95 声
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不覚を取りました。
まさか、予定していた電車に乗り遅れるとは……
「鎧戸君が、あんなChainを送ってくるのが悪いんです」
仕返しのつもりで、スマホをぎゅっと握ります。
……ダークドラゴンのトゲが刺さって、痛いです。
まったくもぅ、鎧戸君は。
今日は用事があると事前に伝えてあったので、挨拶もなく教室を飛び出しました。
途中、鎧戸君からネガティブな、ちょっと可愛らしいChainが届き、返信をしつつ靴を履き替えて校庭へ出ました。
そこで背中に物凄い視線を感じて振り返ってみれば、鎧戸君が教室の窓からこちらを見つめていて……
面と向かって可愛いとかいうから、少々照れてしまって……あっかんべーをしてみせたら、また可愛いって……わざわざChainで送ってきて!
「わたしは、急いでいると言っておいたはずですのに。……動揺して、速度が落ちるじゃないですか」
背を向けて足早に撤退をしたにもかかわらず、なんだか足元がふわふわして覚束ず、結局目的の電車に乗り遅れてしまいました。
この十二分のロスで売り切れていたら、鎧戸君には折檻です。
コンプライアンスが声高に叫ばれる世の中に逆行して重い折檻を受けてもらいます!
お尻ぺんぺんです。
まったく。
電車に揺られている間も、わたしはなんとなくカバンの中に潜ませたスマホを握っていました。
どうという理由はないのですが……手放し難く感じていたのです。
窓の外を流れる景色を見つめ、前にお店に行った時は、この辺に立って鎧戸くんとスプラッシュタウンのお話をしていたなぁ、なんてことを思い出していました。
短いトンネルに入り、窓の外の景色が不意に自分の顔に変わりました。
……何をニヤけているんですか、わたしは。
シャキッとしてください、わたし。
これから向かうのは、戦場なのですよ。
駅に着き、改札を出てお店に向かう。
人通りの多い大通りを避け、ひとつ奥の路地を行く。
結局、どんなに頭を切り替えようとしても、わたしの思考は上の空から舞い降りてくることはなく、電車の中で最短ルートと最適ルートの比較検証を行うというわたしの計画は見事にご破算になってしまったのでした。
……全部、鎧戸君のせいです。
賠償を請求します。
ネットで調べたところ、香川県の和三盆チョリッツというのがあるらしいです。
それを請求しましょう。
和三盆……きっと美味しいに違いありません。
わたしが賠償を請求すると、少しだけ困ったような顔をして、それでも笑って「しょうがないなぁ」なんてチョリッツを差し出してくる。
そんな顔を思い浮かべると、少しだけ、心がぽかぽかしました。
「しょうがないですね。今回だけは、特別に許してあげましょう」
ただし、和三盆チョリッツは徴収いたしますけれど。
おや、それでは許したことになりませんか?
いえいえ、わだかまりが残らないという点では、寛大な措置であると思います。
「では、和三盆チョリッツのお礼に、魔王デスゲートのフィギュアを鑑賞させてあげましょう」
きっと、そのクオリティの高さに驚き、感嘆し、咽び泣くことでしょう。
……しかし、そうなると。
「鎧戸君を、我が家に招く……ということになり、ます、ね」
どうしましょうか。
とりあえず部屋の大掃除は確定として、両親と妹にどう説明をしたものか……
へ、変な誤解とか、されないように、事前に釘を刺しておかなければ。
あと、お母さんがはしゃいで変なことを口走らないように、厳重に、それはもう厳重に注意しなければいけませんね。
やることが盛り沢山です。
本当に、もぅ……
「鎧戸君といると、退屈という言葉を忘れてしまいそうです」
脳内で「僕のせいですか!?」と驚く鎧戸君の顔を想像して、頬が緩んだ――まさにその時。
「来い!」
「……えっ?」
突然、知らない男性に腕を掴まれ、さらに奥の路地へと連れ込まれてしまいました。
え?
えっ?
なんですか?
何が起こっているのでしょうか?
というか、腕が痛いですっ!
乱暴はやめて――
「相手が悪かったな」
腕を振り払おうと力を込めると、それ以上の力でねじ伏せられ、その男性はこちらを向いてにやりと笑いました。
「あんたもう、普通の生活は送れねぇよ」
ぞわっ……っと、全身に鳥肌が立ちました。
人ではない、何か得体の知れないものが目の前にいる。
わたしの脳が警鐘を打ち鳴らします。
それでも、拘束された腕は振り解けず、足を踏ん張ってもずるずると引きずられ、恐怖で声が出せません。
ピンチです。
危機的状況です。
さらに悪いことに、路地の向こうに大きな車が停車するのが見えました。
アレはマズいです!
直感的に悟りました。
あの車に連れ込まれてしまったら、わたしはおしまいです。
尊厳や平穏といった、大切なあらゆるものが奪われ滅茶苦茶にされてしまう。
「離して……くださいっ!」
頑張って声を出そうとしましたが、恐怖で、喉が開きません。
アゴが震えて、うまく言葉になりません。
マズい……マズいです。
どうして、わたしが?
「相手が悪かった」とは?
ワケが分かりません。
意味が分かりません。
誰か……助けてくれる人は…………
『高名瀬さん』
その時、脳裏に浮かんだのも、やっぱり鎧戸君でした。
あぁ、どうして、わたしは今日一人で下校してしまったのだろう。
「お供しましょうか」という鎧戸君の申し出を断ってしまったのだろう。
鎧戸君がいてくれれば、こんな目に遭うこともなかったはずです。
鎧戸君がいてくれれば、こんなにも恐怖で身が竦むこともなかったはずです。
鎧戸君がいてくれれば……
鎧戸君……
「よろ、いどくん……っ」
音になりきらない、掠れた息が漏れました。
ライトバンのドアが開き、中から二人の男が出てきました。
絶体絶命です。
男一人にも抗えないのに、三人になったら為す術がありません。
鎧戸君、怖いです。
鎧戸君、助けてください。
鎧戸君、どうか、声だけでもいい、聞かせてください。
それだけで、わたしは勇気を奮い立たせることが出来そうな気がするんです。
鎧戸君……っ!
そんな祈りが通じたのか――
「高名瀬さぁぁああん!」
まるで教会の鐘の音のように高らかに、鎧戸君の声が空に響き渡りました。
その声は優しく、力強く、なぜか少し懐かしく感じて、わたしの胸の奥底から想像以上の勇気が湧き上がってきました。
「鎧戸くぅーーーん!」
おそらく、わたしの人生で一番大きな声で鎧戸君の名を叫びました。
突然大声を出したわたしの口を、男が乱暴に手で塞ぎます。
けれど、もう怖くはありません。
だって、鎧戸君なら……
「見つけた!」
ほら、きっとこうやって、わたしを助けに来てくれるって、分かってましたから。
自転車の後輪から煙を立ち上らせながら横滑りする鎧戸君の姿は、まるで白馬に乗った騎士のように見えて、少しですけど、カッコよかったです。