幼なじみへの贈り物は、ご自分のお金でお願いします
「コレットへの贈り物の代金を、私が払うのですか」
ルノー子爵の娘、オディール・ルノーは、茶色の髪を耳にかけて注文書から顔を上げた。
向かいにいる婚約者のガスパール・ファーヴルは、子爵家を継ぐことになっている。明るい茶色の髪を短く整えた彼は紅茶を一口飲んでカップを置き、返事を待つオディールに向き直った。
「いったん立て替えてほしいんだ。来月には返すから」
彼の幼なじみ、コレット・ペランは、男爵令嬢だ。誕生日は来月。
紙には、大粒の真珠を五つ使った金の髪飾りの図が描いてある。花と葉を組み合わせた細工は見事だった。オディールもきれいだと思ったが、添えられた金額は、自分が一年かけてもらう小遣いより多い。
「こちら、もう注文なさったのですね」
「うん。昨日、できたと知らせが来た。手付けは払ってあるから、残りを頼むよ」
「先月お貸ししたお金も、その前の分も、まだ返していただいていません」
「それも合わせて返すと言っているだろう」
ガスパールは焼き色のついたクッキーを取った。
半月ぶりの訪問に、オディールは朝から結婚式で使う花の見本を選んで待っていた。膝の上の布袋には、花屋が貸してくれた絹の見本が入っている。
「コレットが店でこれを見て、ずいぶん気に入っていたんだ。誕生日に贈ると言ったら、本当にうれしそうでね。君も見れば分かるよ」
初めて頼まれたときは、こんな大きな金額ではなかった。
婚約して間もない頃、三人で出かけた店で彼が財布を忘れたと言い、オディールがコレットの選んだ香水代を払った。
翌々日にはお金と花束が届いている。助かったと礼を言われ、好きな人の役に立てたのがうれしくて、花束は寝室に飾った。
ところが、次の食事会と絹のショールの代金は、まだ返ってこない。どちらもコレットのための支払いで、後で返すと約束されている。
ショールの分を貸した月は、材料代をまとめて払えず、料理人に教わるタルトの稽古を断った。ガスパールにも、返してもらえれば次の集まりに行けると話していた。
「私が料理を習いたいとお話ししたことは、覚えていらっしゃいますか」
「ああ。あれはまた次でもいいじゃないか。タルトなら店で買える」
「コレット様の髪飾りは、次ではいけないのですか」
「誕生日は決まっているんだよ」
ガスパールは注文書の金額を指で押さえた。
「君はあまり金を使わないから、まだ持っているだろう。全部払ってくれと言っているわけじゃない」
「私のお金を何に使うかは、私が決めます」
「そんなに怒ることかい。コレットが喜ぶだけのことだろう。君の物を取り上げたわけでもないのに」
オディールは膝の布袋を握り、薄い絹の花びらを指で折ってしまった。
また理由を説明しようとした。タルトを作ることと買うことは違うし、待っていた稽古がいつでも受けられるわけではない。
けれど、それは先月も話した。
「今回はお断りします。今後もお貸ししません」
「店には君が払ってくれると伝えたんだ。今さら変えられるか」
「私に聞く前に?」
「どうせ夫婦になるんだから、そこまで他人行儀にしなくてもいいだろう」
オディールは注文書を返した。
「結婚も取りやめます」
ガスパールはクッキーを食べかけたまま、オディールを見た。
「何を言っているんだ」
「あなたとの婚約を解消したいと、父に伝えます」
「コレットに贈り物をするのが、そんなに気に入らないのか。金を惜しむなんて、君はケチだな」
「贈るのはご自由です。ご自分のお金でお願いします」
言った後で、オディールは左手の指輪を外した。
ガスパールが来たら花の相談をしようと、今朝もこれを磨いていた。指には薄く跡がついている。彼に返すのは悲しいはずだと思っていたのに、もう着け直したいとは思わなかった。
「話が飛びすぎているよ。今は持ち合わせがないだけなんだ」
「それなら、お父様にご相談なさってください」
「父に知られたら、また小遣いを減らされる。君までそんなことを言うのか」
「私はお父様に内緒でお金をお貸しし続けるために、婚約したのではありません」
指輪をテーブルへ置いて立ち上がると、ガスパールも腰を浮かせた。
「待ってくれ。分かった、今度はもっと安い物にする。それでいいだろう」
「次の贈り物の相談は、コレット様となさってください」
