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幼なじみへの贈り物は、ご自分のお金でお願いします

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/10/26

「コレットへの贈り物の代金を、私が払うのですか」


 ルノー子爵の娘、オディール・ルノーは、茶色の髪を耳にかけて注文書から顔を上げた。

 向かいにいる婚約者のガスパール・ファーヴルは、子爵家を継ぐことになっている。明るい茶色の髪を短く整えた彼は紅茶を一口飲んでカップを置き、返事を待つオディールに向き直った。


「いったん立て替えてほしいんだ。来月には返すから」


 彼の幼なじみ、コレット・ペランは、男爵令嬢だ。誕生日は来月。

 紙には、大粒の真珠を五つ使った金の髪飾りの図が描いてある。花と葉を組み合わせた細工は見事だった。オディールもきれいだと思ったが、添えられた金額は、自分が一年かけてもらう小遣いより多い。


「こちら、もう注文なさったのですね」

「うん。昨日、できたと知らせが来た。手付けは払ってあるから、残りを頼むよ」

「先月お貸ししたお金も、その前の分も、まだ返していただいていません」

「それも合わせて返すと言っているだろう」


 ガスパールは焼き色のついたクッキーを取った。

 半月ぶりの訪問に、オディールは朝から結婚式で使う花の見本を選んで待っていた。膝の上の布袋には、花屋が貸してくれた絹の見本が入っている。


「コレットが店でこれを見て、ずいぶん気に入っていたんだ。誕生日に贈ると言ったら、本当にうれしそうでね。君も見れば分かるよ」


 初めて頼まれたときは、こんな大きな金額ではなかった。

 婚約して間もない頃、三人で出かけた店で彼が財布を忘れたと言い、オディールがコレットの選んだ香水代を払った。

 翌々日にはお金と花束が届いている。助かったと礼を言われ、好きな人の役に立てたのがうれしくて、花束は寝室に飾った。


 ところが、次の食事会と絹のショールの代金は、まだ返ってこない。どちらもコレットのための支払いで、後で返すと約束されている。

 ショールの分を貸した月は、材料代をまとめて払えず、料理人に教わるタルトの稽古を断った。ガスパールにも、返してもらえれば次の集まりに行けると話していた。


「私が料理を習いたいとお話ししたことは、覚えていらっしゃいますか」

「ああ。あれはまた次でもいいじゃないか。タルトなら店で買える」

「コレット様の髪飾りは、次ではいけないのですか」

「誕生日は決まっているんだよ」


 ガスパールは注文書の金額を指で押さえた。


「君はあまり金を使わないから、まだ持っているだろう。全部払ってくれと言っているわけじゃない」

「私のお金を何に使うかは、私が決めます」

「そんなに怒ることかい。コレットが喜ぶだけのことだろう。君の物を取り上げたわけでもないのに」


 オディールは膝の布袋を握り、薄い絹の花びらを指で折ってしまった。

 また理由を説明しようとした。タルトを作ることと買うことは違うし、待っていた稽古がいつでも受けられるわけではない。

 けれど、それは先月も話した。


「今回はお断りします。今後もお貸ししません」

「店には君が払ってくれると伝えたんだ。今さら変えられるか」

「私に聞く前に?」

「どうせ夫婦になるんだから、そこまで他人行儀にしなくてもいいだろう」


 オディールは注文書を返した。


「結婚も取りやめます」


 ガスパールはクッキーを食べかけたまま、オディールを見た。


「何を言っているんだ」

「あなたとの婚約を解消したいと、父に伝えます」

「コレットに贈り物をするのが、そんなに気に入らないのか。金を惜しむなんて、君はケチだな」

「贈るのはご自由です。ご自分のお金でお願いします」


 言った後で、オディールは左手の指輪を外した。

 ガスパールが来たら花の相談をしようと、今朝もこれを磨いていた。指には薄く跡がついている。彼に返すのは悲しいはずだと思っていたのに、もう着け直したいとは思わなかった。


