表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

キラー・オン・ザ・ステージ

作者: 健田 流


 白い壁、白い床、白い天井、白い照明。両手にはめられた枷も、瞼を閉じたその裏も、視界の全てが真っ白だった。時間がどれほど経ったのか、数えることもしない。しかし自分の意思と関係なく尖りきった感覚は、部屋の外で蠢くものをいちいち敏感に捉えてしまう。最初の頃はうんざりしていたが、今ではもう諦めがついて久しかった。

 壁に繋がれた腕には点滴の針が差し込まれ、常に色つきの液体が注がれている。常時外されない耳の変な機械からは、少しだけ落ち着ける音の波。ただその繰り返しが、俺の全てだった。時折部屋に真っ白な誰かが現れ、俺をどこかへ連れていく。そこで何が起こっているのか覚えていたことはない。気がつくといつも、この部屋に逆戻りしているばかりだった。だから目新しいものが、驚くことも分からなくなるほど少なかった。

 ほんの少しずつ感じる外の声から、いくつかのことを覚えた。人には名前がある。だけど俺にはない。人という者はたくさんいる。だけど俺は誰も知らない。俺は人ではないらしい。まあありそうなことだ。そもそも人とはなんなんだ? 見た目だけなら俺と似ているらしいことは、なんとなく理解できた。そしてどうやら普通の人間というものは、枷に繋がれたりこんな音を聞いたりしないで生きているらしい。なら、いったい何をして生きているんだろう? よく聞こえる言葉の一つに、心、というものがあった。人間が持っているものらしい。どんな形をしているんだろう。俺を連れ出す人間がなにか持っていないか目で探ってみたことがあったが、それらしいものは見つからなかった。ひょっとすると、やつらが体につけているあの白い布きれが心、なのだろうか?俺はいつもなにも身につけていないし、ひょっとするとそうかもしれなかった。それなら、俺が人間じゃないというのも合点がいくからだ。

 だけど唯一、感覚を煩わしく思わない瞬間があった。時折、どこかから綺麗な音が聞こえてくるのだ。いや音というより、部屋の外から聞こえてくる声と同じものらしい。だが耳につけられた機械からの音より、その声のほうがずっと安心できた。しょっちゅう聞こえてくる声だから、聞けるたびに意識を集中した。そうするとき、胸のあたりがいつも熱くなった。なぜなのかは分からない。あるときは耳を澄ませていると目から水が出てきた。手で拭えないので舐めてみると、やたらとしょっぱくて変な味がした。それからも何度か出てきたが、あれがなんなのか未だに分からなかった。

 それが何度も何度も繰り返されていたあるとき、その声が聞こえなくなった。それからもたまに思い出していたが、いっこうに聞こえてこない。もうあの声の持ち主は喋らなくなってしまったのだろうか。これでまた、真っ白なだけの部屋に戻ってしまった。そう思うと、熱かった胸が逆に冷たくなった。これもよく分からない。別段暑くも寒くもないのに、なぜ胸だけが変に温度が変わるのか、部屋の外の声だけでは、その理由もなにも分からなかった。だからただ、繋がれているしかなかった。どうせ俺を連れ出すやつらは、俺といる間一言も声を出さないから訳を訊くだけ無駄だった。

 あるとき、それはいつのことだっただろう。俺がぼうっと繋がれたまま、聞こえてくる彼女の歌に耳を澄ませていると、ふいに歌が途切れ、代わりに聞き慣れない声がしゃべり出した。ここのやつらとは違う、別の声だ。ほんの少し何かが動いて、その声に集中してみることにした。

『いや、まったく素晴らしい。これが例のランクAかね』

『はい。全身の実に68%が我々の作り出した細胞で構成されております。間違いなく、現時点での世界最高水準でしょう』

『博士、よくやってくれた。我々としても長年出資し続けてきたかいがあったというものだよ』

『ありがとうございます、大臣閣下。これで世界は必ずや、我々の目指す方向へと向かうことになるでしょう』

『そうだ。彼女の力が、我々の国を盤石のものとする。三国間の交渉も順調に進んでいるし、遠からず均衡状態を完全なものにすることができるだろう。その暁には君たちも、より良い環境と地位を約束するよ』

『実に喜ばしいことです、大臣閣下。これで我々人類は次なるステージへと進むこととなるのですから』

『そうだ。機械化さえこれで過去の遺物となろう。小国の反乱など気に留める必要もなくなるのだ・・・・・・ところで博士、つまらぬ雑談なのだが、確かここにはもう一体、ランクAがいるという話を聞いたのだが、本当かね?』

『ええ、確かにもう一体、66%まで適合したものがおります。しかし、あれは使い物になりますまい。戦闘に限れば極めて優秀な存在ですが、なにせ強力すぎて制御がまるできかないのです。申し訳ございませんが、閣下の目的にそぐうとは思いませんでしたので、お伝えしておりませんでした』

『いいや構わんよ。これからの時代はもはや戦争ではないのだ。そんな前時代的な存在はいずれ我々が全て淘汰する。武力など、均衡を維持するための強力な手駒をほんの少し持つだけでよい。制御もできぬ兵器など、ミサイルにも劣る愚劣な存在だ。適当なところで処分しておいてもよかろう』

『しかし、仮にも貴重なランクA、やはり私どもとしましてはおいそれと捨てるわけには・・・・・・』

『はっはっは。学者の飽くなき探究心か、それもよかろう。分かった、好きにしたまえ。私には彼女さえいればそれでいいのだからな』

『ありがとうございます。ではどうぞ、彼女をお連れください。大臣のよき国家のため、我々の成果が力となりますように』

『うむ、君もご苦労だった。では、連れていくとしようかね。ええっと、君の名前は何かな?』

「アリアです。よろしくお願いします」

 その声を、俺は知っている。何度も何度も聞いた声。いつもいつも待っていた声。そうだ、俺を唯一目覚めさせてくれた、世界にたった一つの声。

 今、なんと言っていた?

 連れていく? あの声を? どこへ?

 ふざけるな。それは、俺の―――――――!

 胸だけだった熱が、全身に回る。爆音とともに枷も機械も、世界の何もかもが粉々に吹き飛んだ。



 ダンスホールはなかなかの大きさを持っていた。巨人症の人間を五十人から集めた立食パーティーが日毎に開催できるだろう。水を溜めればさぞかし豪勢なプールが出来上がるに違いない。しかし今は少なくとも、そんな低俗な想像を働かせる余地はない。ホール中に響き渡る音楽のせいで、隅から隅まで荘厳かつ奇怪な雰囲気が満ちていたからだ。

 壁から遠く離れたホールのまん中には、檜の一枚板で作られた分厚い長机が置かれ、その両端にちょうどお互いが向かい合わせになるように腰かけた一組の男女がいた。つまり、俺と俺の主人だ。俺たち二人の前には食べ終わった料理の皿が一人十枚ずつ積み上がり、今は最後のプディングとコーヒーの時間だった。音楽は食べ始めてしばらくしてからずっと響いていたが、今はようやく峠を越えたらしく徐々に勢いが緩やかになりつつあった。彼女は楽しげに目を閉じたまま体を揺らし、俺は首から提げたペンダントを指でいじっていた。

 彼女は薄い銀色の目に、左右均整の取れた顔と真っ白な肌を持つ。だが最も目を引くのは、膝まである長く伸ばした金髪だ。一点の曇りも無く、絹糸よりも細く、結んでしまうことさえ躊躇う者がいるだろう繊細さ。そのすべてがある一点で絶妙な折り合いをつけている。顔や髪だけでなく、裸同然の透けたネグリジェ越しに浮かび上がった体のラインも、幼さを僅かに残したささやかな膨らみと曲線によってあどけなさを演出することに成功していた。サモトラケ島の天使が勇ましさを失えば、こんな姿になったのだろう。そして首も両腕も失わず、後々大衆の晒しものにもならずに済んだに違いない。

「プラナリア、って知ってる? 生き物の名前なんだけど」

 グロスを塗っていないのにやけに色鮮やかな唇でプディングの欠片を転がしながら、彼女が透き通った声で問いかけた。俺は自分のコーヒーに琥珀色の酒を加えながら緩く首を振った。聞き覚えのない単語だったからでもあるし、食事中ずっと飲んでいたウィスキーの酔いが回っているためでもあった。

「あなたも聞いたことぐらいあるんじゃない? 生物の枠組みのなかでも原始的な一門、扁形動物の一種。心臓や脳を持ちながら、全組織の約10%を構成する全能性幹細胞によってそのすべてを再生できる、生物界最強の再生能力を持つ生き物・・・・・・昔のある研究者が百個以上の破片に切り刻んだら、全部が全部百匹以上のプラナリアに再生したって記録も残ってるそうよ」

「興味深さって点じゃ悪くない話だな。退屈だが」

 俺は目を伏せたまま、コーヒーをなめるように飲みながら言った。緩やかになりつつあった音楽が、また僅かながらテンポを上げ始めた。

「でもね。不死身って言われてるプラナリアだけど、実は簡単に殺す方法があるのよ。それも、ほとんど道具らしい道具を使わずに。なんだか分かる?」

「そうだな。生物なんだし、食べるっていうのはどうだろう? 赤子だって出来るやり方で、一瞬で終わるし、しかもスマートだ」

「下劣という点に目をつぶればね。でも、胃液で溶けるっていう点だけなら当たらずとも遠からずかしら」

 彼女が椅子の上で細い足を組み直した。極めて薄い空色のネグリジェしか着ていないせいで、窓からの光を肌が反射しているのが分かる。俺は目を閉じて、コーヒーの残りを一気に飲み干した。音楽は、キーが一段高くなっている。

「水質を汚染すればいいのよ。プラナリアは物理的な攻撃には極めて強い。だけど水質の高い澄んだ水にしか生息できず、汚染された水の中では体組織を維持できずに溶けてしまうんですって。面白いと思わない?」

「ジャガイモの芽ぐらいには。何が言いたいんだ?」

 俺がウィスキーの新しい瓶の封を切りながら訊くと、彼女は薄く微笑んで、プディングの最後の一口を唇の間から舌の上へ滑り込ませた。

「簡単な話よ。適材適所、という言葉がある。でも世界では逆もまた真。たとえどんな天才でも、万能に通じた傑物でも、時と場所次第であっさりと無能に成り果て、時には亡き者にさえなる。それが自然であれ人為であれね。プラナリアが汚水で溶けるように、マンモスが原始の人類に絶滅させられたように。そういうお話よ」

 不意に、鳴り響いていた音楽が止んだ。きっかり十秒後にホールの扉が開き、初老の執事が中へ入ってきた。ぴったりと体の線にあった燕尾服を身に纏い、蝶ネクタイを締め、靴音のよく響く革靴を履き、空のワゴンを押している。ハードタイプの整髪剤で撫でつけられたオールバックの髪は白髪だけだが、身のこなしには若々しさを感じさせた。我々は無表情のまま黙り込み、彼女はプディングを咀嚼することに集中しはじめ、俺はウィスキーを瓶から一口あおった。執事も一言も発することなく、我々が積み上げた空の皿を手早くワゴンへ移すと、この場の主人に向かって深く一礼し、無言のままワゴンを押してホールを出ていった。体感時間だけなら、鳥が窓の外を通り過ぎるほどの時間しかかからなかった。

 ドアが閉じた瞬間、また音楽が響き始めた。俺は、口の中でウィスキーの味を転がしながら言った。

「ふん。まるきりフィッツジェラルドの女だな」

「何? それ」

「自分が惚れた男になら何を求めたって構わないっていう、馬鹿げた勘違いを一生涯繰り返し続けて美味しいところだけ持っていく女たちのことさ」

「へえ? なら男は?」

「純粋すぎるのさ。初心すぎて誰かを愛さずにはいられないから、いつも痛い目に遭わされるんだ」

「よく出来た話じゃない。それに、今日という日にも悪くない。パーティーの話をしましょうか」

 彼女がテーブルの下に手を伸ばし、封筒を二つ取り出した。一つは安っぽい合成紙で作られた、白い長方形の小さいもの。もう一つは一目で高級品と分かるオーダーメイドの大きなもの。黒を基調に金字で宛名が書かれ、封印と同じ赤色で凝った縁取りがされている。彼女はそれを、テーブルの上を滑らせてこちらへよこした。

「開けてみなさい。どっちからかは言わないけれど」

 俺はまず白い方を破って開けた。なかには一般人の書類コピーに使われる安い紙が一枚。新聞から切り抜かれた字が貼り付けられ、ありがちな文句がしたためられていた。

『明日のコんさートを中止シ、歌姫の身柄をコチらへ引キ渡せ。サもなクバ、神の鉄槌ガ下さレルこトとなろウ。   人民自由同盟』

「なかなかスカした文章だと思わない?」

「トマトが毒だと信じられてた頃ならな。それで?」

「この犯行声明は、昨日午後五時の時点で既に主要各新聞社と治安維持省に送られてる。そして今朝、この状態。その意味、分かってるわよね」

「ご希望通り、乱痴気騒ぎをやろうってわけだ」

 彼女はシニカルな笑みを浮かべると、小ぶりのペーパーナイフを俺に投げてよこした。テーブルに突き刺さったそれを抜き取り、俺が黒い封筒を丁寧に開くと、電源スイッチと画面に「極秘」と書かれたテープが巻き付けられた大型の携帯情報端末が滑り出た。テープをナイフで切って電源を入れ、ダウンロードされている情報を確認する。軍と警察の配置図、敵勢力の予想分布、AからTまでの予測対応プラン。情報の最初の一文は赤の太文字でこう記されている。「必須条件――軍介入前に決着のこと」

 俺はかぶりを振った。

「おいおいおいおいご主人様よ。なんだこの無茶苦茶な条件は? コンサートプログラム終了までに、これだけの頭数を俺一人で片付けろっていうのか?」

「そうよ。パーティーに軍人は似合わないわ」

「博識が聞きたいわけじゃないんだよ。ここが見えるだろ? 敵の予想勢力が最低でも十人と書いてあるじゃねぇか。プロの傭兵がぞろぞろご来駕になるんだぜ、せめて軍から何人か借りられないのかよ?」

「軍が入ってきたら何の意味もないのよ。あんなデリカシーも教養もない連中を私たちの舞台に立たせられるわけないじゃない」

「だからって、こんな飲んだくれ一人を行かせようってのか? それこそデリカシーに欠けてるぜ。おまけにこっちはバズーカもミサイルも持ってないんだ。せめてもう少しマシな武器の一つも配給してから言って欲しいもんだな、そういう冗談は!」

「残念ね。コンサートの費用はもう全部、私の化粧品と服で飛んじゃったわ」

「なんてこったい、今日が俺の命日か! よっぽど俺のことが嫌いらしいな、麗しき我がご主人様はよ!」

 不意に音楽が低音へと落ちる。彼女はテーブルの下からもう一本ペーパーナイフを取り出し、それを手首のしなりだけで俺の眉間へ投げつけた。女が投げたとは思えない加速が付いたその刃が俺の額をえぐるより一瞬早く、俺の人差し指と中指がその薄い刃をつまむように挟んで止めた。勢いゆえに間の抜けた音を立てながら左右に揺れ続ける刃の間で、俺たち二人の瞳がぶつかる。彼女は銀色、俺は黒。

 輝く彼女が、薄い笑いとともに言った。

「さて、今夜は最悪のパーティーを開催するわけだけど、何か問題はあるかしら?」

「何もない。いつも通りさ」

 俺は投げつけられたペーパーナイフで、テーブルの上の封筒と襲撃予告状をテーブルごと突き刺した。音楽は、臓腑を揺らすような重低音を響かせている。

「大好きよ、僕」

「おい主人。襲われる歌姫の台詞が、そんな陳腐でいいのかい」

「言葉っていうのはね、肝心のものは一つしかないのよ」

 彼女は歯を見せて笑うと、席を立った。同時に、鳴り響いていた音楽がフェードアウトし始める。彼女がドアへ向けて歩を進めるたび、薄いネグリジェが舞い上がって滑らかな足が覗く。安酒場でなくても美人だ女神だと持て囃されるだろう。結んでいない長い金髪も肌と同じく曇り無く透き通り、さらさらと絹糸のような音を微かに立てている。タンポポの綿毛が舞う様子に近い。その綿毛が、女神の顔をほんの少し覗くぐらいの上手い具合に隠している。

俺もウィスキーの瓶をポケットに滑り込ませ、端末を持って席を立った。ドアを開けようとしていた彼女が、振り返って俺に訊ねた。

「私はこれから劇場に行ってリハーサルだけど、あなたはどうする?」

「銃の調整に行く。プラン通りの時間には劇場に着くさ」

「まだそんな筒使ってるの?」

「便利なんだよ。安全距離から人を殺せる」

 俺はジャケットの上から、左脇の膨らみに軽く手をやった。

「そう。まあ、お好きに。守ってくれれば文句は言わないわ」

「せっかく良いおべべ着てるんだ。老いも若きも蕩けさせてるその口で、浮ついた言葉の一つでも使ってみてほしいんだがな」

「いくらこんな服着てても、晴れた日の朝から酔っぱらいに軟派な言葉聞かされちゃその気も失せるわ。あなたこそ、さっさとその酔いを覚まして少しは芯の通った台詞を聞かせて欲しいものね」

「今のはいまいちだな。ステージは期待してるぜ」

「ふん。じゃ、日が沈んだら」

 大きなドアが閉じると同時に、微かになっていった音楽の最後の一音が消えた。空中に溶けた音を、しばし目で追う。もちろん何も残ってはいない。ただそれらしいふりをするだけだ。それでも細胞が感じ取るのは、音ではなく彼女の残り香くらいのものだった。

 ホールを出て、長い廊下を突っ切り自室へ向かう。歯を磨き、顔を洗い、髭を剃る。すっかり家着になっているスーツを脱いで、仕事用にあつらえた別のスーツに着替える。家着も仕事着も、別段特に違いは無い。ただ変えた方が良いのだ。女と違って、男の衣装は限られている。男は常に、自分の衣装に何かを込めて生きている。

