ヤクザの初詣
事務所に入ると正月のよういが出来てた。
「みんな、席に着きや」姉さんが声をかけた。
田乃倉麗香36才、美人で色っぽい、元々大阪の南のクラブでナンバー1のホステスで気が強い、田乃倉雅之が通い詰めてようやく口説き落としてホテルに誘い、立派一物でヤクザの女にした過去が有る。
今では麗香の方がぞっこんで、立派なヤクザの姐さん。
「皆、酒は行き渡ったか」雅之が声をかける。「はい」若い衆が応える。
「去年1年ごくろやった、田乃倉組もこの、南で勝ち抜いて80人に若い衆も増えた。今年は100、200と世帯を大きくして行こうやないか、皆、頑張ってや、特に頭には期待してるで、ほな、乾杯や、おめでとうさん」
「おめでとうこざいます」
若い衆がいっせい応え盃を呑みほす。
組長にの乾杯の言葉を終えると田乃倉組の姐さんが話し出す。
「昨年1年ご苦労様、皆がこうして元気に顔を揃えて新年を迎える事が出来て嬉しく思うわ」
実に美しく笑う。
「今年も親分、頭を助けて組を大きくしてや。せやけど、無理して身体を壊さんと頑張ってな、困った事が、有ったら何でも相談してな」
「分かりました」若い衆が応えた後に、頭が1人、組長の前に進み出て「親分、旧年中は、お世話になりました、また、御心配をおかけして申し訳ありませんでした。本年は舎弟、子分一同、気を引き締めて、任侠道にまいしんして行きますので、親分にはいたらぬところが有りましたら、御指導、こべんたつを宜しくお願いします」
「お、頭よろしく頼むで」田乃倉組長が応える。
ひと通り挨拶が終わると無礼講の宴会に成った、「親分どうぞ」「伯父気昨年はお世話になりました。一杯どうぞ」「兄貴一杯どうぞ」「兄弟一杯」声が、あちらこちらでなごやで聞こえる。
ヤクザの世界は上下関係がはっきり決まっている。
組長、副組長、組長代行、舎弟頭、若頭、若頭補佐、舎弟、組員、にわかれ、上下関係を座布団が1枚上、下と表現する。
親分の弟を伯父貴、先に組に入った組員を兄貴と呼ぶ。
上の人の言葉は絶対で、中でも親分の言葉は白いものでも親分が黒と言えば黒で有る。若頭の言葉は親分の言葉として組全体が聞くので有る。
田乃倉組の事務所を置いてる大阪の南は、ヤクザの激戦区、山賀組直系団体だけでも6団体、2次、3次団体を合わせると62団体にも及ぶ組が事務所を構えてる。
他団体を加えると、ほはや数えきれない組の数である。
これだけ多くのヤクザがひしめいてると、下っぱの組員が飯の種や女の事ででいざこざが起き、本格的な組同士の抗争へと発展して行く。
組同士の抗争となれば、当然多数の怪我人や死者も出る、組の金も飛んでいく。
ひと時も気が抜けない地区でヤクザ家業を田乃倉組長田乃倉雅之、中島仁志、田乃倉組いち同は生きぬいているのである。
「そろそろ行きますか」舎弟頭の星川武が田乃倉組長に声をかける。「そやな、頭、そろそろ行くか」頭に気を使いながら中島仁志に声をかけてきた。
「そうですね、行きますか」
応えた後、「おい、初詣でに行く用意せ」声をかけてて全員が立ち上がって田乃倉を先頭に初詣に近くの神社に向かう。
賽銭を投げ社に手を合わせなが、中島はの頭で長いよで短い4年だったな、ふとヤクザに成る前の事を思い出していた。
中島仁志は、沖縄県の近くの鹿児島県に属する島で育った。
実家は貧しく、兄弟の殆どが中学を卒業後島を離れ本土に就職して行った。島で兄弟の全員が中学卒業後に就職で本土行くのは中島の家だけだと言って良かった。
実家はわらぶきとトタン屋根で、ネズミが屋根裏走り回り壁にはヤモリが引っ付いていた。
中島は成績が良く何とか高校に進学したいと思っていた。父親は中島が小学1年の時に島で珍しい交通事故で無くなっていた。
2人乗りバイクに乗って仕事に行く途中に跳び出してきた中学生を避けよとしてバイクが転倒、ヘルメットかぶっていなかった後ろに乗ってた中島の父親は、道に投げ出され頭を強打して即死だった。
父親が生きてる頃から貧しかった家は更に貧しく成り食事にも事欠く日が何日も有った。家も住めなく、町営の住宅に引越した。母親が風邪で寝込んだ時に遠足さえ行けなかった。
今、思えば弁当代やお菓子買う金が無くて、風邪で寝込んだ振りをしたんでは無いかと思う中島であった。
母親は元々島で10本の指に入る裕福な家庭で育ち、世間をしらず大学を卒業後鹿児島の本土に嫁ぎ若くして、夫、死別すると島帰り、中島の父親と結婚した。
鹿児島に嫁いでいる時に1児をも受けているが中島の父親と結婚する際に実家の兄の養子出してる。実家は伯父が博打にはまり、殆ど金が無く没落していた。
母親は脳天気性格で婦人会の旅行で小学生の子供達を置いて島を離れる時がしばしばあった。今なら虐待である。
そんな母親だから、中島には子供の高校進学処か将来すら興味が無いと中学生ながら思えた。
そんな中学2年の夏休みの日に秋田県に嫁いでいる姉から電話が有った。
子供の面倒見てくれるなら、高校を出してあげると。
中島は直ぐ分かったと返事して、秋田県行きを決意した。
転校の手続きを母親に頼み、姉の気持ちが変わらないうちに船に乗り神戸に着いた。義理兄が迎えに来ていてくれた。そこから、大阪に行き夜行列車に乗り秋田に向かう。
秋田に着いた。まだ、13才の夏である。
中島は9月17日生まれで誕生日を迎えて無かった。今、思えば、13才で、沖縄の近くの離島から東北の秋田まで、良く行ったものである、高校進学したい一心が成したわざだろう。