表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

おすすめ

タコさんウインナーvs.

作者: はじ

 今朝も早くに目覚ましされて、ムシャクシャのバコはとてつもない乱暴もの。曇天雨雲のように覆い被さる布団を斜めに蹴り上げ、とっくに起きているのにヘッドボードでバカ騒ぎしている時計を鋭く垂直にぶち叩く。脳天直下の一撃を受けた時計は時刻を示すだけの素直な筐体に戻ったが、悪戯まがいの騒音でのどかな凪を乱された苛立ちはそう簡単には静まらない。バコはグーっと握っていた手をパーっとひろげ、それを時計と隣り合うぬいぐるみに「おら」「おらッ」「おらァッ!」とぶつけていく。今日の被害者は、ライオン、ペンギン、カタツムリ。毎朝の不条理にはもう慣れたものである彼らは、表情ひとつ変えずに殴打を受け入れ、「少しは鬱憤、晴れましたでしょうか?」ベッドから降りるご主人様を律儀に見届ける。しかし、床に降ろされた足がいまだ荒立ちをとどめた音量を打ち鳴らしたのを耳にし、緩くなった節々の縫い目を慌てて引きしめる。キバやタテガミ、フリッパー、シェル。各部位に詰まっている綿をキュッと喉元に寄せ集め、次なる仕打ちに備えた防御態勢を取るぬいぐるみたちのことを、バコは打ち見しただけで手は出さず、床に置かれたスリッパに足を突き入れ、その半端な温さに眉を寄せた。

「熱いか冷たいのどっちかにせいよ!」

 そんな理不尽な要望を浴びせかけられたスリッパであるが、目くるめく春夏秋冬に合わせた快適な履き心地を売りにして製造された以上、そのどちらにも振り切れることはできない。要求に応えられない自らの不備を噛みしめながらも、それでもどうにかして熱く、もしくは冷たくなれないものかと生真面目に苦悩する健気なスリッパ。しかしバコは一切の容赦なく踏みつけ、家中引き回しの刑に処しながら部屋から廊下、その先のリビングへと移動した。

「あら、おはよう」

 リビングに赴いた不機嫌なバコにご機嫌な挨拶をしたバコママは、食卓に着くなり大あくびをかますバコの姿に微笑み、「もうちょっとで、できるからね」そう言ってキッチンの奥に消えていく。

 もうちょっとでできるものを待つバコの足では、ここまでの移動によってようやくにわかに熱を持つことができたスリッパが労いを求めてバコを見上げたのだが、ここは人間界の縦社会、足元の苦労など知る由もないバコは、足が汗ばんで気持ち悪くなったので、ぽいぽいっと机の下にスリッパを放り捨てる。投げ出され、見放され、身を打ちつけて横たわるスリッパのぽっかり空いた履き口からは、聞こえるはずのない嗚咽が聞こえたような気がしたが、それはバコの後ろにあるテレビの音の聞き間違い、どうかそうであってほしいものだ。

 机下のしめやかな哀傷には気づかないバコだが、背後で騒ぐテレビの音は嫌でも耳に入る。部屋を領するフィフティ・インチ、目の覚めるようなカラフレーションを映出するテレビからは、昨日起きた過去最大の玉突き事故、連続飼い犬逃亡事件、スーパー銭湯に送られた脅迫状の全文朗読、そしてそれらすべてを「嫌な時代になりましたね」でおざなりに総括したキャスターが一発逆転を願ってはじめた星座占いと天気予報が次々に流れる。そのどれもが気に障るので、バコは絶対に顔をやらないで目をつむり、まだまぶたの裏に残っている眠気を召集して夢の続きを指導する。


 曖昧にとぼけては波状にとけて、

 はいそこで一回転!

 緩やかにかき混ぜて片づけて、

 左右同時に打ち合わせる!