 屋敷を出るとき、さっきと同じ初老の執事が扉を開けてくれた。

「俺の主人はもう出たかな?」

「いえ。お嬢様は今、お部屋のほうでお化粧と、お召しになる服を選んでいらっしゃるかと」

「分かった。俺は先に出るよ」

「かしこまりました」

「ところでバトラー。適材適所という言葉を知ってるか?」

「つい最近、どこかで聞いたことがあるような気がいたします。しかし、すぐにはどうも思い出せないようでして」

「そうか。一つだけ、あなたのより良い余生のために、忠告をさせて貰えるかい?」

「なんなりと」

「あまり無粋な真似は止めた方がいい。俺もあなたも、主人に迷惑はかけたくないはずだ」

「ご忠告感謝いたします。肝に銘じておきましょう、トウジロウ様」

「こちらこそありがとう。おかげで少しはマシになったよ」

「行ってらっしゃいませ、どうぞお気をつけて」

 耳に僅かながら不自然な輝きを覗かせながら執事が扉を閉めると、広大な庭に植えられた様々な草花の匂いが混じり合い、鼻をうった。ポケットからウィスキーを取り出し、ぐっと一口飲む。少なくとも、今はまだ酔いが必要だ。これから先は違うにしても。

 バイクにまたがる前に電話をかけ、暗号で行くことを伝えた。相手は簡潔な声で必要なことだけを喋り、向こうから電話を切った。駐車場ではなく門の脇に止めたバイクの元に辿り着くと、アルコールの温かみが指先まで伝わっているのが感じられた。

 首から提げたペンダントを軽く握ってみる。少し大きめの、夾竹桃の花を象ったものだ。微かな金属の温度と手触りが、アルコールの靄に浮かぶ。見上げると、太陽はまだ空の中点から大分離れたところをゆっくりと昇っている最中だった。



 大国同士の核の撃ち合いで始まった第三次世界大戦は、開戦後五年あまりでその方向性を大きく変えた。昔懐かしい白兵戦を中心とし始めたのだ。しかしそれも当然で、核の撃ち合いでは領土も取れず、国家が崩壊し、終結後の見通しがまるで立たない。大国の睨み合いの中で発展した機械化の技術は、そんな新しいスタイルでの戦争を可能とした。最初はパワードスーツで。その後は人体に直接機械を組み込み身体機能を補うことで、常識を越えた技能を可能とする。戦術の基本のみならず、産業の水準、生活様式、世界の全ては劇的に変化した。今や世界人口の三割が、何らかの形で肉体を機械化している。戦時中武力の象徴だったせいで一部の民衆は機械化に否定的ではあるものの、いずれなくてはならない技術となることはもはや誰の目にも明らかだった。

 旧アメリカ、フィラデルフィアで終戦条約が締結されたのが今から六年前。その後は新しく建国されたアメリニアが旧南北アメリカ大陸、ロセリアがユーラシア大陸の東半分とオセアニア、そしてエウロピアが西半分とアフリカ大陸を統治することとなり、世界は三国均衡の時代へ移行した。その後も小規模の衝突が断続的に発生し、旧発展途上国では大国支配に反発するゲリラ活動なども起きている。そんな争いの中で、機械化技術はますます加速の一途を辿っていた。

 ここはエウロピア領内。かつてはフランスと呼ばれた土地。今日も新聞は、各地の戦線における勝利を大々的に報じている。国中が戦争の勝利のため、技術発展のためという叫びと熱気に満ちていた。



 高級住宅が集まっている屋敷街から、中心街まではしばらく距離がある。最新型のトライアンフで市街へ向かう間、人通りの少ない道で風を切る感覚を存分に味わった。冬の中心に近づきつつある空気は、湿り気がなく肌を引っ掻くようにして吹きすぎていく。

 屋敷街と中心街との境には大きな川が流れ、そこに一本だけ架かっている古びた橋が、二つの町を繋ぐ唯一の公道になっている。二十四時間体制で治安維持省の歩哨が立ち並び、一定以上の所得を持つ者だけを行き来させる。いつものように身分証と許可証を提示し、指紋の認証とボディチェックを受ける。今日の係は今では珍しい細い銀縁の眼鏡をかけた若い男だった。制服の袖は折らず、ネクタイを一分の隙も無く締め、丁寧に梳かされた髪の上にちょうどのサイズの制帽をのせている。極めて端正な顔をしていたが、その顔は自分の右手が俺の左脇の銃を探り当てると一瞬で歪んだ。

「失礼ですが・・・・・・」

 俺が黙って財布から許可証を見せると、彼の顔はまた一瞬で元の端正なものに戻った。突然道路に飛び出したバッタだって、こんなに素早くは動かないだろう。いかにも犬らしい動きだった。

「失礼いたしました」

「いいさ、気にしてない。毎日こうなんだ」

「申し訳ありません。しかし、これが我々の職務ですので」

「大したもんだ。心の底から尊敬するよ」

「いえ、ありがとうございます。どうぞお気をつけて」

彼は顔を崩さずに元の立ち位置に戻ると、堅い敬礼をして俺を通した。長い息を一つつきながら、バイクを発進させる。橋を越えれば、そこにはとびきり不味い空気と雑多に詰め込まれた喧しさが満ちている中心街だ。

 町に入ってすぐのところにある花屋の前で、俺はバイクを止めた。ヘルメットを脱いでいると、店番をしていた中年の男がプランジャーに弾かれたパチンコ玉のような勢いで俺の元へ駆け寄ってきた。俺がヘルメットをバイクのハンドルに引っかけたときには、もう既に男の笑顔が目の前にある。

「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます。本日はどのようなご用向きでしょう?」

俺が一息つくだけの間に、男は息継ぎ無しでそれだけを喋りきった。俺は財布を出しながら言った。

「花束を作ってほしいんだ。百ゼルもあればいいかな?」

「十分でございますとも。かしこまりました、色の基調や花の種類など、ご希望はございますか?」

「特にない。あなたに任せるよ」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 男が花束を作って戻ってくるまでの間、俺はポケットからウィスキーの瓶を引っ張り出してちびちびと舐めながら、既に人と車の騒音でつんぼになりそうなほどの通りの喧噪を眺めていた。店を開けたばかりの八百屋の前には昼食の材料を求める主婦が群がり、仕事先へ向かう車やバイクがひっきりなしに行き交い、朝早くから遊び続ける子どもの叫び声が途切れ途切れに聞こえる。すり切れたシャツやワンピースを身につけて歩いている通行人が、俺のスーツやバイクをじろじろと眺めた。

 一人の乞食らしき少年が、俺のズボンのベルトを掴んだ。大人用のシャツをすっぽりとかぶり、壊れたスニーカーを足に引っかけるようにして履き、汚水の染みがついたキャップを斜めにかぶり、女物らしきトートバッグを方から担いでいる。僅かに覗いたバッグの中には、くしゃくしゃになった札が何枚か入っていた。

「にいちゃん、お金か食べ物、めぐんでおくれ」

「こらあっ! うちの店先で物乞いなんかするんじゃないっ!」

 血相を変えた店の男が飛び出してくるより早く少年は俺から飛び退いて、あっという間に雑踏の中に紛れてしまった。男は出来上がった花束を俺に渡しながら、何度も頭を下げ、謝罪を口にした。

「申し訳ありません。いつも店先にたむろしないよう気をつけているのですが・・・・・・何かお詫びを」

「別に構わない。何か渡したわけでもないんだから、気に病む必要は無いよ」

「しかし、屋敷街のお客様にこのような不快を・・・・・・」

 俺は財布からきっちり百ゼル出して、男の掌に強く押しつけた。

「俺は花を頼んだ。君は花を作った。その労働に対して俺は対価を払う。そうだな?」

「は、はい」

「ならそれでいいじゃないか。俺はくどい話は好かない。なにより、ただ金だけの関係しかない相手に不快だなんだと気にされるのは、鬱陶しいんだよ」

 それ以上相手のほうを見ずに、俺はヘルメットを被ってバイクを発進させた。花屋ももう少し、腰を据えて選んだ方がいいのかもしれない。だが、この町にそこまで期待をかけるのはあまりにも酷だった。花言葉で文章を作れというようなものだ。左手で抱えた赤い花束は、今がちょうど時期なのかやけに鮮やかで、どことなく不吉な色合いだった。

 花束を抱えているのでゆっくりとバイクを進ませていると、二つ目の交差点にさっきの少年が立っていた。のんびりと草を口に咥えながら、時折通りがかる者たちにさっきのように声をかけている。しばらく見ていると、あるものは邪険に追い払い、あるものは好奇の目で小銭を投げ、あるものは優しげな笑みでこっそりと菓子を与えていた。だが少年はそのどれにも、同じような言葉と表情しか返さなかった。

「よう」

 俺が小さな背中に声をかけると、少年は小走りに駆け寄ってきて、ヘルメット越しに俺の目を覗き込んだ。汚れや泥がこびりついた肌が、バイザーにこすりつけられた。

「さっきのにいちゃん?」

「ああ。こいつはお前だな?」

 俺は、ベルトに挟まっている小さな紙片を指で示した。

「うん。シンシアさんにたのまれた。スーツ着てでかいバイクにのったにいちゃんが、花かったらわたしてくれって。わたしたらごはん食べさせてやるからって」

「ご苦労さん」

 俺は財布から十ゼル札を出して、少年に渡した。少年は、さっきまでの大人たちに対するものと同じ顔でそれを受け取り、トートバッグの中に入れた。そのままバイクから飛び下りて走り去ろうとした背に、俺はもう一度声をかけた。

「おい、坊主」

「なに? にいちゃん」

「お前、恥ずかしいって思ったことあるか?」

「あるよ。弟と妹にごはん食べさせてやれなかったら、はずかしいっておもう」

 俺は少年を手招きした。少年が近くまで来ると、俺は花束から何本か花を抜き取り、百ゼル札二枚を巻いてまとめ、少年に手渡した。

「坊主、良い仕事と言葉だったぜ。だからこいつは気持ちも込みだ」

「いいの?」

「いいのさ。こいつは関係だから渡すんじゃない。俺が渡したいから渡したんだ。良い仕事で、良い言葉だった。これは、お前が受け取るだけの価値があるものだと俺は思う。だから、考える必要はないんだ」

 少年はしばらく首を振っていたが、やがて顔を上げると、俺の手から花を受け取った。

「ありがと、にいちゃん」

 少年少女特有の笑顔で花をしっかりと握りしめたまま、少年は通りを駆けていった。俺は財布をしまい、何回か見過ごした信号をちらりと見てから、ベルトに挟まれた紙片を手にとって開いた。「2・1・1」それだけが、今では貴重な黒のインクで記されている。

「了解」

 呟いて、俺はトライアンフのスピードを上げた。少しは整った町並みが花束をかすめて、遥か後ろへ過ぎ去っていった。



 「カラミティ・ジェーン」の裏口にバイクを止めたのはそれから十五分後だった。そこは中心街の中でもとびきり治安の悪い裏町で、そこら中の路地に浮浪者が座り込んでいた。あるものは合成麻薬の匂いを漂わせながら虚ろな目をアスファルトに投げかけ、ある路地には蠅がたかるほどに腐った犬の死骸が転がっていた。だがこの店の周りだけは、ゴミもなく悪臭もせず、まるで屋敷街の一軒家のように清潔な気品を保っていた。

 こちらを向いている目がないことを確かめてから、裏口の前に立ち、ドアにつけられた場違いなノッカーを鳴らした。まず二回、少し間をおいて一回、最後にもう一回。正確に、伝えられたとおりに、よく聞こえるように。ノッカーから手を離したのと同時にドアが開き、マスターのいかつい顔が目の前に出てきた。くたびれたワイシャツが角張った肩を強調し、ベルトも無しのズボンからは年齢の臭いがし、おまけに口元にビスケットの欠片がこびりついているという有様だったが、ドアを開ける動作には一分の隙もなかった。

「トウジロウか」

「おはよう、マスター」

「朝が早いんだな」

「俺のせいじゃあないよ、お互いに」

「入れ」

 世界中を見渡しても、朝から店を開けている飲み屋なんてものはない。夜は街で一番の賑わいを見せる「カラミティ・ジェーン」も、この時間には昨晩の安酒と煙草を僅かに残すばかりに過ぎない。飲み屋特有の窓のない店内は、朝から電気で煌々と照らされている。うらぶれたカウンターの奥にやせ細ったマスターが入ると、俺はポケットから出したウィスキーで口を湿らしながらその前の椅子に座った。もう片方の手には、風に煽られて少し形がずれた花束が握られている。

「いい身分だな」

「そいつは俺じゃあなく、うちのあばずれ姫に言って欲しいもんだがね。お代わり、いただけるかい?」

 俺が空っぽになったウィスキーの瓶を置くと、マスターはきびきびとした動作で新しい大瓶と新聞を一部出した。

「さすがマスター」

「そいつで見たからな。今度はどこのチャリティーだ?」

「旧南アフリカのゲリラ鎮圧戦だとさ。だからって何も関係ないんだが」

「まあ、お前たちが出張するわけじゃないんだからな」

 俺は大瓶を新聞で巻き、立ち上がってマスターに尋ねた。

「レディ・シンシアは?」

「いつも通りさ」

「じゃ、モニカとイライザは?」

「今日は二階か、屋根裏部屋だろう」

「オーケイ」

 俺は地下へ下る階段へ向かった。マスターは空瓶を捨てながら、カウンターの隅にあるモップを持ち出すところだった。

 急かつ狭い階段を下ると、灯りが変わる。電気のそれから、火のそれへ。燭台に立てられた蝋燭の焦げ臭い光が、地下に特別に作られた広い工房を照らし出す。俺がレンガ造りの床に立つと、ひしめき合う鋼鉄の死体たちの向こうに人影が見えた。つんと鼻をつくオイルや火薬の匂いをくぐり抜けて、その凜とした後ろ姿に近づくと、あちらも気づいたのかこちらを見もせずに言った。

「坊やはちゃんと仕事をしたらしいね」

「ああ、さすがの人選だったよ。レディ・シンシア」

 振り返ると、女性にしては上背のあるシルエットが炎に照らされて輝きを放つ。服は上下とも油まみれのツナギだが、青色に輝く瞳には芯の通った知性がある。微かに潤いのあせた肌には、まるで年齢を感じさせない。間違っても化粧品売り場にはない美しさだ。彼女が丸椅子を指し示したので俺が腰かけると、彼女は作業台の上に転がっていた小ぶりのグラスを投げてよこした。俺はそこに、大瓶からウィスキーを注ぐ。彼女が差し出したもう一つのグラスにも、同じように。

「まずはともかく、乾杯からだ」

「ああ、そうしよう」

 油のぬめりが残るグラスを打ちつけ、一気に飲み干すと気分は一気によくなった。グラスを置いて、俺は新聞と一緒に脇に入れていた拳銃を渡した。スチール製の銃身が、血なまぐさい煌めきを天井にはね返す。彼女は受け取ると一旦銃を作業台の上に置き、新聞にざっと目を通し始めた。俺はそれを待つ間、次のウィスキーを飲んだ。社交欄を読んでいた彼女が、ふと呟いた。

「お前さんも大変だね、バッドボーイ」

「ああ。だから朝から来たのさ。俺の銃を弄れるのはあんたしかいないからな」

「若造にしちゃ感心な心がけじゃないか。あたしはお前さんのそういうところが好きだよ、バッドボーイ」

「俺はあんたのあだ名の付け方に時代を感じるがね、『喪服の女王』様?」

「その呼び方を使うなら、お前さんも野良犬の餌になるが、いいのかい?」

「愚問が過ぎるぜ、レディ・シンシア。ついでに跳弾もな」

「馬鹿だね。旦那と小僧を同列に見てやしないよ、若造」

「そうさ、目上への敬意もろくに知らない馬鹿だからここに来てる。それで、やってもらえるのかい?」

「酒と金があればいくらでもする、相手がよけりゃ酒だけでやる。あたしのモットーだ。だが相手が悪すぎるね。もう少し何かしてもらおうか」

 彼女が新聞越しに俺を見る。俺は左手に花束を提げたまま、肩を浮かせた。

「何をお望みでしょうかね? 気難し屋の我がガンスミスは」

「なに、簡単さ。あたしが調整してる間、上でモニカと遊んでやってほしいんだ。格好つけのお前さんなら簡単だろう?」

 花束を顎でしゃくって、彼女は強烈な笑みを浮かべた。俺も真似をした。

「仕事は夜だから、夕方までなら。それじゃお気に召さないかな?」

「若い娘は夜は寝るもんさ。試し撃ちもあたしがしておくかね?」

「その方が確実だ。今夜は団体客が来るから、弾もたっぷりつけてくれ」

「あいよ、だけどあんたもしっかりやりな。でなきゃこいつの弾がめり込むのは、お前さんのケツの穴だ」

「悪いね、俺の処女はもうしばらく前に先約がもっていったよ」

 彼女が銃を取り上げて、矯めつ眇めつするように眺めた。俺の銃ではあるが、選んだのは彼女だ。今の時代、銃といえば全部自動式で回転式拳銃を使っているやつなんて余程の物好きぐらいしかいない。だが銃に重きを置かないものと、銃と昔が好きな人間が合わされば話は別だ。

 ディスティングイッシュド・コンバットマグナム。一部ではそういう通称がついているのだという。正式名称は、スミス&ウェッソンM686。三次大戦前の立派な骨董品。銃身4インチの、ジンをかけて磨き上げたように銀光りする凶器。ジャムを避けるのと度胸試しにもってこいの代物。歳を重ねた彼女の手で輝くそれは、まるで新品のように見える。伝書鳩がやっと主の元へ手紙を届けたときのようだ。

