Act.7『アインの名を持つ少女Ⅶ』
彼らは一瞬にして異なる世界を渡る。
ヘカテーに導かれ、そして青年に手を引かれてアリエルがやって来たのは石造りの広大な空間だった。
「わ……一瞬で別の所に……」
「ここが彼女の居る魔連本部だ。執務室に飛ばなかったってことは、レイアは別の場所に居るのか?」
「はい。……執務室で話すのは煩わしいから、と。今は……あっちに居るようですね」
人界から魔界への個人による空間転移という奇蹟を事も無げに行った二人は、そのままアリエルを連れて長い歩廊を歩き出した。
どこかの建物の内部だということはすぐに理解したが、内装を見るだけでは全体図の想像は付かない。だが石製の巨柱や壁面、高い天井から降り注ぐ照明を見ると、まるで神々を祀る神殿を思わせる場所だ。
そこは魔界を統べる総魔導連合の本拠地にして、アレーテイア共和国の心臓部。所属する数多くの魔法使い達が世界各地から集う、彼らに“本部”と呼ばれる場所──真相魔殿『イデアル』。
偉大なる聖女の玉座とも言えるそんな場所を緊張した面持ちで歩きながら、アリエルは辺りを見回して呟いた。
「ん……全然人いませんね……?」
「ここは上層部の者でも、一握りの人間しか立ち入ることを許されていない階層だからな。下に降りれば、何万人もの職員が活動している様を見られるよ」
「何万人……」
それほどの数の人間が活動出来るほど、この建造物は巨大らしい。しかしそんなにも大人数の人間が階下で働いているとは思えないほど、歩廊は静謐な空気に満ちていた。
聞こえてくるのは自分達の靴音と前を歩く少女の足音だけ。広々とした廊下がこんなにも静かだと、何故か歩く度に緊張感が高まっていくような感覚があった。
(ん、足音……?)
緊張のせいか些細なことにも注意が向いてしまう。
しかし気付いてしまったからには、アリエルの視線はソレに釘付けになった。
前方を進む小柄な少女。その一糸纏わぬ足は、冷たい床面をぺたぺたと踏み鳴らしている。
(は、裸足のままだ……)
キョウの家を出発する際に彼に教えられたことだが、日本は家の中では靴を脱ぐ文化であるらしい。
なのであちらに居る時は気にしていなかった──そもそも彼女は浮いていたので──が、ここへ来ても素足のままでいるのは彼女なりのこだわりなのだろうか。と言うか普通に歩けたのか。
「どうかしたか?」
「い、いえ……なにも……」
声を掛けてきたキョウにそう言葉を返し、気を取り直して歩を進めるアリエル。
すると程なくして、前を行くヘカテーが大きな扉の前でゆっくりと足を止めた。
「……着きました。レイアはこの中で待っています」
静かにそう告げたヘカテーが、扉を押してアリエルとキョウを部屋の中に招き入れる。
直後、アリエルの視界には信じられない光景が広がった。
緑──辺り一面に景観良く整えられた草木が生い茂り、色鮮やかな花々が咲き誇る花壇があちこちに設けられている。
アリエルが部屋だと思い込んで足を踏み入れた場所は、間違えて外に出てしまったのではないかと勘違いするような広い庭園になっていた。
「え? え……?」
「ああ、ここはレイアが趣味で作っている屋内庭園だよ。気軽に外出が出来ない立場だからと、度々この箱庭で息抜きしているのさ。さあ、行こうか」
彼に手を引かれて芝生の上を歩いてみれば、本物の草地の感触が足に伝わってくる。
屋内である筈なのに太陽があるかのように天井は明るく、どこからかそよ風が穏やかに流れ、開放的な景色がどこまでも続いている。
どうやら細部までかなりこだわり抜いて作り込まれた庭園のようだ。
そんな緑の箱庭の中を少し歩いていくと、やがて目的の人影がアリエルの視界に現れた。
「───」
木陰に置かれたチェアに姿勢良く腰掛ける、白と銀の麗姿。同性すら見惚れるような美女の出現に、アリエルはここまで携えてきた感情を一時的に忘れてしまった。
腰元にまで緩やかに流れ落ちる美しい銀の髪。大海のように深く澄んだ青色の瞳が覗く顔には、慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいる。そして白雪のごとき無垢な肌を包む純白のドレス姿。
自分とはあまりにかけ離れた世界に住まう圧倒的な存在感を前にして、アリエルはすっかり立ち竦んでしまった。
そんな彼女を一瞥して失笑した青年は、固まる少女の代わりに口を開く。
「レイア。お望みの少女を連れて来たぞ」
「はい、ありがとうございます。そしてお疲れ様でした、イデア様。ヘカテー様も、わざわざご足労をおかけしてすみません」
「では何か甘いもので手を打ちましょう。……ハニートーストとか、とても所望です」
「さっき饅頭食っただろうよ……」
「転移でカロリーを使ってしまったもので」
「あんた、バカみたいに燃費が良い方だろうが」
「ふふ。ちゃんと用意させますので、少しだけお待ちになってくださいね」
そう言って微笑むレイアが空いたチェアを見やると、キョウは立ち尽くすアリエルの背中を押した。
「ぁ……ぇ、ぅ……」
「別にそう緊張しなくても良いぞ、アリエル。レイアはこう見えても、臆病な娘だからな」
「あの、イデア様。急に何の話でしょうか」
「何って。お前がまだ小さい頃、暗いのが怖いから一緒に寝てくれって、俺に毎夜頼み込んできてた話を──」
「い、一体何百年前の話をしてるんですか。あくまでもそれは幼い頃の話で……!」
「幼い頃? 俺の記憶では確か、十歳──」
「──初めまして、アリエルさん。私がここ総魔導連合の“長”を務めております、レイア・レア・セレスティアルと申します。さあ、どうか緊張なさらず。こちらの席にどうぞ」
育ての親の言葉を遮るようにして、レイアはアリエルに着席を促す。
指示されてしまっては動かないわけにもいかず、チェアにゆっくりと腰を下ろすアリエル。
すると二人の間にあるガーデンテーブルに突然、二組のカップとソーサーが何者かの手で静かに置かれた。
驚いたアリエルが手の主を見上げると、そこには先程まで姿のなかった女性がいつの間にか佇んでおり、ティーポットを手に二組のカップへ紅茶を丁寧に注ぎ始めた。
「ありがとうございます、イリス。ポットはそこに置いておいてください。それとヘカテー様がハニートーストを要望されているのですが、すぐに用意することは出来ますか?」
「材料さえあればご用意は出来ますが。それでは確認して参りますね」
「ええ、お願いします」
「えっ」
鳶色の髪と、レイアと同じ青い瞳をした麗人が目の前で忽然と姿を消したことに、アリエルは驚きの声を上げた。
空間転移に関しては自身も体験しているが、他人が行う様を見るのは初めてだったからだろう。
そんな少女の反応を楽しむように微笑みつつ、レイアが話の口火を切った。
「ご無事で何よりです、アリエルさん。身も心も傷は負っていないようで、少し安堵しました」
「ぁ……えっと。あなたが、私を……救ってくれた……です、よね?」
「実際に救ったのは、貴女もご存知の通りイデア様です。私も彼に助けられたようなものですよ」
「それでも、きっかけはあなただと聞きました……から。あ、ありがとうございました」
慣れていないのか、戸惑うように頭を下げる少女を穏やかに見守るレイア。
やがてアリエルは面を上げると、緊張で声を震わせながらも本題に移った。