「話が飛びすぎているよ。今は持ち合わせがないだけなんだ」

「それなら、お父様にご相談なさってください」

「父に知られたら、また小遣いを減らされる。君までそんなことを言うのか」

「私はお父様に内緒でお金をお貸しし続けるために、婚約したのではありません」


 指輪をテーブルへ置いて立ち上がると、ガスパールも腰を浮かせた。


「待ってくれ。分かった、今度はもっと安い物にする。それでいいだろう」

「次の贈り物の相談は、コレット様となさってください」


 廊下に出ると、栗色の髪を束ねたミレーヌ・ボネが待っていた。そばかすのある自分付きの侍女に、オディールは母を呼んでほしいと頼んだ。

 布袋を開けると、白い花の見本が一つつぶれている。指先で形を戻してから、花屋へ返す物を入れる箱に収めた。


◇


 母のリュシエンヌ・ルノーが来ると、オディールはうまく話せなくなった。母は、話し始めるのを待っている。


「お金を貸していたの。お母様にも言わずに」

「いくらくらい?」

「私がいただく小遣いから、二度。前は返してくださったから、今度も……」


 母が黙って待っているので、料理の稽古を断ったことまで話した。母には、予定が合わなくなったと言ってあった。


「貸した分は、お父様から返すようお伝えしてもらいましょう。結婚をやめたい気持ちは変わらないのね」

「はい」

「では、そちらもお話ししてもらうわ」


 反対されると思って用意していた説明が、いくつも残った。

 オディールは母の隣へ寄った。


「私が払えば喜んでくださると思ったの」

「そう」

「最初は、お礼を言ってくださったから」


 母はオディールの髪をなでた。子どもの頃にもしてくれたのと同じ手つきで、耳の後ろの髪を直してくれる。

 そこでようやく涙が出た。婚約を解消するのがつらいというより、花束をもらって喜んだ自分のことを思い出すと、泣けてしまう。


 一週間後、両家の合意で婚約は解消された。

 ガスパールの父は、息子が彼女から金を借りていたことを知らなかったという。未返済の分については、必ず返させると伝えてきた。

 結婚に伴う土地の取り決めなどはない。指輪はあの日ガスパールが持ち帰っており、花屋にも事情を話して見本を返した。


 その後、母の妹、ジョジアーヌ・テシエから手紙が来た。

 次の料理の集まりでは、あんずのタルトを焼くという。叔母の家の料理人が教えてくれる、小さな集まりだった。前に行けなかったことを覚えていて、母が尋ねてくれたらしい。


「材料代はこちらで出すわ。気晴らしに行っていらっしゃい」


 母の申し出を、オディールは少し迷ってから受けた。


「今度は、私の分も持って帰ってきてね」

「うまく焼けたら」

「焦げたところは外してくれればいいわ」


 オディールは笑った。返事を書くために机へ向かうと、以前の稽古で使ったノートが、引き出しの奥にあった。

 前のページには、バターを溶かさないこと、と大きく書いてある。自分がどんな失敗をしたのか、よく覚えていた。


◇


 叔母の台所で、オディールは大きな白いエプロンをつけた男性と向かい合った。