 俺は大瓶からもう一杯ウィスキーを注ぐと、一息に飲み干して席を立った。彼女は新聞を畳むと、散らかっていた作業台の上を片付け始めた。花束を崩さないようにしながら階段を上りかけて、作業部屋のほうを振り向いた。首だけ捻って、作業台周りの電源を入れ始めた彼女に声をかけた。

「レディ・シンシア、一つお尋ねしてもよろしいかな?」

「なんだい、バッドボーイ」

「旦那と同列に扱っていないから、ファーストネームで呼ばれても怒らないのかい?」

 ぼごん、という鈍い音が耳元でした。同時に腹に響く破裂音が、カーテンのない部屋中に反響する。彼女の右手では、俺の銃が先端の穴から微かな煙を噴いている。俺の顔から、右にわずか二センチの位置に弾丸がめり込んだ小さな痕が残っていた。

「悪党そのものだね、お前さんは。口はちゃらく、態度は軽薄で、汚い仕事を安く請け負い、凶器を平気で人に預ける。だからバッドボーイというのさ」

「そうさ、俺は悪党だ。だが、さすがにあんたに敵うと思ったことは一度もないよ」

 かつて『喪服の女王』と呼ばれる殺し屋だった裏社会最強の女傑は、俺のその言葉に満足したように銃を下ろした。俺はもう一度階段を上り始めた。今度は口を開かなかった。



 二階には誰もいなかった。酒と煙草の一階や火薬とオイルの地下と違って、二階には埃さえ少ない清潔な空気が満ちている。階段を上がったところに扉が四つ。ダイニングと夫婦の寝室、そして子どもたちの寝室だ。こういう作りになっている点でも、この家はこの街では珍しい。あの夫婦だからこその家を更に上へ上る。そこは、姉妹が憩う小さな屋根裏部屋だ。

 半ば梯子に近い急階段を上がると、日の光だけで照らされた狭い空間がある。物置代わりに使われているせいで、鼠の額ほどのスペースしかない。そこに身をぴったりと寄せ合って、二人の少女が楽しそうに談笑していた。一人は小柄で黒髪、もう一人は背が高い金髪だ。俺が最後の一段を上がりきると、二人とも物音に気づいてこちらを振り返り、ハイトーンの声を上げた。

「あ、トウジロウ!」

「来てたんだ、久しぶりじゃん」

「やあ、モニカ、イライザ。久しぶりだから土産をもってきたぜ」

「派手な贈り物ね。いつも持て余すわ」

「それに、なんだかお金がかかりすぎてる感じ」

「選んだ花屋が悪かったんだ。赤はお気に召さなかったかな」

 花束を渡しながら俺が苦笑すると、二人はにこにこと笑いながら赤の塊を受け取り、そばの花瓶からしおれた花を抜いて花を差し直した。日の光に照らされると、その赤はよりいっそうけばけばしく見える。

 俺が残されたスペースにそっと腰を下ろすと、イライザが傍らの木箱からジンの瓶を取り出して俺に投げた。きちんと封がされた、純正の酒。

「あんたは飲むでしょ? 酔いどれ野郎」

「口が悪いな。だがありがとう。貰うよ」

「トウジロウ、今日はどうしたの? またお仕事?」

「ま、そういうことだ。今は君らのお母さんにお仕事してもらってるところだよ。それが終わるまでお前たちと遊んできてくれって言われてな」

「じゃあ、今日はずっとここにいるわけ?」

「夕方までだけどな。その後は非公開だ」

「でもそれまではいてくれるんだよね? 何して遊ぶ?」

 モニカが無邪気な笑顔で俺に訊ねる。牧師が見たら祈りでも捧げ始めそうな笑顔だ。少しだけ考える振りをしてから、ジンで口を湿らせて俺は言った。

「モニカ、右手の調子はどうだ?」

「ん? ばっちり。絶好調。複雑なことも出来るよ」

「そうか。イライザ、一番の腕利きがこう言ってるし、せっかくだ。ポーカーはどうだ?」

「・・・・・・もちろん、賭けるんでしょう?」

「もちろん、と言うべきところだろうが、無銭にしておこうぜ。いくら最強のディーラーが相手でも、朝っぱらから現ナマ勝負ってのは危なっかしい。いささかスリルはないかもしれないがな。どうだ?」

「乗った。モニカ、酔っ払いだし、遠慮なくこてんぱんにしちゃっていいよ」

「オッケー、お姉ちゃん。カード取って」

 イライザが床に散らばったトランプを手早く集めて、モニカに渡した。受け取るモニカの手は、金属と人工繊維で作られた独特の硬い動きをする。だがその手にカードが渡ったとたん、五十三枚のカードが一斉にダンスを踊る。見ていると目が回りそうな動きで、カードが回り、返り、飛んで入れ替わる。その目まぐるしさは酔いのせいだけではない。俺がジンを傾けている横で、イライザはポケットから出した玩具のチップを丁寧に揃え、三人の前に均等に置いた。モニカの右手が、シャッフルしきったカードを山にして俺に差し出した。

「カットする?」

「いや、そのままでいい」

 モニカははにかんで、三人に五枚ずつ、ぴたりと端を揃えてカードを配った。全員が一斉に手札を確認する。

「まず参加料、よろしく」

 ディーラーの言葉に、一人一個ずつ、計三枚のチップが餌を求めるハムスターのように床に転がり出た。

「じゃ、ディーラーだから私からね。二枚チェンジ」

 モニカが更に一枚チップを出す。

「あたしは一枚でいいや」

 イライザはハートの2を捨てた。

「俺は二枚変える」

 互いの視線が、軽く衝突した。

「まだ様子見かな。一個追加。どうする?」

「・・・・・・コールだね」

「俺はレイズだ。もう一個」

「飛ばすね。コール」

「こっちもコール」

「出揃ったな。ディーラー、よろしく」

「では、ショウダウン」

 それぞれの運が、さらけ出された。

「あたしはツーペア。10とK」

「悪いなイライザ。クローバーのフラッシュだ」

「ちぇ。モニカ、あんたは?」

 イライザに頬を膨らませながら訊かれると、一番年若いディーラーは年相応の満面の笑みになった。

「ごめんね二人とも。3のフォーカードなの」

 俺たち二人が手札を投げ捨てる脇で、細い左腕が散らばったチップを奪い取っていった。俺はまたジンを一口飲んで、次のチップを一枚指で弾いて床に落とした。

「まあ、今はまだ午前中だ。どんどんいこうか」

「そうだね。あんたオケラにするのが目標だし」

「冗談。今だって負けてたろう」

「お姉ちゃんには勝てても、私に勝てなきゃ意味ないよ?」

「じゃあ、花束の代わりに勝てる手札を配ってくれよ、ディーラー」

「あれじゃブタしかやれないよ、ねえモニカ?」

「でもまあお金かかってるし、一回ぐらいなら、ね?」

 シャッフルが終わり、カードが配られる。拾い上げた俺の手札には、Jのスリーカードが揃っていた。



 モニカが祖国の内戦で右半身を吹っ飛ばされたのはまだ五歳の時のことだった。当時既に隆盛していた機械化技術で命は取り留めたものの、体の四割以上を機械化したために生命維持の大部分は機械に頼っている。人工皮膚のおかげで傍目にはそれと分からないが、雨の日に腕を動かしづらそうにしていたりすると、イライザによく助けてもらっている。親があの二人でなかったなら、これほどのギャンブラーにはなれなかったに違いない。内戦が頻発している国では、質のいい機械化は本物の酒のように珍しいものだ。

 父は傭兵で母は殺し屋、姉はダンサーで妹はギャンブラー。すれっからしの悪党が長い付き合いを持てるのも、この薄汚れた街で清潔な飲み屋を保てるのも、こんな人道を外れた一家ぐらいのものだった。

 マスターに昼食として持って来てもらったパンの皿が三枚重なり、俺の足下に空っぽのジンの瓶がピラミッドを作り上げた頃には日はすっかり傾き、宣言通り俺のチップは全て持っていかれた。同じく丸裸にされたイライザがAと2のフルハウスを放り出したところで、俺は席を立った。

「あれ、もう行くの?」

「さすがにそろそろ行かないと、俺の主人が目くじら立てるんでな」

「負け逃げ? 一文無しでも勝つまでやるのが男じゃないの」

「素寒貧に噛みつかれても痛くもねぇな。じゃ、二人ともさよならだ」

「うん、またね」

「なにもなくても来なさいよ、酔っ払い。酒は山ほどあるんだから」

 イライザの口の悪さには微笑んだだけで、俺は梯子を下りた。一階まで降りると、空になった大瓶を抱えたレディ・シンシアと、開店準備を整えたマスターが待っていた。カウンターには、鏡のように磨き上げられた俺の銃がむき身で転がされている。

「ご苦労さん。終わってるよ」

「いつもありがとう。弾は?」

「ほれ、不発のチェックは終わってる。100%安全な弾だけさ」

 投げつけられた紙包みを受け取り、火薬と鉛の感触を確かめる。銃を取り上げたとき、彼女が広げている新聞の記事が目に入った。『南方戦線、我が軍完全勝利目前』『歌姫アリア・オーリエンダーのコンサートに襲撃予告』『治安維持省、反政府組織掃討作戦への追加動員を決定』『旧ロシア戦線、なおも睨み合い続く』・・・・・・・・・

「一杯飲んでいくか?」

 マスターが出したグラスを、俺はそっと押し戻した。酔いどれの時間は、そろそろお終いだ。今夜のパーティーは、素面が参加条件となる。銃を脇に差し込んで、俺は決まった額の金をカウンターに置いた。

「領収書は?」

「マスター、たまに冗談言うけど上手くないぜ」

「たまには普通に飲みにも来い。イライザがダンスを見てほしがっているからな」

「せっかくのお誘いだが、囃し立てるのは趣味じゃないんだ。サシの時にお願いしよう」

「無駄な忠告だろうけどね。生意気な口は控えなよ、バッドボーイ」

「生憎、うちの姫様は俺以上の性悪なもんでね。これぐらいじゃないと渡り合えないのさ」

 脳裏に今朝見たネグリジェと生足を描きながら、俺はドアを開けて裏口から静かに出、バイクにまたがった。時間が経った裏街は傾いた陽で赤く染まり始め、しかしそれとはまったく無関係であるかのように淀んだ貧しさを隠そうともしない。ヘルメットを被ってスロットルを回しかけたとき、つむじのあたりに痒いような気配を感じた。

「トウジロウ」

 バイザーを上げて見上げると、二階の窓からイライザだけが顔を出していた。彫像のようなすまし顔で、頬杖をついている。うなじのところで束ねられた短めの金髪が、僅かにくすんでいた。

「どうした?」

「・・・・・・・・・あんたさぁ、少し優しすぎるよ」

「知ってるさ」

「今日もこれから、殺し合いに行くんでしょ? だのにあんたには、現実を知ってる人間の苦しみってものがまるでない。感情が損なわれてないから、余計に不思議になるの。それとも、全部作り物なの? だから損なわれていないように見えるだけ? だから、他人なのにあたしとモニカが平等に扱えるの? 悪党悪党ってのたまうくせに、なんでいつもあたしたちにあんなに優しくしてくれるの?」

「自分に嘘がつけないようじゃ生きていくなんて到底出来ない。善く振る舞えないようならなおさらだ。だが本当に大切な相手に嘘をつかないことが出来ないなら、そんなやつは生きてる価値もないんだよ」

 イライザが何か言うより前に、俺はバイザーを下げてスロットルを勢いよく回した。タイヤが地面を焦がし、排気音が耳をつんざく。酔いが抜けてきた剥き出しの脳にはいっそうきつく響く。文字通り風を切りながら、トライアンフは汚れた街を鳥より早く駆け抜けていった。



 再び家族の家に戻った店で、最初に口を開いたのは家の主だった。酒瓶の並びを丁寧に揃えながら、いかにも重そうに口を開く。

「トウジロウのやつ、まだ律儀にあのマグナムを使ってるんだな」

「単純なボーイだよ。そこがグッドでもあり、バッドでもある」

 その妻たる女傑は、新聞を広げて顔を見せないまま、声だけで笑った。

「M686。『区別されたコンバットマグナム』か。しかしいくら生まれが違うとはいえ、あんな大戦前の遺物で、よく軍人崩れや傭兵とやり合えるものだ」

「あれに頼ってるわけじゃないからね。あれはあいつにとっちゃ、ただの便利な凶器、程度のものさ。本来の土俵より外から人が殺せるって、ただそれだけの感覚なんだよ。もう一杯」

「なるほどな。ウィスキーか?」

「いや、ジンだね」

 不気味に響いた階段の軋みに、しかし二人は振り向かない。花の入った花瓶を抱えて、降りてきたのは年上の娘だった。

「父さん、母さん」

「イライザ」

「モニカは?」

「寝た。さんざん遊んだから疲れたみたいよ。あいつの話?」

「ああ。あたしがくれてやった銃の話さ」

「あいつも大したやつだってな」

「本人が一番、そう思ってるかもしれないけどね」

 カウンターに花瓶を置き、娘は物憂げに頬杖をついた。

「ああ、そりゃあそうだろうさ。悪党は謙遜も自重もしないよ」

「悪党、ね。実際どうだか」

「何か気づいたのかい、イライザ」

 主の男は、取り出しかけた酒瓶をそっと元の位置に戻した。

「・・・・・・トウジロウって、私たちと同じ基準で生きてないよね? 善悪とか好き嫌いの計り方が、あたしたちとまるで違う」

「だろうな。至極当然とも言える」

「酔っ払いに、まともな基準なんてありゃしないよ。よく見てるだろう」

「母さん」

「・・・・・・シンシア。そういうことらしいぞ?」

 母の前にショットグラスを滑らせながら、父は懐かしさに浸った顔でそう言った。母のほうも受け取ったグラスをひとまず口をつけずに置き、窺うことを拒むような愛娘の表情を見ていた。

「おやおや。また危なっかしい穴に落ちたもんだ。よりにもよって、あの決断一つのバッドボーイとはね」

「まあ、望み薄だよ。けど母さんの娘って時点でもうある程度分かってたんじゃない? そこだけは自分で決める。悪いけど譲らないよ」

「・・・・・・・・・イライザ、トウジロウに奢ろうかと思っていた酒がある。せっかくだからお前にやろう。それでも飲みながら部屋で休んできな、仕事は夕飯食ってからでもいい」

「それともう一つ。あのバッドボーイ、一対一だったらあんたのダンス見てもいいって言ってたよ。せっかくだ、薬の一つでも盛ってやりな」

「いいよ、要らない。いつもは無理だけど今回ぐらい、あいつと同じやり方で勝負したいからさ」

 ウィスキーの瓶を握りしめ、娘は二階の自室へ階段を上がっていった。残った二人の大人は、無言でジンのグラスを二つに増やし、中身がこぼれるほど強く打ちつけた。

「しかしイライザも、でかい相手に勝負を挑んだもんだ」

「まあ知ってるんだろうけどね。さて、どうなることやら」

 歌姫の写真に目を落としながら、父と母は酒を飲み干した。



 コンサートホールの裏にバイクを止める頃には、すっかり街は夕暮れに包まれていた。集まった観客たちと警備の軍がやっている交通整理のせいで、正面広場は酒場のような騒がしさだ。いつもの通りに関係者用の入口で顔だけのチェックを受けると、中も本番を控えた関係者たちで表とさほど変わらなかった。勝手知ったる通路を進んで音響ルームの分厚いドアを開けると、モーリスがたった一人で音響チェックをしているところだった。年若い声でインカム越しに矢継ぎ早に指示を飛ばす姿を、俺は後ろでじっと眺めていた。

「なんだ、もう来ていたのかい」

 モーリスが振り向いたときには、俺は今朝受け取った端末でざっくり想定プランをチェックし終わったところだった。

「よう、音響監督殿」

「トウジロウ、彼女から聞いたが今夜は仕事だそうだね。あまり喧しくしないでくれよ、コンサートの邪魔だけはしないでくれたまえ」

「お前だけは言うことが変わらないな。安心するよ」

「君が仕事のたびに僕のなけなしの誇りを汚すからさ。僕の仕事はこのコンサート。君の仕事は殺し合いだ。領分が違うんだから邪魔をしないでくれとお願いしているだけさ。命令じゃないだけありがたく思いたまえ」

「そいつは的外れだな。あの主人に協力しているという点で一緒だろう」

 俺は手の中の端末を持ち上げてひらひらと振った。モーリスは苦々しい顔こそしなかったが、インカムを耳から外して俺のものと同じ端末をポケットから出すだけの動作をずいぶんゆっくりとやった。

「もちろん契約しているんだから、頼まれれば最低限の援護はする。だが僕は自分のこの仕事を誇りと考えているし、その誇りを汚されることを最も嫌悪する。彼女は僕が知る限り最も美しく歌える人だ。僕はその美しさを引き出すためになら如何なる努力も惜しまない。君たちに協力しているのはそのためだ。履き違えないでもらいたいね」

「モーリス。お前がぶれないことは尊敬しているよ。だが俺も常々言っているが、彼女が美しいという勘違いは正しておいた方がいいと思うぜ」

「・・・・・・無いというなら作るだけさ、僕がね」

「ならせいぜい張り切って協力してくれよ。彼女の目指す美しさのために」

「いいだろう。彼女の美しさのために」

 端末の同期が完了したことを知らせるバイブレーションが二重奏で鳴った。互いに目も合わせず端末をしまい、モーリスはチェックに戻り俺は部屋を出た。ドアの閉まる音は、通路の喧噪にかき消されてまったく聞こえなかった。

 階段をいくつか上り、通路を曲がり、長く迷路のような道のりを進むと、ドアの脇に見慣れた名前が書かれた紙が貼られた楽屋に辿り着く。他の出演者の楽屋とは違い、警備こそいないが明らかに最高ランクのセキュリティーでガードされた部屋だ。俺が部屋の前に立つと同時に、音もなく扉が開き彼女が顔を出した。

