ながれ・ながされ
なんとうなく、おもてが暗ぼったい。
今朝、なおちゃんは妙な咳をして会社に出かけた。いつものようにあたしの頭を撫ぜて。耳もとで、行ってきます、と鷹揚な口調で囁きながら。
相変わらず毎日の日課で、毎日の行事に組み込まれている。薄めを開け、なおちゃんの顔をひっそりと凝視する。やはり、おもてのように、なんとうなく顔色が暗ぼったかった。
「なおち、」
そこまで言いかけると、遮るかのように、
「今日は、雨がふるよ」
あたしはゆったりとうなずいた。そして、行ってら、といい、布団の中から右手だけだし、手を振った。
そのまま、あたしはまた睡魔に襲われる。まだなおちゃんの匂いのする布団の中で。
このまま寝ていたい。毎日思う。
「何時だろう」
あたしは、布団の上にあるスマホに手をのばして時間を確認しようと手にとるが、スマホが大きいのでその重たさに耐えきれず、そのまま顔に落としてしまった。
「痛っーい!」
ひどい悲鳴をあげるもおでこに直撃。きっと、青あざになるな。あたしは、立ち上がって洗面台に衝撃を見に行く。
最近はパンツだけ履いて眠る。上半身は裸だ。なおちゃんは全裸。
全裸で抱き合うけれど、冷房が効いているので汗は決してかなない。けれど、朝はおそろしいほどに気怠い。毎朝2人してうんざりしている。
「げげ」
思っていたとおり、痛々しく赤く盛り上がっていた。最初は赤で青になって最後が黄色になって完治してゆく。人間の身体は至極不思議に出来ている。
顔を洗い ーちふれの洗顔ー そして歯を磨く。
あ! 時間を確認していないことに唖然となり、部屋のフクロウの掛け時計を見る。最近フクロウの目の絆創膏が取れてしまった。けれど炯眼の目は健在だが以前のようにフクロウの声はしない。
9時半を少し回ったところだった。
今日はバイト先に行かないとならない。というか、在宅ワークだといろいろと不具合があるということで今週あたまから出勤をしている。
あまり時間がないので、お化粧を軽くして、洋服を着替えて自転車に乗る。駅まで約8分。おもてはグレーで日光が出ていないことに多少の安堵を憶えつつ、11時24分の電車に乗った。コンビニで卵のサンドイッチとアイスカフェオレを買って。
結局またおもての仕事に出ることになった。なおちゃんには強固に反対された。
『また、前みたいにいじめとかにならないの?』
『やめるとかいいだすんじゃないの?』
などと、辛辣なことをサラッといわれ、二の句を継いだ。
あたしはどうやらなおちゃん以外には心を開けない。人との間がよく分からないのだ。
会社につくとカズヨさんだけしかいなかった。社長は今日は来ないわよ、訊いてもいないのに、先に言われ、そうですか、というタイミングでパソコンを起動した。
「Illustratorね、あなたのほう、cs4だったでしょ?cs6をインストールしてあるから」
あ、そうですか、パソコンを起動すると、Illustratorのアイコンがひとつ増えていた。
「これで互換性も大丈夫ね」
「あ、はい」
カズヨさんはcs6であたしがcs4だったのでカズヨさんからもらうデーターを受け取ることが今まで出来なかったのだ。出来てもバージョンを落としてとか、なんとかでややこしいとほざいていた。明日にはフォントのライセンスキーもくるみたい。あたしに向かっていった台詞だとは思うけれど勝手にあたしのパソコンを弄るのはカズヨさんである。
Illustratorのアイコンが2つになっている。
