陰謀論に染まっていた高校生が、大学で学んだことまとめ
あと一か月で、大学を卒業する。これからは労働力の一つとして、お仕事に人生を捧げなければならない。
自由に使える時間が減っていくのが悲しい。叶えられそうにない夢がいくつもあるから。なりたかった自分は結局どこにも現れなかった。ミステリ作家としての自分は、若さが夢見た幻想であった。
正直、大学のお勉強に人生の時間がとられた面は大いにある。僕は変に真面目なので、レポートや論文には全力を投入した。その分、アルバイトや趣味や資格勉強が疎かになった側面は否めない。
でも、僕は進学してよかったと思っている。具体的には、議論の方法を、論理の運用方法を学べたことに大変な意義があったと思っている。
そこでこのエッセイでは、僕が大学で学んだことを列挙しておきたい。変なことを意図的に言うつもりはないけれど、僕も論理学を修めたわけではないので、間違ったことを言うかもしれない。そもそも博士号も持っていない僕ごときに、学問を語る資格などないのかも。
けれど、少なくともこのエッセイを読めば、ネットにはびこる真偽の怪しい議論に対する基本的な耐性みたいなものはできると思う。
つまりこのエッセイの想定読者は、社会人ではなくどちらかと言えば高校生である。もっと具体的に言えば、昔の自分である。
■学問とは方法論である
学問は確かに、真理を追究するものではある。しかしそれは、学問が真理だけを重要視することを意味しない。
学問が重要視するのは、真理を追究する方法論である。つまり、「何が正解か」ではなく、「どんな論理と根拠によって、それが正解だと主張できるのか」が最も肝要なのである。
だから、例えばネット上のこういう言説は、(少なくともこれだけでは)学術的とは言えない。
(例1)日本はGHQの陰謀によって、日本人の誇りや美徳を奪われた。なぜそう言えるかと言えば、そう解釈することが自然で合理的だからである。つまり、この解釈によって現代日本を矛盾なく解釈できる。
このような言説は、主張の妥当性の根拠を、その主張による説明可能性にのみ見出している。しかしこれは論理的には、「なんでこの世界があるのかと言えば、神が作ったからだ。なぜそう考えるのかというと、そう解釈すれば世界を矛盾なく解釈できるからだ」と述べるに等しい。
世界を矛盾なく解釈することは、意外に簡単である。しかも、所有する(世界についての)知識の量が少なければ少ないほど、(その人にとっての)世界は簡単に、矛盾なく、整合的に理解できる。
だからこそ学問は、主張の根拠を、その主張による説明可能性にのみ求める言説には警戒的である。学問が重要視するのは、素人の頭で考えた、簡単に答えに飛びつける論理ではない。(ただし、素人の考えが真理に接近することはあり得るし、説明可能性を蔑ろにして良いわけでもない)
重要な問いは「何が真理か」ではなく、「なぜそれが真理だと言えるのか」である。すなわち、真理そのものではなく、真理を探究しそれが真理だと証明する方法論こそ、学問が積み上げてきたものなのである。
突然どこからか降ってきた「真理」ではなくて、先行研究が積み上げてきた「方法」こそ、君が注視するべきものである。
経験則としていうなら、先行研究に言及しないぽっと出の解釈には警戒的であるべきだ。そういう主張は、ただ正当なプロセスを踏むことを怠っているだけのことが多い。
■学問は道徳を語らない
もちろん必ずしもという訳ではないが、多くの場合学問は道徳を語らない。というより、道徳的な価値判断には立ち入らない。
確かに、学術的知見を得ることにより倫理観や道徳をブラッシュアップすることはできるし、世界を広げることは可能ではある。しかしそれは、学問が道徳的な価値判断をすることを意味しない。
だから、ネット上のこういう言説は、(少なくともこれだけでは)学術的とは言えない。
(例2)人間にとっては道徳や倫理みたいなものが最も重要であり、全ての価値に優先する。したがって、この価値を実現するためには何をしてもよい。人類の幸福のためには、大量虐殺や無差別殺人すら正当であり、それを学問は(論理によって)保証し得る。
