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電車

作者: 有村悠


 電車は低く垂れこめた灰色の雲海の下をひた走っていた。

 平日の午後だったので大きなF市へ向かっているわりに乗客は少なく、二人掛けの座席は数か所空いていた。にもかかわらず数人の客がドア近くに立っており、中には空席のすぐそばに立ったまま座ろうとしない者もいた。特急列車なので停車駅の間にはかなりの間隔があり、僕と同時に乗って次で降りるとしても一八分かかる。まして終点までは三十分強。それでも立ちつづけているということは、彼らは席に据わったとき隣の客との間に生じる熱気に耐えられないのに違いなかった。おそらく空席の隣に座っている客も同じことを考えていただろう。それほど車内は暑かったのである。

 僕も隣に人が来ないことを祈りつつ、ドアから少し離れた窓際の席で本を読んでいた。体中ひどく湿っていた。雨の中を駅まで歩いてきて若干濡れていたうえ、そのときかいた汗が電車に乗った後も蒸発せず、新たな汗が浮かんできてさえいたのだ。冷房はまるで役に立たず、ファンのかすかな回転音がかえって不快感を呼び起こすほどだった。まったくすさまじい蒸し暑さだった。何とかして気を紛らわそうと、僕は一心に活字を追った。

 ところが本の内容がまずかった。それはやたらと自虐的な男が主人公の小説で、作者自身を戯画化したものだった。いったいにこの作家は自虐的な作品ばかり書いた人である。しまいには自虐の極みとも言うべき小説を書き残して愛人と共に入水し、命を絶ってしまった。もちろん貶しているわけではない。それらの作品は深い自己分析の上にこそ成り立っているのであり、いずれも非常な芸術性を備えているのだ。だが、いかに文学的価値があろうと、こうも周囲の環境が悪いと気分がそれに引きずられ、暗い面のみが目についてしまう。僕は読みながらなんともいえぬ陰鬱な心境になって来た。そこで頭をあげて窓の外に目を移し、再び気分転換を試みたが、いつ雨が降るとも知れぬ灰色の田園地帯が延々と広がるさまを眺めていてもますます気が滅入ってくるばかりだった。かといって目を閉じて眠れるような状況でもなかったので、僕はどうしようもなくなり、主人公と心中するような気持ちでまた本を読み始めた。汗がこめかみから顎へ伝い、ズボンの上に落ちた。

 やがて電車が止まった。人の移動する気配が感じられたので、僕は上目遣いにドアの方を見た。数人が降りていったが、それ以上に乗ってきた数のほうが多かった。彼らの持ち込んできた外気と彼ら自身の発する熱とで車内の不快指数は一段と増した。今日この日にこの蒸し風呂のような電車に乗っていなければならぬことが、僕にはひどく理不尽に思えた。なぜもっと他の日でないのだろう。いや、せめて別の時間帯なら、あるいは状況が変わっていたかもしれないのに。そんな詮ないことを考えていると、大きな手提げ袋を持った婦人がドアのほうからやってきた。そしてこともあろうに、僕の隣にどっかと腰を降ろしてしまったのだ。僕は泣きたくなった。後生だから他所へ映ってくださいと懇願しようかとさえ思った。終点まで乗るとしてもあと一二分少々、そのくらい立っていても我慢できるでしょう。袋なんて床へ置いてしまえばいいじゃないですか、荷物の置き場もないほど混み合っているわけでもなし。しかしようやく休息地を見つけ、肩で息をしている婦人にそんなことを言えるはずもなく、僕はうなだれて小説の続きを読み始めた。ドアの閉まる音がし、列車は再び動き出した。