 まぶたのなかでそう指示を出していると、

「ウインナー様、ウインナー様」

 キッチンにいるバコママが唐突に奇怪な呪文を唱えはじめた。

 一体全体なにごとだろうか。気になったバコは、思い通りに集めた眠気を瞬きで一旦解散させ、テーブルにほおを近づけてキッチンをうかがった。

 バコママはひとりだった。

 当たり前だ。

 バコパパはもう仕事に行ったのだから、この家にはバコとバコママ以外誰もいない。

「何用かな?」

 誰もいないのに誰かが返事をした。もちろんバコじゃない。バコじゃないし、バコママでもない。バコとバコママしかいないはずの家でした声は誰の声だ。バコは好奇心に持ち上げられるようにしてテーブルに半身を乗り上げ、さらにキッチンをのぞき込む。

 バコママはひとりだった。

 当たり前か。

 バコパパはもう会社なのだから、この家にはバコとバコママ以外誰もいない、いない、そのはずなのに、キッチンの天板の前に立つバコママは誰かに向かって話し出す。

「お肉嫌いのあの子がどうか、お肉を食べられるようにしてください」

 あの子とはもちろん、わたしのことだ。バコママは誰もいないキッチンで誰かと自分の話をはじめようとしている。そう勘づいたバコは、自らの噂話を盗み聞きしているかのようで、なんだかどうして気まずくなって、乗り出していた体を椅子に戻し、さらに意識を遠ざけようと、あれだけ嫌悪していたテレビの方へと顔をやる。テレビではバコと無関係の天気予報、知らん土地の知らん空、それを無関心に眺めていると、

「ほう、あんたのお子さんはお肉が嫌いなのかな?」

 誰かがバコママにそう尋ね、「はい」とバコママが返事をする。

「鳥肉、牛肉、豚の肉、羊はもちろん鯨まで、肉と名がつくものはことごとく口にしません」

 句読点のようなため息が吐かれ、バコママは項垂れながら自分のぶよぶよのお腹に手をやる。その仕草を見て、

「あんたは随分お好きなようだね」

 バコママの体形を冷やかすことを誰かが言うと、「そうなんです」とバコママが続けた。

「あの子と違って私は、肉と名がつけばなんだって口にします。鳥、牛、豚から羊まで、鯨はもちろん馬だって」

「へぇ、あんたはなんでも食うんだね」

 笑いまじりの声で誰かが言う。

「はい、肉とつけばなんでも!」

 バコママは食い気味にそう返す。

「そうかい、そうかい。あんたは大分見込みがあるな!」

「本当ですか!」

 あはははは、と愉快な笑い声がキッチンから届いてきて、受け取り印を求めるようにしてバコの鼓膜を訪れる。しかしバコはしかめっ面で居留守を決め込み、にらみつけるようにしてテレビを注視する。画面にはやはり知らない土地の知らない空だが、自分とは無関係な分、こっちの方が断然マシだ。

 そう思いながら苛立たしげに揺り動かされた足が、途方に暮れていたスリッパに触れる。久方ぶりの主人との再会にスリッパは歓喜し、今度こそはその意向に沿おうとあふれんばかりの忠誠心で温度を上昇させはじめたのも束の間のこと、バコの足に勢いよく蹴り上げられ、緩やかなパラボラを描きながらリビングの隅まで飛ばされてしまった。

 再三に渡る無碍な扱いに履物といえどもさすがに怒りを隠しきれない。しかし、その矛先はバコではなく、そもそもの原因を生み出している笑い声に向けられた。

 この笑声さえなければ、バコちゃんがこれほどまで苛立つこともなく、こんな惨めな境遇にもならなかったはずだ。そうやって沸々と恨みを募らせ、集わせ、詰め合わせ、悪辣とした呪物への一途をたどり出したので、この物語の題名が『復讐の人食いスリッパ』に変更されかけようとしたところで、部屋中に響き渡っていた笑い声がようやく止まり、いまだその実体を明かさない誰かが仕切りなおすようにしてこう言った。