「来たわね、僕。ほぼ予定通り」

「お久しぶり、主人」

 部屋の中は布と化粧品と装飾品と女の匂いが籠もっている。何枚もの姿見と六つの大型クローゼット、そして長机の上には高級化粧品の数々と山と積まれた祝いの品。愛を告白する手紙が煩雑に詰め込まれた紙箱が三つ、床に置かれたままになっている。そして彼女自身も、屋敷とは違う豪華絢爛極まった姿だった。遙か昔の時代の貴族を思わせる布の塊のようなドレス、薄すぎない程度に塗られた頬紅とサーモンピンクのルージュ、微かに漂う香水、そしてあの長い髪は複雑にまとめられ、頭頂部で螺旋状の塔を形成している。どこからどう見てもメアリー・スチュアートかマリー・アントワネットだ。俺は思わずスーツのネクタイを少し緩めた。

「それで、首尾は? モーリスとはもう会ってるんでしょう?」

 彼女は長大なソファーに身を横たえ、ミネラルウォーターで口を潤しながら俺に訊ねた。

「上々。やつの剣幕も君の暑苦しさも変わらない。客が来たらすぐにでも始められる」

「結構。少しは台詞がマシになったようで何よりだわ。でもまあ開始までまだしばらくあるし、酔いをちゃんと覚ましていきなさいよ。あなたはモーリスと違って焦らないのが美徳なんだから」

「もうほとんど抜けてるよ。それに、君まで俺を勘違いしてるんじゃたまらないな」

「勘違いと矛盾は世の常でしょう? それが嫌なら天命に訊いてあげるわ」

 彼女はミネラルウォーターのボトルを放り出すと、机の上の山の中から何かのカードを一式引っ張りだし、テーブルの上に広げてかき混ぜ始めた。トランプよりも大きく、枚数も少ない。初めて見るカードだった。

「何をしようっていうんだ?」

「単なる占いよ。昔からある、おまじない」

「占い? 冗談じゃない、俺は降りさせてもらうぜ」

「あら、あれだけカードゲーム好きのくせに、賭けじゃなくなると引っ込むわけ?」

「挑発してるつもりかよ。俺が糞真面目な学生にでも見えてるっていうのか?」

「まあ、あなたがどう言ったって勝手にやらせてもらうから関係ないけどね。私があなたの運勢を知ってみたいだけだから」

「ふん、いつだって時と場所次第と今朝言ってただろう。神経が何ヶ所か切れてるんじゃないよな」

「今さっき言ったじゃない、矛盾は世の常だってね。それに、大昔からこのカードほど運命を託すのに向いたカードはないわ」

「昔からこんなのがあったのかよ。トランプよりは小綺麗みたいだが、なんなんだそれ?」

「タロットカード。覚えておくと役立つわよ」

「さて、どうだかな。銃のほうが当てになるぜ」

 彼女は混ぜ終わったカードを山にして、机の上に置いた。彼女の隣に腰を下ろした俺は、ただその光景を眺めていた。壁に掛けられたデジタル時計が、音を立てているような錯覚を感じた。首にかけたネックレスがシャツの下で動いた。

「絵を見ずに上から一枚引く。出たカードがあなたの運勢よ。やってみたら?」

「降りると言ったろ。やるなら君が勝手にやればいい」

「つれないわね。それとも嘘が上手くなっただけかしら」

 俺が答えないでいると、彼女は悪戯な微笑みを浮かべながら山札の一番上をめくり、突然素っ頓狂な声で笑い始めた。俺は訊いた。

「なんだ、急に?」

「あなたって大したものよね。本当に退屈させてくれない。よりにもよってこのカードが出てきたわ」

 彼女が見せたカードには、フードをかぶり大鎌を持った骸骨が劇画のようなタッチで描かれている。その下にカードの名前だろうか、「13」の数字と「DEATH」の文字が書かれている。

「なるほど、どうやら今日は最悪らしいな」

「なにせ『死神』だから」

「じゃあ、運勢に従って終わらせてくるとするさ」

 俺はソファーから立ち上がった。ドアへ向かう背中に彼女が問う。

「あなたが終わるのよ? これ、あなたの運勢なんだから」

「他人が引いた運勢だろ。だったら別の他人に押しつけるまでだ。それに、俺たちが終わってるのは元からだろ」

「私たちだけじゃないけどね」

「だからそんな占いは関係ないな。詳しい意味は知らないが、どうせろくな意味じゃないんだろ?」

「ええ。『終わり』『死』『お別れ』の暗示だそうよ」

「じゃあ尚更だ。俺はもう行くよ。せいぜい君も、モーリスが倒れるぐらいの良い声で歌ってくるといい」

「ええ、そうするわ。あなたもまあ、運命に負けないことね。あなたが死なないことは分かってるけれど」

「そんなやつと戦ってた覚えはないな」

 俺はドアを閉めた。そのまま来た道とは別の道を辿り、表向きには知らされていない階段を下る。それは、ホールそのものの更に下、全く別の空間へと広がる数少ない道の一つだ。血なまぐさい殺し合いの場は、華やかな舞台ではなく薄暗い地下であった方がいい。人目につかず、処理も容易く、存分にやれる。

 俺は緩めていたネクタイを締め直し、ポケットから端末を取り出した。タッチとスワイプで目当ての画面を開き、中央の赤い文字を押す。

『MISSION START』そして、残された時が一つずつすり減り始める。今頃明るいステージには、人々の灼熱に近い期待が注がれていることだろう。そこに希望を背負って立つのは、この国一番の歌姫。その絢爛豪華のすぐ下で、血塗られた舞踏会の幕も静かに上がる。

地下から吹き上げる冷気が、無意識の震えを起こさせる。脇に入れている拳銃に服越しに触れる。調整が済んだ凶器の重みが、体中の血と細胞を入れ替えていく。アルコールの霧は完全に晴れた。

 傷と、鉄の臭いがする。



 青年が去った控え室は、彼が来る前の虚無を取り戻していた。見た目のせいで少女に見える彼の主人は、豪奢なドレスの裾を折り曲げたままソファーの上で自分がめくったカードを眺めていた。さっきまでの雄弁な彼女はどこへ行ったのか、一言も口を発さない。そのまま思い出したように机の上のミネラルウォーターに手を伸ばそうとして、ふと彼女は死神のカードをもう一度見直した。

「あ、これ、逆位置だ」

 彼女の記憶が、タロットの意味を紐解き始める。死神の逆位置が意味するものは。

「『起死回生』だったっけ? 確か・・・・・・なるほど、本当あなたはさすがだわ」

 彼女はそのままになっていた山札に手を伸ばし、更に上から二枚引いた。今度のカードは、どちらも正位置だ。二枚のカードをじっくり眺め、そして意味を思い出すために目をしばらく閉じ、そして彼女は満足げに微笑んだ。

「『審判』と『世界』か・・・・・・あんなこと言ってるわりに、本当よく出来た運命持ってるわね、あなたは」

 彼女は三枚のカードを机の上に放り出すと、一口だけミネラルウォーターを飲み、軽く身だしなみを整え直すと控え室を出た。長い長い廊下をまっすぐに歩く彼女の横顔には、託した相手を信じる者だけが持つ微かな輝きがあった。

「しかし、いつものこととはいえ、こういう衣装の堅苦しさだけは辟易するわね。早く本気で歌わせてよ、トウジロウ」

 ちょっとでは見えないように隠された背中のジッパーに手をかけながら、彼女は邪悪な笑みを覗かせた。



 カタコンブ。大戦の前この地下空間は、そんな呼び方で観光名所になっていた。待ちの地下に蟻の巣よりも複雑に広がった、巨大な地下の墓地。めったやたらに詰め込まれたおかげで壁のようになっていた骨が、珍奇な見世物として公開されていたと、いつか彼女が話していた。だが大戦の時に地下の避難所兼ゲリラの潜伏場所となったことから、ここはその様相を変えた。街の下水道や地下鉄と繋がることでその規模は更に大きく深くなり、作り手たちにも把握しきれない暗闇は敵国の追跡者たちを容易に撒いた。大昔の水路が再び蘇り、川に繋がれたそれは街と街を秘密のうちに繋ぐ貴重な道になった。かつての観光地は、戦争のための陣地になった。

 そして敗戦と瓦解によって表向き忘れ去られた今は、再び戦場になっている。

 まるで棍棒で頭をどやされたかのように、カタコンブの中は闇が支配している。その黒色の中に不意に、閃光が一瞬きらめいた。閃光がすぐさま消えた次の瞬間、微かな水音とともに、闇の中にいくつもの気配が現れた。ざっと数えただけで十四、五人はいるだろう。しかし全員が最小限の物音だけで行動する術を心得ていることは、水音の微かな滴りも抑えていることから明らかだった。プロの兵士たちなのだ。

 彼らは全員水路から上がると、素早くウェットスーツを脱ぎ捨てた。頭まで包んでいたスーツの下は、全員が物々しい装備で身を固めている。大小様々な重火器に、投擲武器や防弾チョッキ、サイボーグレベルで機械化しているものもいる。顔は暗視ゴーグルやマスクのせいでよく見えなかったが、彼らが放つ殺気は素人にでも感じられそうなほど尖っていた。手強い者たちなのだろう。一切無音のまま彼らは自分の武器を手に、進むべき道を探し始める。

 そこまで確認したところで、俺は暗視スコープ付きの照準鏡を目から外した。これ以上見ている意味はない。予測プランのどれを選ぼうと、どうせ全員亡き者にすることが最初から決まっているのだから。俺は暗視スコープを床に置き、ポケットから取り出した黒い小球を掌に握りこんだ。形は果物そっくりの楕円形、大きさは掌から少しはみ出すほど。手首にそこそこの重みを伝えるその中に詰まっているのは、新鮮な果汁でも単なる爆薬でもない。目標までは、距離およそ五十メートル。

「さて、本日のオードブルは丸ごとレモンから」

 踏み込み、体の捻り、そして肩から腕までの筋力、振りかぶりから投擲までの間に、全てのエネルギーをレモンの運動エネルギーに変換する。まともな人間なら投げられてもせいぜい二、三十メートルだろう。だが俺なら、なにも問題はない。暗闇の中を飛来する黒いレモンを、予測できるやつはまずいない。だからこの不意打ちは、大体いつも成功する。

 俺が目を閉じて両耳を塞いでから一拍おいて、すさまじい閃光と一瞬の爆音が地下空間に轟いた。カーテンのような空気の乱れを吸収するものがない以上、その音は反響する。そして暗視スコープを身につけたものにとっては、光は最も避けなくてはならないものの一つだ。たとえ攻撃時間はほんの僅かではあるかもしれないが、その威力は弾丸を喰らうようなものなのだから。

 なおも残る反響の中で改めて自分の暗視スコープで確認すると、案の定大多数の人間が呻き声を上げながら地面にうずくまっていた。悲鳴を上げている者もいれば、偶然スコープを装着していなかったのか仲間を助け起こしている者もいる。右の二の腕を軽く揉みほぐしながら、俺は脇のホルスターから拳銃を静かに取り出した。右手でホールドし、左手で固定。昔教えられたとおり撃鉄は既に起こしてある。暗視スコープを銃身に固定し、もがき続ける塊に正確に狙いを定めた。オードブルの次は、スープと相場が決まっている。

「人肉の血液煮込み、いや冷製スープかな」

 静かに肺を空にし、地を指から脳まで直列に繋げる。そうすればあとは、端末の電源を入れるように容易い。

 ばんばんばんばんばんばん。

 サイレンサー無しの轟音が規則正しく六度。それで破れた血袋が六つ出来上がりだ。空薬莢を排出しながら、五十メートル先の叫喚には耳を塞ぐ。暗視スコープはもう用済みだ。手元の端末から規定の信号を送信すれば、モーリスがやるべきことをやる。光を見つけられないよう物影に身を滑り込ませ、信号を送信。

 ほとんどタイムラグ無しで、まばゆい光がカタコンブ全体を包み込んだ。一見分からないようにしてあるので実際にはそこまで多くの照明があるわけではないが、闇に慣れた目にはこの眩しさは堪える。もちろん来ると分かっていて目を閉じていれば関係ないが。俺はジャケットやズボンの各ポケットに詰めた弾丸をシリンダーに装填し、景気づけに軽く回転させた。細胞も意識も、張りつめたギターの弦そのものだ。

「さて、パーティーの始まりだ」

 楽しんでいこうぜ、善人諸君。



 コンサートが始まってからの熱気は、開始一時間が過ぎてもいっこうに収まりを見せない。しかしそもそもこのコンサートは、大戦前は普通だったような荘厳華麗なコンサートとは趣を異にするのだから当然のことではあった。

 上流階層が中心のホール内だけでなく、スクリーンを設置した特設の屋外席にも一般の観客が押し寄せ、軍隊が対応に苦慮している。そんな光景を休憩中の楽屋で中継画面越しに眺めながら、今宵の主役たる歌姫は物憂げに溜息をついていた。

「何度もやってるしいつも通りだとはいえ、我ながらすさまじいものね」

 一着数万ゼルもするのではないかというドレスの裾をくしゃくしゃにしながら、ソファーに長々と身を投げ出している彼女の姿は貴族そのもの。喉のケアも曲の確認もせず、ただじっと体を休めている様は岩場でくつろぐ人魚のようだ。ただそんな姿ではあったが、彼女自身は休んでいるわけではない。耳に差し込んだインカムと、手元の携帯端末に意識を落としている。

 何かの地図が、画面に映っている。いくつもの赤い点と一つきりの青の点が地図上を忙しなく動き回り、時折位置が重なって、そして赤い点が一つずつ消えてくのを彼女は淡々と数えていた。インカムからは何の音も聞こえない。つまり、通信は行われていないということだ。外の世界を見ているときは退屈そうだった表情が、地図を見るときはにこやかな笑顔になる。満足そうに地図を閉じると、彼女は通信用の画面を開き暗号化された回線を繋いだ。

「モーリス、聞こえてる?」

「こんばんは、プリンセス。何かありましたか?」

「なにも。順調なようだから、嬉しくてね」

「そのようですね。忌々しいですが、あの男は優秀ですから」

「あなたの数少ない良いところは、誰の前でも隠さないところよね」

「お褒めいただきありがとうございます。皮肉でも嬉しいですよ」

「あら、あなたは腕も良いわよ」

「やつに劣るのでは、生きている意味がありません」

 インカムに響く声には、明らかな嫉妬と憎しみが籠もっていた。上機嫌な高笑いを上げて、彼女はソファーから身を起こした。

「そろそろ後半が始まるわ。最高の音をよろしくね」

「お任せください。全てはあなたの理想通りに」

「頼んだわ、監督さん」

 通信を切り、端末を贈り物の山の中へ放り投げると、笑顔はいっそう上機嫌になった。狂信がもたらす多幸感が、ぶるりとたおやかな体を震わせる。背中のジッパーを指でいじりながら、彼女は部屋を出てステージへと歩を進める。喧噪はいっこうに鳴り止まず、距離のあるここまでも地鳴りのような歓声が聞こえている。しかし、彼女の耳には別の音が響いていた。

『う、うわあああ!』

『怯むな! 突破するんだ!』

ばん。

『ジョーっ! くっそおおおおお!』

『許さん、悪魔の手先め!』

 タタタタタタタッ。ガシャン、ギリギリ、バゴ、ズズズズズ、バキン。

 ばんばんばん。かしゃ、ちゃりちゃりん。どさ、どさ。

『悪魔、ね。思ってる以上に悪かないけどな』

「嬉しいこと言ってくれるじゃない、僕」

 この調子じゃ今日は歌えるのかしらね。そんな密やかな呟きを喉の下に隠して、歌姫は光り輝く舞台へ進み出る。瞬間、世界を満たす喧噪の中で、彼女は予言を告げる天使のように透き通る声を発した。

「それでは、戦地で戦う勇敢なる兵士のみなさんのために。みなさんも一緒に祈りを込めて歌いましょう」

 まあ、響かせるのはあなたたちに、だけど。

 世界を統一する歌声の裏に、悪魔の囁きはそっと隠されている。



 カタコンブから地上へ上がるルートは、今ではほんの僅かしかない。そして彼ら正義の徒が目指す道は一本だけだ。だからこちらの作戦は至極単純に済む。最初に頭数を削り、あとは散開した少数を一人ずつ潰す。いつもそうだし、いつも通りが一番強い。移り気な人間は、いつもどこかしら穴を持つものだ。

 地上へ繋がる階段の前には少し広い広場のようなスペースがあり、そこに重装備に身を固めた肉塊が五つ、ごろごろ芋のように転がっている。中には肉塊と言うより機械塊とでも言うべきものも混じっているが、そんなものでも一応赤い血は流れている。地面に出来た赤い池がその証拠。明るく照らされている今の地下では、酸化して黒ずんでいく様もゆっくりと観察できる。いつも濃厚な死の気配に満ちた光景だ。

 端末の画面と最初に見た時数えた人数をざっと照らし合わせ、残存の勢力を確認。地図上に確認できる点は、あと四つ。どうやら計算は合っている。しかし、二つと一つは別れてこちらに向かっているが、残る一つは離れた位置からゆっくりとしか移動していない。どうやら別の思惑があるのか、それとも。

「別行動じゃないと巻き込む恐れがある、か?」

 弾丸を込め直しながら、呟きが漏れた。目を閉じて、ネックレスに手をやる。細胞のぴりぴりとした冴え渡りはいっそう強い。だが、これぐらいならまだ大丈夫だ。その冴えが、近づいてくる金属音と足音を感じ取った。ゆっくりと間合いを詰めているつもりらしいが、音が反響するこの環境で金属音は致命的だ。そして何よりここは、攻め込んでくるものを追い込めるような構造に作ってある。

 通路から階段前の広い空間に踏み込んだ瞬間、その男の頭がザクロのようにはじけ飛んだ。恐らく何が起こったのか気づいていないのだろう、首から上がなくなった歪な人形が、呻き声の一つもあげずに地面に倒れ伏した。ガシャンという金属のぶつかり合う凄まじい音がしたが、その音にはもう慣れている。そのまま撃鉄を起こそうとしたところで、通路の奥から俺の銃と似たような炸裂音がした。