 黒髪の彼は、あんずの種を外している。そばには、果肉まで大きく削り取ってしまったあんずが三つ並んでいた。


「こちらはモレル子爵家のご長男、シルヴァン・モレル様。お母様と私は昔からの友人なの。タルトを習うと話したら、ご自分もとおっしゃってね」

「お邪魔でなければ、私も教わりたいのですが」


 シルヴァンはナイフをまな板へ置いて頭を下げた。


「旅行先で食べたタルトが、おいしかったんです。家で作り方を話してみたのですが、あんずがのっていたとしか説明できなくて」

「それだけでは、料理人も困りますね」

「はい。生地は何だったかと聞かれても、返事ができませんでした」


 オディールは切られたあんずを見た。小さくしすぎた実も、同じ皿へ盛ろうとしている。


「その三つは煮てソースにするそうです。こちらへ」

「ああ、そうでした。危うく、もう一度叱られるところでした」


 料理人のアルメル・ルルーは丸い顔をほころばせ、大きな手で鍋を引き寄せた。叔母の家に勤める彼から生地を受け取り、二人で作業台に並ぶ。

 オディールが麺棒を握ると、シルヴァンはその手元を熱心に見た。見られると、いつもよりきれいに伸ばしたくなる。厚さをそろえようと力を入れすぎて、端が裂けた。


「あっ」

「ここはつなぎ直せますよ」


 料理人に教わって直している間、シルヴァンは自分の生地に布をかけ、先へ進まずに待っていた。


「見本にする相手を間違えましたね」

「今、直し方を覚えられました」

「私も、前に教わったはずなのですけれど」


 オディールは少し笑って、裂け目を指で押さえた。


 あんずを並べて砂糖を振ると、焼き上がりを待つ間に、叔母が料理人と夕食の相談を始めた。二人は手を洗い、台所脇の窓辺へ移る。

 シルヴァンは袖を下ろそうとして、自分の腕に粉がついているのを見つけた。オディールが渡した布で拭いたが、肘のあたりにまだ残っている。


「そこも」

「どこです?」

「もう少し上です」


 届きにくそうなので、オディールは布を借りて拭いた。近づいてから、思ったより腕が太いことに気がつき、済むとすぐに離れた。


「ありがとうございます。あなたは、よく料理を?」

「習い始めたばかりです。家では、夕食の準備の邪魔になってしまうので」

「私もです。早く混ぜれば早くできると思って、ソースを飛ばしてしまいました」

「私、同じことを卵でしました」


 どちらも作った物は食べた、と話して笑った。

 シルヴァンは旅行中の朝食のことも教えてくれた。小さな宿で食べた、チーズを入れたオムレツが忘れられないらしい。オディールが半熟の卵が好きだと言うと、彼は少し考えた。


「では、私より早く火から下ろすのでしょうね」

「固く焼くのがお好きなのですか」

「焼けていない気がして、つい長く待ってしまいます。好みと言っていいのかどうか」


 焼き上がったタルトを食べる頃には、互いの皿を見て、どこを失敗したのか言い当てられるようになっていた。シルヴァンのタルトは片側だけ生地が厚い。オディールのものは、あんずが少し酸っぱかった。