「それで、お子さんは魚介類もダメなのかい?」

 発言の意図がつかめなかったバコママが戸惑い口調で

「魚介? それなら、少しなら」

 そう返答すると、

「そうかい。それならタコさんにしなさい」

「え? タコ?」

「そう、タコだ。私をタコさんにしてみなさい」

 その一言でようやく得心がいき、

「あ、ああ! その手が! その手が!」

 と諸手が打たれてから、棚の、扉の音からまな板の音でコンロの音と換気扇の音が矢継ぎ早に鳴り、



「いくぞ! よぉく見ていろ。はぁぁああああ!」



 メリメリ 何かが めくれる音

 メチメチ 何かが 弾ける音



「それ、もういっちょ。はぁぁああああ!」



 メリメリ 何かが 

 メチメチ 何かが 



「はぁぁああああ!」



 メリメリ 何かが

 メチメチ 何か


「はぁぁあああ、あ、ぁぁ」


 メリメリ

 メチメチ


「ぁぁああぁああ、あッ!」


 メリメリメチメチ


「ああ、あっ、あッ、あつ、あつい」

 メリメメチメ

「あ。あ。アツっ。アツっ!」

 メメメチメチ

「はぁぁああああぁ!」

 メメメメ

「はぁぁああああ! あっと、どっこいしょ! はは、どうだい。可愛らしいだろう?!」

「ええ! ええ! とっても!」

「ははは、そうだろ、そうだろう。さぁ、モタモタしなさんな! 熱々のうちに並べろ! 盛りつけろ! 私を盛大に祭り上げろ!」

 ガシャガシャ食器の音がして、

「さぁ、お食べなさい」

 バコの机に運ばれてきた丸皿にはタコさんウインナー、透けるように薄いレタスの絨毯にどっかり座し、四方に従えたプチトマトに彩られながらバコの食い気を唆そうとカリカリの匂いを漂わせた。

「さぁ、前を向いて。お食べなさい」

 再び催促され、仕方なく体の向きを直したバコは、目前の皿を見て、随分とナメられたものだと思わずため息だ。この程度の擬態でまさか欺けるとでも思ったのだろうか。今すぐにでも「お前はタコじゃなくて肉だ!」と指摘し、その正体を口汚く暴き立ててやりたい衝動が指と口の寸前にまで差し迫った。しかし、この子ども騙しの変身の一工程には、決して小さくないバコママの労力が加わっていることも同時に看破しているので、そんな無思慮な振る舞いはしない。

「ふっ、子どもでいるのもつらいもんだね」

 バコは小さく呟き、皿の隣に並んだフォークを手に取ってそれをタコさんウインナーの横っ面にぶっ刺す。そしてよほどの感動がなければ口にもしない「わぁ」とか「ひゃっ」とかなんとか言ってみたりしながら、タコさんウインナーを口元まで運び、そのまま入れると見せかけて前歯に引っかけ、パジャマの胸ポケットにぽとり見事に落とす。即座にその動作を気取られないよう大げさな空咀嚼をし、「しい! おいしい! おいしい!」を間髪入れずに連呼した。

 そんな我が子を見ていたバコママが

「ああ。やっと、やっと!」

 食べたと思い込んで涙ぐみ、目元を拭うその隙を見計らってトイレにすばやく駆け込んだバコは、胸ポケットに忍ばせたタコさんウインナーを取り出して便器に放る。

「だまそうとしたあなたが悪いのよ」

 ピピッ、とお別れのスイッチひとつで流されていったタコさんウインナーにそう告げ、ひと仕事終えた傭兵のような心境で食卓に戻ると、そこには笑顔のバコママが待っていて、

「さぁ、次はこれよ」

 そう言って牛乳が入ったマグカップを机に置いた。

「うぎぎ」

 と、自然と漏れてしまったうめき声は、喉とくちびるで瞬時に潰し、最小音で済ますことができた。少しでも不自然な態度を見せれば、先ほどの手品じみた努力もおじゃんになる。そう思ったバコは動揺を悟られないよう平然とした面持ちで自分の席に着き、マグカップを前にしてあれこれ考えをめぐらせてみたが、どんなに巧妙で奇抜で奇天烈な思案を重ねても、液体は胸ポケットには隠せない。

 それならば誤ったフリをしてこぼしてしまおう。そんなよこしまな考えがよぎったが、バコママの手にある牛乳パックを見て、どうせ新たなものを注がれるだけだと断念する。

 よし、それなら最終手段、謝っておどけて済ましてしまおう! とも思ったのだが、どうせ明日か明後日あたりに同じ状況に追い込まれることは、タイムマシーンに乗らずとも予測できたのだ。

