Act.39『懸念』
「お、おなか……すいた……」
思春期の少女にあるまじき枯れた声を放ちながら、アリエルは本部へと帰還した。
それもその筈だ。勉強や射撃訓練にばかり意識を向けていてうっかり忘れていたが、彼女は今朝から何も食べずに過ごしていたのである。口に入れた物と言えば、座学中に摂取していた水だけだった。
もうすぐ陽が傾き始める黄昏時。我が家ではそろそろ夕食の準備でも済ませているであろう時間帯になって、アリエルはようやく自身の空腹を思い出したのだ。
師匠の銃が思いのほか使い心地が良く、射撃に夢中になってしまったせいもあるが──
「大丈夫ですか?」
隣から素知らぬ顔でそう訊ねてくるヘカテーに、アリエルは空腹感で何も言葉を返せない。
せめて本部のどこかに案内してさえくれれば、訓練の合間にでも食事休憩を行えたのだろうが、彼女に空間転移で連れて行かれたのは無人の海岸だ。
探せば何か食材はあったかも知れないが、調理はてんで出来ないので見つけたところでどうしようもない。
もはや文句を言う体力もないアリエルは、幽鬼のような足取りでどうにか自室のあるアパートメントの前へと辿り着いた。
「……あれ? あの人……」
するとそのエントランスに、アリエルは見覚えのある人物の姿を見つける。
壁に背中を預け、誰かを待っているように佇んでいる黒髪の青年。名前は確かセン・アルトライト・ウォーノルン──アリエルが所属することになる特務執行科のチームでリーダーを務める人物だ。
アリエルが彼の存在を認識すると同時にあちらもアリエルの姿を見つけ、二人は目が合ってしまう。
そのままじっと見つめてくる青年の様子から、アリエルは彼の待ち人が誰であるのかを察した。
「え、もしかして私を待ってたの……?」
何の用だろう、と考えてみても用件はチームに関係することしか思い当たらない。今のところ、自分と彼の接点はそれしかないのだから。
しかし昨日の今日で一体どうしたのだろうか、とアリエルは訝しみながらも彼のいる場所へ向かう。
そしてエントランスに足を踏み入れると、アルトライトは壁際からゆっくりと歩き出し、アリエルの元へと近付いてきた。
「おはよう。いきなり驚かせてすまない。部屋を訪ねたら不在だったんでね、ここで君の帰りを待たせてもらっていたよ」
「は、はあ……どれくらい待たせちゃいました?」
「……まあ、一時間くらいは」
その間、彼は律儀にもここで立って待っていたらしい。
連絡を寄越せばいいものを、と考えたアリエルだったが、そこで師匠から事前に教わった魔界の通信事情を思い出す。
こちらの世界には携帯電話のような個人が持つ連絡用の道具はなく、代わりに念話を用いることで道具に頼らず連絡、会話が出来るのだという。そのため携帯電話のようなものは発展せず、個人間の念話では届かない遠方距離に対してだけ連絡用の道具を利用するのだそうだ。
便利なような不便なような、何とも難しい話である。
「す、すみません。私達、さっきまでちょっと遠出していまして……」
「そちらは……確か“長”の?」
アリエルの背後で浮遊する小柄な少女を見て、アルトライトは眉をひそめる。
するとヘカテーはアリエルの隣へと進み出て、ドレスのスカートを軽くつまみ上げて会釈した。
「どうも、ヘカテーです」
「あ、ど、どうも……」
気楽に声を掛けてくる“長”の直参に、困惑しつつも一礼するアルトライト。
そんな彼の様子に失笑しながら、アリエルはアルトライトが何故わざわざ自分を待っていたのかを問い掛けた。
「ところで急にどうしたんですか? なにか大事な用でも……?」
「ああ、昨日言っただろう? 後日チームの顔合わせがしたいって。なるべく早い方がいいと思ってさ。他のメンバーにもそれぞれ、こうして俺から直接声を掛けさせてもらっているんだ」
初めてのリーダーとして、アルトライトも気合いが入っているのだろう。初動から万事抜かりのないようにしておきたいと、就任翌日から早速自らあれこれと動いているようだった。
「今夜、顔合わせも兼ねて懇親会でも開いて、チームの親睦を深めたいと考えているんだが……何か予定はあるか、アリエル?」
「いえ、特には……」
食事を済ませた後は再び勉強をしようと考えていたアリエルだが、チームの顔合わせとなるとそちらを優先するべきだと判断した。
何よりも今は、立場の近い知り合いを一人でも多く増やしておきたいところだ。
「じゃあ他の二人には俺から念話で伝えておくから、これからみんなで食事にしよう。君は部屋に戻って準備をして、またここに降りて来てくれるか?」
「わ、分かりました」
これから初めて会うチームメイトのことを考え、緊張しつつ返事するアリエル。
そんな少女の横顔を一瞥して、ヘカテーは静かに口を開いた。
「……ではアリエル、私はここで失礼します。明朝、また訪ねますので」
「え。あ、今日はどうもありがとうございましたっ。レイアさ……“長”にもよろしくお伝えください」
「はい。それでは」
虹色の光を散らして、ヘカテーの姿は一瞬にして二人の前から消失した。
アリエルはそれを見届けるや否や、すぐさまアルトライトへと向き直る。
「すぐに準備して来ますのでっ。えっと、十分くらい待っててください!」
「ああ」
慌ただしく駆け出したアリエルはエントランスを抜け、転移式エレベーターに乗って姿を消す。
一人残されたアルトライトは念話を飛ばして他の二人のメンバーへ連絡を取り、再び壁際に寄って背中を預けた。
(……今日も“長”の従者が傍に付いていた。あの様子からして、しばらくは付いて回る気か。新人でありながらあの過度な特別待遇……一体何者なんだ、彼女は)
アリエル・アイン・ウィスタリア。
“長”から期待を寄せられる、魔界創始者の一人から魔術を直接学んだ謎の少女。初代“長”の弟子であることはともかく、二代目“長”がどうして彼女へ深く肩入れするのか、その理由がアルトライトには分からなかった。
ともあれ、チームの中で最たる異端は間違いなく彼女だろう。アリエルの存在が果たしてチームに何をもたらすのか。
その不安材料に懸念を懐きながら、アルトライトはチームメイト達の到着を待った。