「私はこれくらい酸っぱいほうが好きです」

「でしたら、もう一切れいかがですか」

「あなたの持ち帰る分が減ってしまいますよ」

「母の分は、別に取ってあります」


 差し出すと、シルヴァンはためらわずに受け取った。食べ終わって、皿に残った生地のかけらまでフォークで集める。

 それを見ていたら、オディールもつられてもう一切れ食べたくなった。


 帰り支度の途中、叔母が次は何を作ろうかと尋ねると、シルヴァンはオディールを見た。


「オムレツをお願いしてみませんか」

「ええ。今度は卵を飛ばさないようにします」


 帰りの馬車には、持ち帰るタルトの甘酸っぱい匂いがした。

 母に話したいことが多くて、屋敷に着くまでに順番を考えた。


◇


 宝飾店の請求書を見せられた彼の父であるレイモンド・ファーヴルは、不機嫌そうにガスパールを見る。

 オディールは、父親に借金のことまで話したらしい。少し待てばまた会いに行けると思っていたのに、家には立替金の明細まで届いている。


「髪飾りは取り消す。だから、そちらの金だけ先に貸してくれないか」


 レイモンドは机の向かいにいる宝飾店主、オクターヴ・マルタンを見た。

 オクターヴが箱を開くと、真珠を留めた金の葉が薄紙の上で光った。


「完成後のお取り消しは承れません。ご注文の際にもお伝えしました」

「ほかの客に売ればいいだろう」

「お名前を彫っておりますので」


 裏には、コレットへ贈る言葉とガスパールの名が入っている。店主に勧められるまま、喜ぶ顔を思い浮かべて、料金も確かめずに頼んだ。


 レイモンドが箱を閉じる。


「支払日は五日後だ。それまでに工面しなさい」

「父上、店の人がいる前で」

「おまえが店に知らせた支払人は、注文に関わっていない。ここからは自分で話をしなさい」


 翌日、ガスパールはコレットを訪ねた。

 髪飾りを用意していることは知っているので、金の都合さえつけば、また喜んでくれるだろう。婚約解消を聞いていたコレットは、真っ先に理由を尋ねた。


「私への贈り物のために、オディール様にお金を借りようとしたの?」

「一時的にだよ。すぐ返すと言ったんだ」

「前のショールも?」

「……あれは、まだ返していない」

「ガスパール。そんなことまでして買ってほしいなんて、頼んでいないわ」


 コレットはそれ以上、髪飾りの出来を聞かなかった。

 ガスパールは急いで言った。


「少し貸してもらえないかな。来月になれば」

「私の誕生日の贈り物でしょう?」

「そうだけれど、今は金が足りないんだ。あれを受け取るためなんだから」

「受け取らないわ」


 はっきり言われて、ガスパールは言葉に詰まった。


「君のために注文したんだぞ」

「払えないなら、そう言ってくれればよかったのに。オディール様に借りて、今度は私にも? 今日はもう帰って」


 コレットが立ち上がって呼ぶと、ペラン家の侍女メラニー・ブランが廊下から現れた。黒髪を一本の三つ編みにした、以前から来客の対応をしている女性だ。

 奥へ去るコレットを追いかけられず、ガスパールはメラニーに従って玄関へ向かう。借りたい金額さえ、まだ伝えていない。


 支払日の朝、ガスパールは自宅の馬小屋にいた。

 前年に買った栗毛の馬が寄ってきたので、額の白い毛をなでた。せめて別の馬を売れないかと思うが、ほかは父親のレイモンドが所有している。


 買い手のロドルフ・ペルティエは、男爵家の次男で、乗馬仲間でもある。以前から欲しがっていたはずなのに値切り、ガスパールがその額で了承すると、すぐに代金を持ってきた。

 今月の遠乗りにも連れていく予定だった馬を、手綱を渡す直前にもう一度だけなでた。


 売却代金から店への残金とオディールへの返済分を引けば、新しい馬を買えるほどの金は残らない。レイモンドは家令に送金を任せ、領収を確かめてから息子へ言った。


「来月から、小遣いは半額にする。一年間だ。掛けで物を買うことも認めない」

「そんな額で、どうやって付き合いを」

「その額で買える物を買いなさい」


 真珠の髪飾りは、ガスパールの手元に残った。

 レイモンドに連れられて買い取りに出しても、細工代は戻らず、金と真珠の値段しかつかない。自分の名のある品を渡すときは、オクターヴの顔を見られなかった。


◇


 次の料理の集まりの前、オディールは返された立替金を母と確かめ、受領の返事を送った。

 ガスパールの父、レイモンドからの手紙には息子が清算したとあるものの、どう工面したかまでは分からない。


 二度目の集まりで、オディールは卵を割り損ねた。殻のかけらを取ろうとすると、シルヴァンが小さなスプーンを差し出した。


「指で追いかけると、逃げます」

「もう追いかけてしまいました」


 彼のほうにもかけらが入っていたので、二人で料理人に取り方を聞いた。

 この日は叔母が先に卵を焼いた。形は少し崩れているが、チーズがよく溶けていて食べたくなる。オディールも同じように折ろうとして、フライパンの上で卵を破いてしまった。


「ああ、また」


 声を出すと、隣で焼き始めたシルヴァンがこちらを見た。


「どこで破れましたか」

「返すのを急ぎました。もう少し待ったほうがよかったようです」

「分かりました。では、もう少し」


 待ちすぎた彼のオムレツは、きれいな形で皿に移ったものの、裏側が茶色かった。

 オディールが笑いをこらえると、彼は自分の皿を見て吹き出した。


「次は、二人の間くらいで」

「焼け具合は、ご自分の卵を見てください」


 料理人の注意に、今度は二人で謝った。


 シルヴァンとは、夏の間に何度も会った。

 料理の集まりのほか、母たちと散歩に出る日もあれば、モレル家で昼食をごちそうになる日もある。食事が終わってもまだ話したくて、別れ際には次の集まりの日を確かめた。

 手紙には旅先で見た景色や食べた物が詳しく書かれている。オディールが自作のオムレツについて知らせると、焼き色をつけなかったことを褒める返事が届いた。ところが、その横には卵が三つ描いてある。