「へッ、子どもでいるのもつらいもんだね!」

 バコはいよいよ観念し、覚悟し、カップのなかを確認し、恐る恐る牛乳に口をつけ、る。


 ほぅ。

 これはこれは。

 なるほど。

 牛乳とはこんな味わいだったのか。

 ほうほう。

 あのぶくぶくした牛から、これが。

 なるほどなるほど。

 ふーん。

 へぇ。

 そうなんだ。

 牛もなかなか捨てたもんじゃないね。


 どうやら牛乳がお気に召した様子のバコは、おかわりを所望する。バコママは喜んでマグカップに牛乳を注ぎ足す。バコは飲む。バコママは注ぐ。バコが飲んでバコママが注ぐ。飲むごとにバコの体は牛乳を友好的に受け入れ、握手し、ハグし、キスをして、その一部として体内に滞在することを許可する。牛乳はバコになる。バコは牛乳になる。バコはこれから牛乳とともに生きていく。そんな内なる胸の宣誓のすぐそばを、これならあのタコさんウインナーもちょっとくらい、という後悔のようなものがよぎったが、それはあくまで後悔のようなもので後悔ではない。後悔に似通っただけのまた別の感情、後悔ではないのだから見送ってバイバイだ。

 注がれた牛乳を立ちどころに飲んでいくバコの後ろのテレビでは、長い長いどこかの天気予報が終わり、朝限定の短編アニメがはじまった。

 今日は一匹のタコが東京湾に流れ着くお話だ。広々とした海湾にひとり放り出されたそのタコは、仲間を求めて同類の群れに近寄るも、「何でぇおめえ、畜生くせぇぞ」となじられ、拒まれ、弾かれて、拒絶的に濃密な墨で追い返されてしまう。

「私が本物のタコだったら……!」

 穏やかな潮汐流をあてもなく漂いながらタコさんウインナーは述懐する。

 自分がタコさんウインナーではなく、ウインナータコさんであれば、ウインナー型のタコとして、まだ受け入れてもらえたかも知れない。

 そんな一粒の空想は、自らの境遇とかけ離れているほどその余地で自由に肥大する。海水に曖昧にとけた妄言を、ぶ、つたない口吻が矢継ぎ早に吸い込み、ぶく、緩やかにかき混ざる酸素と海藻、ぶくぶく、左右同時に打ち合わさると、ぶくぶくぶく、爆発的な水素結合、ぶくぶくぶくぶく、借り物の軟体が大きく内から膨らんで、ぶくぶくぶくぶくぶく、多量の気泡とともに膨張した体が、ぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく――ぶッ厚い海面を勢いよく突き破ると、びりびりに引き裂かれた海水が無数の水滴として宙に分散する。

 一滴だけでは雨粒と変わらない些細なしずく。

 爪弾けば簡単に気化する微弱な水体だが、

 その内部にはかつて海だった記憶が保存されている。


 うららかな内海とうつむいた海鳥


  さざなみ


 まだ地図にない波打ち際で貝殻と打ち明けた沖合の浮評


  さざなみ


 暴虐な太陽への言葉ない反射抵抗


  さざなみ


 内に秘め続けた深海魚の反骨


  さざなみ


 夜は人知れず崖を穿ち


  苛みに揉まれながら


 日の目のない悪天候のみに許される暴露のときをひたすらに待ち望んでいた、さざなむ記憶だけを頼りに水滴たちは手を取り合い、寄り集まり、再び海を形成する。

 しかし、それはもう平穏な海ではない。海中から現れた巨体に触発された傍若無人な暴れ水となり、荒々しく波を息巻いて辺り一帯へ怒涛、ギラギラの飛沫をかき上げて運航する漁船を見つけては飛びかかり、日に焦げついた甲板を押し倒して、これまで奪い取られてきた数々のものを奪い返すようにして、沈めていく。

 海上には一斉に救難信号がばら撒かれ、荒れ狂った海の様相とその主因である巨大なタコさんウインナーの出現を告げ、早くも飛び交う報道ヘリが、海を唆したタコさんウインナーを上空から実況中継


「バカみたいにデカいタコさんウインナーが!

 本当にバカみたいにどデカいタコさんウインナーが!

 バカみたいに!

 バカなこと!

 本当にバカみたいなことしています!」


 並ぶ言葉は端から端まで稚拙な非難、言葉足らずな子どもの口喧嘩のような言い回しだが、その口調は劇物の取り扱いのように苛烈な物言い。その当事者の動機や心情をないがしろにした偏狭な報道にタコさんウインナーはむかっ腹を立て、ギャアギャアとやかましいだけのヘリコプターを触手で振り払い、それでも収まりきらない憤りのやり場を求めて陸を目指す。