なんだかそれだけで嬉しくて、なおちゃんに早く話をしたかった。
おそろしいほど作業がはかどった。新しいバージョンだからだろうか。
「あら、もう終わったの」
カズヨさんは、猫みたいに背伸びをしながら、どら焼きを食べている。大柄な身体である。
「はい、どら焼き。あげるわ」
必ずあたしになにかしらくれ、手なずけるカズヨさん。たちまちあたしの方にかなり仕事を回してくる。
パソコンの画面に別の図面のPDFが送られてきた。カズヨさんが送ったのだ。
あたしは見てみないふりをし、パソコンの電源を落とす。
「あ、今日はこれにて上がりますね」
「ええ!」
だって、カズヨさんの言いたいことはとても分かったが、一刻も早く家に帰りたかった。夕方の4時。
タイムカードが16時になったところでカードを入れる。
【ジジジ】と、音を立てながら。
カズヨさんは、やだぁ、もう、そんな風に故意して言い、眉間に皺を深く刻んでマウスをカチカチと鳴らしている。
おもては全て橙色に染まっている。橙色でもまだ気温は下がってはいない。駅から徒歩で8分のところだが、電車に乗って約8分。降りてから自転車で約8分。
「8が3つだから24分ね」
ふぃに計算をしてみる。おもては喧噪がいちいち煩い。早く、一刻も早く、なおちゃんと一緒に寝ている布団に潜って頭を撫ぜてもらいたい。と、ぼんやりと考える。
なおちゃんが多分いちばんの好物だ。どら焼きも好物だけれど。
カズヨさんにもらったどら焼きは、ほんのりと甘く上品な味がした。大きいから大味だという固定観念は捨てようと切に思う。なのでカズヨさんも大味ではないのかもしれない。食べたくはないが。
帰り際にスーパーに寄った。値引きされたカナダ産の豚肩ロースを2枚と、卵、パン粉と、ほろよいの缶チューハイのカルピス味を購入し、スーパーから出る。出るや否や、冷えた缶チューハイのプルタブに手をかける。
おもてにあるベンチに腰掛けてごくごくと喉を鳴らし胃におさめていく。冷たさが食道から胃に流れていくのがわかる。あたしは下戸だ。けれど缶チューハイだけは飲めるのでこのスーパーに来た時だけの唯一の楽しみだ。
ツクツクボウシの声がおもしろいほど耳の中でこだまをする。セミの寿命が儚い。儚いのに精一杯生きる。
あたしは缶チューハイを片手に目を綴じる。
幼い日々の中のあたしを思い出す。セミを手で掴めたのだけはおぼえている。
午後8時3分。おもてから車のエンジン音がする。なおちゃんが帰ってきた。あたしはなんとうなく手ぐしで髪をとかし、洗面台でニコリと笑ってみる。
「おかえりー」
しかし、なおちゃんは元気がなかった。
「うん、ただいま」
いつもなら頭を撫ぜてくれるのに。なおちゃんは死んだ魚の眼をしていた。
「なおちゃん、なにかあったの?」
顔を下から覗き込む。
いいや、まあ、首を横にふり、洗面所に手を洗いに行った。靴下も脱いでくるに違いない。明日は洗濯しよ。思いつつ、ダイニングテーブに座っているあたし。
「豚買ってきたんだね」
冷蔵庫を開け缶ビールを取り出しながら、トンカツを作るからね、と、付け足す。
「ええ。いちおうパン粉だけはつけたの」
「わー、出来たんだ」
最早否定出来ないレベルであたしはそのまま黙った。だって、小麦粉と卵とパン粉をつけるだけじゃん。言えなかった。しかし、最近やっとそこまで出来るようになったのだから。
「へへへ」
鼻白んでみるも、なおちゃんはあまり気にも止めないでいる。
「けど、なおちゃん、体調悪いんじゃないの?」
ん?
