28 魔剣のなか
唐突に、訪れる虚脱感。ミャミャルは困惑に、えっ、と声を漏らすが、そんな声に関係なく、容赦なく身体から感覚が引き剥されていく。それは刹那にも満たない時間の中で起きた。そして、気付くと、幾何学模様が所かしこに浮かぶ空間と、いびつな魔法陣が存在していた。
『あれ――ここは?』
さっきまで、音に聞くグレイハウンド領の猊下の前で話をしていた筈なのに、とミャミャルはつぶやく。
すぐさま、ミャミャルの湧き上がった考えがこの状況を考察した。
『そうか、夢か。うん、夢だ。リアルな夢だったなあ……』
『阿呆を垂れ流すのはそこまでにしておくんじゃな』
『――え?』
それは、紛れもない、岩融の声。だが、心に響くというよりも、もっと身近で声が聞けたような気がした。
『なにを驚いとる、ここは岩融のなかじゃて』
いびつな魔法陣が、不愉快そうに明滅する。描かれただけの魔法陣でしかないのに、何故かミャミャルは、感情を読み取ることが出来た。いや、むしろ表情豊かにさえ思えてくる。それにしても、岩融のなかとは……?困惑に、首をかしげた。
『本来なら、もうすこし先にしようかとも思ったが、あのガルフォード、考える隙も与えず人の獲物を攫っていこうとしてるからの。こうして、先に契約を済ませようとしてる訳じゃ』
岩融は不機嫌に鼻を鳴らすと、いびつな魔法陣がミャミャルに近寄る。
『特になにも考えんでええ。とりあえず、その魔法陣に手を向けな。そうすりゃ、あとは勝手にこっちがやるさ』
『えっと、なんか危ない契約みたいで怖いんですみゃ……』
『ほうほう、さっきまで馬鹿面拵えてお偉方に間抜けを晒してた奴が、いっちょまえに頭が回るじゃないかえ。別に、これだけであんたを取って食えるわけじゃあないよ。あたしゃ、餓鬼共のように節操なしじゃないからねえ』
まるで悪魔の契約に見えるそれをくちにすると、いつものように岩融は悪罵を乗せて返してくる。なにくそ、と思うが、ミャミャルは本能で悟った。これは大切なことだと。ならばと、くちは勝手に衝いて、彼女のおもった疑問を紡ぎ出す。
『岩融さん――おしえて。これって、何なの』
『んむ……。魔剣の契約の"儀"じゃ。これは宣誓であり、宿主が魔剣と契約することで、魔剣はおのれの権能を宿主に十分に提供出来るものじゃ』
同時に、おぬしを喰う事も出来るがね。それだけは伏せて、岩融は語る。
『って言うと、私は岩融さんと契約するところって事ですか?うわ……』
『うわ、とはなんじゃうわ、とは』
『だって岩融さんだよ……?口汚い性悪婆さんだよ?それと契約って、魂とか取られそう』
『へっへっへ、ご所望なら取ってやろうか、このアホ娘』
『嘘です冗談です!ごめんなさい!』
岩融の響きに本気のものを感じ取って、ミャミャルは即座に謝った。喰われるというものがどういったものかはわからないが、この岩融はやるといったらやる空気を孕んでいる。ならば、へたな事は言わないほうがいいと、胸中でひとり零す。
そんなミャミャルに嘆息しつつ、岩融は話をつづける。
『まあ、これは取って食う契約でもない。ただ、儂とおぬしに経路を通すだけじゃ。違う魔剣を握ろうとも、その経路を扱って、ほかの魔剣を使うことが出来る。まあ、魔剣の通行手形みたいなものを、今から発行するだけのことじゃて』
『じゃあ、ミャミャルはこれから魔剣を使えるようになるんですか?』
『ああ、そうじゃよ』
呑み込めてきたミャミャルに、岩融は安堵の思念を発する。そこまで知恵が回らないのではないか、という考えは杞憂だったようだと安心して。非常に失礼である。
なんとか自分の状況を呑み下したミャミャルは、次なる疑問を口にする。
『それで、ミャミャルはどうなるんですか?』
『どうにもならんよ。ただ、ちいとばっかし長生きになるのと、魔剣が扱えるようになるだけさね』
そこに、なんとなく、違和感を感じた。ミャミャルは、賢くはないが、人の機微にはそう疎い訳でもない。だから、岩融のその言葉に、本能的な忌避感を抱いた。
『へえ……それで、この部屋?を出るには?』
『契約しなきゃ出しはせんよ』
だからと、逃げの口上をくちにするが、どうやら岩融は逃さないらしい。あたりまえか、ならばこんなところにミャミャルを招待する訳はないよね、となんとなく思う。
ミャミャルは感じていた。ここは大切な場所であることを。おそらく、岩融が魔剣の裡。その深奥で、もしもここでミャミャルが不都合を働けば、途端岩融はミャミャルを対処するだろうという、一種の真剣な空気があった。
だが、ミャミャルとしては迷惑であった。自分は平凡に暮らしたい。本来ならば、今日のような突飛な出来事自体も御免被る、平々凡々な人生を送りたいと、そう願って止まなかった。だから、抗う為に、無気力を演じる。
『えー……』
『まだるっこしい娘だねえ!特に害もなにもないからさっさと契約おし!』
そう言うと、いびつな魔法陣は強引にミャミャルと重なる。
逃げようと逃げまいと、そもそも出口もなにもない空間なので、ミャミャルにはどうしようもなかった。
変化は劇的なものであった。
ミャミャルの全身に、たくさんの光る線が走る。それは心臓からはじまって、両腕、うなじ、へそ、両足、あらゆるところに伸びて、明滅する。痛みはない。ただ、むず痒い。全身をくすぐられるような、そんな痒みに身を捩る事数分。光は収まると、さきの線など夢幻だったかのように、そのままの姿のミャミャルが居た。
ミャミャルは自分の両手や全身を見渡して、変化がないことに眉根を寄せる。
『……特に変化ないですみゃ』
『目に見えるような変な経路作る程、鼻くそみたいな魔剣な真似はしないよ』
『これで、ミャミャルも魔剣使い、ですか?』
『ああ、そうじゃ。そして、これで儂の権能も十二分に扱う事が出来るじゃろうて。ま、その前に――』
岩融は、きっと顔があれば意地悪い顔で笑ったんだな、という声でつぶやく。
『ちぃと、あそこのじじいを脅かそうかとおもってな?』
『止めて欲しいみゃ!』
ミャミャルはすぐさま否定の声を挙げるが、岩融は聞いたこっちゃない。
彼女を無視して、いびつな魔法陣はせり上がっていき、空中に融けて消えた。