 それからどれくらい経った頃だろう。突然、女性の鋭い声が僕の耳に飛び込んできた。

――そんなに言うんなら帰りなさい。

 子供を叱る口調だった。かなり剣呑な雰囲気である。僕は本から目を離し、声の主を探した。その間にも説教は続いた。

――そんな風に行きたくない、行きたくないって言われたら、連れて行っている人がどんな気持ちになると思うの!帰りなさい。

 このくだりの途中で、僕は母親の姿を見つけだしていた。進行方向向かって左側のドア近く、まだそれなりに若い女性が目線を下に向け、険しい顔つきで喋っていた。視線の先には四、五歳くらいの男の子、そして彼女の右隣には夫と思われる若い男性がいた。僕はいい鬱憤晴らしとばかりに、この家族をずっと観察しつづけることに決めた。聞いた限りでは、どうやら家族全員でどこかへ遊びに行こうとしており、息子が行きたくないといって駄々をこねているらしかった。母親は冷ややかに続けた。

――わたしたち三人で行ったら楽しいもの。あんた一人だけ行きたくないって言うんならさっさと帰りなさい。さあ、早く帰りなさいよ。

 彼女は後ろのほうを指差してそう言い、息子の肩を少し揺すった。異様なほどに冷酷な態度だった。息子が急に弱気になるのが分かった。彼は救いを求めるように父親を見上げた。父親の取った行動は、しかし、母親以上に無慈悲なものだった。

――いい加減にしろよ……。

 彼は吐き捨てるように呟くと、ほとんど突き飛ばすようにして息子の頭を小突いたのだ。まるで気に入らないおもちゃを投げ捨てる子供のようだった。大きくよろめいた息子は泣きそうな声をあげ、恨みがましい眼で両親を交互に見上げた。しかし両親はもはや我関せずで、二人で何か話し合っては柔和な笑みを見せたり、窓の外を見て歓声を上げている二、三歳くらいの次男――わたしたち三人で、という母親の言葉でその存在に気付いた――に鎌ってやったりしていた。そして長男のほうは文字通り見向きもしなかった。彼はすでにその存在を抹消されていたのである。

 僕は座席の陰に身をひそめ、うすら寒い気持ちでこの光景を見ていた。どうも僕には、他人の話に耳をそばだて、さらにその光景をじっくり観察するという悪い癖がある。そして彼らの関係や内部事情を推察し、一人ほくそえむのだ。我ながらかなり暗い趣味だとは思うが、なかなか面白くてやめられずにいる。とくに、話というのが親の説教だったりちょっとした喧嘩だったりした場合などはたまらない。他人の事情に首を突っ込むことの後ろめたさと盗み聞きのスリルがあいまって妙な快感をもたらすのである。このときも、話の展開が面白くなりそうだったので、少しは気分が晴れるだろうと思って覗き込んでみたのだ。だが、それはまったく不愉快な代物だった。

 普通、説教というものはどんなに厳しかろうと相手に対する愛情からなされる。ところがこの若い両親には長男に対する愛情がまったく感じられなかった。早く返れといって彼を小突き、苛めているようにさえ見える母親と、蜘蛛の巣を払い除けるように彼を突き放して平然としている父親。見ている限りでは、ただ単に自分たちの意に添わない邪魔者としか思っていないようなのだ。そして邪魔者を共同体から排除し、自分たちの快楽を守ろうとしたのである。およそ親とは思えない冷酷さだった。以前ある本で読んだ、今の若い親たちは子供に対してどう接していいのか分からない、親としての自信が持てないのだ、という話を思い出した。その結果がこれか。僕は背筋が寒くなった。もっとも次男の方には笑って答えていたのが、唯一の救いではあった。

 その後十分余り、彼らにはほとんど変化がなかった。長男はしばらく所在無げに両親の周りをうろついていたが、やがて自分が疎外されていることを悟ったらしく、手すりにつかまってうつむいたままじっと動かなくなった。両親は相変わらず彼を無視しつづけており、ひとしきり話したあとは黙って電車に揺られていた。その傍らで何も分かっていない次男が無邪気にはしゃいでいた。見ている者をなんとなく不安にさせる構図だった。僕は息をひそめて見守りつづけた。

