決意
その夜、家族の皆が寝静まった後、ルーシャは家を抜け出した。目指すのは村長の家。
真夜中に訪れたルーシャを見て、村長は瞬時にその思いを悟ったのだろう。涙を浮かべて村長は深々とルーシャに頭を下げた。
「すまない、ルーシャ。本当にすまない……お前の犠牲の上に、この村は恩恵を受けてしまうことにもなるのだ。私はシエトロやアンジュリーにどんな顔をすればいい……」
村長はそう言って、両親の名前を出した。それに対してルーシャは首をゆっくりと左右に振る。
「村長さんが気にする必要はないです。だって、私が望んで決めたことなのだから。それに戦争に行って死んじゃった人は、この村にもたくさんもいるわ。戦争に行って死ぬのは、私だけじゃないでしょう?」
今度は村長が首を左右に振る番だった。
「それは違う。違うんだよ、ルーシャ。戦うために戦争に行くのと、死ぬために戦争に行くことは全然違う。例え結果が同じだったとしても、それはそもそも別のものなんだ」
「大丈夫、私は大丈夫だから、村長さん……」
ルーシャは微笑んだ。そうしないと涙が溢れてしまう気がした。でも、ここで涙は見せられないとルーシャは思う。
それは村長の前だけではない。家を出て行くその時まで、家族にも誰にも涙は見せられない。
涙を見せれば、それを見てしまった人に、自分を送り出してしまった負い目を一生背負わせることになる。そんなことはルーシャの本意ではなかった。
志願兵になるのは自分で決めたことなのだ。誰に強制されたものでもない。だから、涙は絶対に見せられない。
ルーシャは強く心に誓うのだった。
ルーシャが決意してからの行動は早かった。出立の日を二日後の夜と決め、ルーシャはそれを村長に固く口止めをした。出立まで日にちを置かなかったのは、日にちを伸ばすと自分の決意が揺らいでしまいそうな気がしたからだ。
ルーシャは残された二日間、普通に振る舞いながらも両親にたくさん甘えて、妹と弟を思いっきり可愛がろうと心に決めるのだった。
出立の夜となった。村長の話では、村の外で帝都からきた軍部の役人が待っているとのことだ。
前金は村長に預かって貰っている。前金だというのにその額はルーシャにとって信じられないぐらいのお金だった。その金額だけで家族は、二年や三年ならばきっと楽に暮らせるはずだ。
ただ、それは自分の命に値がついてしまった気がして、また少しだけルーシャは悲しくなった。
ルーシャは部屋を出る前に忘れ物はないかと考える。そもそも持って行くものなんてそんなにはない。数組の粗末な着替えと、数枚だけしかない家族の写真。そして、いくつかの思い出の品々。
うん。これだけあれば十分だとルーシャは思う。ひとつ大きく頷いて、ルーシャは部屋を後にした。
大丈夫。家族は寝静まっている。
部屋を出たルーシャは、音を立てないように注意しながら外に出た。扉を閉めて二歩、三歩と進んだルーシャが最後にもう一度、家族で暮らした家を見ようと振り返ろうとした時だった。背後で扉が開く音がした。
「お姉ちゃん!」
弟のマシューが駆け寄ってくる。ルーシャは振り返ると、駆け寄って来たマシューを抱きとめた。
「お姉ちゃん、どこに行くの?」
マシューはすでに涙声だった。ルーシャは片膝を着いて強くマシューを両手で抱き締める。顔を上げると両親、そして妹がやはりそこにはいた。肺を病んでいる父親は痩せた体で母親に支えながらも立っている。
「ルーシャ、どこに行くつもり? お母さんは許さないわよ」
母親の言葉にルーシャは何も言うことができなかった。
「ルーシャ、ありがとう。でも、戻ってきなさい。犠牲の上にある幸せなんて、誰も望んでいないんだ」
父親が言う。ルーシャは唇を噛み締めて必死に涙を堪えた。
泣かないと決めたんだ。
家族の前で涙を見せないと決めたんだ。
そう心の中でルーシャは何度も呟く。
「お姉ちゃん、お願い。私、もっと頑張るから。マシューの面倒だってもっと見るし、我慢だってもっとする。だから、だから……」
アナリナはそう言って、しゃくり上げながら泣き始めた。すぐ上の姉が泣いているのを見て、弟のマシューがさらに泣き始める。
「ルーシャお姉ちゃん、お姉ちゃん、僕がいつもお腹空いたって泣くから行っちゃうの? だったらもう言わない。僕、我慢するんだよ。もう泣かないから……」
弟のマシューまでそんなことを言い始めた。
妹のアナリナがこれ以上、何を我慢すると言うのか?
