Act.3『アインの名を持つ少女Ⅲ』
少女──アリエル・アイン・ウィスタリアが目を覚ますと、視界には見たことのない景色が広がった。
先ず目に入ったのは、木の板で作られた天井。自分が布団に寝かされていたことに気付くと、起き上がろうとした少女の顔を覗き込む人影があった。
それは見知らぬ少女の顔だった。
顔立ちはアリエルの知らない人種のもので、年頃はアリエルとあまり変わらず、長い黒髪を左右で結っている可愛らしい少女だ。
その見知らぬ少女と目が合うと、彼女はぱっと花が咲いたように笑みを浮かべてアリエルの手を取った。
「目が覚めたんですね。良かったぁ、丸一日眠っていたから、まだまだ起きないんじゃないかと心配しましたよ! ……あれ、日本語って通じます?」
「……?」
彼女が何を言っているのか、アリエルにはまったく聞き取れなかった。
聞いたこともないような言語。だが彼女がアリエルの目覚めに喜んでいることは、何となく察することが出来た。
そしてアリエルはふと、自分の状況について思い返す。
あれからどれくらいの時間が経ったのかは分からないが、自分は確かに命を救われた。
死を覚悟することも出来なかった瞬間に、私は誰かに救ってもらった。だけどお礼も出来ないまま、私は安心からか緊張が解けると共に意識を失ってしまって──
「キョウくーん! 女の子の目が覚めましたよーっ?」
アリエルが記憶を掘り起こしていると、少女は部屋の出入口へと行って廊下に向けて誰かに呼び掛けていた。
半身を起こして辺りを見回したアリエルは、未知の技術で出来た部屋の造りに小首を傾げた。
床はよく分からない素材で編まれた板のようなものが敷き詰められており、部屋の柱や天井には木材が使われている。出入口に使われている戸は見たところ紙で出来ているようだった。
見たことのない景色にアリエルが困惑していると、少女が佇む出入口に見覚えのある姿が現れる。
スーツ姿ではなくカジュアルな衣服に身を包んでいるものの、腰まで届くほどの黒い長髪に中性的な面貌は、間違いなく自分を救ってくれた青年であった。
「ほら見て見て、キョウ君。女の子、目が覚めたよっ」
「はいはい、解ったから。取り敢えず桜は居間でみんなと待っていてくれるか? 俺はあの子と少し話をしたいから」
「うん。じゃあまた後でね、アリエルちゃん」
笑顔で手を振る少女の言葉の意味が分からず、困り顔のまま立ち去る彼女を見送ってしまうアリエル。
そんな少女を見て、青年はゆっくりと部屋の中に足を踏み入れ、後ろ手で襖を閉める。
そして少女の前で腰を下ろすと、彼はあの日のように穏やかな表情でアリエルを見据えた。
「おはよう、アリエル・アイン・ウィスタリア。気分はどうだ? 何か身体でおかしいと感じるところはないか?」
「……大丈夫、だと……思います。ここは……?」
「ここは日本の……って君に言っても解らないか。俺の家だよ。君の生まれ育った街から遠く遠く離れた場所だ。世界一安全な場所であることは保証しよう」
「遠く……」
先日の、地獄のような光景と体験を思い出すアリエル。
ここがあの地獄から遠く離れた場所であり、安全な場所だと言われたことで、少女は大きく安堵した。
「あの……あなた、は?」
「ああ、そう言えば自己紹介がまだだった。えっと……何と言えば良いかな。あちらの世界では“イデア”の方で名が通っているんだが、この家の中にその名で呼ぶ奴はいないしな……」
「──じゃあ、キョウ君でいいんじゃないですか? ここではみんなそう呼ぶんだから」
「……おい」
先程どこかへ立ち去った筈の少女が、けろりとした顔で青年の隣に腰を下ろした。
少女だけではない。開かれた襖から次々と五人の見知らぬ女性達が部屋の中へ入って来て、青年の背後に並んだ。
そんな彼女達の登場に、青年は大きな溜め息を漏らす。
「居間で待っていろって言っただろうが……」
「そうなの? その娘、居間に来るなり『あの子が起きたから、みんなで見に行きましょうよ』とか言って、私達を呼び出したんだけど」
「わわっ、なんで言っちゃうんですか読さん!」
着物姿の小柄な少女、読がそう言って告げ口すると、桜と呼ばれていた少女は慌てて青年の方を見やる。
話を聞いて呆れた青年は再び溜め息を大きくこぼし、仕切り直してアリエルを見据えたが、
──ぐぅううううううう………………
そこで話を遮るようにして、空腹を告げる大きな音が室内に響き渡った。
突然の出来事に誰もが声を失う中、アリエルは一人だけ頬を赤らめて、掛け布団で顔を隠してしまう。
「……その、何だ。話の腰が折れたな」
「ふふ。ここへ運ばれて来てからも丸一日眠っていたのですから、お腹が空いていても仕方がありませんよ。準備は済ませてありますし、お夕飯にはまだ少し早い時間ですが、みんなで食事にしませんか兄様?」
自分を兄と呼ぶ少女がそう言って微笑むと、青年は指で頬を掻きながら布団に顔を埋めるアリエルに呼び掛ける。
「これから食事にしようと思うんだが、どうだろう? 俺達と一緒に食べないか」
「……」
彼からの提案に、アリエルはこくこくと黙ったまま頷いた。
すると彼女の返事に手を打って快哉を叫んだのは、桜という少女だ。
「じゃあ私も一緒に食べたいですっ。いいよね、キョウ君?」
「いやお前は家に帰れよ……」
「えー、なんで私だけ除け者なんですかー!?」
「今日も親御さんが夕飯作って、家で帰りを待ってくれてるだろうよ。ただでさえ最近までランドセルを背負ってたような小娘が、夕暮れ時まで男の家に入り浸るんじゃない。
さっさと帰って温かいご飯を食べて、宿題して風呂入って寝なさい」
「あー、子供扱いした!? 子供扱いはしないって約束じゃないですかっ! それにランドセルを卒業してから、もう一年以上経ってますぅー!」
「一日も一年も大差ねえよ。じじいの時間感覚を子供と一緒にするな」
「ああっ、また子供扱いした! うぅ……キョウ君のバカーっ! じゃあまた明日!」
「はいはい。気を付けて帰れよ」
不機嫌なのかそうでないのか、よく分からないような態度で帰って行く少女の様子を青年はしっかりと見送ってから、改めて話を続けた。
「食事をしながらでも、君の今後についていろいろと話そうか。俺達の自己紹介もしないといけないしな」
「っ……」
青年が手を上げた瞬間、アリエルは怯えるように身体を震わせた。
だが彼の手はゆっくりと頭の上に乗り、自分が優しく撫でられていることに気付いたアリエルは不思議そうに彼──キョウを見上げる。
少女の反応の違和感には気付きながらも、キョウは撫でるのをやめて静かに立ち上がった。
「さて、行こうアリエル。我が家の居間に案内するよ」