豚から顔をもたげ、んー、と、唸る。
「悪いっていうかぁ、」
そこまでいうと、ジュー、と、油の中で豚が泳ぐ音がした。香ばしい匂い。立ち上る湯気を目一杯に吸い込んだ。
「この前のさ、健康診断で再検査の項目があったんだよ」
「え?」
さいけんさ。さいけんさ。あたしの中で、その単語はなかなか漢字に変換されなかった。
「テーブルの上にあるから見てみ」
ポストの中から持ってきただろう、近所で亡くなった人の葬式の日取りの紙と、ピザやと、寿司やの紙の下に無造作に健康診断の回答用紙が置いてあった。
あたしは、広げ上から項目を見てゆく。
《左下肺野結節影》
と書いてある、初めてみる病名だけが『5』だった。
「去年はね、なんともなかったんだよね」
通知表だったら、『5』だなんて嬉しいのにね。嘘笑いをし冗談めかす。
「肺って……、なにか痛いとかあるの?」
「ううん」
カツが揚がったようだった。
「ないよ。さ、食べよ」
佐藤のごはんをチンして、カツを皿に乗せてあたしの目の前に並べた。
「でも、心配」
なおちゃんは、あたしの背後に回り、多分ね、大丈夫だからさ。あたしの頭を撫ぜそう呟いた。
カツはとても美味しかったが、なおちゃんのことがあまりにも心配でタバコを隠した。明日さ、再検査に行ってくるから。食べ終え、洗い上げをしてるとき、対面式越し。台所にいるあたしに声をかけた。
「タバコだしてよ、ふーちゃん」
なおちゃんは、すでに隠したことはお見通しだった。
「でも、心配だわ」
「どうしよう」
「病院についてこうかな」
なおちゃんよりもあたしの方が病人のようだった。顔色が薄汚れていたのは、一週間の疲れからくるもので、寝るときは普通の色に戻っていた。今夜はあたしも裸で寝た。
なにも身にまとわず寝るのって一番至福のときなのかもしれない。なおちゃんはあたしの胸に顔を埋める。そしてあたしは柔らかい髪の毛のなおちゃんの髪の毛を梳いた。
「ねぇ、」
「……、ん?」
くぐもった声。胸のあたりがくすぐったい。
「なおちゃんになにかあったらあたしも死ぬから」
わりと本気を出して言ってみた。
おもては静寂に満ちていて、カーテンの細い隙間からは全く明かりは入ってこない。
「明日雨かしら」
無防備な横顔。あたしは愛おしい男を胸に抱き、そうっと目を綴じる。
朝。
既になおちゃんの姿は忽然と消えていた。昨夜なおちゃんはあたしの胸の中で眠ったはずなのに、明け方は逆になっていた。なおちゃんはあたしを胸に入れてくれる。心臓の音はあたしの精神安定剤になる。
ゆっくりと起き上がり、カーテンを開ける。既に暑い1日が始まっていて、セミの合唱にうんざりした。台所に行き、冷蔵庫から天然水を取り出す。あたし専用なので2ℓのペットボトルをそのまま口をつけてゴクゴクと飲んでゆく。冷たい水が体内に沁み渡る。胃がびっくりしたのか、頭がキーンと痛くなった。
口の端から水が溢れ裸の体を伝ってゆく。
冷たい。あたしはそのままぼーっとしていた。
おもから、車のエンジンの音がし、玄関が開いた。
「ん?なにしてんの?」
ただいまでもなく、おはようでもなく、開口一番に口にしたのは『なにしているの』だった。
「今、起きたの」
そっか、なおちゃんは、どさっと、スーパーで何か買ってきた品物を置いて、あたしを抱きしめた。おもての匂い。
「病院に行ってきたんだ」
「うん、」
裸のあたしを抱きしめながら、さらに続けた。
「MRに入ったんだよ。狭かった。怖かったし」
ははは。子どもみたいだね、と、自虐的に笑う。
あたしは、子どもじみた言い方の大人のなおちゃんの頭を撫ぜた。
「がんばったね、えらいわ」
やや、間があった。
「結果は2週間後だよ」
てゆうか、服を着てね。いいながら、洗面所に吸い込まれていった。
腹減ったぁ。フクロウをみたら、すでに1日の半分を少し過ぎていた。
「うどんと揚げ物を買ってきたから食べよ」
あたしは、ワンピースを着ながら頷いた。
白身魚のフライと、お野菜のかき揚げ。そして、コロうどん。