 とっさに身を翻して階段の影に入った瞬間、反響する炸裂音に鈍い爆発音が重なった。同時に広場の壁や天井いちめんに、何かがぶつかり石がひび割れる。肉に金属が食い込む鈍い音も、それに混じって僅かに聞こえた。炸裂式の榴弾砲だ。

「そうか、もう一人いたんだっけな」

 独り言の間に、広場に鉄の塊が踏み込んできた。隠密を考えてはいないらしく、全身を覆う機械が剥き出しだ。右腕から煙が出ているところを見ると、砲塔はそこに仕込まれているらしい。洗練されたデザインの最新式らしく、人間を上回る速度で一直線に階段に足をかける。恐らくそのまま数秒で階段を駆け上がり、上のステージで歌っている目標を確保するだろう。訓練と質が示す、いい動きだった。

「だが残念だな」

 俺がその正面に立ちふさがると、半分機械の人間は驚愕の表情で足を止めた。

「そんな馬鹿な・・・・・・! 俺の速度より早いだと・・・・・・!?」

「当たり前だろ。お前じゃ役ももらえない」

 どうやら顔面はある程度人間らしく、必死の形相で男は全身の武器をこちらへ向けた。だが、それも遅い。この瞬間でも、人生でも。

 この距離で銃は使わない。銃は、俺にとっては便利な道具に過ぎないからだ。レディ・シンシアに言われて使い始めてから多少気に入ってはいるが、つまるところ殺せる距離が広くなるだけのものだし、弾もいるし音も大きい。何より他人の趣味は身につかない。だからただ、生まれ持った拳を握る。

 轟音より先に、鈍い破壊音が骨に伝わった。ぐしゃ。

「うっぐぁ!?」

「脆いな。乙女の柔肌じゃねぇか」

 左の次は右、その次はまた左。コツは腰を据えて体全体の捻りを使うこと。十発も叩き込むと、相手は物言わぬスクラップと化して足下に転がった。俺の拳と同じ大きさの破壊痕が至る所にへこみを作り、そこから火花が出たり残っていた血が吹き出したりしている。金も執念もかかっているのだろうが、今はただただ惨めな死体だった。特になにもなく、俺はそれを動きやすいよう隅へ蹴飛ばしておく。スクラップは血の池を滑り、お仲間の隣に横たわった。ご苦労様と一声かけてやりたいような気もする。

「さて、ぼつぼつメインディッシュといきたいところだがな」

 俺が呟いたその時、広場に新しい人間がたった一人踏み込んできた。足取りは今までのやつらと違ってひどくゆっくりだ。足音も静かなところを見ると、どうやら機械化はしていないらしい。何より憤怒に歪んだ形相が、正義の人間らしさを存分に知らしめていた。

 身長が百九十はあるだろう。更に体や歩幅、拳まで全身の幅が異様に広い。明らかに筋肉と分かる鎧を着込んだような体つき。防弾チョッキやタクティカルベストなどある程度の装備はお仲間と共通だが、拳銃を携行しているくらいで不釣り合いなほどに身軽な様相だ。両の拳が硬く握り込まれ、掌に爪が食い込んで血が滴っている。とても分かりやすかった。

「よう」

 とりあえず挨拶すると、掌から滴る血の量が増えた。憎らしいくらい真っ直ぐだ。背中の血液が水になったような気がする。

「よくも・・・・・・よくも俺の部下たちを・・・・・・・・・」

「ああ、あんたが隊長か。腕があるんだな、みんな良い動きだったぜ」

 男は俺を見据えた。なんとなく、この先の展開が読めた。

「・・・・・・・・・なぜだ?」

「?」

「なぜ、こんな非道な真似が平気でできる?」

「おいおいおいおい、なんだそれは? 頭のネジが締まってないんじゃないのか?」

「ふざけるな! 貴様ら、人の命をなんだと思っているんだ!」

「人の命だと思ってる。それがどうかしたか?」

「・・・・・・俺にも、部下たちにも大切な人たちがいた。だが、戦争で引き裂かれ、奪われた。俺たちは平和な世界がほしい。誰もが平等に、そして安心して暮らせる世界が! だがお前たちはその平和を易々と踏みにじる。他人の大切なものをまるでゴミのように扱う。俺たちがどれだけお前たちを憎んでいるとおもう? 戦争を激化させ、世界を壊そうとするお前たちを!」

 その顔には、信念が窺えた。だから俺も、誠心誠意答えることにした。

「知らねぇよ、他人のことなんか」

「・・・・・・何・・・・・・・・・だと・・・・・・?」

「お前らのことなんざ知らないって言ってるんだよ。やっぱりネジが飛んでるな。分からないなら、一応説明してやろうか」

 俺は拳銃を指に引っかけて回した。昔の映画で見たように。

「お前たちは正しいんだろう。お前たちは優しいんだろう。お前たちは格好良いんだろう。なにせ正義と平和のために戦ってるんだからな。大したもんだよ、尊敬しようとさえ思うぜ。だが、お前たちはしょせんお前たちの世界で生きているだけだ。俺たちは俺たちの世界で生きてるんだよ。お前の正義が万国共通の正義じゃないってことさえ気づいていないんだとしたらお笑いぐさだな。それとも大切な人とやらに言われたか? あなたが正しいとか、信じてるとか。だが俺たちはそんなもの知ったことじゃない。お前は平和がほしいと言ったが、俺たちはそんなものいらないんだ。だから俺はお前たちと殺し合いをしてるんだぜ。生きるためには殺す覚悟を決める。戦うなら殺される覚悟を決める。失いたくないなら揺り籠の中で泣きながらママにあやしてもらっていればいいだけだ。大義だろうと欲望だろうと命も尊厳も蹴散らせないようなら、そんな正義はしょせん赤ん坊でしかないんだよ。お前の部下がなぜ死んだか分かるか? ミルクしか飲んでなかったからさ」

 拳銃を構える。狙いは男の眉間。男の全身が緊張している。恐らく服の下では血管が浮き出ているだろう。正義とは確かに見た目が良いものだ。俺の見た目などずいぶんと貧弱だろう。なにせ普段から酔いどれの狡っ辛い悪党だ。だからこういう口をきく。

「ほれ、来いよ。それともお前もミルクが好きか? 良いバーへ案内してやるよ。「天国」っていうんだ、今大人気らしい」

「・・・・・・黙れ。もうその薄っぺらい口を開くな」

「どっちがだ? ませガキ」

「・・・・・・・・・殺す。お前だけは絶対に殺す! 仲間のために、平和のために!」

「オーケイ。酒も飲めるってところを見せてもらおうじゃないか」

 その瞬間、男は奇妙な動作に出た。銃を手に取るのではなく、構えをとるのでもなく、耳元に手をやったのだ。その手が、耳に入っていたワイヤレスイヤホンのスイッチを操作したのとほとんど同時に、俺は大きく後ろへ飛び下がって銃を構えた。やつがあれほどの軽装だった理由と、拳の幅が広かった理由が分かった。殴り慣れているのだ。

 瞬間、咆哮が轟いた。男の体が有り得ない勢いで隆起し、身につけていた服が破れて飛んだ。剥き出しになった肉体は、肉体というより筋肉そのものだ。身長が明らかに二十センチは巨大化し、かなり高いはずのカタコンブの天井に迫っている。人間というより筋肉達磨、という表現がしっくりくる異形の巨体。

機核強化細胞(ナノマシン・セル)・・・・・・やれやれ、ヘビーになってきたな」

 それは、機械化の先を行く人類の叡智。

 正義に満ちた狂気が、眼前に迫る。



 いつの時代も、戦争ほど技術と文化を発展させるものはない。大国の指導者たちも技術の作り手たちも、それをよく心得ていた。

 大戦中も終わってからも、小規模な戦いが世界中で起こる中、人体機械化技術の研究は更に進んだ。より人間に近く。より高水準のパフォーマンスを。より強力な装備を。そんな追求はいつか、技術の深奥へと辿り着く。

 人間の進歩には一つの特徴がある。優れたものほど、小型化や軽量化を目指すのだ。まるで、手の中に収まらないと不安だとでも言うかのように。だからその形に辿り着いたのは、ある意味必然と言えるのかもしれない。

 ナノマシン・セル。別名、機核強化細胞。

 言ってしまえば名前の通りのものだ。生体細胞の核に極小のナノマシンを組み込み、細胞の一つ一つを極限まで強化する。後付けである以上否応ない物理的限界に悩まされていた機械化のジンクスを打ち破る発明だった。なにせ細胞なのだ。無理なく肉体に組み込め、機能を補助するのではなく機能そのものを肩代わりし根本から性能を底上げできる。それも筋肉や感覚器官といった単純なものに留まらず、内臓機能の増長や生理現象の制御、果ては細胞分裂回数の増加さえ見込める。当初開発したのはエウロピアだったが、各国がこぞって食いついたのは言うまでもなかった。

 もちろんこの技術はただそれだけではない。ありがちではあるが、きちんとそれに値するだけのリスクも備えていた。免疫の拒絶反応、生体へのダメージ、被験者の精神崩壊などなど。克服のための研究は今も各国で続いているはずだ。だがそれらのリスクを遙かに上回る最大の課題が、この最高技術には存在していた。

 被験者ごとに異なる一定の音波がなければ、強化細胞が常に全開稼働してしまい、まともに機能しない、どころか被験者の意識を消失させ暴走する、という極めて重いリスク。実用化には未だほど遠い技術だった・・・・・・戦場を除いては。だからここにあるわけだ。

 あるいはこの場合、暴走している方がいいのかもしれない。覚悟も正義も分からないほうが、人を殺すだけならやりやすいのだから。



 丸太というより鉄塊のような右腕が、高速で振るわれる。俺がとっさに体ごと避けるのと、振り抜かれた拳が後ろの石壁に砲弾以上の威力で食い込み、壁を陥没させるのがコンマ数秒の差。さっき俺が機械をへこませたのとは比にならない、すさまじい破壊音が響き渡る。それを感じる暇もなく、本能任せの連撃が避けた方へ飛んでくる。今の俺ではギリギリで躱すのが精一杯だ。

 ナノマシン・セルである以上単なる筋力増加であるとは思えない。何かあるはずなのだが、それを探る余裕がない。一瞬首のネックレスに手をかけそうになったが、思い直して俺は銃を向けた。撃鉄を起こしている暇はない。効けば良し、効かなければ悪し。

 ばんばんばんばんばん。まだ手は震えていない。いつもなら特になにも思わない撃ち方だ。 しかし、放った弾丸は五発全て相手の皮膚をえぐりもせずにはじき飛ばされた。しかも、金属に当たったかのようなかん高い音を立てた。悪いという騒ぎじゃない。これでは筋肉達磨どころか、鎧そのものだ

「うお」

 驚く暇もなく、ギリギリのところを豪腕がかすめていく。空振りの拳はまたしても石壁を陥没させ、このカタコンブを崩壊させそうな勢いだ。体勢を直しつつ片目で確認すると、石を殴りつけた相手の拳はかすり傷一つついていなかった。

「文字通り鉄人ってわけか・・・・・・・・・」

 筋肉細胞と表皮の細胞が、鋼鉄以上の硬度になっているのだ。高速回転する弾丸を弾き、自分の筋力でも傷がつかないほどの固さ。当然、人体や機械など一撃でミンチに出来るだろう。手強いという言葉はこういう相手にこそ使うべきなのかもしれない。もう役に立たなくなった銃を投げ捨てようとして、急いで懐に入れた。相手はなにやら調子の外れた雄叫びを上げながら、なおも一直線にこちらに突っ込んでくる。

「殺す、ころす、ころす、コロス、殺す、殺すううううウウウウゥ!」

「参ったなぁ、おい!」

 銃が無理なら拳も無理、となれば手段は限られる。俺は構えを変えた。必要なのは、集中力。今はおあつらえ向きだ。研ぎ澄まされた感覚を、体で覚えた動きに集中する。眼前に迫る腕。ギリギリでいなし、その腕に飛びつく。狙いは腕が伸びきった瞬間だ。足を絡めてロックし、思い切り上体を反らす。たとえ骨まで硬質化していても、関節がある以上は折れるはずだ。

 だが、世の中思いつき通りにいくことばかりじゃない。

「・・・・・・!?」

 次の瞬間、俺はのけぞった姿勢のまま地面に落ちた。というより、折ったはずの手応えがまったくない。ロックするどころか、ただしがみついているだけのような形になっている。体全体で抑えていたはずの固さが消え失せ、まるでクッションを抱えているかのようだ。その抱えているものに誰でも知っている生温さを感じ取った瞬間、俺は何が起こったのかを知った。

「硬軟自在かよ・・・・・・! 何でもありだな畜生!」

「コロス」

 無様に這いつくばった俺を置き去りにして、一瞬でクッションが鎧に戻る。とっさに身を起こしたが、ギリギリ間に合わない。脳裏に、映像の断片がよぎった。「13」「DEATH」

「だから占いなんか降りるって言ったんだよ、アリア・・・・・・!」

 ぐしゃん、という不吉な音は、その感覚ほど響かない。



 この国最大の広さを誇る広大なホール中に、音楽が鳴り響いていた。いや、歌声が。これが一人の人間かと思うほど、壮大にして荘厳。会場中の誰もが、その歌声に酔いしれていた。貧しさの中で神経を磨り減らしているはずの貧民たちや、警備に当たっているはずの軍人たちでさえ、屋外の中継場で目を閉じて酔いしれている。誰もが、夢の中を漂っていた。

 だから誰も気づかない。ステージの上で甘いソロを奏でる歌姫が、眉間に皺を寄せていることに。時折、気づきにくいほんの僅かではあるが、身を捩らせていることに。

「早くまともに歌いたいものね」

 そう言うことを、彼女はじっと堪えてなおも甘い調べを歌う。その様子を音響ルームでカメラ越しに眺めながら、モーリス・バーネットは会場中でただ一人目を見開いてもどかしさを押し殺そうともしていなかった。

「ああ、プリンセス・・・・・・・・・その胸中お察しいたします。本当の自身を押し殺さねばならないその苦悩、愚劣な大衆に合わせねばならず、選ぶことも許されぬその懊悩、このモーリス、あなた様の苦しみを代われるものなら代わって差し上げたい! しかし卑しく貧しい私に出来ることは、せめてこうして少しでも、今のあなたを華やかにして差し上げることだけ・・・・・・・・・。恥さらしなモーリスめの無力をお許しください、麗しきプリンセス!」

 画面に注がれている熱っぽい視線とは裏腹に、その瞳は何も見ていないかのように虚ろに宙を泳いでいる。恍惚の表情で自らの神へ愛を吠えていたモーリスの顔が、不意に醜く歪んだ。視線が定まり、瞳が火が点いたように色を取り戻す。

 彼が瞬きを忘れるほど見つめる画面の中。巨大なステージの中央にただ一人立った歌姫の表情。

 その顔が、抑えきれない歓びに輝いていた。

 ふいに、伴奏と関係なく歌が変わった。先ほどまでよりもいっそう甘い、まるで蕩けてしまうかと思うほどの優しい歌声。それは、人の原初の記憶、幼いころ母親が歌っていた子守歌を思い出させた。

 効果は一瞬で現れた。それまでも心ここにあらずといった風だった観客たちが、一斉に眠り始めた。それも昼寝や微睡みといった類ではない。傍目に見ても分かる安心しきった熟睡だ。鼾をかく者、椅子から崩れ落ちる者、屋外中継場でも折り重なるようにして人々が眠り込んでいる。そんな観客たちに、何が起こっているのか、そもそもそれが起こったことすら気づけはしない。全てを理解しているのはただ一人、そのモーリスもまた音響ルームの中で意識を手放しかけながらも、顔の歪みをいっそうひどいものにしていた。

「おのれ・・・・・・! また、今度も・・・・・・またしても・・・・・・・・・・!」

 彼だけは見たのだ。子守歌を歌い出す直前、彼女がマイクには伝わらないように、しかし抑えきれないように言葉を呟いた、その口の動きを。

『だから最高なのよ、トウジロウ』

「くそ・・・・・・だからお前が嫌いなんだっ・・・・・・・・・!」

 嫉妬と憤りに身を焦がしながら、彼は狭い床の上にくずおれ、深い深い海の底へ沈んでいった。



「やーれやれ、本当ハードモードすぎて困るぜ・・・・・・」

 囁き声程度の声量を出すだけで痛みが脳を刺す。左腕からの出血はまったく止まる気配がない。痛みの感覚からして骨が皮膚を突き破っているらしい。無事な右手で銃をしまった脇を探ると、そこにも鈍い痛みが走った。肋骨にひびが入ったか、折れているか。いずれにしても、まともに殺し合いを続行できるコンディションではない。

 殴りつけの瞬間左腕をクッションにし、同時にバックステップで威力を弱化。さらに至近距離から剥き出しの眼球に弾丸を撃ち込み、相手がこちらを見失っている間に物影に潜む。目先の危機は存外スマートに切り抜けられたが、ここから先の方がもっと難題だ。右手だけで少し画面が割れた端末を起動すると、減りに減った俺の残り時間が表示されている。「0:16:39」もうほとんど残されていない。スワイプすると、何度も見かけた太い赤字が表示された。ここに来ていよいよ鋭さを増してきた感覚が、石壁越しに暴れ回っている筋肉達磨の挙動を感じ取る。俺を見失ったからか、さっきまで以上に無軌道に暴れまくっているようだ。遠からずこの地下を崩壊させるか、地下から出てしまうか。どちらにしてもお終いには変わりない。終わりが意識されたとたん、急激にウィスキーが飲みたくなってきた。

