第九章「彼女から見える景色」①
文字通りトラウマになった鎮魂祭が終わり、数週間が経過していた。我々が予想していた通り、ベルトリン地区では小さな問題が起き始める。
深夜に貧困地区出身の者が窃盗をしようと元富裕地区を徘徊するという事件がチラホラ起き始めていた。想定していた範囲の問題だが、シールクさんが対応に当たっている事だろう。
そういったトラブルに私達は顔を出すわけにはいかなかった。なにしろ壁を消した魔法使いは白黒の髪をした若い女性という噂話が挙がってしまった手前、素性を隠して貰った私達が目立った事をするわけにはいかない、ただそれだけの理由だった。
あまり目立った行動をとれなくなった私達は、なんでも屋の看板を取り下げ、各々の仕事に集中する。ウェスさんのお手伝いが終わる年末までこの街で過ごす予定だった。
我々は若干歯がゆい時間を過ごしながらも、私は仕事、博士はウェスさんの研究の手伝いを続ける日々が続く。
私の仕事は夕方から夜間になることが増えたため、博士と言葉を交わす時間は自然と短くなっていく。明け方、宿に戻ると私はすぐに眠りにつき、11時前に起きると、コーヒーを飲みながら新聞を読む博士に挨拶をする。そんな日々が続いていた。博士は、ベルトリン地区の状況を相当気にしているようだった。
ある日の昼下がり、宿の一室には静かな空気が流れていた。外からはかすかに鳥のさえずりが聞こえ、窓の隙間から柔らかな日差しが差し込んでいる。部屋の中は少し古びた木の香りが漂い、ベッドの端に座っていた私は、その光を受けながら小さく息をついた。
博士はテーブルに置かれた新聞を眺めながら、コーヒーをゆっくりと飲んでいた。どういう訳か、今日はいつものクアッドテールではない。髪を結び忘れているのだろうか。
私がふと視線を落とし、ぽつりとつぶやく。
「私、博士と旅を始めてよかったと思っています」
博士が新聞から目を離し、少し驚いたように顔を向けた。彼女の大きな灰色の瞳が私をじっと見つめる。
「ナンデスカ、急に」
私は少しだけ笑い、窓の外を見つめた。透き通った青空が、今の気持ちを映し出しているようだった。
「ジェマニについてすぐの頃、私の友人の話をしましたよね?あの頃から私は世の中に期待しない……というか、好きになれないと思っていました」
博士は新聞を折りたたみ、テーブルに置いた。彼女の表情は変わらないが、その瞳には興味深そうな光が宿っている。
「好きになれそうなんデスか?」
「ノースアクトンを卒業する学生を見て、才能や環境に恵まれた人のほとんどが、自分本位というか、自分のためにその才能を使うだろうと思い込んでいたので。その印象が変わりました」
私はベッドから立ち上がり、窓辺へと歩いていった。薄いカーテンが風に揺れ、私の髪をそっと撫でるように流れる。昼の静かな光景が、二人の会話を優しく包み込んでいた。
「マルゼーグのガウルさんやニックさん。この街のエスさんや、シールクさん、ルーナさんにウェスさんも。彼らは凄いですね。とても優秀な人が、自分のためではなく世の中のために尽力している」
博士は軽く頷き、笑みを浮かべた。
「まぁ、わかりマスよ。人は社会に出て、『自分が生きていくことはそんなに難しくない』と自覚したときに、初めて他者のために行動を始める。そんな風にワタシは思いマス」
博士の苦笑いが、少し冷たい風のように空気を撫でる。
「正確には、他者のためというよりは、自分のためなのでしょうが……」
博士はカップを置き、軽く肩をすくめる。その仕草には自分の考えを冷静に見つめている彼女らしい落ち着きがあった。
「あなたが嫌いだったノースアクトンの同級生だって、大人になる途中だったんデスよ。成長過程のひよこを見て見限るなんて、レインは子供でしたね」
「はい、反省してますよ。少しだけですが」
私が笑顔でそう言うと、博士は少し安心したような笑顔で一息ついて、博士は続ける。
「レインは……成長しましたね。この3か月で、見違えるほどに」
博士は静かに笑みを浮かべる。その笑顔は、どこか母親のような優しさを感じさせるものだった。
反射的に「そんなことありませんよ」と言いかけて、それが失礼な事だと気づけた私はその言葉を口にするのをやめる。
「ありがとうございます。おかげ様ですよ」
少しからかうような笑みを見せながら言ったその言葉に、照れ隠しが込められていた。
「私は環境と人に恵まれただけだと思います」
私は心の中で、いつかは自分が他者を助ける番だと思っていた。正確には、他者のために生きるこの人たちと肩を並べる存在になりたい。そう思っている。
「みんながレインのように、すぐに成長する子だったら良かったんデスけどね……」
窓の外を見つめる博士の表情が、私からは見えなかった。