 八月のある日、叔母の家で、二人はクッキーの生地を切り抜いていた。

 シルヴァンは持ってきた型紙を、馬の絵だと説明する。形に沿って切った生地を焼いてみると、脚が太くつながって、何の動物か分からなくなった。


「手紙の卵もそうでしたけれど、絵はあまりお得意ではありませんね」

「あれは、あなたのタルトを描いたつもりでした」

「三つとも?」

「三つとも」


 オディールは笑って、焼けたクッキーを一枚取った。少し冷ましてからかじると、シルヴァンが残りを見ていた。


「味はいかがですか」

「おいしいです。馬には見えませんが」

「では、馬のほうはもう少し練習します」


 こんなことを話して笑っている時間が好きだった。出会ったばかりの頃は、別の男性と会うのが早すぎるだろうかと思ったこともある。今は、彼が来ると聞けば朝から落ち着かない。


 冷めたクッキーを包み終えた後、オディールは台所の隅で、元の婚約について話した。

 父母の付き合いがあるのだから、事情をまったく知らないわけではないだろう。それでも、自分から話しておきたかった。


「お金を貸したのは私です。返してもらえないまま、また貸しました。嫌だと言えば済んだのに」

「言えなかったのですか」

「嫌われたくなかったのでしょうね。今なら断れるのに、あのときは」


 シルヴァンは包みのひもを結び終えてから、オディールへ向き直った。


「今は、私に言いにくいことがありますか」


 慰められると思っていたので、すぐには答えられなかった。

 少し考えてから、オディールは彼の手元を指した。


「それは、お母様のお好きなレモン入りです。あなたの分は右に」

「あっ。危なかった」


 包みを取り替える様子に笑ってしまい、用意していた深刻な話し方を続けられなくなった。

 オディールはエプロンのひもをほどき、たたんだ。


「もう一つあります」

「はい」

「この集まりがなくても、お会いしたいです」


 シルヴァンはクッキーの包みを置いた。


「私もです。次は、私からお誘いしていいですか」

「ええ」


 彼は台所の壁の暦を見た。


「来週の日曜はいかがですか」


 オディールはその日にある刺繍の稽古を思い出した。

 夕方なら空いていると答えると、彼は庭の散歩と夕食に誘ってくれた。


◇


 秋になり、オディールはモレル家の庭を歩いていた。

 隣にはシルヴァンがいる。母たちは先に屋敷へ戻り、二人もそろそろ戻ろうとしたところで、彼が歩みを止めた。


「オディール様。今日は、お願いがあります」


 いつもはよく話す彼が、夕食の間も何度か黙り込んでいた。気になっていたオディールは、体調でも悪いのかと思っていた。


「私と結婚していただけませんか」


 シルヴァンは小さな箱を取り出した。

 オディールは彼の顔と指輪を交互に見ながら、返事ができずにいた。うれしいのに、母へ何と話そうかと考えてしまう。今はまず、彼に返事をしなくては。


「はい。私でよければ」

「あなたにお願いしています」


 シルヴァンに手を取られ、指輪をはめてもらった。

 指には少し緩い。直してもらおうと言われてうなずいたものの、今は外したくない。


「領地へ帰ったら、こちらほど頻繁に集まりは開けません。料理は続けたいですか」

「はい。でも毎日の食事を全部作るのは、まだ無理です」

「それは私も困ります。あなたと食べるつもりなので」


 シルヴァンが笑ったので、オディールも笑えた。


「休みの朝などに、二人で作れたらうれしいです」

「では、料理人にもそう話しましょう。毎回あの大きな台所を占領しては、叱られます」


 シルヴァンと手をつないだまま客間へ入ると、母が立ち上がった。

 オディールが左手を見せて求婚を受けたと告げると、母は娘を抱き寄せた。ようやく、泣きそうになる。


◇


 それから二週間ほど後、ガスパールが謝罪のために面会したいと手紙を寄越した。

 父を通じて一度だけならと伝え、母にも一緒にいてもらう。


 以前より地味な上着で客間に現れたガスパールは、挨拶を済ませるとオディールの左手に目を留めた。指輪はもう、指に合う大きさに直してある。