「何を言ってるんだ? おい」

 血の臭いが立ちこめた地獄から、冷たく密やかな水の声が意識を現実へ引き戻した。

「まあ仕方ないな、トウジロウ。お前はしょせんチンピラだ。もとより無茶があり過ぎる要求をされているのは分かってた。今日はもう十三人殺して、とっくの昔にくたくただ。だが酔っ払った状態で受け取った弾だって、少しの無駄もなく使ってのけた。その上煩わしくなっても銃は放り出さなかったし、自分なりに説教だってしてやった。だというのにプロの集団相手に一人で戦わされ、銃を向けられ、思い切り殴られ、見るも無惨な有様だ。片腕じゃいくら殴ったって意味はないし、どっちみちあの相手には銃は効かない。だいいち痛みと疲労とで、立ち上がるのだって勘弁願いたいぐらいだ。これがいわゆるチェックメイト、八方塞がりってやつだな。つまりどういうことだ? ()()()()()()()()()。さあ、悪党なら悪党なりに、そろそろいいところの一つも見せてみろ。まさか悪党を名乗る者が、切り札の一つもないわけじゃないだろう?」

 もちろんここには、俺と俺の相手しかいない。俺は激痛に顔をしかめながら、ゆっくりと身を起こした。昔「カラミティ・ジェーン」で、ウィスキーの大瓶を一人で開けた時を思い出す。あの時も立ち上がるのが一苦労だった。今だって脂汗が額に滲み、瞳を閉じさせてくる。だが少なくとも、立ち上がれるだけのものが残っていればどうとでもなる。

 さっきまでより崩壊が進んだ空間へ俺が進み出ると、相手は敏感にこちらの接近を感じ取った。見れば、硬化した筋繊維のあちこちに血管が浮き上がり、破れて血が噴き出しているところも少なくない。どうやら多少の再生能力を持ち合わせているようだが、せっかく再生した目は虚ろ。ほんの数分間制御を外しただけでこの有様だというのに、口だけはなお達者だった。

「殺すぅぅううううウウウウ・・・・・・・・・・・・」

「もう、人間とは呼べないな」

 片手でネクタイを外しながら、俺がそう声をかけても反応は返ってこない。既に意識が飛びかけているが、それでも硬化が解除されない。大した妄執だったが、敬意を払う相手にしてはあまりに醜悪だった。痛みを堪えてゆっくりジャケットを脱ぎながら、俺は囁くように声をかける。

「お前さっき、大切な人がどうとか言ってたな。だがそれなら、理由なんかに使わずに慰めてもらってればよかったじゃないか。その様になったことと関係あるのか知らないが、お前はもう、大切なものを全て放り捨てた。だから、何も持ってない俺なんかが相手なんだよ。だが、こんな俺でも決断だけはしてきた。たとえゴミクズ以下の惨めな死を迎えたとしても、自分の望みのために生きる、ってな」

 もう言葉はかけない。どうせ通じないからだ。言葉を告げるべき相手は他にいる。心ただって届くただ一人の相手がいる。片手が使えないから手も合わせられない。しかたがないので、深く頭を下げた。

「悪いね、主人。でも、約束って破るものだろう?」

 胸に下がった大きめのネックレス。銀色に輝く、夾竹桃の花。その鎖を、俺はそっと外した。壊すのだけはしたくない。無くしたら変わりがないものだから。だから壊れないように優しく、ひび割れだらけの壁際にあるジャケットのそばに放り投げた。ほんの僅かな、弱音と祈りを託して。



 悪党と名乗った青年の肉体に、変化は劇的に訪れた。それまでも鋭利な刃物のように冴えていた細胞が、一気に爆発したかのように熱を放つ。肉体からの熱風が石を焼き焦し、細胞の振動があちこちのひびを更に広げた。そしてその高熱も冷めやらぬうちに、彼の体は勝手に動いた。熱気を全身に纏ったまま、ロケット弾頭のような速度で音を置き去りに標的へ向かって飛びかかる。筋肉達磨もとっさに反応し、全身の筋肉を本能で硬化させた。至近距離からの銃弾をもはじき飛ばす、堅牢な鎧。もちろんただの拳など、小石がぶつかるようなものでしかない。

 だが、その鎧ごと達磨は吹き飛ばされた。

 さっき青年が吹き飛ばされたときより、遥かにすさまじい音が石に叩きつけられた巨体から響いた。転がっていた死体の一つを巻き込んだらしく、プレスされた肉塊から飛び散ったどす黒い血が壁を赤黒く染めている。だがやった方もやられた方も、そんなことは気にもとめていなかった。なにせ二人とも、人間ではなくなっていたから。

 人間だったとき、青年は漆黒の髪を短く切り、少し色のついた肌と髪同様に黒い目を持っていた。しかし今、その目は異様に肥大化し、さらに火よりも紅い赤色に染まっている。頭部からは髪の毛ではなく二本の触覚らしきものが伸び、上半身の服は熱風で完全に吹き飛んでしまっている。そして剥き出しになった肉体は、黒色と化した皮膚と増大した筋肉がもたらした巨体化によって、人間だったときのスレンダーさとはうって変わって極めてマッシブになっていた。だが何より際立っているのは、腕だった。あの鎧を殴りつけたはずの、そもそもそれ以前に既にへし折られていたはずの左腕が、この僅かな時間で完全に回復している。折れた上腕骨が表皮を突き破っていたのに、再生した痕さえ残っていない。そしてその饒舌だった口は、今やもうなにも喋らなかった。

 吹き飛ばされた鎧が、悲鳴とも雄叫びともつかない奇声を発しながら身を起こし、そして攻撃に転じた。全身を硬化ではなく軟化させ、ゴムボールのように丸くなると、一気に跳ねたのだ。ナノマシン・セルが作り出した物理限界を超えた弾力が、巨体から想像もつかないほどのスピードと威力をゴムボールに与える。壁、天井、全てを利用して目にも止まらぬ速度で跳ね回る様は、常人に捕らえることは到底不可能と思われた。そして加速が頂点に達したとき、死角から砲弾のような、いや砲弾そのものが元青年へ向けて襲いかかる。

 だが彼は、それを避けようともしなかった。ただ、高速で跳ね回るゴムボールの動きをしっかりと巨大な目で捉え、右手を握るのではなく四指を揃えて手刀の形とした。まるで一つ一つが意思を持っているかのように、全身から溢れ出している高熱が、揃えられた四本の槍に一気に手中する。

 元青年の口から、雄叫びがほとばしった。ほぼ同時に、ゴムボールめがけて繰り出された貫手が極限の柔らかさを持つはずの肉体を容易く貫き、鮮血と悲鳴が広場中に満ちた。寄る辺たる能力を引き裂かれた巨体が、自分自身につけた勢いを殺しきれず、人間らしい赤をまき散らしながら壁に醜く張り付いた。右手にぬめる血を纏わせた元青年が、その疼きを抑えきれないのかさらなる咆哮を上げた。

「グオオオオオオオォォォォォォォオオオオォォォォォォ!」

 地下中に反響する方向に壁という壁が震え、張り付いた肉塊を冷たい床へ振り落とす。強烈な一撃で意識が戻ったのかそれとも本能か、柔らかいゴムボールから通常の肉体程度の硬度へ変化していたが、それでも右脇腹がごっそりとえぐれている。僅かな再生力が徐々に出血を止めてはいるものの、立ち上がることさえ困難だった。だがそこに人としての容赦を喪失した、もう一匹の化物が襲いかかる。鋼鉄の鎧をいとも容易く殴り飛ばし、砕けぬ柔軟を貫く正真正銘の全身凶器が、くずおれた哀れな怪物を一撃の下に葬り――――――――――――――――――去らなかった。

「さあ、起死回生を始めましょう」

 いや、そこは本当に戦場だったのか。さっきまでの血生臭さも死への恐怖も、全てを忘れ去りそうな別の素晴らしいものに満ちていた。

 歌声。炎のように熱く、太陽のように荘厳で、口づけのように甘く香しい。天国からの鐘の音を思わせる透き通るような歌声が、今にも崩れ落ちそうな広場を満たしている。

 またしても変化は劇的だった。異形の化物と化していた元青年の体が、全身からまた熱風を噴出した。筋肉が縮み、黒色が肌色に戻り、肥大していた目は元の黒い両目となる。ほんの僅かな間のうちに、元青年は青年に戻っていた。振り下ろしかけていた腕を引っ込め、よろよろと後ろの壁まで下がってその壁に背を預けた。未だ崩れずに守られ、誰の侵入も拒んでいる階段のほうへ首を振り、見慣れた姿をその瞳に写した瞬間、人の顔に人間らしい笑みが浮かんだ。

「悪いな、アリア。約束破っちまった」

「何言ってるの。私の出所をきちんと心得てくれてるのは、あなたぐらいのものよ。いつも悪いわね、血まみれにしたりぼろぼろにしたりで」

「君のためとはいえ、好きでピンチになってるわけじゃあないけどな。まあ、君だけは死んでも守るけど」

「私も決断してるからね。尊厳の全てを捨ててでも、この世界を道連れにするって。だからあなたは見放さない」

「・・・・・・アリア、アンコールだ。一丁派手にぶちかませ」

「ええ。あなたのためだけに歌ってあげるわよ、トウジロウ」

 歌声の響き渡る戦場の真ん中で、悪党と歌姫は血まみれの手を握り合った。



 ナノマシン・セル。現代人類の飽くなき殺戮への追求が到達した最高極致。だが、素晴らしいものには必ず危険がつきまとう。ではそれを排除するにはどうすればいいのか? 簡単なことだ。実験を繰り返してブラッシュアップすれば良い。しかしモノは人間にしか使えない。マウスぐらいではろくなデータも取れないままに終わってしまう。ならどうするか? それもまた簡単だ。要らない人間を使えばいい。長く続いた争いの中で、誰にも見向きもされない人間はそこら中に溢れていた。

 俺も、そしてアリアも、そんな人間以下の存在たちから生まれた。屍の山の中に紛れていた、ほんの僅かな生き残り。少しの権力者たちの欲望のために使い捨てられる運命の、ゴミと同列の実験動物。ただし、生き残っただけ不運だと言うべきだろう。どうせその後はひたすら、死ぬまで戦わされるだけなのだから。

 国家主導の実験施設で飼い殺されている実験体たちは、全身に占める機核強化細胞の割合で各国共通にランク分けされる。10%未満でE。20%でD、30%でC、40%でB。Bランクの時点で既に、実験体全体の2%もいるかいないかという人数しかいない。そしてそのレベルになると、Eランク十人をぶつけても易々とあしらえるほどのポテンシャルを持つようになる。当然制御にも神経を使わなければいけなくなるが、そのリスクを補って有り余るリターンをもたらすのが成功例たち「強兵」だ。なにせ今まで、強兵が投入された戦線で大国が敗北した例はないのだから。数少ないBランクの中には、核兵器クラスの扱いを受けている者もいるという噂さえある。

 だが、BとくればAも当然あるのが世の中だ。その割合は、全体の0.0001%。全身の60%以上が強化細胞に置き換わった、人間はおろか生物としての域を超えた存在。一万分の一というその確率に相応しく、現時点で確認された成功例はたった二人にすぎない。

 それがいったい誰と誰なのか? 俺が喋っている時点でとうの昔に分かろうというものだ。



「また全員眠らせてきたのか?」

「まあね。ところでどう? ずいぶん痛い目を見させられたようだけど」

「まあCってところだろ。こんなところで使い捨てられてるくらいなんだからよ。別に殺しても問題ないんだよな?」

「当たり前でしょう。大体、捕獲なんて繊細な力加減はあなたには出来ないじゃない」

「その通り。よく分かってらっしゃる」

 意識が飛んでいた間に回復済の左腕を確認しながら、俺は投げやりに言う。アリアは幼子のように肩を上下させながら、なんとか立ち上がろうとしている、俺が吹き飛ばしたらしいお仲間を眺めている。根こそぎになった右脇腹が、徐々に復元されていた。もうあと数十秒で完全に回復するだろう。アリアの左手が背中のジッパーをいじり続けていた。

「あなたが解放しなきゃいけないほどの、あちら様の特徴は?」

「再生強化をベースにした、細胞の硬度変化だ。鉄以上の硬性とゴム以上の軟性を瞬時に切り替えられる。ついでにそいつを威力に活かせるように、運動強化も施されてるようだな」

「へえ、両立させてるっていうのはそそるわね。音源どこかに残ってないの?」

「この有様、あいつがやったんだぜ? とっくの昔に瓦礫の下だろうよ」

「なんだ、つまらないわね。でも、硬化ってことはあなたのあの筒は役に立たないわけ?」

「言うことじゃないだろう。ついでに軟化のせいで拳も通じない」

「なるほど、結構な天敵だったわけか」

「だからあんな占い降りるって言ったんだぜ、俺は」

「その言葉はもう聞いたわよ。それよりあちら様、準備できたみたいだけど?」

 言われて見れば、傷が塞がった相手が全身の筋肉を再び硬化させていた。ついでに、耳障りな呻き声も復活している。せっかく俺だけに聞こえているいい歌声が、怪物の吠え声に汚されていた。

「コロス、コロス、殺す、ころす、殺すぅ・・・・・・・・・!」

「おいアリア。あんなだみ声はうんざりだ、とっとと自慢の良い声聞かせてくれよ」

「慌てないでよ、トウジロウ。どのみち、今のままじゃ決め手に欠けるじゃない」

「おっと、我が姫に秘策ありか」

 俺は、アリアが右手に抱えている細長い布包みを横目に見ながら言った。一メートルはないだろうが、それでもそこそこの長さがある。何より抱え方から見るに、ずいぶんと重いもののようだった。

「言っておくが、ふざけるのはなしだぜ。ネジが飛んでるのはあいつだけで十分だ」

「馬鹿ね。私がチュロスでも売ってるみたいに見えるっていうの? せっかくのプレゼントだけど、その口に直接突っ込まれたいのかしら?」

「よせよ、お里が知れるぜオーリエンダー。で、いったい何なんだよ? そのプレゼントとやらは」

 彼女は満足げに微笑むと、巻き付けてあった紐をほどいて布の中身を取り出し、俺に渡した。

 一口に言えば、鉄の棒だ。細い布を格子状に巻き付けて作った持ち手の片方の端に、鉄で作ってあるらしい丸い凝った飾りがついている。飾りの先には、何一つ飾り気のない真っ黒な鉄があるだけだ。やけに手に重みを感じはするものの、やけに煽られたわりには拍子抜けのする代物だった。

「・・・・・・おい、なんだこの棒は?」

「あなたね、こんな時に棒なんか渡すわけないじゃないのよ。抜いてごらんなさい」

 言われるまま、持ち手を右手で、棒の部分を左手で持って横に引いてみる。と、かしん、という音とともに手応えが軽くなり、滑るように棒に守られていた中身が滑り出た。左手が急に軽くなり、逆に右手側の重みは、むしろ棒の時よりも増した。

「剣か」

「正解」

 見たこともない形の剣だ。見た目だけなら大戦前の旧式サーベルに似ているが、それよりずっと重くて長い。刀身の片側にだけ刃がついていて、刃がない側は鉄板そのもののようにずいぶんと分厚く作ってある。だが何よりも、その刃の鋭さに目を奪われた。水で揺らしたとしてもこんな輝きは出ないのではないかというような、息を呑む美しい光を刃が放っている。重さに任せて軽く振ると、空気が切断されたような寒気が握った手を走った。

「どう? いける?」

 数秒前の俺なら、剣一本でどうしろというんだと喚いただろう。鉄以上の硬度になれる相手に、こんなただの剣が効くとは思えない。第一俺は素手が専門で、剣など扱ったことがない。それなら解放した上でさっきのように素手で戦っていた方が余程早いしマシだ。だが、その握った感触一つで俺の答は決まった。しっくりと掌に馴染み、吸い付くような感覚。もう一度力を込めて振ると、風切り音が耳を心地よく撫でた。

「ああ、いつでも」

「じゃ、派手にいきましょうか!」

 ずっといじり続けていたジッパーを、彼女の左手が勢いよく引き下ろした。同時に、身に纏っていた豪奢なドレスが一瞬で床に落ちる。特注で、そういう風に作ってあるのだ。そしてドレスが落ちた後の彼女には、当然ブラジャーとパンティーしか残されていない。しかも最低限の布地しかない極めて際どい代物だ。地下を照らす電気の下で、染み一つ無い白雪の肌が恥じらいなど欠片もない煌めきを振りまいた。

 もちろん俺は赤面などしない。今は俺だって上半身裸のままだし、それに彼女はいつもこうだからだ。彼女が本気で歌うためには、肌を覆う布などむしろ無い方が理想的なのだから。ただ悪党だから、もちろん軽口は叩く。

「ワーオ、痴女降臨だ」

「あら、お嫌い?」

「まさか。世界で一番、大好きさ」

 なんとなく思いつきで、受け取った剣を鞘ごと腰のベルトに挟み込んだ。結構重いが、手に持つより動きやすい。彼女が床に落ちたドレスをカモシカの足で広場の隅へ蹴飛ばした。もう一度、剣を鞘から抜き放つ。冷たい重みと切れ味が、蘇った心を滾らせた。俺たちの相手はといえば、ようやく完全に回復したらしく、全身を柔らかく振り絞って耳をつんざくような咆哮を上げた。

「コロスゥゥゥゥゥゥウウウウゥゥウウウウウウゥゥウウウ!」

「アリア、ぶちかませ!」

「トウジロウ、行きなさい!」

 一拍。そして。

 さっきの咆哮よりも、そしてステージ上でのものよりも遥かにすさまじい音量の歌声が、世界の全てを振るわせた。そのあまりの大きさ故に、飛びかかろうとした相手が数歩下がらされた。何も知らない者がいたら、地下で爆発が起こったのかと思っただろう。だがそれは全て、たった一人の歌姫の細胞からほとばしっている。

