中編
注意:途中、虐待描写があります。
ぎしり、パキン。コツ。ギィ……。
少し歩くだけで軋む床も、年月を経て劣化したというだけではないのだろう。
よくよく見れば、硝子の破片や飛び散った石、空き缶などのゴミもそこいらにあって子供は困ったように視線を巡らせた。
懐中電灯のようなモノは持たされていない子供にとって、ハンディカムが僅かに照らす灯りだけが頼りだった。
窓が割れているせいで生暖かい風が吹き込んできて子供の髪を揺らし、室内には虫たちがぞろりと蠢いているせいで子供は何かある度に肩を跳ねさせていた。
それでも必死に声を殺す。
いつだって、助けを求めてあげる声を聞きつければ、両親が殴るから。
子供にとって『声をあげる』という行為は、自分にとって何の得にもならないことなのだ。
きょろりと視線を巡らせても、暗がりの中でそれらしき影はない。
子供は、両親に言われるままに部屋中を撮影して回りながら、探していた。
(ともだち……)
なってくれるだろうか、という淡い期待。
幽霊なんているわけがないと両親が笑っていたことから、子供にもそれがただの夢物語であることはなんとなく理解出来ていた。
それでも、もっと前には普通に暮らしていた時の記憶があるからこそ、子供はそれを渇望していた。
子供は、そのみすぼらしさのせいで見る影もないが、元はよく笑う少女であった。
齢は十を越えたところだが、その見た目からは到底分からないほどに痩せ細っていた。どう見ても七つか八つ、そのくらい幼く見えた。
かつて、父親が別の男であった頃には綺麗に身なりを整えて、笑い、遊び、幼稚園にだって通い、友達がいたものだ。
特にお絵かきが大好きで、飼っていたハムスターを描くのが好きだった。
描いた絵を父親に見せて、大きな手で撫でられることが大好きだった。
子供は、そんなありふれた、ただの子供だったのだ。
それが変わったのは小学校に上がってすぐだった。
子供にはその理由はわからない。ただ、父親と母親は別々になり、自分は母親と共に暮らすようになった。
優しかった母親はいつの間にか子供を殴るようになり、気づけば子供はボロボロになっていった。
案ずる他の大人が現れる度に子供は殴られた。
知らぬ間に母親との二人暮らしに、見知らぬ男が増えていた。殴られる数も、増えていった。
子供が言うことを聞かないからと、夕ご飯の皿に彼女が可愛がっていたハムスターが載せられていた時には悲鳴を上げた。
それを耳にした二人に怒鳴られ、殴られ、反省しろと料理と呼びたくもないそれを口に押し込まれて、子供は、心を殺すことを覚えた。
煩わしい声が増えるからと学校へは行かせてもらえなくなった。
外に出ることもなくなっていった。
ただ、言いつけられた家事をこなす以外は家の片隅で震えてじっと息を潜める日々だ。
(ともだち)
暗がりに独りぼっちは、恐ろしい。
音がする度に震えるけれど、それでも表で待つ両親よりは怖くない。
でも、なにもなければ、そう、出会えなければ。
少女は再び、息を潜めて、心を殺す日々を送るだけの生活に戻るのだ。
怖かった。
暗闇も、自分を守ってくれない空間そのものも、誰も助けてくれない状況も。
一階を一通り見終えて、何も見つけられなかった子供は、二階へと上がる。
途中、階段の板が腐っていたのか踏み抜いて足から血が流れたが、子供は引き返さなかったし悲鳴を上げなかった。
それでも一度あったことに体は怯え、おっかなびっくりのぼりきったところで少女は息を呑む。
眼のない子供がにたりと笑って少女に顔を近づけていたのだ。
階段を上る時に、誰かの姿などなかった。
上っている途中にだって見えなかったし、音はしなかった。
そして目のない子供は、笑みを深めたかと思うと口元からぼたり、ぼたりと真っ黒ななにかを零して声もなく笑う。
なにかが腐ったようなニオイが鼻をついて、少女は恐怖で竦んでしまった中で目だけを動かして周りを見た。
目のない子供の他に、腕が四つある一つ目の女が立って見下ろしている。
その顔には目だけで口はなく、ただぎょろりと無感情に少女を見下ろすだけだ。
少女は、普通の子供だ。
だから異臭を放ち、まともではないこの状況に恐怖した。
体は震えて歯がカチカチとなるのは生命の危機を感じてだろうか。
だが同時に、少女は思ったのだ。
(おなじ)
ここでこの幽霊たちに殺されるのと、戻って両親に心を殺されるのも、どちらも同じなら。
もしも選んでくれるなら。
「と、も、だち」
震える声はそれ以上紡げない。
ああ、自分の声はこんなだっただろうかと少女は人ごとのように思った。
そういえば、声を出すこと自体、久しいかもしれない。
だからなのか、喉が痛み、少女は咳き込んだ。
「と、ぼだち、なっで」
一歩、目のない子供が後ずさる。
それを見て、少女は咳き込みながら慌てて手を伸ばした。
手に持っていたハンディカムが落ちてカシャンと音を立てたが、もう気にしていられなかった。
「まっ、て……!」
行くならば、連れて行ってほしい。あそこに戻るのはもういやだ。
咄嗟に伸ばした手は、子供の幽霊を捕まえていて、気がつけば少女は幽霊にしがみつくようにして泣いていた。
声を殺すようにして、ボロボロと泣く様は恐怖のそれとは違うものだ。
目のない子供の幽霊がびくりと驚いたように跳ねたかと思うと四本腕の一つ目女を見上げ、少女が零す言葉を一つ一つ拾い上げていく。
いかないで、ひとりぼっちはいやだ、こわい、なぐらないで、いいこにするから、おいていかないで、いくならつれていって、一緒なら。
一緒なら、逝くことも、かまわない。
その言葉に四本腕の女の両腕が広げられ、目なしの子供が歓喜に震える。
ぼたぼたとその虚ろな穴から零れる液体が、少女の頬に飛び散った。流れる涙がその黒い液体を頬から洗い流しても、少女の視界に広がるのは、虚ろな黒い、なにもないぽっかりとした穴だけ。
そして、幽霊の子供と行き場のない子供は、四本腕の女が抱きしめるようにして闇に消える。
転がったハンディカムは、その一部始終を写していた。
消えた暗闇に、静けさが戻る。
充電が切れる警告音が鳴った。
電源が落ちる瞬間、画面には――虚ろな、穴が、映る。
それは、笑っていたのだった。