救済
長く伸びたタバコの煙が昇っていく。
その様を見上げているどこか虚ろで優しげな瞳。
まるで、救われない魂を少しずつ昇天させるための儀式に見える。
兄には昔からそんな喫煙癖がある。
わたしに喫煙癖はないし、タバコ自体は嫌いな方だ。
でも、兄の喫煙する姿を見るのは嫌いじゃなかった。
「お兄ちゃん、待った?」
「いや。慌てて着替えるの面倒だったから早めに着替えてただけだ。そもそもただの墓参りだしな。気にするな」
兄はそう言って、タバコをもみ消す。
「あ、別にいいわよ。消さなくても」
「いや、喫煙者はこれくらい気遣いができないと。これ以上肩身の狭い思いはしたくないしな。それに、お前妊婦さんだろ。2ヶ月だっけ?」
「流産しちゃった」
その言葉に兄が動転するのがすぐにわかった。
後に継ぐことばをさがしている兄にわたしは言った。
「別に気にしなくていいわよ。なんか、お腹の子には申し訳ないけど、それほど悲しかったわけでもないから」
ぼろぼろと出たわたしの言葉に兄は少し気分の悪そうな表情になった。
「おまえ……やけに淡々としてるな。誠司くんはどうしてるんだ? 彼の方がショック受けてんだろ。なんで今日は連れてこなかったんだ」
「別れたわ、もう2週間くらい前だけど。お腹の子が流れてからすぐよ」
今度こそ完全に固まる兄。何か言おうと必死で言葉を探すその顔を見つめる。
「いいの。ちゃんと考えて出した答えだから。結婚する前にこうなってよかったのよ」
「ということは、別れを切り出したのはお前なんだな」
怒るべきか慰めるべきか困っている顔だ。兄はすぐに考えが顔に出る。邪推だけど、見た目も性格も悪くはない兄が全くモテないのは多分、この性格も関係してるんだろう。わたしはなんだか妙に興奮して言葉を続けた。
「そもそも、あいつのことが本当に好きだったのかずっとよくわからなかったしね。子供ができちゃったからお兄ちゃんに誠司を会わせたし、形だけは婚約みたいになってたけど、流産したらどうでもよくなっちゃった。誠司には申し訳ないと思ってるけど」
「強がるなよ。ショック受けてるんだろ」
「ううん、これは本当。ま、でも、胸貸してくれるんなら遠慮なく借りるけど。涙は出ないけどね」
舌を出したわたしに、今度こそ兄は深いため息をついた。
「おまえ、それが本当なら感心はできんぞ。彼、いいやつっぽかったじゃないか。それとも、おれが知らないだけで何か問題があったのか」
「いいヤツよ、とっても。わたしのことすごく大事にしてくれたしね。突然別れ話切り出したのこっちなのに、誠司、ずっと黙ってわたしの話聞いてくれてて、最後までわたしのこと気遣ってくれた。愛されてたんだと思う。勝手な解釈かもしれないけど」
わたしの目をじっと見つめる兄の瞳にわたしは言う。
「だから、これで良かったのよ。あの人はわたしなんかにはもったいないから」
兄はもう一度深くため息をつくと、ダークスーツの胸ポケットから新しいタバコを取り出した。
「吸ってもいいか?そんな話、タバコなしじゃ聞いていられん」
「いいわよ」
相槌のかわりにライターがシュボッと音を立てた。
「まあ、いい大人の男女が納得して別れたんなら、これ以上おれは言葉を挟めないよ。誰かに迷惑をかけたわけでもないし。複雑な気分だけどな」
「相談も報告もなしでごめんね」
「謝る必要もないさ。お袋は10年、親父は今日で2年。流石にこの世に魂が残ってるとは思わんしね」
タバコをくわえた口が小さく歪んだ。
「うん。でも、お兄ちゃんはまだ生きてるし、わたしが家出てからも、ずっと心配してくれてたでしょ。だから、ごめん」
「おれがおまえのこと心配してるって? 思いあがるなよ」
「だって、お兄ちゃん、わたしのこと好きじゃない」
わたしは必死で笑った。
「相変わらず図太いな、おまえは。おれがおまえのこと好きなんていつ言ったんだよ」
鼻で笑う兄。でも、別にむかついたりはしない。兄が本心を隠すときのくせなのはずっと前から知っている。
「だって、慰めたり助けたりはしてくれるけど、深いことは何も聞いてこないじゃない、昔から。それって、わたしを傷つけないようにしてくれてるってことなんじゃないの?」
「深読みしすぎの自意識過剰すぎだな。それよりも」
「ん?」
「向こうのご両親はどうなんだ。流産したことも含めて、正式に報告しなくていいのか?」