学問が語るのは、「何が真理だと言えるか」あるいは「何が解釈として妥当だと言えるか」であって、「何が道徳的に正しいか」とか「何が倫理か」などではない。(ただし、規範倫理学はその限りではない)
もっとも、哲学の一分野では、このような議論もあり得る。というかある。しかし、そこで展開されるのは、過去の哲学者や偉人の議論を継承するような、つまり先行研究を参照するような議論である。
だからそういう分野では、「何が倫理か」などと壮大な問いは(少なくとも論文では、多くの場合)立てられない(と思う)。多くの場合、「○○における××について――△△の視点から」というように、きわめて限定的な、いくつもの条件が重層的にかけられた問いが立てられる。
経験則として言うなら、大きすぎる問いを立てている主張には警戒的であるべきだ。そういう主張は、ただ問いの立て方が下手なだけ、つまり先行研究が十分に吟味されていないだけであることが多い。
■根拠とは「なぜ」に答えるものである
根拠とは、「なぜ」の結果得られたものであり、「いかに」の結果得られたものではない。
確かに現代社会には、解決しなければならない喫緊の課題があるとは言える。苦しんでいる人がいて、困っている人がいる。
しかし、その人達を助けるべきだという主張をする際には、「なぜそう言えるのか」が問われるべきである。その人達が「いかに苦しんでいるのか」を列挙するだけでは到底足りない。
ゆえに、例えばネット上のこういう言説は、(少なくともこれだけでは)学術的とは言えない。
(例3)今社会はこんなにひどくて、私たちはこんなに苦しんでいる。だから、社会は私たちの主張を全面的に受け入れるべきだ。
このような主張は、その根拠を「なぜ」ではなく「いかに」に求めている。理由の正当性ではなく程度の甚だしさによって、自らの主張を通そうと試みている。
もちろん、このような観点が完全に無視されてよいわけではない。フィールドワークなり当事者研究なりによって、現場の声に耳を傾けることには大きな意味がある。
しかしそれは、「なぜ」に答える形で応用されなければならない。「いかに」を強調する形で悪用されてはならない。
経験則として言えば、世界の巨悪と戦っていると自認しているような主張には警戒的であるべきだ。そのような主張は、ただ根拠を「なぜ」ではなく「いかに」に求める態度が、その主張の正当性を増幅させるために、恣意的に悪を強調しているだけであることが多い。
(資本主義はだめだ、なぜなら資本主義によって、こんなに問題が起きるのだから。僕はそれと戦っているのだ。みたいな主張ね。実際には、「資本主義はだめだ」という主張のために、資本主義による問題を過大評価したり、場合によってはあらゆる問題を資本主義に不当に還元しているだけであることが多い)
■謬説への反論によって、自らの主張の正当性は主張できない
謬説への反論によって、自らの説の正当性は主張できない。
確かに、リベラルは夢想的かもしれない。しかしだからと言って、保守の思想が正しいことにはならない。
確かに、ネトウヨは排他的かもしれない。しかしだからと言って、革新の思想が正しいことにはならない。
ある議題に対する有限個の見解を完全に論破したとしても、その功績を根拠に自らの主張を通すことはできない。「リンゴはサクランボだ」「リンゴはミカンだ」「リンゴはスイカだ」という主張に反論したとしても、「リンゴはメロンだ」という主張が正しいことにはならない。
(同様の理由で、悪を滅ぼすことが正義だと安易に考えることはできない)
ゆえに、ネット上のこういう言説は、(少なくともこれだけでは)学術的とは言えない。
(例3)反論は全部論破した。ゆえに、私が正しい。
こういう主張は実際には、ただ議論を論破ゲームに還元した上で、相手の敗北を自らの勝利条件にしてるだけである。相手は論駁されたかもしれないが、自分も誰かに論駁されるかもしれないという可能性がまだ排除できていない。
