第一章
「ったた…リディ、大丈夫かい?」
最初に起き上った宙がリディの姿を探す。
「あれ? リディ? どこ? 居ないのかい?」
リディの姿はない。
桃色のドレスも、栗毛も葉のような翅も見当たらない。
「残念だけど、あなたの妖精は一緒ではないわ」
「誰?」
宙は慌てて声のしたほうを向く。
そこには一人の女が居た。
「私は蘭。人は私を時の魔女と呼ぶわ」
「時の魔女? ってことは…成功だ。僕はあなたに用が」
「わかってるわ。でも、そっちの彼は違うでしょう?」
そう言われ、宙は慌てて時の魔女の示す方、つまり真後ろを振り向く。
「げ…ついてきたのか…」
宙は心底迷惑そうな表情をした。
「ってえ……ん? ここ…どこだ?」
「ここはクレッシェンテ。罪なき国。もしくは闇の王の国。かしら」
目が覚めた月見里に静かに告げる時の魔女の言葉に宙は目を見開く。
「闇の王? まさかあの本…」
確か本には『闇の王の国に時の魔女と繋がる何かがあると考えられる』と記されていたはずだ。
「そう、あなたが…まぁいいわ。私は依頼をこなした。先王からの依頼を」
「依頼?」
「あなたをこの国に連れてくること。悪いけど、その後のことは何も聞かされていないの。だから、あなたは好きにしていいわよ」
そうは言われても、宙はどうしたらいいのか理解できない。
「何故僕がここに呼ばれたんですか?」
「……一種の可能性かしら? 行き場はあって?」
「いえ…」
時の魔女の言葉に宙は困る。
いきなり異世界に来てしまった。それも文献の中の伝説の地へと。
行き場はない。それに理由もなく連れてこられてしまったようだ。
「ったく、貴様がインク瓶を倒すから術が失敗したんだろうが」
「俺のせいかよ」
「決まってるだろ。僕一人ならこんな失態は犯さなかった」
宙は月見里を睨む。
「あら、術は失敗していないわよ。なかなか優秀な術師が異界にも居てくれて嬉しいわ」
「本当ですか?」
時の魔女の言葉に宙は目を輝かせ、月見里は少しばかり気に入らなさそうな表情をする。
「あんたも手品師なのか?」
「さっきも言ったけど、私は蘭。時の魔女よ」
「拝み屋か?」
「……いいえ、ただの知恵ある女だと思ってくれればそれでいいわ。この国で一番情報を持っているのは私ですから」
そう、時の魔女は微笑む。
「あの、僕はどうしたら?」
「そうね。とりあえず、行き場がないならしばらくは私の知り合いのところでお世話になってくださる? 私はこれからシエスタまで仕事なの」
「シエスタ?」
「すぐ隣の情熱の国よ。麻薬と人身売買が盛んね。あとは少しばかりのんびりした国よ」
『人身売買』という言葉に二人は顔をしかめる。
「ここらでは人身売買も?」
「ええ、だから気をつけて頂戴。そっちの彼も。武、だったかしら?」
彼女は月見里を見る。
「なんで俺の名前を?」
「ふふっ、“魔女”ですから」
そう笑う彼女に、彼は納得のいかないという表情をする。
「武、気をつけて頂戴。とくにあなたくらいの年頃の男の子が、デルタに向けてよく売れるのよ」
「へ?」
「それと、宙も。クレッシェンテは売春も盛んよ。うっかり薬漬けにされて売られないように気をつけて頂戴」
その言葉に二人は青くなる。
そして、宙はようやく『罪なき国』の意味を理解する。
「つまり、この国に“犯罪”という概念がない?」
「ええ、この国は、あらゆる国から“犯罪大国”と呼ばれているわ。人気の商売は暗殺と誘拐かしら。まともな商人はあまりいないから買い物をするときはよく交渉することを勧めるわ」
そう言って時の魔女は部屋の奥へと進んでしまう。
「あの、時の魔女…」
「待って頂戴。今、電話を掛けてくるから」
時の魔女は微笑みを崩さない。
二人は奥へと消える時の魔女の背中を眺めるしかなかった。
「ったく…部長はなんたってそんなへんな術を試そうとしたんだ?」
「貴様の存在を抹消するために決まっているだろうが」
時の魔女のいない部屋で宙は貴様などとは口を利きたくないと月見里に告げる。
「酷でぇな」
「フン、貴様のせいでリディを一人にしてしまったじゃないか!」
宙の不機嫌の一番の原因はそれだった。最愛の、唯一の友であるリディが居ない。宙にとってそれは不安以外の何ものでもなかった。