 その歌声にのせられて、俺の細胞が唸りを上げる。さっきのように意識を呑み込む感覚ではない。音に共振し、声に共鳴する。その震えと唸りが、白い蒸気となって俺の各関節から吹き出し始める。皮膚が黒々と染まり、筋肉共々ぎりぎりと音を立てて締まる。細胞の一つ一つから溢れ出る力が、全身で爆発しようとしている。血の巡りが脳を冴え渡らせ、霧の全てをかき消した。腰の剣を、ゆっくりと抜く。響き渡る歌声を受けた鋼が、歓びを表現するようにびりびりと震えた。

 相手がなおも抗うようによろめき、そして軟化させた右腕全体を、雑巾を絞るように捻りあげた。あれを放てば、豪腕に回転がプラスされさっき以上の威力となるだろう。更に両足は関節などないかの如く縮みきり、今にも反動で突撃しようという構え。全身の柔らかさをこれでもかと活かしている。限界まで捻りきった腕に、そしてバネのように縮んだ両足に満身の力を込めて、正義の味方は倒すべき悪へと飛びかかる。

 だが、突撃したように見えた瞬間、その砲弾のような動きが止まった。砲弾の眼前数センチのところで、真っ黒に染まった俺が突き出しかけた右腕に左手をかけて止めたからだ。

「おいおい、鈍すぎるぜ。さっきの勢いはどうしたんだ?」

 とっさに飛び下がろうとしたのだろう。だがその体より先に、抜き放たれた刃が煌めき、そしてねじり上げられていた右腕がそのままに宙に舞った。切断された箇所から鮮血が、噴水のように噴き出す。相手のうっすらと戻った意識が激痛と驚愕に歪んだが、それより驚いていたのは俺自身だった。

「おい、アリア!」

「何よ、歌ってる最中に」

「この切れ味はなんだ!? いくら俺がフルだっていっても、まるで抵抗がなかったぞ!?」

「当然よ。ジャパニーズブレード。正式な言い方だと日本刀。世界で最も完成された刀剣の一つと言われる剣なんだから。まあもっとも、それを修練無しで使いこなせるあなたの腕もあるけどね」

「まったく、良い玩具くれたもんだな」

 俺が舌を突き出すと、彼女はあられもない格好で歌い踊りながら、死神のような邪悪極まる微笑みをくれた。

「ほらほら、早くキメないとサビが終わっちゃうわよ?」

「了解。じゃあ格好良くキメさせてもらおうか」

 抜いたときの感覚で、そうした方が速度が上がるということはなんとなく分かった。魔物が宿っているかのような刃をもう一度鞘に収め、そして腰を落とし、体重を前に寄せる。左手で剣の飾りを押し出し、右手を持ち手に触れるか触れないかのところに合わせる。感覚は、銃の引き金を引くときに近い。息を長く吐き出し、燃えたぎる細胞の回路を腕に直結させる。踏み込みの間合いも、今ので掴んだ。今の距離なら、大体ちょうどだ。

 鮮血の海でのたうち回っていた筋肉達磨が、再びよろよろと起き上がった。切り飛ばされた右腕からは鮮血が、今朝のけばけばしい花束に似た色を吹き出している。今の一撃で少しは学んだのか、今度は既に全身を硬化させていた。その硬度にはじき返された歌声が、研ぎ澄まされた意識の底で俺の細胞のボルテージを底上げする。これだけ騒がしい場所でありながら、俺の感覚は凪そのものだ。足の小指が数ミリ間隔で動かせそうなほど、尖りきっている。

 音楽が、最高潮を迎えた。

「ギャアアアアアアアオオオオオオオオオオオ!」

 最後の咆哮、そして今日一番の速度での突進。俺の腕をへし折った豪腕が、光の速度で迫り来る。

「だが無理だな。人間であろうとしていた以上、正義(おまえ)(おれ)に勝てる見込みはなかったよ」

 踏み込みの瞬間、全細胞が一気に爆発する。一瞬に全ての力を込めた刃が、すれ違い様に触れるもの全てを切り裂き、光よりも早く振り抜かれた。それを振るった自分自身、いつ振り抜いたのか知覚できないほどの速度だった。

 自分が切られたことにも気づかないまま、達磨が二、三歩しっかりとした足取りで彼女へと歩み寄り、そして頭から股間にかけて真っ二つになって地面に落ちた。ぼちゃん、という鈍い音の後には、クライマックスへと向かう音楽の柔らかな響きがあるばかり。空っぽにした肺いっぱいに空気を吸い込むと、全身の力が抜けた。細胞の熱気は収束へと向かい、全身から蒸気に変わった熱が吹き出す。白い煙の中で、俺の体が徐々に人間の形を取り戻しつつあった。アンコールはお終いだ。俺は右手に握ったままだった剣を鞘に戻した。収めきる瞬間鳴り響いた金属音と同時に、彼女の歌の最後の一音が、戦場らしからぬ荘厳な雰囲気をそっと閉じて消え去っていった。

「どうだった? トウジロウ」

 彼女の全身から噴き出した汗が、瑞々しい若さだけでできたプロポーションを女神のように輝かせている。人間の感情が本来備えているはずの恥が皆無といっていいその眩しさとは裏腹に、俺を見つめる彼女の笑顔はただの年相応の女の子の顔だった。

「どうって、なにがだよ?」

「どうだった? 私の歌」

「最初がそれか? 腕が折れても頑張った従僕を、少しは労ってくれないもんかね」

「こんな場所で発情してるの? 大した悪党ね」

「誰がだよ、猫じゃあるまいし。だが、久しぶりに聞いたな、アリアの全力は」

「あなたの全開もね。よくやってくれたわ、お疲れ様、私の僕」

「プレゼント、助かったよ。感謝する、我が主人」

 俺は剣を腰に差したまま、崩れかけた広場の壁際へ向かった。そこには脱ぎ捨てた俺のジャケットと、彼女の着ていたドレスがある。その両方を拾い上げ、俺は彼女の元へ戻ると脇から銃を抜き取ったジャケットを裸のままの彼女にかけた。

「とりあえず着ておけよ。冷えるぜ」

「ドレスじゃなくて?」

「なんだ、分厚いのより血なまぐさいほうが嫌いなのかよ?」

 ドレスを手渡しながら、俺は銃を人差し指に引っかけてぶら下げた。

「知ってる? あなたの服って、結構良い匂いがするのよ」

「・・・・・・フン」

 後ろから衣擦れの音が聞こえ始めたその時だった。俺たち二人が振り向いたのとほぼ同時に、一人の兵士が広場へ踏み込んできた。

「ん? あれはなに?」

「ああ、もう一人いたの忘れてたな」

 今までの兵士たちと違って、かなり年若い。俺たちと同じか、それ以下かもしれない。機械化はしていないらしく、防弾チョッキや手榴弾で身を固めている。こちらに向けて小銃を構えているが、その銃口が震えていた。人を撃ったことも戦ったこともないのは明らかだ。恐らく訓練を受けているというだけで参加したのだろう。一部始終を見ていたのか、その顔が恐怖で引きつっていた。それでも、銃の狙いを彼女の膨らんだ胸に定めて少年兵は立派な声を上げた。

「た、隊長と・・・・・・隊長とみんなの仇だ――――ッ!」

 ばんばんばん。ぼん。どしゃ。

 もちろんそれは蛮勇に過ぎない。コンバットマグナムから発射された三発の銃弾が、ヘルメットを被り忘れた間抜けな頭蓋を吹き飛ばし、哀れな少年兵は仲間たちの後を追いかけていった。ミルクしか飲んでいないというのは、あながち間違いではなかったらしい。

「今度こそ終わりでしょうね? この茶番劇は」

 答える代わりに俺は、同じくジャケットに入れていた携帯端末を起動し画面を彼女に見せた。乱痴気騒ぎのせいで最新技術の精巧な画面が見るも哀れにひび割れている。まるで今のカタコンブだ。地図が表示されていた画面が今は、真っ青なたった一文きりを映し出している。

『MISSION COMPLITE』

「パーティーはお開きだ」

 今度は彼女がなにも答えずに、いつの間に拾っていたのか、俺が祈りを込めて外したネックレスをそっと首にかけ直してくれた。彼女の名と同じ、夾竹桃の花を。

「じゃあ、さっさと上片付けてこいよ」

「そうしようかしらね。あなたは? もう戻る?」

「このままここにいたんじゃモーリスが面倒臭いんでな。それに遠からずデリカシー皆無の連中が来るだろう。一足お先に撤退させてもらうよ」

「あらそう。屋敷に戻るなら一つだけ。今日は執事がいないから、自分で玄関開けなさいよ」

「ん? 今朝のじじいはどこに行ったんだ?」

 俺が訊くと、彼女は手早くドレスを着直しながら親指で首を横一文字に切り、そのまま地面を指さした。俺は笑って、階段を上った。出歯亀野郎がいないなら、今夜は静かな良い夜になりそうだ。


10


「そういえば、今日始める前のあのタロット占い、あなたが行ってからもう少し続けてみたんだけれど、結果聞きたい?」

「降りるって何度も言ってるじゃねぇか。出た目が良かろうが悪かろうが、あんなのもううんざりだよ」

「あら、トランプなら良いわけ? 同じカードじゃない」

「勝負だからやってるだけさ。勝ち負けしかなくて、単純だからな」

「で、今日はどうだったのよ?」

「金は賭けてない。それで分かるだろ」

「よく分かったわ、大貧民」

それから数時間後、深夜に近い頃合い。俺たちはホールから屋敷へと引き上げ、ベッドルームで二人きりだった。誰もなにも気がつかず盛況のうちにコンサートが終わってすぐ、カタコンブには後始末のために軍が入った。今頃俺が作った十五個の肉塊は研究所か死体安置所に運び込まれてばらばらに解体されているだろう。特にあのCランクは、間違いなく細胞レベルでバラされているはずだ。薄暗い想像を押し流すために、ウィスキーをいつもより多めに口に含んだ。

 部屋の中には、今朝とは違うゆったりとした音楽が流れていた。川が海へ流れゆく様を思わせる、優しい歌。気の張った歌は今日はもう要らないからだ。その調べを紡ぐ当の本人は、キングサイズベッドの脇に置かれたビロードの長椅子にカモシカの脚を投げ出し、丁寧にペディキュアを塗りながらご満悦だった。絹糸同然の細い金髪が、風呂上がりの湿気を纏って妖しく光る。喉の渇きは、酒のせいだけではなさそうだ。

「それで、軍の反応はどうだったんだ?」

 俺は寝たまま訊いた。

「なかなか良かったわよ。眠らされたことも、能力の高さを証明するってことで不問に付されたしね。何より、持て余してた反乱分子を犠牲ゼロで処分してくれたっていうのが想定以上に高評価だったわ。又聞きだけど、たいそう手を焼いていたみたいよ」

「人民自由同盟、だったか? ま、反乱は誰だって持て余すだろうな」

「まして実験体じゃあね。旧アフリカの戦線にも、各地の施設から脱走したEやDがうようよしてるって噂よ。ロセリアやアメリニアからも兵が駆り出されてるって話」

「大人気だな、俺たちのご同類は」

 くすくすと笑いながら、彼女がペディキュアを鏡台にしまい椅子から立ち上がった。そのまま広々とした部屋の中央へ進み出る。紙より薄い布一枚で作られたワンピース状の寝間着だけで、いかにものびのびと楽しげに歩く。音楽が一オクターブ高まるのを、俺は肘枕でウィスキーを舐めながら眺めていた。

「そういやよ、一つ訊いていいか、アリア?」

「あらなに? トウジロウ」

「こいつのことだ」

 俺はベッドの上に放り出していた剣を取り上げた。鞘も持ち手も、全て黒で統一されている。改めてじっくり見ると、持ち手と刃の間にある丸い飾りは、どうやら東洋の龍を象っているようだった。

「わざわざ貰ったナイスな贈り物にケチをつけるわけじゃないんだがな。なんで剣を使ったこともない俺に、こんな骨董品の武器をわざわざ用意したんだ? 俺が使いこなせるって保証もなかっただろう」

「ああ、そのこと。ならちょうどいいわ」

 彼女はくるりと向き直ると、一直線にベッドまでかけてきて俺の隣に勢いよくダイブした。さすがに高級品だからか、彼女が飛び込んだくらいではスプリングは軋みもしない。少し驚いている俺のそばまで寄ってくると、彼女はたおやかな手を伸ばして俺の短い黒髪を指に絡めた。

「トウジロウ」

「ん? なんだよ急に」

「あなたの名前、こっちじゃあまり聞かない名前じゃない?」

「そうだな」

 生まれてからしばらく経つが、俺のものと似た響きの名前を持つものとは未だに一人もお目にかかったことがない。

「その名前、こういう字を書くらしいのよ」

 彼女がどこかから小さな紙片を取り出した。俺が生まれてから一度も見たことのない、三つの文字が並んでいる。

 刀士郎

「なんだ、この字? というか、どうやって調べたんだ、こんなの?」

「あなたが頑張ってくれてるおかげで軍や諜報部に大分コネクションが作れたからね。ちょっと調べてもらったのよ、あなたのこと」

「俺のことなんか、いくら調べたってなにも出てきやしないだろう。分かってるはずじゃないのか?」

「パーソナルじゃないわよ、人種の話。あなたの名前、ジャパニーズ特有のものなんだって」

「ジャパニーズ? あの絶滅危惧種か?」

 極東の島国、ジャパン。かつてそういう名前の国があったことぐらいは俺も一応知っている。第三次大戦開戦の折、旧中国の核ミサイルの標的となって、当時の先進国の中では真っ先に国家としての機能を喪失した国。その後の占領と統治の中で、当時総人数が一億を超えていたというジャパニーズは、その数を十分の一にまで減らしたという。まして現在では、存在そのものが都市伝説のような人種の一つだ。

「俺がねぇ・・・・・・まあ周りと違うっていうのは前から知ってたがよ」

「直系かどうかまでは不明だけど、二親等以内の先祖にいることはほぼ確定らしいわ。ま、私たちの場合たまたまそういう精子か卵子が使われたのかもしれないけど」

 彼女の白蛇のような指が、俺の肌をなぞる。ナノマシン・セルの数少ない恩恵で肌荒れも皮膚病も一切ないが、今はどちらかというと自分の色が気になった。

「それでせっかくだからと思って、軍の開発部にジャパニーズ由来の武器を作らせたのよ。どのみち弾切れのある武器じゃあなたの性に合わないでしょうし、素手だけじゃいつも解放しなくちゃいけないから。使えるかどうかは、半分賭けだったけどね」

「君も大概ギャンブラーだよ、アリア。お心遣い痛み入る」

 剣を抜いて、ランプの明かりにかざしてみる。細やかな灯りを強く照り返し、ぎらぎらと光る銀色の鋼。握っていると、なぜか不思議と安らぎを覚えた。意識が、アルコールの沼から這い出てくる。

「ああそれ、無くさないで持っときなさいよ」

「ん? まあ君からの贈り物だし無くすつもりはもとよりないが、なんでわざわざ?」

 俺が訊くと、彼女は俺の髪をいじっていた指を胸元に滑らせ、ネックレスを二本の指で挟んだ。俺を化物未満に繋ぎ止めている、怖いながらも頼もしい花。

「これと共鳴する周波数の音波が出るように、あの刀に細工してあるのよ。少し調整を加えたから、私がいなくてもある程度細胞を解放できるようになってるわ。これから忙しくなるかもしれないから、その前に渡しておくつもりだったのよ。いつまでも守り守られてるんじゃ、お互いにやりにくいからね」

「忙しく? そいつはどういうことだい、歌姫様? 色よいお便りが届いたのかな」

 俺が自分のごつごつした指で彼女の唇に触れると、明らかに音楽の音量が上がった。その代わりに、彼女が俺にだけ聞こえる極めて密やかな声で、そっと囁いた。

「まだ確定ではないけど、アメリニアとの国境戦線に出向けるかもしれない」

「・・・・・・ということ、は?」

「今夜が大きな一歩になるかもしれない、ってことよ」

 俺たち二人の顔が、同時に歪んだ。しかしそれは、痛み故ではなく喜び故。命を賭けた決断が、感情にもたらす打ち震え。

「初めてだな、そこまでの大きな機会が来るのは」

「あなたの頑張りのおかげかもね。熱心に働いてくれたから」

「そんな大人しくしないで、殺した、って言ってもいいんだぜ? 歌姫様。アリア・オーリエンダー、ついにやったじゃないか」

 急に音楽が高まり始めた。それは、彼女の歓喜が高まっている証拠だ。彼女の細胞が奏でる歌が、喜びに打ち震えているのがひしひしと感じられる。滑らかな布団の上で、裸同然の肢体が艶めかしく蠢いた。と、その体が予備動作もなしに跳ね上がり、ベッドを飛び出して部屋の中央へ躍り出る。叫ぶような喜びのソロが、俺の鼓膜を心地よく振るわせた。

 俺がそうであるように、彼女もまたナノマシン・セルで全身の60%以上が構成されている。だが彼女は兵士ではないから、運動や再生を強化されているわけではない。その強化対象は、呼吸器だ。通常の肺呼吸のみならず、人間では全体の0.6%程度しか行われていない皮膚呼吸も強化された結果、彼女は人体の生存に必要な全ての呼吸を皮膚呼吸だけでまかなうことができるほどの呼吸能力を手に入れた。だが、彼女が適合した有り余るほどの機核細胞は強化をそれだけに留めなかった。彼女が豪奢な服を嫌う理由も、彼女のいるところ常に音楽が鳴り響いている理由もその強化にある。といっても単純な話だ。呼吸を強化するということは、とりもなおさず発声機能を強化するということでもある。

 彼女は、皮膚で歌うことができるのだ。皮膚呼吸を強化する細胞群が、同時に声帯としての役割を兼ねることにより、喉だけの発声を圧倒的に上回る声量と、声の次元を超えた極めて広い音域での発声を可能とする。しかも細胞単位で細かく調整できる上に肺呼吸と切り離して行うことができるため、歌いながら喉で喋るということすら容易に行える。この点がもたらした能力を最も有効に使う方法を、彼女を作り出した国家はかつて考案した。それが今日、彼女もやってみせたこと。