 電車がF市内に入った。すでに外には人家が広がっていたが、ここへきてついに雨が降り出した。僕の体は未だ乾かず、車内の蒸し暑さもほとんど解消されてはいなかった。外はここ以上に湿っているのだと思うと、また新たな汗がわいてくるようであった。しかし、僕の降りるべき駅――終点の一つ手前であった――まで後数分しかなかった。僕はため息をついた。そして本をバッグにしまい、傘を取って席を立つと、通路をドアの方へ進んだ。これから降りるまでの間、あの家族を近くでじっくり見てやろうと思ったのだ。僕は彼らのすぐ隣に立った。

 近づいてみると、ぎすぎすした空気が漂っているのがはっきりと分かった。長男の顔は伺えなかったが、母親も父親も何とも言えぬ鬱屈した表情だった。この二人の間にさえ実はわだかまりがあるのではないかと思えた。だとしたらほとんど家庭崩壊に等しい状況である。僕は何も知らぬ幼い次男が哀れに思えてきた。彼は壁際においてある、いくつかの段ボール箱を積み上げた手押し車と戯れていた。僕はその物体の正体が分からず戸惑った。段ボールにはマジックで何やら走り書きされており、この一家の荷物にしては妙に事務的な感じだった。だいたい手押し車に荷物を載せて出かける家庭が存在するとも思えない。ということは……。

 そのときだった。それまでむっつりと押し黙っていた父親が急に次男のほうを振り向き、

――それは他人のだって言ってるだろうが!

と声を荒げ、彼を無理矢理手押し車から引き剥がした。そして先刻と同じような調子で彼の頭をひっぱたいたのだ。たちまち次男は泣き出した。しかし、父親は彼をドア際に押し戻したきり関心を示すことはなく、母親はと言えば、僕が近づいたときからこのときに至るまで、次男のことを見もしなかったのである。長男だけが顔を上げてちらと弟も見やったが、すぐに視線を下げ、今度は屈み込んで床のパネルを調べ始めた。

 僕は決定的に暗澹たる気分に襲われた。この両親は次男に対してさえ愛情を抱いていたわけではなかったのだ。ただ、長男に比べて従順だから歓待していたにすぎない。ひとたび自分たちに不利益な行動に及んだり、あるいは自分が関心を失ったりすれば、もう何の意味も持たない存在になったのである。僕は先刻の若い親たちに関する文章を思い出した。そして心の中でこう付け加えた。今の若い親たちの一部は、そもそも子供に対して興味を持っていない可能性がある、と。

 電車の速度は目に見えて遅くなっていた。目的の駅の名を告げるアナウンスが流れ始め、急に客が動き出した。僕もドア近くへ移動して、この家族から離れようとした。その矢先だった。それまで屈み込んで熱心に床を調べていた長男が立ち上がり、母親に訊いたのだ。

――ねえ、なんでこんなところに蓋がついてるの?

 おそらく、彼は母親との関係を修復しようとわずかな望みをかけていたに違いない。僕も同じ心持ちだった。これで母親が村八分を解いてくれれば、あるいは親子の健全な関係が築かれるきっかけとなるかもしれない。僕は息を詰めて彼女の反応を待った。しばし沈黙が流れ、長男は再び問いを発した。彼女は即座に答えた。

――さあ、電車の人にでも訊きなさい。わたしは知りません。

 先刻と寸分違わぬ冷ややかな口調だった。母親は続けた。

――だいたい、あんたなんでまだ電車乗ってるの?

――…………。

――行きたくないんでしょ?

――……僕も行っちゃ、だめ?

――わたしたちが連れていこうって言ってるのに、行きたくないってあんたが言ったんじゃないの。

――…………。

――早く帰りなさいよ。行きたくないんでしょ?

 電車ががくんと揺れて停止した。

 ドアが開くと同時に僕は外へ飛び出し、汗をはね飛ばしながらホームの階段を駆け降りていった。

もう、こういう硬派(?)なのは書けない気がします。

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