24 二つの物体が弾性衝突した場合の反発係数を求めよ
今日は大掃除の日だ。
一週間後に第三王女の結婚式を控え、王宮内は朝から慌ただしく人が出入りをしている。
「……そろそろ頃合いね」
フェリシアは今、王城の一角に潜んで、脱出する機会を窺っていた。王国の町娘の身なりに扮装し、脛を覆うようにフィットした紐付きのロングブーツを履いている。運動するのに適した、かかとの低い物だ。今日は予行演習だが、もちろん本番を想定してのものだ。
そこで脱出ルートなのだが、王宮の正門から建物を左手に回ったところにやや城壁が崩れたところがあり、そこから外に向いて飛び降りられるところがある。城壁のすぐそばに民家があるのだ。
この壁はずっと補修されていないので、ひと昔はよく使っていた隠し通路だったが、18になった私は一気に背が伸び、筋肉も付いたため、体重もかなり増えた。今も使えるかどうか不安だったため、この下見だけは怠れないのだった。
軽く助走をつけて、私は空へ向けて跳ぶ。
フッ――
1メートルの重力落下を体感し、オレンジ色の屋根をした平屋に着地する。天井が少したわんだが、成人した今でも問題はないようだ。
「よかった。ちょっと不安だったのよね」
何度も着地した、いつもの民家に感謝する。
なぜ王宮のすぐそばに民家があるのか大臣のケントに聞いたことがあったが、どうやらそれは、立ち退きの利権を狙っている国民がわざと家を寄せているらしいようなことを言っていた。王城に拡大計画が持ち上がれば、それだけで一気に金持ちになれるため、一攫千金を狙ってのことらしい。
それ故にここの住人は屋根を踏まれようと、立ち退きが決まるまでは声を荒げて怒ったりはしないのだ。
たしかオキナワに駐屯しているベーグンの基地周りも、民家でびっしりと囲われていると聞いたことがあるような気がする。
(ん……オキナワ……? なんだったかしら……)
私は頭の中で浮かんだ言葉が、うまく処理出来ない。
こういうことは偶にあったが、私は13歳より前の記憶だと考えている。無意識下のうちに残った記憶が、少しだけ戻ったようなものだと考えていた。
「さ、早くディアと合流しましょう」
私は頭を切り換える。
彼女とはこのオレンジ色の屋根を伝って行った先にある、小高い場所にある広場で待ち合わせている。
だけど、今日は目立つ訳にもいかないので屋根を伝っていくルートは使わない。私は高さも2メートルしかない並んだ平屋から降りて、狭い路地を歩いて行った。
チェスナット王国は峡谷の中に民衆を詰め込んだというかのような過密国で、街中心の大通りを除けば、城下の門から王城まで続いている緩やかな傾斜に沿って、民家が隙間なくびっしりと並んでいる。
貴族のお屋敷を除けば、オレンジ色の屋根はほぼ均等の背丈で並んでおり、道が狭ければずっと屋根伝いに渡っていくことが可能なのだった。
もっとも、屋根を通るのは悪ガキばかりで、後でこってり絞られるのだが。
この開けた丘にある広場は、ディアと初めて会った場所でもある。
「ディア。待たせたわね」
「はい。行きましょう、ひめさ、」
「ディア?」
「……すみません」
「あなたはいつもそうね。お忍びだって言ったじゃない?
向こうでも隙を見せてはダメよ。しっかりしなさい!」
「はい……気を付けます……」
ディアは頭を下げる。相変わらず、この子は意志の弱さをさらけ出していた。まぁ、そこが可愛いのだが……
そんな彼女を見ていると少し胸が熱くなって、私は彼女と出会った頃のことを思い出していた……。
3年前
私はかなりグレていた。
13歳で目が覚めたフェリシアを取り囲んでいたのは親や兄姉を名乗る知らない人間と、狭っ苦しくて逃げ場の無い王宮の監獄で、当時の私はかなり精神的な負担を強いられていた。
数年が経ち、姫の仮面を被っての生活に慣れこそはしたが、15の頃はストレスも頂点に来ており、王宮から抜け出せる場所を見つけてからは、城下へお忍びで出かけるのがその発散方法になっていたのだった。
城下に出掛け、無邪気に悪ガキどもと屋根伝いに鬼ごっこなどをしたりして遊んでいたが、ある日、広場に通りがかった時、いつもの悪ガキどもが一人の女の子を虐めているのに遭遇したのだ。
「やーい、おっぱいおばけ~~」
「うぅ……ひっく……」
「ちょっと、なにしてんのよ!」
「わ、おてんば姫が来たぞ、今日は姫が鬼だからな! 逃げるぞみんなっ!」
「「「わぁああ~~!」」」
「ちょっとぉ!!
前に剣でイジメすぎたかしら……? 待ちなさぁい!」
悪ガキどもは蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。残されたのは泣いている女の子だけだ。
「ねぇ、あなた。大丈夫だった?」
「……はい……」
「なんで言い返さなかったの?」
「……」
女の子は押し黙ってしまう。
反論を求めたものの、眼前の女の子は私と同じぐらいの歳に見えるので、こう言ってはなんだが……確かにおっぱいおばけと言われるだけのモノは持っているのだった。
私も胸はちゃんと育っているのに、あの悪ガキどもは私をそういう目では見ていなかった。まぁそれは、クソガキ達を束ねるガキ大将をやっていることが原因だとは、当時の私は気付いていなかっただけなのだが。
「なによ、おっぱいぐらいで! 私だってあるんだからね!」
私は自慢の胸を張って女の子へ向かってずんずんと歩くと、そのまま相手の胸にぶつかりに行った。
「やぁっ……♡」
「くっ、なんて声出してるのよ、そんなだからアイツらに馬鹿にされるのよ! しっかりしなさい!」
たじろいでしまった私は、代わりに怒りをぶつけた。
この感情は決して胸の弾力に押し返された嫉妬心では無いと信じたい。
「うぅ……ごめんなさい……」
こんなにデカいのに、気はメチャクチャ小さいみたいだ……。
その時、私にふと妙案がよぎった。
彼女は、外の人間だ。王宮内のことなんて何一つ知らない。この意志の弱さなら、逆に信用出来る気がする。無関係な彼女だからこそ、一番の味方になってくれると思ったのだ。
かなしいかな、私には、王宮で心を許せる人間が一人も居ないのだから。
彼女が欲しい。衝動的に、そう思ったのだ。
「ねぇ、あなた名前は?」
「……ディア、です……」
「わたくしは第三王女のフェリシアよ。ねえ、ディア。
あなた、私のもとへ就職する気はないかしら?」
「えぇぇえ……? ひめさま……?」
「そうよ。……ああもう面倒ね。ついてきて!」
「やぁっ……!」
私はディアの手を掴んで、強引に王宮まで引っ張って行った。
人さらいを敢行した当時の私は無茶をしたと思う。いきなり平民の子を召し上げて、自分の傍に置くと言ったのだから。少し騒ぎにはなったものの彼女の家には結局、事後承認をして話は通ることになり、ここでの出会いがあったから、ディアは側仕えのメイドになったのだった。
「トップライト家だったわね?」
「はい、あちらの……三等地にあります」
ディアが指差した先は、街の中心から向こうの比較的平らな場所にあった。貴族や裕福な人間の暮らす区画だ。
「じゃあ、行きましょうか。
ディア、向こうでは基本後ろで控えてて頂戴。ちゃんと胸を張るのよ?」
「分かりました……」
私たちは小高い丘の広場を後にして、目的の家へと向かうのであった……。