「大衆の戦意高揚コンサート。嫌いな服着てやり続けたかいがあったもんだな」

「まあ元々呵責なんて感じてないしね。あなただってそうでしょう?」

「まあ当然。悪党だからな」

 催眠音波を作り出す。それによる自国民の、自意識ならざる戦意高揚。確かに考えてみれば、兵器としての運用以上にスマートな扱い方だ。より犠牲を少なくしながら、彼らのやりたい方向へ容易くもっていくことができる。事実その目論見は彼女自身の手によって成功し、エウロピア国内の世論は各戦地への派兵と武力による鎮圧を主張するものが大多数を占める状態である。今日のコンサートも、軍上層部への成果報告を兼ねたデモンストレーションとしての面が大きい。そしてそれは、見事成功に終わったというわけだ。

「で、いよいよってわけだ」

「そうよ。直接戦地で兵士に催眠をかけ、戦線で事前の取り決め以上に大勝利させる。するとどうなるかしら、トウジロウ?」

「アメリニアとの均衡が崩れる。均衡が崩れたとなれば当然ロセリアも黙っちゃいない。上手く転がれば各地の紛争も激化させて、第四次世界大戦の始まりってわけだ。外れかな、アリア?」

「大正解」

 彼女が枕元のウィスキーの大瓶を手に取り、一口口に含んだ。そのまま軽く口内で転がして、こくりと飲み込む。喉仏のないすらりとした喉が、気持ちよく上下した。俺はベッドに転がしたままだった剣を布で包み直し、そっとベッドの下に置いた。

「ともかく、これでやっと一歩。長くかかったけどね」

「そうでもないだろ。君の能力は元々稀少中の稀少なんだ。軍が手放すはずはない。そうでなきゃ、ここまでにあと十年はかかってるところだ」

「そういうトウジロウだってレアでしょうに。あなたが一緒じゃなかったら、とうの昔に暗殺されてるわ」

 彼女がまたベッドに飛び込んだ。お互いの手が、お互いの頬に優しく触れる。互いの体温を細胞が感じ取る。彼女は俺の熱さを。俺は彼女の呼吸を。音楽は、今はさっきよりも緩やかに、空気の中に漂う日差しのように流れていた。

「さんざん戦って疲れてるでしょ。今日はもう寝る?」

「そいつは、今日一番つまらない冗談だな」

 俺は身を翻して、彼女の両手を掴んでベッドに押し倒した。彼女の息が荒くなる。自分の鼓動が、音楽を邪魔するほどにうるさい。

「なによ、やっぱり発情してたんじゃない」

「君なら知ってるだろ? 一度解放すると、どうにも滾ってしょうがないんだよ。それとも麗しの歌姫様は、けだものだろうと優しく寝かしつけられるのかい?」

「私のアンコールは一回きりよ。今夜はもう終わっちゃったわ」

「おやおやそいつは困ったな。じゃあ今夜は誰が俺を寝かしつけてくれるんだ?」

 俺は彼女の腕を放した。赤い痕がうっすら残った両腕が、俺の顔を優しく包む。その手の温度は、俺が細胞を解放したときより熱かった。

「夾竹桃は毒の花。死んだって文句は聞かないわよ?」

「生憎だがな、俺の体はとっくの昔に致死量超えてるよ」

 血に塗れたけだものの手が、毒の花を覆うヴェールを荒々しく剥ぎ取る。音楽の最後の高音が、ベッドの天蓋に吸い込まれて消えた。


11


 うっすら目が覚めたとき、夜がわずかに明け始めているのが巨大な窓から見えた。照明も消さないまま寝入ってしまったらしく、ベッドルームは煌々と照らされたままだ。ぐったりと脱力した体をベッドから起こし、アリアは自分の隣を見た。たった一人の彼女の家族は、裸の体を毛布の中にも入れずにぐっすりと眠り込んでいる。生命になってから戦い続けた逞しい肉体が、微かな呼吸に合わせて規則正しく揺れていた。

 鈍く痛む腰を引きずってベッドから這い出し、鏡台の前に座ると、百合の花のように真っ白に保たれていた首筋に、いくつもの歯形や吸い痕がくっきりと残っている。だが彼女はさして怒りもせず、少し呆れたような優しい笑いを浮かべただけだった。

 そっとベッドに戻り、眠っている青年の体を彼女はそっとなぞる。戦い続けている立場からは想像もできないほど傷の少ない体だが、その滑らかな体には彼自身の細胞によって消された傷が無数に残っていることを彼女は知っていた。

 彼女が呼吸器を細胞によって強化されているように、彼女と同じ場所で産まれたこの青年も、その体の大半が異形の細胞で構成されている。ただし、強化の方向性は彼女と真逆といっていい。彼女があらゆる人間を支配する力を手にしているなら、彼が手にしているのはあらゆる人間を殺すための力だった。

 彼には、特殊な能力はない。運動性能や回復能力など、人間誰しもがもともと備えている力が強化されているだけだ。肉体的な変化はせいぜい、皮膚が特殊な甲皮に変化したり、眼球の肥大化に伴って視野が広がる程度しか起こさない。ただ、その能力強化のレベルは世界中のどんな強兵より段違いだった。

 つまるところ、ホモサピエンスの基本スペックを物理限界を超えたレベルにまで底上げする。それが、彼に施された強化だった。それはもちろん、どれだけ鍛えてもどんな天才でも到達できないレベルに。あまりにも限界を超えたせいで、自分自身の意思や音波だけでは完全な制御ができないほどに。アルコールで常に細胞を沈静化しておかなければ、常人レベルの感覚に抑えておくことができないほどに。だが一度解放してしまえば、彼を止めることは世界中でただ一人、彼女にしかできなかった。彼と同じで彼と逆の、唯一無二の彼女にしか。

 だから彼は彼女のもので、彼女は彼のものだった。

 彼の首に掛かっているネックレスに、彼女は軽く触れた。きっとその僅かな刺激だけでも、彼は目覚めてしまうだろう。しかし今の彼は、まるで赤子のようにすやすやと深い眠りに落ちていた。全身の細胞が力を失っているのが触れなくても分かる。それが証拠に、彼の肩についた歯形や背中のひっかき傷が、治っていなかった。

「トウジロウ」

 その名を彼女は、呼ぶでも何でもなく呟いた。彼はやはり目覚めない。

 しかし、それは無意識だったのか。彼の逞しい腕が彼女の肩にまわり、そのたおやかな体を強く自分の傍らに引き寄せた。驚きに固まった彼女の顔が、彼の肩と密着する。まるで細胞が解放されたように、全身が火照るのを彼女は感じた。視線を上げると、少し口が開いたままの緩みきった寝顔がある。皺のない眉間を、彼女は人差し指で軽くつついた。

和泉刀士郎(いずみとうじろう)、か。ちっともこだわってないわりには、結構イカす良い名前じゃない」

 誰も彼すらも知らないはずのその氏と名を、彼女は囁いた。少しだけ悔しそうに、だがとても嬉しそうに。澄んだ瞳が閉じられ、精一杯の優しい笑みが彼女の顔に浮かんだ。

「あなたはあの素晴らしいタロットを降りるって言ったけどね。私は運命ってやつが、ここにあるような気がしてるのよ」

 年相応のささやかな胸元に、彼女は彼の重い頭をそっと抱き寄せた。目覚めの時間まではまだ時が残されている。そして今日のこの屋敷には、朝起こしに来る者は誰もいない。一つの生命のように重なり合ったまま、少女は再び眠りの海へ潜っていった。



 ずっと、不思議な安心感に包まれていた。

 気がついたとき、辺り一面が真っ赤になっていた。そもそも、ここがどこか分からない。いやに広い場所だと思ったら、まったく白くなかった。今まで一度も見たことがない場所に立っている自分に気がついて、足が震えだした。よく見ると、あたりだけじゃなく俺の体も真っ赤に染まっていた。触ってみるとぬるぬるしている。どこかで触れたような覚えのある感覚だったが、それがどこかはさっぱり思い出せなかった。

 真っ赤な中にいくつも、妙な塊が転がっている。いつも俺をあの部屋から連れ出しにきていたやつらに、そっくりのものもどことなく似ているものもある。試しにいくつかひっくり返してみると、違うところこそ多かったが概ねどれも似たような形をしていた。ただしやつらは動いていたが、こいつらは動かない。なぜなのかは分からなかったが、俺が叩いても蹴飛ばしても動かないところを見ると、どうやらこの先ずっとこのままらしかった。

 その時、俺の体に何かが触れた。瞬間的に振り返ると、地面に転がっているやつらとは別の何かが、そこに立っていた。ずっと細く、ずっと低く、表面が透き通るような色をしていて、長い長い黒と小さな銀を二つ持っていた。どうやら、小さく細いあの手を伸ばして俺に触れたらしい。地面のやつらとは全く別の存在なんじゃないかと思うほど、何もかもが光って見えた。

「あなた、知ってるわ」

 その口から出た声で、すぐに分かった。

「俺、君を知ってる」

「あら、あなたも? どこかで会ったかしら」

「歌を聴いてた。いつも」

「へえ、聞こえてたんだ。良い耳してるのね、あなた」

「耳?」

「知らないの? これのことよ」

 確かアリアと言っていた、彼女が手で自分の頭の横についているひらひらしたものに触れた。試しに自分の同じようなところに手を伸ばしてみると、同じような形のものが自分にもついている。初めて知ったが、どうやら俺も彼女や下のこいつらと似たような姿形をしているらしかった。

「これ耳って言うのか。じゃあこれは?」

「それは口ね。これが目で、これが鼻。教えてもらわなかった?」

「いや。いつも連れ出されて戻されるだけだったから」

「あなた、人間? じゃないわよね」

「多分違う。部屋の外でそう言ってた」

「ひょっとして、あなたずっと繋がれてたの?」

「ああ。俺はあそこしか知らない。君の声は知ってるけど、知ってる場所はあそこだけだ」

「やっぱり。いつも誰かが聞いてるような気がしてたのよ、私の歌を」

「うん、俺が聞いてた」

 彼女の口の両端が、上につり上がった。逆に目の端は、下に下がっている。見ていて不思議と胸が熱くなる顔だった。

「ところで、こいつらどうしたんだ? 動かなくなってるけど、人間じゃないのか?」

「・・・・・・これ、全部あなたがやったんだけど覚えてないの?」

「そうなのか? そういえば腕に変なものがついてるけど、そのせいかな」

「ええ。私の歌を聴くまであなた、ずっと暴れ回ってたのよ」

「そうか。俺が、これをやったのか」

 これはなんだろう? 俺はどうすればいいんだろう? 腕の中に何かがあるような気がする。部屋の外に出ること自体初めてで、今何が起こっているのかもよく分からない。だからとりあえず、ぱっとでてきたものを口にした。

「なあ、アリア」

「私の名前知ってるの?」

「さっき聞いたんだ。なあアリア、俺、君と離れたくないんだけどどうすればいいかな?」

「・・・・・・私といたいの?」

「うん。君の声聞いてると、よく分からないけど、世界がはっきりするんだ。なんだってできる気がするし、いろんなものが感じられる。俺は、君がいなくなるのがいやだ。どうすれば君と一緒にいられる?」

 アリアは、また別の顔になった。だけどすぐにさっきの顔に戻ると、細い腕で俺を引っ張り、彼女の体と俺の体をくっつけた。俺の胸に時々現れる熱さが、彼女の体にもあった。いや、どうやら俺の体中にあるらしい。全身がどんどん燃えるように熱くなっていく。

「ありがとう。そんなこと言ってくれる人がいるなんて、知らなかった」

「ん? 俺、お礼されるようなこと言ったか?」

「私がしたいからしただけよ」

「・・・・・・アリア。アリアのしたいことって、なんなんだ?」

「私はね、この世界を壊したいの」

「壊す?」

「そう。でも私には壊せない。私一人じゃ、ただ歌が歌えるだけ。だから、したいっていうより、そうなったらいいな、っていうぐらいよ」

「・・・・・・・・・俺、こういうことができるけど。世界を壊すって、こういうこととは違うのか?」

「それは、戦う、って言うのよ。壊す、の一番分かりやすい手段の一つではあるけどね・・・・・・でもそうね、これしかないって分かってたんだわ。そんな真似はしたくないって思ってたんだけど」

 彼女は緩く首を振ると、体を少し俺から離して、俺の手を握った。本当に小さい手だったから、俺は力を込めることができなかった。

「戦って」

「戦う?」

「そう。もしあなたが私の代わりに戦ってくれるなら、私はあなたのために歌を歌うわ。できる?」

「分かった。多分、こういうことをやればいいんだよな?」

 床に転がっている塊を俺が指さすと、彼女は頷いた。

「自分のために決断し、そのために戦う。それを忘れないで。私は今、あなたに決断をさせようとしている。自分の決断のために、あなたのあり得た全ての可能性を潰そうとしている。だけど私は、それを悪いなんて思わない。私は私のために歌う。あなたはどうする?」

「俺が知ってることはほんの少しだけだ。君の歌は、良い歌だった。俺は君の歌を聴いていたい。君のそばにいなければならないというなら、俺はそのために戦う。君のためじゃなく、俺の願いのために」

「あなた、本当に戦うこと以外知らないの?」

「だから勉強するさ。今度はもっと上手い言い方ができるようにするよ」

 小さな手を、俺は潰さないように気をつけながらそっと握った。彼女はこちらを見て、また口の端を上に上げた。俺もなんとなくやってみた。胸がまた熱くなった。

「ところで、あなた名前は?」

「名前? なんだっけ」

「ないの?」

「いや待って。知ってるような、感じがする。」

 誰かが俺を呼んでいた。ずいぶん前のことだったから、頑張らないと出てこない。だけどどうにか、それらしいものを引っ張り出せた。

「トウジロウ。確か、そんな名前だ」

「トウジロウ? 不思議な響きね」

「そうなのか?」

「んー、まあいいわ。トウジロウね。私はアリア、よろしく」

「うん、よろしくアリア。俺はトウジロウ」

 その時の彼女の顔が、笑顔という名前であることはすぐに学んだ。だって、とても素敵な顔だったから。

 あの日を境に、白しかなかった俺の世界は鮮やかな色と最高の響きに満ちた。いろんな事を学んだ今でも、俺はあの何も知らなかった日のことをずっと覚えている。

 戦いという言葉も知らなかった俺は、今も血まみれで戦い続けている。純粋から遠く外れた軽薄な言葉を吐きながら、自分自身の望みのために。


12


 それから数日後、俺がそこそこ広大な屋敷の中を彼女を探して歩いていると、見覚えのある小さな背中が廊下を歩いているのを見つけた。あの時と違って小綺麗な燕尾服を着、髪も櫛で丁寧に梳かされている。

「おい、坊主」

 声をかけると、彼は機敏に振り向いて、すぐにこちらを思い出したようだった。

「あ、この間のにいちゃん、じゃなくてご主人さま」

「別に畏まらなくてもいいさ。うちで働くことになったのか?」

「うん。シンシアさんがしょうかいしてくれた。前よりずっとたくさんお金がもらえるんだ」

「そうか。弟妹も喜んでるんじゃないか?」

「うん。いっぱいごはん食べさせてやれてる」

「よかったじゃねぇか、頑張れよ。ところで、俺の主人を見なかったかい?」

「アリアさま? さっき二階でこえがきこえたよ」

「そうかい。ご苦労さん、ありがとな」

 少年はきちんと一礼して、小走りに廊下を去っていった。俺は来た道を戻って、階段を上る。なんとなく興が乗って、脇から拳銃を出してくるくると回した。今日は調子がいいのか、十回転以上平気で回し続けられる。階段の踊り場からは、庭に植わった木の向こうに雲一つない青空が見える。

 そういえば、アリアと二人で実験施設を飛び出した日も、外はこんな青空だった。彼女の歌以外で生まれて初めて感じた、美しいと思える世界だった。

 二階に上がると、確かにいつもの歌声が聞こえた。腰に差し込んだ刀が揺れる感覚も、この数日でずいぶんと楽に感じるようになってきた。柄を軽く叩きながら廊下をゆっくりと辿り、目当ての部屋のドアを開ける。ちょっと驚いたことにそこは、俺の寝室だった。

 案の定部屋の中では、下着さえ身につけていない赤子そっくりの姿の彼女が気持ちよさそうに歌い踊っていた。俺がドアを少し強く閉めると、やっと気づいたのか体ごとこちらを向いて桃色の舌を突き出した。

「おいおい、朝からはしたないな。国一番の歌姫がそんなんじゃあ、国民が泣くぜ」

「どうせ壊す国じゃない。それより、あなたも一緒に踊りましょうよ」

「なに、俺も脱げっていうのか? 場末の飲み屋じゃあるまいし、踊るっていうなら少しは淑女らしくいこうぜ、主人」

「淑女らしい淑女は、それに相応しい真摯な相手がいるものよ。だけどこれじゃあね、僕」

 彼女がその骨のように細い指で、鎖骨のあたりを悩ましげにとんとんと叩いた。真新しい吸い痕が合計三つ、着る服によっては隠しきれないような位置。せめてもの罪滅ぼしにジャケットとネクタイと刀だけを外し、俺は差し出された小さな手を、昔よりずっと自然に取った。アルコールよりずっと強烈な、アップテンポの音楽が響き渡る。小刻みなステップが刻まれる。弾けるような笑顔が、目の前にある。呆れる意思とは裏腹に、俺の細胞全てが高まる喜びを隠そうともしない。今これだけでもう、何も要らないと思ってしまう。

 窓の外にはほんの僅かに雲が出た青空が、希望を象徴するように広がっている。罪に染まった魂が二つ、幼い決断を共鳴させながら、世界から遠く離れたところへ自らの歌に乗って流れていった。



                           了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