(だからこそ、(僕の分野では)優秀な研究者の先生はたいてい謙虚である。彼ら彼女らは、自分が反論される可能性に誰よりもオープンであり、なんなら反論を望んでいる節すらあると思う)
相手が間違っているということと、自分が間違っていないということは同義ではない。
経験則としていうなら、変に攻撃的で論破を至上の価値と信じている主張とは距離をとるべきである。
■議論とは相互訂正の場
これに関連して言うと、議論とは相互訂正の場である。論破ゲームの会場ではない。
人間の認知には限界がある。単に知識の面からみても、推論の面から見ても、どうしても人間は一人の人間であることから逃れられない。僕は僕でしかないし、あなたはあなたでしかない。
だからたいてい、一人の人間が(魔法のような力によって)突然、あるいは先天的に真理の断片を掴むことなどあり得ない。
真理に到達する作業は共同作業であり、その方法こそ議論である。ゆえに議論とは、自分の間違いを受けいれ相手の間違いを指摘する機会であり、つまり相互訂正の場に他ならない。
もちろん、一人の天才が直観的に真理に到達する可能性はあり得る。例えばラマヌジャンの例などは、その代表例として人口に膾炙しやすい。カッコいいからね。僕も憧れたし、今も憧れるよ。
だから究極的に言えば、別に議論は真理獲得の必要条件ではない。つまり、自分の間違いを受け入れる心づもりがなくてもよい(かもしれない。究極的な意味ではね)。
しかし、それは極めて例外的な事例である。
自分がその天才であるという想像は心地よいものではあるし、今すぐ捨てるべきだとは思わない。しかし、いつかその妄想を突き放せるくらいに成長する可能性もまた、君には残されていることは強調したい。
人間は社会的な動物である。
仮に君の考えるように、大衆は馬鹿で愚鈍で陰謀に精神を犯されていて、その一方君自身は繊細で天才だったとしても。
そして一人の天才の働きに無数の凡人の仕事が及ばないとしても。
そのうえで、天才は往々にして凡人に理解されないものだとしても。
それでも、君が嫌悪する大衆と協力することの方が、結果的にははるかに合理的で効率的である場合が少なくない。一人で考えるより、3人で読書した方が良い。10人で英語論文を読んだ方が良い。100人で研究を積み重ねた方が良い。
そして先行研究者たちこそ、その仲間たちなのである。
■知識量は、推論の質に大きく影響する
これは経験則でしかないが、知識量は推論の質に大きく影響する。
もっともらしい論理というのは、いくらでも作れるのである。例えば「無差別殺人は正当だ」とか「現代社会は巨悪だらけだ」とか「世界は陰謀で動いている」とか、そういう論理は僕でも5秒で作れる。
では、いったい何が推論の質を保証するのかというと、それは推論能力ではない。知識である。知識こそ、推論のコストを大きく下げるのである。
例えば、目の前にイチゴがあるとしよう。このイチゴは、いったい誰が、いつ、どこから持ってきたのであろうか。
仮に知識が0の状態でこれを考えるとすると、君は、そもそもこの赤いブツブツの物体がなんであるのか、というところから推論を始めなければならない。そこから、この物体が(世界中の人間のうちで)誰に、(46億年のうちで)いつ、(広大な宇宙空間のうちで)どこから持ってきたのかを考える必要がある。そんなのは、量子コンピュータでも計算できない。
次に、知識が多少あり、この物体がイチゴであり、イチゴについての基本的な情報を知っているとしよう。そうすれば、このイチゴが46億年前に置かれたものである可能性は排除できる。推論のコストは、1/4くらいになるんじゃないかな。
次に、もっと知識があり、この物体がイチゴであることと今日がクリスマスであること、そしてこの場所が自宅のリビングであること、そして自宅には家族しか出入りしないことを知っているとしよう。こうなれば可能性はだいぶ排除できる。このイチゴは、少なくとも数日間のうちに家族の誰かが、スーパーで買ってきた可能性が極めて高い。