「どうして、冷たいうどんって『コロ』っていうのかしら?」
対峙してうどんを啜る。お野菜のかき揚げは昨日カズヨさんにもらったどら焼きくらい大きかった。
なおちゃんは、あたしの質問に対し、そういえばそうだね。と、応えた。しかし、それは応えではなく同意である。
「かき揚げ半分でいいわ」
どら焼きの話をした。そう、このお野菜のかき揚げくらいだったのよ。とか、いいながら。なおちゃんは、心なし嬉しそうに聞いている。たまに、うん、そっか、と、いいながら。
お腹が膨れてすることがなくなった。
「プールに行こうか」
せつな、言い出す。行こうかという疑問符ではなく、もう決断したように。あらかじめ決めたあったように。
「うん、そうね。けど、お腹が出てるわ」ふふふ。
あたしはそうっと笑った。
少し走ったところに公共施設のプールがある。きっと芋洗状態だよ、土曜日の夏休みでしょ。うん、そうだね。言い合いながらもあたしたちは、支度を3分でし、即座に車に乗った。
さっきまでなおちゃんが車に乗っていたのでまだ車内に冷気が残っている。
家の中にいるときと、おもてにいるときのなおちゃんは別人に見える。車内では始終無言だった。意図的ではなく、ただ喋ることがないのだった。
つき合って1年。
一緒にも住んでいるし、あたしたちの中で無言も一種の会話なのだろう。べらべら喋る質ではない。特になおちゃんは。
プールはやはり大盛況だった。流れるプールだけれど芋のように人間が多く全く流れない。しかしうどんを食べた分でお腹が膨らんでいてカエルみたいになっている。紺色のまるでスクール水着は小学生を彷彿させる。もっと洒落た水着が欲しいと思う。
人が多いのが功を奏したとばかりに、あたしはずっとなおちゃんの背中の上にいた。なおちゃんはお腹にビート板を入れてあるので浮いている。なのでそうした。
誰も気にする様子はない。あたしとなおちゃんはずっとべったりだった。
「ねぇ、あっちで、泳いできたいんだけど」
同じフロアに50メートルプールがある。選手コースだ。
「いや」
離れてしまうのが、怖かった。メガネを忘れたあたしは何も見えない。
「ここにいて。大丈夫だから」
いいながら、あたしをのけて、プールサイドに腰掛けさせた。
「じゃあ、直ぐ戻ってくるからね」
鷹揚な口調であたしの頭を撫ぜながら行ってしまった。
いや、はっきりと言葉にしたのに。
利己的なあたしになおちゃんは辟易している。わかっているのに、まったく叱らないなおちゃんをときおりおそろしいほど憎たらしくなる。喧嘩をしたことがない理由は、なおちゃんが優しいからではなく、あたしに興味がなくなったのだ。
プールサイドから見える同じ人種たちはひどく平和そうに見える。家族連れが多いがカップルもたくさんいた。
遠くは見えないが直ぐそばにいる人達は見える。
「ないてるの」
隣に5歳くらいの男の子がいつの間にかすわっていた。
あたしは、首を横に振った。
「ないてないわ。目にね、お水が入っただけよ」
お母さんはどこ? と、付け足そうとしたとき、あ、いたいた、と、言いながらその子の父親らしき人がその子を抱いて出口の方に歩いていった。
「え!」
腕をつかまれる。
「行こっか」
すっかりと泳いできたなおちゃんはなんだか元気そうに見えた。
「お腹が空いたわ」
ええ! だって、そのあとの言葉はよく聞こえなかった。多分、さっき食べたぶんじゃんか。だと思う。
「出口で待ってるからね、髪の毛を乾かしておいでよ」
うなずき、なおちゃんに抱きつく。しかし誰も見ていない。あたしの形容しがたい感情も、あたしが流している涙のわけも。誰も見てはいない。
「ほら、」
恥ずかしいのかなおちゃんの耳朶はほんのりと紅潮している。まるであたしの目のように赤くして。
プールに入ったあとの気怠さが嫌いではない。むしろ好きかもしれない。
家に帰ったら洗濯ね。
あたしはそう思いつつ、ミニストップによってもらい、ソフトクリームを舐めている。
「ちょっと頂戴」
「いや」