 停泊していた船を押しのけて堤防に上がり、ずりずりと漁港を這いずりながら向かったのは、憧れの生臭さに包まれた魚市場。潮錆びた屋根に飛びかかり、足を絡みつけて、これでもか、これでもかと締めつける。幾十年、過酷な波風の最前線に晒されながらも耐えてきた建物だ。台風、津波、カンカン照り、自然の無作為な力への抵抗はお手の物だったが、意思を持った直接的な暴力はこれが初体験。説得しようにも言葉がない。抗戦しようにも手足がない。ただ忍耐と辛抱の一辺倒しかなす術がないので、今回ばかりは倒壊の憂き目を免れない。屋根が砕け、鉄筋が弾け、崩れた外壁の瓦礫と一緒くたになって散乱した生鮮たちが血飛沫のように地面を跳ね回る。タコさんウインナーは八本の足をおもむろに伸ばしてそれらを取り上げ、鱗や粘液、甲殻を体表にすりつけ、少しでも彼らの姿に近づこうと試みたのだが、どれだけ隈なく塗りたくっても、相容れない種族の壁に阻まれて一向にその距離は縮まらない。


「私が本物のタコだったら!」


「私が本物のタコだったら!」


 それでも根気よく、めげずに、熱を込めて、滅入ることなく、塗り続けていたのだが、幾百種ものシー・モンスターに果敢に立ち向かってきた屈強な漁師たちが、魚介転生に腐心する己の姿を目撃して血を沸かせるどころか身を震わせ、怯えた子猫のような声を上げながら逃げていく様子を目にしたことで自らの異常さがより浮き彫りになり、「私が」どれだけ無謀で無意味なことを実践しているかを「本物の」嫌でも自覚させられたのだ。


「タコ、だったらなぁ」


 途方もない虚しさに包まれ、それが足先にまで行き渡ると握られていた魚介たちが一匹ずつ地面に取り落とされる。マグロ、カンパチ、エビ、アナゴ、スターフィッシュにハマチ、イカ。最後のホタテが地面に衝突し、その衝撃で割れた貝殻の割れ目から顔をそむけるようにしてゆっくりと頭を上げる。

 泣いてしまうのが分かっていたから、広大な海には目をやらない。さざなみを打ち立てる海を背にし、このカラカラに乾いた陸上こそが自らの居場所、生きる場所、そう自らに言い聞かせながら横なぎに周囲を見回せば山や丘、雑然とした建造物でごちゃついているが、それは海中だって同じはず。ただ違うのは、この身にのしかかる重苦しい圧力の存在。しかしそれさえ受け入れてしまえば、ここだってきっと、それなりに心地良いはずだ。

 見晴かす陸の景色に心が順応をはじめ、穏やかに陸上生物としての一歩を歩み出すタコさんウインナーであった。

 が、ゴマのようにつぶらかなその目に、赤と黄色を基調とした鮮烈なM字フード店が飛び込んだ瞬間、自らの生い立ちが早送りで脳裏に再生され――生誕、成長、別れと惜別、出荷トラックからのライトニング――蓄積された数多の肉の怨嗟が雄たけびとなって一挙に頭中を占拠した。

 一瞬で視界が真っ赤に焼け、決して血液ではないなにか、赤くも熱くもないなにかが体のなかを一巡する。


 報復せよ!


 一回転ごとに頭に溜まっていく怒りで我を見失いかけ、慌てて触手で引き戻してどうにか自我を保つのだが、あまねく多勢の畜産連合が相手では、いくら巨大といえども一匹のタコさんウインナーごときでは足も足も出ない。無数の頭角に刺突され、執念の突進に触手を絡め取られ転倒、蹄による熾烈なストンピングに打ちのめされ、追い打ちゲップで最後の仕上げ、焦げ臭い焼け野原のような暗闇にひとつぽつんと倒れ伏す。


 報復せよ!

  報復せよ!

 報復せよ!