「向こうのお母さんの方はすごい剣幕だったみたいだけど、誠司が何とかなだめてくれたみたい。金銭がからんでるわけでもないし、ちゃんと婚約してたわけでもないし。世間的な立場はわたしの方が上だから、向こうのお父さんは深く追求しなかったみたいだけど」
「なんかいやだな、そういうの。まぁ、わかる気もするけど」
「向こうの両親と特に親しいわけでもなかったしね。裁判とかになって面倒ごとになるのを避けたかったのかもね」
「まあ、だったらもういいよ。とりあえず、お帰りでいいのか」
「うん。ただいま」
「そんなにうれしそうな顔するなよ。単純に歓迎してるわけでもないんだぜ」
「でも、うれしかったから仕方ないじゃん。わたし、いいことして戻ってきたわけじゃないのに帰るところがちゃんとあるんだもん」
「ということは、今住んでるところも引き払うのか?」
「察しがいいんだね。そうよ。向こうに住む理由もなくなっちゃったし。仕事も辞めるから」
「おいおい。お前の生活費まで俺が面倒見るのか?ま、しばらくならいいけど」
「お兄ちゃんに迷惑かけるつもりはないって。あたらしい仕事はすぐ見つけるし、当面の生活費は余裕で持ってるから」
「結婚資金か。先のことをある程度考えてるならいいよ。もともと、このうちはお前も住んでたんだから、お前の家でもあるしな。あの頃は親父もお袋もいたけど」
兄は深く煙を吸い込んだ後、タバコをもみ消した。
「一人で住んでてもガレージでタバコをすうのは昔と同じなんだ」
「家が臭くなるのはいやだしな。だから、生活習慣を変える必要もない、でいいのか?」
「いいわよ。タバコは好きじゃないけど、嫌煙家ってわけでもないから。ガレージで吸うくらい許してあげる」
「いきなり態度でかいな。お前が家主かよ」
「どうせ借家じゃん。お兄ちゃんのものでもないでしょ」
わたしがそう言うと兄は笑った。
「そりゃそうだな。俺の家じゃない。でも、親父が死んでから維持してるのは俺一人だ」
「前から思ってたけど、どうしてここで一人で住んでるの? 家賃のこともあるけど、一人じゃ広すぎない、ここ。さみしくないの」
わたしがそう言うと、兄は何かに気づいたように、そうだなと呟く。
「でも、庭に植えてる木や花もいるしな。それに、お前は死んだわけじゃないから、家出る前と同じ状態だ。出て行くために全部処分するのも面倒だったからな」
「本当に、それだけ?」
「いやに突っ込んでくるな。それだけだよ。俺が面倒くさいの嫌いなの知ってるだろ」
「それはわかってるけど、妹の帰りをずっと待ってたとかそういうこたえが欲しかったな」
兄はしばらくわたしの瞳を見つめた。珍しく、兄の本心がまったく読めなかった。兄はたまにこういう表情を見せる。それは、いつも、わたしが全てをぶちまけてしまいそうになるときだ。わたしは少しあせっていた。
兄とのなれないはらの探りあいに焦りが顔に出ていたのだろうか、兄はわたしから視線をそらせると、余裕とも達観とも違う微笑のようなものを浮かべた。
「なんかむかつくわね、その顔。アニキのくせに」
「おまえは、なんていうか相変わらずだよな」
「なにがよ。ホントなんかお兄ちゃんって、アレだよね」
「アレってなんだよ」
「アレはアレよ。言葉じゃ表現できないものだってあるでしょ」
たぶん、今、わたしの耳は真っ赤になっているだろう。
「そりゃそうだ。じゃ、そろそろいくか」
さりげなく時計を見るフリをする兄。
「そうね、いい時間だし」
ふと目の前に差し出された手のひら。わたしはこの意味を知っている。見るのは10年ぶりだった。
「この歳で手をつなぐの?18の頃じゃないよ」
反射的に悪態をつく。表情をみられたくなくて思わず顔を逸らした。
「まぁいいじゃん。親父とオフクロに相変わらず兄妹仲はいいよって報告にいくんだからよ。それに、これからしばらくは一緒に住むんだろ? しょっぱなからギスギスしたくもないしな」
兄のいう兄妹仲はまっとうなものだ。私はそれをわかっていて、いつもこの手を握ってきたのだ。
「右手?お兄ちゃん左利きでしょ」
「タバコの臭いがついちゃ、嫁入り前の娘に気の毒だからな」
「嫁入りね……行きそびれちゃったけどね」
兄は言葉を返さなかった。
わたしはそのお礼とばかりに兄の右手を思い切り握り締めた。