「新しい婚約者ができたのか」

「はい。シルヴァン・モレル様です」

「そんなに早く」


 オディールが黙っていると、ガスパールは母を見た。母は娘の代わりに答えることなく、話を続けるよう促す。


「君が怒った理由は分かった。コレットも、もう頼ってこない。二人で出かけることもなくなった」

「そうですか」

「馬も売ったんだ。あんなに気に入っていたのに。父からも小遣いを半分にされて、店で掛けにすることも許してもらえない」


 オディールは、ファーヴル家から届いた返済の手紙を思い出した。何を売った金なのかは知らなかったが、馬を失ったからといって、返した金を惜しむ話をされても困る。


「あなたが返してくださったお金は、受け取りました」

「だから、もう一度考えてくれないか。以前の僕たちに戻れないかと、ずっと考えていたんだ」


 ガスパールは身を乗り出した。


「コレットに贈り物はしない。これからは、君に金の管理を頼みたい。君なら、こんな失敗はさせないだろう」


 オディールは婚約していた頃、彼の買い物について何か言おうとすると、まだ妻でもないのにと遮られたことを思い出した。

 結婚するのだから払ってくれとも言った。今日は、失敗させないでほしいという。


「お断りします」

「すぐに決めないでくれ」

「お金をどう使うかは、ご自分でお考えください。私があなたと結婚したいと思うことは、もうありません」


 ガスパールはオディールの指輪を見た。


「モレル様なら、君の望む物を何でも買ってくれるのか」

「私が何をしたいのか、聞いてくださいます。一緒にできることも、たくさんあります」

「僕だって、聞けば」

「何度もお話ししました」


 ガスパールは口を開いたが、オディールは待たなかった。


「今日で最後にしてください。今後は、お会いしません」


 母がミレーヌを呼んだ。

 ガスパールはしばらく立たなかったが、オディールが話を再開しないと分かると、ようやく腰を上げた。


 見送りを母に任せて自室へ戻ると、窓辺には結婚後に使うリネンの見本が広げてある。シルヴァンが、自分も見て決めたいと言ったので、明日の午後に一緒に店へ行くことになっている。

 オディールは気に入った二枚を残し、ほかを畳んだ。


◇


 翌年の春、結婚して間もないオディールは、夫と領地の屋敷の台所にいた。

 早起きして、台所が忙しくなる前に少し借りる約束だった。

 白髪で痩せた料理人、レジス・クレマンが、卵とチーズを用意して待っている。この屋敷の食事を任されている彼に見てもらいながら、二人でフライパンを火にかける。


「そろそろでは?」

「まだ。そこを触ると、また破けるわ」


 シルヴァンが差し出しかけた木べらを戻した。

 オディールは卵の端を確かめ、ゆっくり畳んだ。今度は破れない。皿に移すと、シルヴァンが先に喜んだ。


「きれいにできたね」

「あなたのほうは?」


 彼は急いで自分の卵を火から下ろした。

 裏側に少し焼き色がついていたが、以前ほどではない。オディールは笑いながら、自分のオムレツを半分に切った。


「半分ずつにしましょう」

「私のは、少し固いかもしれない」

「チーズをたくさん入れたでしょう。そちらも食べたいの」


 皿を持っていこうとする彼を呼び止め、オディールは頬に口づけた。

 シルヴァンが驚いて振り向く。もう一度、と言われて、料理人に聞こえるからと小声で返すと、彼は笑って台所の戸を開けてくれた。


 窓辺の小さなテーブルへ朝食を運び、二人で食べ始める。

 シルヴァンのオムレツには、思っていたよりもたくさんチーズが入っていた。



完。

お読み下さりありがとうございます。

星で評価いただけると嬉しいです。


長編もよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
なにも取り上げていない、などと借金を返さずに堂々と言えるクズっぷりよ。 こんなのに家継がせたら絶対借金で家潰すぞ……子爵は考えた方がいい
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