苦しみも、今は関係なかった。
そうして、ようやく彼女家の前に辿り着いた。
急に立ち止まろうとした為か、勢いを殺せず前のめりに倒れてしまう。すぐさま起き上がろうとするが、疲労から中々それが出来なかった。
とめどなく溢れる汗が、地面に水滴の雨を降らせる。
それでも琢真は塀に捕まり、よじ登るようにして何とか身を起こした。傍から見た今の自分の姿が如何に妖しいかなど、まるで思い至らなかった。
そうして彼女の家の庭を隅々まで見渡す。しかし、見える範囲には自転車は見当たらなかった。
車庫か? とも思ったが、朝は自転車を押して出入り口から敷地の外に出てきていたので、あるとすれば庭の筈だった。自転車の置き場をコロコロ変えたりはしないだろう。
場所が悪いのかもしれないと、塀を這うようにして移動し違う場所からも覗き込む。塀は琢真が真っ直ぐ立ってギリギリ中が見えるという位の高さだったので、疲れた体では思うように覗き込む事が出来ず、その事だけでも手間取ってしまっていた。
その為、ガチャリと音を立てて家のドアが開いて中から莉理の母親が出て来た時には、まだ自転車の存在を確認出来てはいなかった。
予期せぬ事態に我に返った琢真は慌ててその場を離れようとしたが、力の入らない足ではそれも叶わない。結果、塀の外に出てきた母親としっかり目が合ってしまった。
汗びっしょりに濡れた服を着て、息を荒げながら人の家の塀にもたれ掛っているという怪しい格好のままで。