 仰いだ頭上で発光する野性をたぎらせた瞳に見竦まされ、威圧する重力でついに自意識を押し潰されたタコさんウインナー、膨大な肉たちの言われるままの傀儡となり、街に向かって突撃をはじめた。

 というアニメの最後の場面を目にしたバコママは、

「あら! ウインナー様!」

 まるで昔馴染みの事件を目撃したかのように驚き、バコパパ用のビールジョッキに注いでいた牛乳を少しだけ卓上にこぼしてしまう。バコはそんなことなど意に介さず、ジョッキをあおって見る見るうちに飲み干し、「もっと!」さらにおかわりを所望した。

 バコママは喜んでキッチンの土鍋に牛乳を注いだ。バコはそれを抱え上げ、ぐんぐんと飲んだ。


「もっと!!」


 バコママは喜んで玄関のバケツに牛乳を注いだ。バコはそれを両手でつかみ、ぐんぐんと飲んだ。


「もっと!!!」


 バコママは喜んで浴室のバスタブに牛乳を注いだ。バコはそれを片手で持ち、ぐんぐんと飲んだ。


「もっと!!!!」


 バコママは喜んでマンション屋上の貯水槽に牛乳を注いだ。バコはそれを指先で摘んでぐんぐんと飲み干し、


「もっと!!!!!」


 と言おうとして、見下ろすバコママが何事かを口走っているのに気づいて屈み、すぐそばまで耳を寄せてその声を聞いた。


「ああ、すごい!

 こんなにも!

 立派に!

 成長して!」


 その大声の小声を聞いて、ようやくバコは自分の体の変化を知る。しかしそれはさしたる問題ではない。今は現状の体格に見合った牛乳の器を見つける方がなによりも先決で、バコはマンションの屋上に手をついて屈めていた体を持ち上げる。

 眼下、足元から広がるのは色とりどりの家屋の屋根。その色相が花畑のように見目鮮やかであれば多少は心も踊っただろうが、ところどころ塗装が剥げているので、そう簡単に感無量とはいかない。むしろお城のように豪奢な一軒家も、派手な外観のスーパーも、上から見ればあばら家と大差ないことに肩を落とす。

「ま、そんなもんか」

 思わず吐いたため息が周辺の屋根をぎしぎし揺らし、老朽化のひどいものから順に根こそぎ剝ぎ取り吹き飛ばす。トタン、瓦にソーラーパネル、数々の破片が宙を舞うその光景は、たんぽぽの綿毛を吹いたときのあの感動、自らの動作が自然現象の切欠になったことを目の当たりにしたときの感動を想起させてバコを喜ばせる。かつては自分を取り囲んでいた煩わしい建造物すらも、今ならほんの些細な動作でこうもあっさりと取り除けてしまうのだ。バコはもう一度、今度は思いっきり息を吹き出してやろうと目論んだのだが、住居の合間からのぞく唐草模様の道路上で、数個の人影がこちらに向かって手をふっているのを目にして慌てて止めた。

「バコちゃん! バコちゃん!」

 凝視せずともそれが友人だと分かったバコは、つい癖で手をふり返そうとして腕を上げ、た、が、バチバチ! 近くの電線に指先をぶつけ、その数本を引きちぎってしまった。不意打ちで断ち切られた電線がトカゲの尾のように宙をのたうって火花を散らし、バコの失態を電柱から目撃していた鳥たちが口々に非難をさえずる。ばつが悪そうに指を隠したバコが鳥たちを睨みつけると、誹謗対象から反発の予兆を見て取った鳥たちは、先ほどまでの威勢を翼に潜め、それを無言で周囲に広めるようにして飛び立っていく。

「セコいことせずに、かかって来いや!」

 離れていく鳥たちにそう投げかけ、街中に触れ散らかす群れを恨みがましい視線で追ったが、前よりも近くなった太陽に目が眩んで早々に見失ってしまった。

「ほんと窮屈だよ、ここは」

 瞬きで目に入った光を追い出しながらそう愚痴っている間にもバコの成長はとどまることを知らず、いつの間にかミルク色の雲が頭にかかっており、それが折角光を払った目元まで下りてきたので首を振って散り散りにする。周囲はほとんど無音で風ばかりが強い。かき乱されてボサボサになった髪を手ぐしで整えなおし、吐息をくちびるで丁寧に吐きながら本来の目的をかなえるため、街の要所をつぶさに観察する。

 貯水槽程度ではもう小さすぎる。今の自分にはさらに容量のある入れ物が必要だ。軽トラの荷台ぐらいじゃもう飲んだうちに入らない。あのビニールハウスを毟り取って袋状にするとか? いや、それでも足りる気がしない。じゃあ、あの団地の給水塔を半分に叩き割ればちょうどいいサイズに、いやいや、さすがにそれは無理があるよ。他になにか、なにかないか、なにか、と街中を隅々まで見渡すバコにひとつの閃き。

「あ、学校のプール」

 思いついて早速に学校を目指そうとしたバコの視界の端を、蜂のように素早く赤い光がかすめる。赤は紛れもない注意の色。ここ最近、言いつけ通りに信号を守ることに疑問を抱きはじめていたバコであったが、気を引きつける本能には抗えずその赤色に注目した。

 それは緊急車両のランプの色。救急車や消防車、パトカーが街のいたるところで回転灯を閃かせ、互いが発するサイレンに呼応しながらひと所に集合し、ひとつの大きな赤色光体になって一方向に向かっていた。

 あんなにも大所帯で、なにか事件でもあったのだろうか?