弟のマシューはまだ五歳でしかないのだ。お腹が空いたと言って泣くのは当たり前ではないのか?
「ルーシャ、お願いだから変なことは考えないで……」
母親もそう言って嗚咽を漏らす。
「皆、勘違いしないで。私は皆のために行くんじゃないの……私が行きたいから行くんだよ」
ルーシャは涙を見せることなく言った。泣かないように頑張ると、微笑が自然に浮かんでくるのが不思議だった。
「ルーシャ、お願い。お願いだから、無理にそんな顔をしないで」
とうとう母親が泣き崩れてしまう。
「お父さん、お母さん、本当にごめんなさい」
本心からの言葉だった。両親には本当に申しわけないと思う。このことで両親がどんな思いをするのだろうかと考えると、悲しくて気が狂いそうになる。
ルーシャは妹のアナリナに黒い瞳を向けた。
「アナリナ、あなたはお姉ちゃんなんだから、マシューとお父さん、お母さんのことを頼むわよ。大丈夫。今まで通りにやっていれば、アナリナならきっと大丈夫」
アナリナは幼児のように、いやいやと首を左右に振った。
「お姉ちゃんは、ルーシャお姉ちゃんでしょう? 私じゃない……」
泣きながら言うアナリナに、ルーシャは優しく微笑む。そして、弟のマシューに黒色の瞳を向けた。
「マシュー、あなたは男の子なんだから、泣いてみんなを困らせちゃ駄目。もっと強くなって、みんなを守らないと。大丈夫、マシューならきっと強い男の子になれるんだから」
「お姉ちゃん、駄目、行っちゃ嫌だ。僕……僕、強くなる。いい子になるから……」
弟のマシューが泣きじゃくりながら、ルーシャの手を引っ張る。家に帰ろうと一生懸命に引っ張っている。本当にルーシャは胸が張り裂けそうだった。
「ごめんね、マシュー。本当にごめんね」
嫌だ、嫌だと泣きながら、マシューが首を左右に振っている。弟のこのような姿をルーシャはこれ以上、見ていられなかった。
「アナリナ、お願い。最後のお願い。もう……」
やがて、アナリナが泣きながらも小さく頷いた。思えば、小さい頃から何かと聞き分けのいい妹だった。
こんな時でさえ、結局は自分の意志を押し殺して姉の意志を尊重してくれる。ルーシャにとってこの世で一番可愛い妹だった。
アナリナは両膝を地面につけた。そして、姉を連れて帰ろうと手を引っ張る弟を背後から抱き締めた。そして、ルーシャからマシューをゆっくりと引き離す。
「アナリナ、何を? 止めて、止めて頂戴。ルーシャを行かせないで」
母親が悲痛なまでの叫び声を上げた。娘の意志を覆すことができないことを悟ったのだろう。父親が泣き崩れている母親を優しく抱く。
「ルーシャ、本当にすまない……何もかもをお前に押しつけてしまった」
父親が苦し気に、まるで血でも吐くかのように言う。ルーシャは無言で首を左右に振った。
マシューは泣きながら、アナリナの腕の中でめちゃくちゃに暴れている。
「皆、本当にごめんなさい。勝手に一人で決めてしまって。本当にごめんなさい」
ルーシャはそう言って頭を下げると、振り返って足を踏み出した。
背後から父親が自分の名を呼ぶ声が聞こえる。母親の悲痛な叫び声が聞こえる。アナリナの嗚咽が聞こえる。マシューのさらに大きくなった泣き声も聞こえてくる。
そのどれもがルーシャの胸を深く抉っていく。見えない血が自分の胸から吹き出しているような感覚さえあった。
背後を振り返った時からルーシャの黒い瞳から涙が溢れ始めていた。
でも、泣き声を漏らすわけにはいかない。
皆の前では絶対に泣かない。そう決めたのだ。
ルーシャは漏れそうになる声を必死で耐えるのだった。
やがて村の外れに来ると、ルーシャは子供のようにわんわんと泣き声を上げた。
そうやって泣きながらも、ルーシャは自分なら大丈夫だと思う。
もう十五年も生きてきた。その間に両親からの愛情は十分に貰った。
たまには憎たらしい時もあったけれども、可愛い妹や弟にも会えた。
もう十分だった。望むべきものはこれ以上ないように思えた。
あのお金で父親の病気が治るといいなとルーシャは思う。自分は父親が病に倒れる前の元気な姿を知っている。でも、妹は元気な父親の姿を覚えていないだろうし、弟は見たこともない。
父親の元気な姿を妹と弟に見せてあげられるだけでも、自分の行いには意味があるはずだ。
大丈夫。私は大丈夫。
ルーシャは心の中で何度もそう繰り返すのだった。




