Act.1『アインの名を持つ少女Ⅰ』
視界に広がる光景は、赤々しく乱雑に塗り潰されていた。
その景色が存在するのは魔界の南部、小国が群れを成して形作られたステラルム連邦の辺境にある小都市だった。
夜であっても目を焼く光を放つのは紅い炎。鼻腔を刺すように漂うのは、肉の焼けた臭いと夥しい血の臭い。
そこはまさに地獄だった。
戦争があったわけではない。数時間前に、ある病魔に冒されたたった一体の魔物が、街に侵入しただけだ。
そして平穏で静かだった街が瞬く間に阿鼻叫喚に包まれ、血風と火炎が渦巻く死都に様変わりするのに然程時間は掛からなかった。
一個体の病魔が他へ感染してヒトを魔物へと変え、それがねずみ算式に増えて人間であった者はやがていなくなってしまった。
このままではこの死都から各地に病魔が飛散し、やがて世界は滅びてしまうだろう。
それを抑止するための組織は世界に数多く存在するが、このような辺境の地での異変に早急に気付ける者など皆無に等しかった。
そんな地獄と化した死都に、静かな足音が響く。
病魔に冒され、命を落とした動く死体が街のあらゆる場所を徘徊する中、その足音の主達は周囲を意に介さず歩いていた。
それはあまりに場違いな出で立ちをした三人の男女だった。
横並びになって左右を歩くのは、地獄に足を踏み入れるには似つかわしくない和服姿の美しい女性達。
片や妙齢で中背、白い袴姿の美女。
片や幼年で小柄、黒い留袖姿の少女。
年の頃以外は共に長く艷やかな黒髪を持つ、似通った容姿の姉妹だ。
そんな二人に挟まれて中央を歩く、スーツ姿の長い黒髪の女──いや、中性的な顔立ちをしているものの、冷ややかに周りを見渡すその物腰は男性のものだった。
地獄の只中を平然と歩いているにも関わらず、魔物達は誰も彼らを襲おうとはしない。まるで本能でも残っているかのように、自ら死へ飛び込むことを忌避して動けなかった。
すると彼が、おもむろに溜め息交じりに呟いた。
「……たった一つの家を潰すのにここまでやるなんて、どれだけ余裕が無いんだか。いや、あるいは徹底的に潰すためか」
「生存者は?」
幼い少女が短く訊ねる。
見上げられた青年は、淡く光を帯びた紫色の瞳をゆるりと辺りへと向けた。
「──居たぞ、外れの屋敷に一人だけだ。目的の少女で間違いない」
「では、周囲の幽鬼は如何致しましょうか。このまま放置と言う訳にも……」
今度は美女が青年に問う。
その手にはいつの間にか太刀が握られ、鮮やかな光が刀身に纏っていた。
それを見た青年は彼女の気の早さに失笑しつつ、軽く頷いて見せる。
「もう街に生き残りはいない……それは確かだ。せめて一瞬で楽にしてやってくれ、照」
「はい。主命とあらば」
照と呼ばれた女性は恭しく目礼をすると、軽く横薙ぎに太刀を払った。
すると刀身に宿っていた光は燦然と解き放たれ、一瞬にして周囲一帯を切り裂いてみせる。
たった一閃で数十もの屍体が真一文字に断たれ、光に触れた幽鬼達は切り裂かれた瞬間、灰となったように崩れ落ちる。
それを見た少女は、小首を傾げて辺りの光景を見やった。
「あれって……西洋で流行った吸血鬼って言うんだっけ?」
「吸血鬼なら知性を持っている。あれはなり損ないだな」
「ふーん。どちらにしても、ここは姉が適任よね。私じゃ、逆にあいつらを元気にしそうだし」
「冷たいな。お前も手伝ってやれよ、読。照一人でこの街を片付けさせる気か」
「いや……アレ、余裕でしょ……」
ちらりと少女が一瞥した先では、美女による一方的な蹂躙が始まっていた。
彼女が一閃を放つ度に魔物の群れは次々に消え去り、眩い威光と剣風が炎すらも吹き飛ばす。
さながらそこに、嵐が現れたかのような光景だった。
「読、貴女は主と共に行きなさい。これから少し手荒になりますから」
「ほら、姉もああ言ってるし。急がないと間に合わないわよ?」
「……そうだな」
読にそう促された青年は、少女の手を掴んで地を蹴った。
直後、二人の姿は街中から外れに佇む洋館の前へ瞬時に移動する。
炎に包まれた洋館の周囲にも幽鬼が群がっているが、青年と少女が現れた途端に逃げ惑い、のたうち回り始めた。
彼らが放つ強い魔力に耐えられず、中毒症状を起こしているようだ。
「……読、この近辺を頼んだ。俺は屋敷の中を片付ける」
「はいはい。あんたはさっさと仕事をして来なさい。私達まで出張らせておいて下手を打ったら、後で叩くわよ」
「素直じゃないな。そこは『心配だけど頑張ってね』って言ってくれた方が、俺もやる気が出るんだが」
「うるさい、さっさと行けぇッ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る少女に微笑むと、青年は懐から銃を取り出して弾けるように駆け、洋館の中に突入した。
炎に包まれる外側と同様、屋敷の中にも炎が這いずり回り、至る所の装飾を焼いていた。
酸素は薄く、先に焼死して魔物となることを逃れたのか黒く焦げた肉塊の姿も廊下にはいくつか散見された。
青年はそれでも顔色一つ変えず、紫色の眼光を放ちながら屋敷の中に存在する気配の元へと急ぐ。
途中で出会した、屋敷の元住人と思しき幽鬼達には迷わず魔弾を撃ち込んだ。
今の彼の眼にはもはや、救うべき存在しか見えていなかった。
自分に死が迫っていることを、十ニ歳の誕生日を今日迎えたばかりの少女は理解していた。
先ず危機感を懐いたのは、街で異変が起こっていると察知した父によって、避難用の隠し部屋の中へ早々に押し込まれたところからだ。
“──お前はウィスタリアの宝だ。脱出の準備が整うまでここに居なさい──”
そう言われ部屋に閉じ込められてから、一時間ほどが経過していた。
部屋の外から聞こえてきた悲鳴や絶叫から、外で何が起こっているかなど十ニ歳の少女ともなればすぐに判断が付く。
もはや父も母も、屋敷の者達もここに来ないことなど分かり切っていた。
少女は壁際でうずくまり、外から聞こえてくる物音に身を震わせることしか出来ない。
私はこんな結末は望んでいない。
私はこんな未来は望んでいない。
そう、望んでいない。確かに『みんないなくなればいい』と私はいつの日か思ったけど、こんな事を望む筈がなかった。
「ひっ──!?」
隠し部屋に物音が近付いた。
するとすぐに部屋の隠し扉が暴かれ、乱暴に扉を開けようとする音が鳴り響いた。
恐怖のあまり声が思うように出ない。
身体は震え、上手く手足を動かせない。
ただ目だけが、真っ直ぐに部屋の出入口を捉えていた。
「……た、す……け……」
掠れる声に応えるように、扉が打ち破られた。
扉の先に立っていたのは、ここに自分を閉じ込めた父親の変わり果てた姿だった。
しかし少女の眼にはもはや、ソレは怪物にしか見えなくて──
「お、姉……」
あっという間に迫り来て、いつものように手を振り上げる怪物の姿に、少女は反射的に目を閉じた。
手が振り下ろされるまでに数秒も掛かるまい。
少女が死を覚悟するにはあまりに足りないその刹那、怪物の叫びを切り裂くような銃声が轟いた。