 バコはひと足先にその進行先に目を移す。自分がいる住宅地の端、渡河する橋を越えた隣街、遠ざかるほどに建造物は背を伸ばし、平屋が二階建てに、雑居ビルは高層マンション、ひとつが伸びれば他も伸びて、切磋琢磨の剣山と化した大都の心。そのなかで一際目を引く巨大なタワー、その昔バコも両親に連れられて見物に行ったあのタワー、バコパパがバコママと見比べながら「どうだぁ、ママよりも大きぞぉ」と言ってほおを打たれていたあのタワーに、見覚えのあるタコさんウインナーがまとわりついていた。

 初めバコは目の錯覚を疑った。だって、あの大きなタワーにタコさんウインナーが襲いかかっているなんて、おかしいでしょ? 記憶のなかの巨大タワーと今朝出されたひと口サイズのタコさんウインナーの比率が合うはずない。だから、遠目に見えるあの情景はおかしい。きっとさっき太陽に食らった一撃で瞳の焦点が狂ってしまったのだ。

 バコはそう思って瞬きをし、目をこすり、もう一度入念に瞬きをしてから同じ方角に目をやった。

 が、景色変わらず、タワーにはタコさんウインナーがねっとり組みついていた。

 あれは錯覚ではない。

 錯覚ではないのだ。

 ならばあれは、

 常軌を逸した現実だ。

 なら仕方がない、と納得しようとした矢先のこと、タコさんウインナーにのしかかられたタワーが今にもポキリと折れてしまいそうなほどに傾きはじめる。

 とっさにバコは「あぶない!」と口にする。たいした声量ではなかったはず、寝起きのあくびくらいの、決して大声ではなかったはずなのに、タコさんウインナーはバコの声に反応し、その出所を求めるようにして視線をゆるりと上げた。

 つぶらな瞳だ。

 つぶらすぎて瞳かどうかもあやしい。

 しかしそのつぶらは、遠くの街中にぼけっと突っ立っていたバコのことを、しっかり捉えていた。

 風が吹く。やや生暖かい不穏な風。どんなに目を凝らしても目視できないその流れをはさんで、両者の視線がバチリと出会ったその瞬間、タコさんウインナーの標的はバコに移る。絡めていた足を巨大タワーから離し、着地と同時に身をすくませる地響きと煙幕のように立ち昇る土埃、それが晴れるか晴れないかのうちに、タコさんウインナーは周辺の建物をなぎ倒しながらブルドーザーの進行を開始した。

 競って背伸びしたビルビルビルをひとまとめに踏み倒し、巻き上がる粉塵にはきらびやか街の瓦礫、きらめき、舞い上がり、ぶつかり、上空で旋回するカメラがタコさんウインナーと差し向かうバコにズームアップ、屋外ビジョンに映し出されたバコに送られる「がんばれ! がんばれ!」人々の声援は、両者の距離が縮まるほどに盛大になるが、突然背負わされた重荷は毎朝のランドセルよりも当然重く、そう易々とは担げない。

 バコは隠せない当惑を振り分けるように右を見て、煙突、左を見て、電波塔、あれを迎え撃つのが自分しかいないことを改めて確認してうんざり、吐いたため息の突風で吹き上がった屋根にしがみついた友人たちも、「バコちゃんなら勝てるよ!」と無責任な言葉を投げてよこす始末である。

「他人事だと思って勝手だなぁ」

 ますます気を重くするバコであったが、そうも言っていられない距離にまでタコさんウインナーが迫っていた。

 仕方なくバコは動き出す。大通りから大通りへと足を移し、歩き慣れていない歩幅によろめいては踏みとどまり、歩道橋や商店街のアーケードに何度か足を取られながらも何とか河川敷へと到着すると、今度は思いっきり河をまたいで向こう岸へ、そこまでくるとタコさんウインナーはもう間近、つぶらな瞳はもうつぶらじゃない。斜めにつり上がった厳つい瞳だ。

