…第一幕
天を仰ぎ、やわらかな日差しに目を細める。
視界の端に薄紅の花弁が映るが、見頃は既に過ぎ、今はもう葉桜である。少し残念に思いながらも、また来年、と沈んだ心に上塗りし、少年は歩き出す。
来年、と言えば。
この制服を着るのも今年で最後だなぁ。などと、ぼんやりした思考に似合いの眠たそうな目、ふわりとした栗色の短髪をした彼、花田寧々子は春風に酔う。
このまま何も変わらずに在るような気がする世界に、受験という現実味を帯びた言葉が舞うが、そこは生来能天気な彼、三歩と歩けばまた甘い花の香りに笑む。
「春眠、暁を覚えず、ってね――」
へらぁっと笑う寧々子だったが、不意にあることを思い出す。
母親に急ぎの用を頼まれていたのだった。
家に帰ってすぐ頼まれたため、学生服のまま飛び出して来たというわけである。
「早くしないと夕飯が――」
急ぎ足で角を曲がろうとした時だった。
「っ!」
刹那、体に衝撃が走る。
寧々子は小さく悲鳴を上げ、その場に尻餅をつく。
咄嗟についた手は砂や小石のせいでじんじんと刺激を感じていたが、他は大した傷はなかった。
立ち上がろうと顔を上げた寧々子は、眼前に現れた小さな手の平に驚いて、一瞬固まる。
細い腕が伸びる先に目を向けると、心配そうな、申し訳なさそうな青い瞳とかち合った。
「あっ、すみません!」
少女の手を取りながら謝る。
少女の方こそ大丈夫なのかと寧々子は問おうとしたが、彼女は短い金髪を揺らしながらまじまじと寧々子を見ている。
服についた汚れやほつれを気にしているらしい。
寧々子は微笑んで、
「大丈夫です。どうせ今年でもう着なくなるし、今更汚れたって変わりません」
そう少女に言ったのだが、どうも納得していない様子で立っている。
そこで寧々子はふと違和感を覚えた。
少女は一度も声を発していない。耳が不自由なのだろうか。
だとしたら、自分の言っていることは伝わっていないのでは――。
寧々子が両手をばたばたさせて何とか意思を伝えようとした時、急にその動きを止められた。
「あっ、ちょっとっ!」
突然、少女が寧々子の手を取り、走り出した。
彼の制止の声は届かず、少女は狭い路地をひた走る。
足下には白粉花や、なずな、どくだみ。頭上には陽光を遮る木々。
――猫の通る道みたいだ。
普段は負い目に感じる小柄な我が身も、この時ばかりは良いものに思えた。
若葉を見せる桜が佇む角を曲がり、少女に合わせて歩みを止める。
「……?」
いやなかんじがする。
言い知れぬ、なにか、こう、不吉な――。
寧々子が眉をしかめたまま立ちすくんでいると、少女が不思議そうな顔で覗き込んできたので、何でもないという風に笑って見せた。
少女に連れられてやってきたのは、古びた木造家屋だった。入るとすぐそこは土間で、随分と古い造りだ。
それだけでも十分目には珍しく映るが、奇妙なのはそこに本が山ほど積まれていることだった。本の山、山、山。ここは古本屋なのだろうか。寧々子があれこれ思案していると、眼前に、ぴっと紙を突き出された。それに目をやると、
”服の汚れ落とすから、その間これに着替えてて”
そう書かれた紙と、白い着物、紺の袴を置いて、少女は寧々子の学生服を脱がしにかかった。
「あわ、わっ、だいじょーぶです! ひとりで出来ますっ!」
* * *
少女が再び部屋の奥へ消え、静まり返る室内。
しばらくぼぅっとしていた寧々子だったが、積まれた本が気になって、手を伸ばしてみる。
“毒ノ本”、“人間と毒”――目に入ったタイトルに一瞬手が怯む。
内容が気になったが、嫌な予感がそれ以上の行動を制止する。
また、だ。この、言い知れぬ、何か――。
(やめよう。何だか怖そうだし)
手を引っ込めた、その時だった。
青白い、手。
ぞくりと全身が粟立つ。
立ち尽くして、その不気味な、死人の手を見つめていることしか出来なかった。
「ひっ……!」
手が、浮いて、迫る。
そして。
寧々子の手を、掴んだ。
「――――っ!!」
悲鳴すら上がらない。
どうしたら、あぁ、あの子を、呼ん――。
「泥棒にしては随分とぼんやりしているな」
低い、気怠げな声が響いた。
現実に引き戻されて、目の前に立つ人物を見つめた。
黒い着物、死人のような瞳、しかし、不思議と力強く見えるのはなぜか……。
「生憎、此処には盗られて困るような物はない。好きな物を持って行ってくれ、泥棒少年」
そう言うと、青年は寧々子の手を離し、再び本の山の中に落ち着くと、本を読み始めた。
動悸が治まらない。
何、だろう、この……息が、詰まるような……まるで、毒――。
「どうした?」
真っ黒な瞳。
此の世の深淵に在るかのような、闇色をした此の人は、一体――?
地面を蹴る。
制止の声と、驚いた表情をしたあの少女の手を振りほどいて、寧々子は駆け出した。
いつの間にか薄闇に包まれた路地。まだ街灯が灯っておらず、影が青く伸びる。
ふと振り返った街角に、葉桜が揺れていた。
最果てへと、誘うように。
背筋がぞっと粟立ち、寧々子は慌てて帰路に就いた。
* * *
文明開化の明治、民主主義の大正――二つの時代を経て、大日本帝國は新たな時代を築こうとしていた。
美しいものも、醜いものも、何もかもが秩序を保ち、まるで昔からそこにあったかのような錯覚を見せるほどに成った時代。
嘉暁という時代は、今までに無いほど不可思議で、暗鬱としながらも煌めく、そんな色で人々を惑わせていた。
その、「黒」の部分に足を踏み入れてしまっただけだ。
寧々子は、「白」い所に戻らなければ、と言い聞かせるように頭を振った。
「ただいま」
「お帰りなさい」
寧々子がお使いを終え家に帰ると、養母が出迎えてくれた。
やわらかな笑顔に、寧々子はすっかり体の力が抜け、先程のことが夢であったかのように思えた。
「どうしたの?」
養母が怪訝な顔で問うたので、慌てて何でも無い、と家に上がった。
「おかえり」
「ただいま。今日は早いね」
居間には養父の姿。
新聞を閉じ、仕事が早く片付いたから、と笑った。寧々子も笑い返す。その後ろから、夕餉の支度が出来たと養母の声が聞こえた。
家族三人。
少々広い屋敷は、洋風と和風、どちらもの良い所を取った、養父自慢のデザイン。
温かな食卓を囲み、寧々子は養父と談笑している間に、今日の非日常のことなど頭の隅にさえ置いておくことはなかった。
養母は遅れて席についた。
――二人に隠れ、薬瓶を戸棚にしまい、談笑に加わった。
* * *
暗雲に隠れた月。
女は、庭の草木を分け行って奥へと進む。
奥、奥、まだ、奥。
ふわりと漂う花の香り。
腐り落ちた果実の臭い。
二つが混ざり、頭がくらりとする、その庭の、奥。
――あぁ、見つけた。
青い実をそっと摘み取ると、女は笑った。
暗雲が一瞬去る。
左手の薬指が、月明かりに煌めいた。
お久しぶりです。
長い間放置していてすみませんでした。
いつまで頑張れるか分かりませんが、とりあえずゆっくり書いていきたいと思います。
ここまで読んで戴き有難うございます。