このように、知識の量は推論の質に大きく影響する。知識とは、推論の条件である。それが多ければ多いほど、推論で扱われる可能性は少なくなる。
しばしばネット上では、知識量と推論能力を対比的に語り、前者を文系、後者を理系に紐づける言説が多い。そして、知識は検索で得られるのだから、推論能力――つまり、論理的思考力とか――を重視しようという言説を見る。
そのような主張は、全く見当違いである。
もちろん僕も、少ない知識と天才的な推論で真理を獲得する探偵のような人に対する憧れはある。
しかしそのためにこそ、君には、知識を蓄えていくという方法をお勧めしたい。知識量は、推論能力に影響する。
■幸福は普遍的ではない
最後に、これは僕の育てた青い哲学だけど、幸福は普遍的ではない。
別に「何を幸せとするかは人によって違うよね」みたいなことが言いたいのではないよ。僕が言っているのは、「幸福を人生の至上価値だと観念することが、普遍的な現象ではない」ということである。
ネット上では、たまにこういう言説を見ることがある。
(例4)人間は全員幸福を目指している。これは本能であり、人間の基本的条件である。したがって、人類の幸福を最大化することは絶対正義だ。というより、それを絶対正義と呼び祭り上げることにより、人類の幸福は最大化され得るのだから、そうすることは合理的である。したがって、それを妨げるものは全て悪だと言いうる。それが(幸福を最大化するのに)合理的だから。
これは、僕が高校生の頃にハマった陰謀論である。この「小説家になろう」で傾倒した陰謀論である。
大学という場を離れる間際になって、僕はようやく、この呪縛から逃れることができる。
(だからこのエッセイは、かつての僕への反論であると同時に、僕自身の成長の根拠でもある)
人間の全てが、幸福を目指しているのではない。仮にそうだとしても、幸福を目指すことが正義だとは言えない。幸福と(それを実現する手段である)正義は、合目的性だけでは結びつかない。仮に結びつくとしても、幸福実現の妨げになるものが全て悪だとは言えない。有限個の主張に反論することで自説の確かさを主張できないように、正義は悪への反論としては提唱できない。同様に、悪は正義への反論としては提唱できない。
そして、そのような道徳や倫理を語るのは学問ではないし、ましてや論理でもない。ただの妄執である。陰謀である。世界はそれほど、単純ではない。
仮に人類の幸福を最大化することを人類共通の至上価値として認めたとしても、それを実現するあらゆる手段に合理性と(唯一絶対の)倫理的価値があるわけではない。幸福を最大化する道具が倫理なのではない。自然な本能(として備わった共感能力)そのものが善であるのではない。本能をそのまま正義だと考えるのは、典型的な自然主義の誤謬である。
そしてこれは、近代やら西洋やらキリスト教が生み出した俗説などではない。資本主義やら自己責任論を受け入れ大衆としての自己正当化を図るために、僕はこの主張をしているのではない。
僕は、そのような主張にはなんら学術的根拠がなく、先行研究との接続もなく、理論としての優れた点もなく、傾聴に値する哲学もないと述べているだけである。
自説に都合の悪い諸々の議論を、全て(そう考えることができる、という程度の説明可能性への依拠のみによって)俗悪なイデオロギーの産物だとみなし、その指摘のみによって反論が完成したと信じ、しかもその反論のみによって自説の妥当性を主張できると考え、その道徳的価値判断を大きく含む論理を学問にまで昇華できると誇大広告し、「なぜ」ではなく「(世界は)いかに(悪いのか)」と喧伝して自説の緊急性を訴え、自らを一部の限られた天才と称し己の訂正を受け入れない。
このような態度では、とうてい真理にも、そして議論にさえ及ばない。
僕は自信をもって、陰謀論から距離をとることができる。
就職ではなく進学したことを、僕は誇れる。