 今朝の食卓ぶりに両者が対峙する。その心境は同じようで同じでないようで同じようだったが、今回の先手を打ったのはタコさんウインナー、率先して破壊の限りを尽くしてきた足を振り上げ、鋭敏な鞭のように宙を走らせる。気だるい朝の空気を引き裂く鞭のピシャリ! バコは襲いかかってきた触手をぬいぐるみで鍛えたビンタで「おらッ!」と振り払う。弾かれた足が河川敷のグラウンドを叩き割る。今週末は草野球に勤しめないことが決定し一部の大人たちが嘆いたが、そんなことタコさんウインナーもバコも知ったこっちゃない。タコさんウインナーは、さらに力を込めて二足目を放つも、「おらッ!」今度は陸橋をまっぷたつに破壊する。一度ならずも二度までも、渾身の一撃を容易く破られたタコさんウインナーは、逆上してもう狙いもなにもあったものじゃない。力任せの三足目は屈んでかわされ、四五、六七、と続けざまにいなされ、八本目の足は片手で簡単につかまれて、一気にバコの元へと引き寄せられる。

 といってもバコもなにか考えがあってそうした訳でなく、鼻面まで引っ張って来たものの、タコさんウインナーは濁った水のように臭くて、すぐに後悔する。

 後悔?

 そう、後悔!

 心の隅にずっと残っていたあの後悔、いや、後悔のようなものを再び思い出したバコは、迷い、戸惑い、ためらったが、覚悟を決めてひと思いにタコさんウインナーに食らいついた。

 先々月に生え代わったばかりの八重歯が表面を突き破る。あふれ出すのは、嘘みたいにうっすい塩気。口内に広がる味わいは、とてもじゃないが食べられたものじゃない。触感なんてぶよぶよに腑抜けて最悪で、今すぐにでも吐き出して「クソまずッ!」と辛辣な一言を浴びせてやりたい。

 けれどもバコは我慢して咀嚼を続ける。バコは食べる。タコさんウインナーは食べられる。バコが食べてタコさんウインナーが食べられる。血も肉も湧き踊らない一方的な弱肉関係だが、食べられているタコさんウインナーは、あれだけ怒りにのぼせて暴れ回っていたというのに反撃もせず大人しい。次々に身を失い、半身を、足を、全身をバコのくちの中に収められ、最後の嚥下のごくり前、


「おめでとう!」


 そう口内に言い残して胃の腑に消えていく。

 やっとの思いでタコさんウインナーを喰らい尽くし、達成感よりも嘔吐感の強いゲップをすると、タコさんウインナーが残した「おめでとう!」も一緒になって街中に轟く。それを聞いた人々が上げた歓喜と歓声、そして「ありがとう!」の復唱に、バコは涙目で手を振って応じ、いち早くなにかを飲んで口中をすすぎたい一心で辺りを見回していると、


「さぁ、

 牛乳よ!!!」


 どこからともなくバコママの声が響き渡る。

 どこだ? と、探すまでもなく真っ白に染まった東京湾が目に飛び込む。バコはそこまで一足飛びに駆け出し、東京湾を持ち上げて無我夢中に飲み、ぐんと飲み、ぐんぐん飲み、飲んで、飲み干すと、ようやく気分が落ち着き、深い台風吐息とともに成層圏から顔を上げ、一休みするために地球に腰をかけた。

 眼前には数多の星々。近くで見る星はそんなにきれいじゃない。どっちかというと汚いし、下手すれば道端に転がっていた石ころの方が魅力的だ。そんなことをバコが思っていると、スリー、ツー、ワン、地球から緊急発射されたロケットに乗ったバコママが、


「さぁ、

 次はあれよ!」


 そう言って宇宙を指し示した。

 牛乳、そして、タコさんウインナーのお陰で食わず嫌いを克服したバコは、ちゅーちょせずに端から宇宙を食べ出した。


 歯間に挟まる星の粒々


  ふむふむ


 ブラックホールの舌触り


  へぇ


 銀河から銀河へ伝播する軽快な咀嚼音


  なるほど

  なるほど


 その音信を解読したところによると、


 宇宙は、

 とても、

 おいしかった


        だそうだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