066 思い出すこと。
「うひゃわっ」
突然額にえらく冷たいものがあてられて、思わず声を上げると、押し殺した笑いが耳に届く。
「その個性的な叫びは何かな?」
おかしくてたまらない、とでも言いたげに笑いを含んだ声に、椅子に座った体勢のまま体をひねる。
振り返るとそこにいたのは栗色がかった黒髪を少し長めにそろえた、優しげな顔立ちの青年が立っている。
そして両手には水滴のついたジュースのグラス。
「驚かしておいて酷い」
「だって似合わない小難しい顔をしてたからさ。
気分を変えてあげなくちゃと思って」
「似合わないって……。酷いなぁ」
にっこり笑顔で言われて、私も笑い混じりの苦情を返す。
この人、他の人には人当たりがいい癖に私には結構意地悪だったりする。
もっともこれがひねくれ者なこの人なりの特別扱いだとわかるから、別に嫌だとは思わないけどね。
「それで? 何を悩んでいたの?」
差し出されたグラスを受け取ると、私以外いないのに――いないからこそかも――空いているソファじゃなく、私のすぐ隣、というか肘掛けに腰を下ろす。
「う、ん……。ちょっとね」
「黙秘するつもりなら、明日の朝、君のベッドがどうなってても知らないからね?」
やっぱり笑顔で、それも極上のと付けたくなるような笑顔なんだけど……っ。
「そ、それはどういう……っ?」
「嫌だよねぇ。朝起きたら蜘蛛とか落ち葉とかと一緒に眠ってた、なんて最悪の目覚めだよね?
僕はそんなのすごく嫌だなぁ」
くすくすとそれは楽しそうな笑顔で怖い返事されたっ。
「は、話させていただきます……」
私が素直に降参すると、彼は満足げにうなずいて、視線で先をうながしてくる。
「進路のことでちょっと、ね」
「進路? 君は音大進むんじゃなかったの?」
「ん~……。ちょっと、学費と折り合いが、さ」
ものすごく意外、と言いたげな問い返しに、苦笑いを返す。
そろそろ進路の最終決定の時期なんだけど、私は進路を元から希望していた音大にするか、それとも一般の学部にするかでちょっと悩んでいる。
まぁ、その最たる理由は学費なんだけど……。
「学費って、君はそのくらい出す余裕あるでしょ?
公彦伯父は私立の医学部三回卒業して、都内のいい場所にマンション買って四十まで働かないでセレブぶりっこしても困らないくらいは、遺してくれてるんじゃないの?」
「……言い方がちょっとなんだけど、まぁ、そのくらいは……」
「だったら何を悩む必要があるの?
素直に音大行けばいいじゃない。
それとも、どこかの職人さんに弟子入りでもしたくなった?」
少しばかりからかうような、咎めるような口調に私はジュースを飲んで返事を先送りした。
確かに、この人が言うようにうちの親はこれまでに使った生活費や学費を差し引いてもそのくらいの額が残っているくらいの財産を残してくれている。
だから、別に支払い能力という意味では問題ないんだけど……。
「……って、もしかして僕の治療費に回したいから、とかろくでもないこと考えてるんじゃないだろうね?」
一気に温度が低くなった声に、ぎくりとする。
「れ~ん~は~?」
その反応で図星だったことに気付いたのか、声の温度が一気に氷点下まで下がった。
「そういうくだらない考えは捨てろって何度言わせれば気が済むのかなぁ、君は。
僕は君が夢を叶える所を見たいって何度言ったっけ?
もしかして、一度頭蓋骨切り開いて直接脳みそに書き込んであげないと覚えられないの?」
「…………だって」
「だって、何?
僕はそういう安い同情は大っ嫌いだって何度も言ったよね?
その上でまだ君がここまで馬鹿なことを言わせたんだから、相応の覚悟の上だよね?」
…………はい、笑顔で朗らかな声なのになんだか局地的ブリザードが吹き荒れているような気分でございます。
本当、この人、これだけ性格悪いのに良く他の人の前でははかなげな人格者なんて仮面を被っていられるもんだ……。
私にとっては毒舌で凶悪な性格をえせ笑顔でくるんでる人。
だけど、本当は恐がりで寂しがりで……、でも誰にも心配をかけたくなくてそれを隠してしまう不器用でとても優しい人なんだと知っている。
だから言うつもりはなかったんだけど、でも、一度くらいはいいのかもしれない。
このまま黙って進路を変えたら、一生ねちねち言われそうだし。
「だってさぁ、それはそれで夢なんだよね」
「夢?」
「うん。……夏だけじゃなくてさ、他の季節にも会えたらいいなぁって。
一緒にお花見したり、ケーキ食べたり、きっと楽しいだろうなって思うんだ」
手元に視線を落としたまま言うと、彼は少し驚いたようだった。
「……それは、」
「お墓参りもさ、ひとりぼっちじゃなければもう少し行きやすいと思うんだよねぇ」
「――そっか」
「人の心をお金で買うようなことをしたい訳じゃないけど……。
一緒に過ごせる時間が手に入るなら、他の何よりもそれが欲しいって思うのは間違ってる?」
ぽつりぽつりと言葉をつむぐと、彼は盛大にため息をついた後、私の頭に手を置いた。
そのままくしゃくしゃと髪をかき混ぜる。
「君は大概馬鹿だって思ってたけど、本当に馬鹿だねぇ……」
「うん、わかってる」
「そんな事をした所でうちの親が感謝するとは思えないし、会う機会だって望む程増えはしないよ?」
「それもわかってる」
「……君が将来の可能性と安定、全てを投げ捨てても、引き延ばせるのはせいぜい数年でしかないんだよ?
そんなわずかな時間のために、君はこの先の何十年かを棒にふるって言うの?」
「棒に振ったりしないよ。
そんな事になったらあなたが悔やむって知ってるし。
だからその場その場で絶対に最高の結果を出してみせる。
…………でも、そうやって前むいているのは、一人じゃできないんだもの」
ずっと昔、この人は全てが壊れてしまった世界にいた私を現実に引き戻してくれた。
その時以来、私の世界はいつでもこの人が中心にいてくれないとすぐにあの場所に戻ってしまう。
甘えだとか依存だとか言われれば確かにそうなんだと思う。
でも、そうだとしても、私は自分の意思でこの人がいない世界で上手に生きるよりも、この人の側で失敗して痛い目を見る方がいいと決めた。
「わがままだし、馬鹿なお願いなのはわかってるけど……。
もう少しだけ私に時間を分けて欲しいの」
「本当に君は呆れる程に馬鹿だねぇ。
――でも、君がそこまで望むのなら仕方がないから次の手術、受けてあげるよ」
そう言って私の頭を軽く叩いた後、少し意地悪な笑みの気配。
「その代わり、手術が成功したらたっぷりお礼してもらうからね?」
「……か、覚悟しておきます……」
ものすごくいい笑顔なのに、悪役笑いにしか見えないのは……。
たぶん私がこの人の本性を知っているからだろうな……。
でも、ほんのわずかにでも希望がつながったことが嬉しかった。
あの時、たとえ側にいられなくてもあの人が生きていてくれればそれでいいって思ったはずなのに。
今迷っているのは、あの人を失った世界で生きていくのが怖いからなんだろうか……。
それとも、結局私は一緒にいたいという自分の願いを叶えるためだけにあんな事を言ったんだろうか……?
お読みいただきありがとうございます♪




