道端の花束
朝は、いつもと同じはずだった。
駅へ向かう歩道橋の上に、軽く雲がかかる空。
信号のタイミングも、すれ違う学生の顔ぶれも、ベンチで缶コーヒーを飲んでいる老人も、いつもと変わらない。
イヤホンからは、流し聞きしているニュースアプリの音声が低く続いていた。
だけど、今日だけは、ほんの少しだけ違った。
それは、会社へ向かう途中の交差点を渡って、二つ目の電柱の根元。
普段は気にも留めない、ガードレールの内側。
そこに──花束が添えられていた。
一瞬、目を疑った。
次の瞬間には、すでに通り過ぎていた。
花束に目を向けたのは、ほんの数秒だった。
けれど、その数秒の間に、自分の中で何かが始まってしまったことに、すぐ気づいた。
白いカーネーションと、少しだけ赤いバラ。
花屋で売っているような包装ではなかった。
透明なビニールが雨に濡れて、少しだけくしゃりと曲がっていた。
その下には、紙コップの水と、缶コーヒーがひとつ。
誰かが死んだのだろうか──
でもそれは、あくまで“想像”だった。
もしかしたら、死ではない何か、別れや祈りや願いかもしれない。
でもそう考えながらも、体は勝手に「事故現場」や「突然の別れ」という言葉に近づいていってしまう。
そして、それに自分でも気づいている。
会社のタイムカードを押して、デスクに座っても、目の奥にその花束が残っていた。
モニターを見つめながら、仕事の数字を入力しながら、考えていた。
「なぜ、あんな場所に花を置いたのだろう」
「誰が、どんな気持ちで、あれを選んだのだろう」
「花は、今、何を思っているのだろう」
滑稽だと思った。
花に気持ちなんてあるわけない。
ただ、そこに置かれたまま、しおれていくだけだ。
でも、だからこそ余計に考えてしまう。
もし、あの花が、誰かのために選ばれ、誰かの手で結ばれたのだとしたら。
そこには、名前も顔も知らない「誰かの感情」が確かに存在していたことになる。
昼休み、ふとスマートフォンで「花束 路上 意味」と検索してみた。
出てきたのは、やはり事故現場の供養に関する記事だった。
だけどそれ以上のことは、当然ながら書かれていない。
誰が亡くなったのか。
何が起こったのか。
それは、わからない。
でも、何も知らないからこそ、想像が勝手に広がっていく。
高校生くらいの若者だったかもしれない。
あるいは、酔ったまま道路に寝てしまった中年か。
もしかしたら、自分と同じようにスーツを着て、毎朝通勤していた人かもしれない。
そしてそのどれもが、「自分ではなかった」という事実だけが残る。
他人の死や痛みを見つめるとき、なぜか人は自分を確認する。
「自分は今ここにいる」と。
そのことに、ほんの少しだけ罪悪感を覚える。
帰り道、意識していなかったのに、自然と同じ場所に目が向いた。
朝と同じように、花束はそこにあった。
朝よりも少しだけ風に吹かれて、ビニールがめくれかけていた。
隣に置かれた缶コーヒーには、結露がにじんでいた。
誰かが、そこに「生きていた」ことを残そうとしたように見えた。
電車に乗っても、その花のことを考えていた。
帰って風呂に入って、ビールを飲んで、テレビをぼんやりと眺めていても、思考の隅っこにずっと居座っていた。
そしてそのまま、眠りについた。
翌朝、同じ道を通った。
花は、まだそこにあった。
通勤の人々の流れの中で、誰も気に留めていないように見えた。
だけど、たぶん、誰かは目を留めている。
誰かはその意味を考えている。
自分のように。
人は、言葉を交わさなくても、同じものを見て、似たようなことを思う。
だけどその“思ったこと”は、誰にも言わない。
言わなくてもいいものとして、胸の奥にしまう。
そうして何日も、何週間も、何も起こらないふりをして歩き続ける。
やがて、花束は少しずつ枯れていった。
赤いバラは色を失い、カーネーションは崩れていった。
ある日、花束はなくなった。
誰が持っていったのか、あるいは風に飛ばされたのか、回収されたのかはわからない。
でも、なくなったことには気づいた。
その事実が、自分の中にぽっかりと空白をつくった。
人は忘れていく。
何もなかったかのように。
あの花があった場所も、やがて自転車が停められ、落ち葉が舞い、ふたたび「普通の日常」が上書きしていく。
けれど──
あの朝、視界の端に入った一束の花が、確かに自分のなかの何かを揺らしたこと。
それだけは、消えずに残った。
もし、花に思いがあるのだとしたら。
それは、そこを通った誰かひとりの中に、少しでも“何か”が残ることを願っているのかもしれない。
そう思いながら、今日も歩く。
変わらない町の、変わらない道。
でも、どこかで何かを拾ってしまうかもしれない自分を、
まだ手放せないまま。