「二人とも、喧嘩しないの。今、私の知り合いがこちらに向かっているわ。快く二人を預かってくださるみたい」
ふわふわとした雰囲気を纏った時の魔女は微笑みを絶やさない。
そのことに宙は少しばかり驚いていた。
「あんたの知り合いってどんな奴だ?」
「会えばわかるわ。名前はセシリオ・アゲロ。まぁ、世間では“恐怖の代名詞”とされているわ」
微笑みながら言う時の魔女に、月見里はびくりと震える。
「なぜ恐怖の代名詞と?」
「ふふっ、世界最強の暗殺者なの。彼は」
時の魔女がそう言った瞬間、戸をたたく音がした。
「蘭、居る?」
戸の向こうから聞こえるのは幼い少女のような声だった。
「あら、玻璃ちゃんも一緒だったの? いらっしゃい。早かったわね」
時の魔女が戸を開けると、中に入ってきたのは十五、六歳程の長い黒髪を編みこんだ、真っ黒な衣装に身を包んだ人形のような少女と、二十代後半くらいの質素なのに上品な雰囲気の民族風な衣装に身を包んだ赤毛の男だった。
「それで? わざわざ僕を呼んで預けたいという女は誰ですか?」
「あら、二人って言ったじゃない。女の子と男の子よ。宙と武。ほら、二人ともこっちに来て頂戴」
正直、二人はいかにも不機嫌そうなその男が恐かったが、時の魔女に言われるままに三人の元へと歩む。
「男は本部に入れるわけにはいきません」
「あら? どうして?」
「僕の可愛い奥さんに万が一のことがあっては大変ですからね」
大真面目に言う男に時の魔女はくすくすと笑う。
「大丈夫よ。朔夜なら」
「だといいのですがね。とにかく。そちらの女性は預かってもいいですが、その男はお断りします」
彼は絶対に認めませんと言う。
その様子に二人は困り果てていた。
「あの…どのあたりが快く引き受けてくださったんですか?」
おそるおそる宙は訊ねる。
月見里と離れられるのは嬉しいが、この男はどう見たって“快く”などとは思っていない。
「マスターが快く蘭の頼みを引き受けるはずがない」
男の隣の少女が何の感情も感じ取れない声で言う。
「えっと、君は?」
「ドーリー」
宙の問いに少女は静かに答える。その表情からも何の感情も窺えない。宙は思わず気味が悪いと感じた。
「名乗りたければ名乗っても構いませんよ?」
「ほんと?」
彼女が確かめるように男を見上げると、男は頷く。
「玻璃」
「玻璃ちゃん?」
「……“ちゃん”は要らない」
微かに拗ねたような仕草を見せる玻璃に宙は驚いた。
「人形じゃなかった…」
「好きにして。もう、なんでもいい」
少し拗ねた様子の玻璃に、宙は思わず微笑む。
「ごめん。僕は宙。森嶋宙。気軽に宙って呼んでよ」
「いいの?」
「勿論」
宙が言うと、玻璃は嬉しそうに笑う。
本当に幼い子供を見ているような錯覚に陥る。
「マスター、宙と一緒?」
「…玻璃、気に入ったのですか?」
「うん」
玻璃が頷くと、彼はため息を吐いてから「仕方ありませんね」と言う。
「そちらの…宙、でしたっけ? 玻璃の責任で預かるのは構いませんよ」
「ありがとう」
その言葉に宙は驚いた。
まさかこんな自分よりも年下の少女の世話になるなんて。
宙のプライドが微かに折れた気がした。
「言っておきますが、玻璃はあなた方より年上ですよ」
「え?」
「嘘だろ」
どうやら月見里も同じ事を考えていたらしく、驚いたような表情で玻璃を見ている。
「これでも今年二十三なんですよ。もっとも、そこの化け物はとっくに七百を超えていますが」
「あら? 失礼しちゃうわ。あなただって十分化け物じゃない。セシリオ、もう何百年その姿なの?」
どうやらこの国では外見年齢はあてにならないらしいと宙は思った。
「それで、武はどうするの?」
「ウラーノでもスペードでも好きな方に預けなさい。僕は関わりたくありません。特に、貴女からの依頼となると余計にです」
不機嫌を顕に男が言う。
そして彼は玻璃を向く。
「宙を連れて先に帰りなさい。僕は少しこの女と話があります」
彼が言うと、玻璃は黙って頷き宙の手を引いた。
「こっちだよ」
「え? ああ、時の魔女、世話になりました」
「ふふっ、仕事が片付いたら会いに行くわ」
時の魔女に見送られ、宙は玻璃に手を引かれるまま進んだ。