廊下に出ると、栗色の髪を束ねたミレーヌ・ボネが待っていた。そばかすのある自分付きの侍女に、オディールは母を呼んでほしいと頼んだ。
布袋を開けると、白い花の見本が一つつぶれている。指先で形を戻してから、花屋へ返す物を入れる箱に収めた。
◇
母のリュシエンヌ・ルノーが来ると、オディールはうまく話せなくなった。母は、話し始めるのを待っている。
「お金を貸していたの。お母様にも言わずに」
「いくらくらい?」
「私がいただく小遣いから、二度。前は返してくださったから、今度も……」
母が黙って待っているので、料理の稽古を断ったことまで話した。母には、予定が合わなくなったと言ってあった。
「貸した分は、お父様から返すようお伝えしてもらいましょう。結婚をやめたい気持ちは変わらないのね」
「はい」
「では、そちらもお話ししてもらうわ」
反対されると思って用意していた説明が、いくつも残った。
オディールは母の隣へ寄った。
「私が払えば喜んでくださると思ったの」
「そう」
「最初は、お礼を言ってくださったから」
母はオディールの髪をなでた。子どもの頃にもしてくれたのと同じ手つきで、耳の後ろの髪を直してくれる。
そこでようやく涙が出た。婚約を解消するのがつらいというより、花束をもらって喜んだ自分のことを思い出すと、泣けてしまう。
一週間後、両家の合意で婚約は解消された。
ガスパールの父は、息子が彼女から金を借りていたことを知らなかったという。未返済の分については、必ず返させると伝えてきた。
結婚に伴う土地の取り決めなどはない。指輪はあの日ガスパールが持ち帰っており、花屋にも事情を話して見本を返した。
その後、母の妹、ジョジアーヌ・テシエから手紙が来た。
次の料理の集まりでは、あんずのタルトを焼くという。叔母の家の料理人が教えてくれる、小さな集まりだった。前に行けなかったことを覚えていて、母が尋ねてくれたらしい。
「材料代はこちらで出すわ。気晴らしに行っていらっしゃい」
母の申し出を、オディールは少し迷ってから受けた。
「今度は、私の分も持って帰ってきてね」
「うまく焼けたら」
「焦げたところは外してくれればいいわ」
オディールは笑った。返事を書くために机へ向かうと、以前の稽古で使ったノートが、引き出しの奥にあった。
前のページには、バターを溶かさないこと、と大きく書いてある。自分がどんな失敗をしたのか、よく覚えていた。
◇
叔母の台所で、オディールは大きな白いエプロンをつけた男性と向かい合った。
黒髪の彼は、あんずの種を外している。そばには、果肉まで大きく削り取ってしまったあんずが三つ並んでいた。
「こちらはモレル子爵家のご長男、シルヴァン・モレル様。お母様と私は昔からの友人なの。タルトを習うと話したら、ご自分もとおっしゃってね」
「お邪魔でなければ、私も教わりたいのですが」
シルヴァンはナイフをまな板へ置いて頭を下げた。
「旅行先で食べたタルトが、おいしかったんです。家で作り方を話してみたのですが、あんずがのっていたとしか説明できなくて」
「それだけでは、料理人も困りますね」
「はい。生地は何だったかと聞かれても、返事ができませんでした」
オディールは切られたあんずを見た。小さくしすぎた実も、同じ皿へ盛ろうとしている。
「その三つは煮てソースにするそうです。こちらへ」
「ああ、そうでした。危うく、もう一度叱られるところでした」
料理人のアルメル・ルルーは丸い顔をほころばせ、大きな手で鍋を引き寄せた。叔母の家に勤める彼から生地を受け取り、二人で作業台に並ぶ。
オディールが麺棒を握ると、シルヴァンはその手元を熱心に見た。見られると、いつもよりきれいに伸ばしたくなる。厚さをそろえようと力を入れすぎて、端が裂けた。
「あっ」
「ここはつなぎ直せますよ」
料理人に教わって直している間、シルヴァンは自分の生地に布をかけ、先へ進まずに待っていた。
「見本にする相手を間違えましたね」
「今、直し方を覚えられました」
「私も、前に教わったはずなのですけれど」
オディールは少し笑って、裂け目を指で押さえた。
あんずを並べて砂糖を振ると、焼き上がりを待つ間に、叔母が料理人と夕食の相談を始めた。二人は手を洗い、台所脇の窓辺へ移る。
シルヴァンは袖を下ろそうとして、自分の腕に粉がついているのを見つけた。オディールが渡した布で拭いたが、肘のあたりにまだ残っている。
「そこも」
「どこです?」
「もう少し上です」
届きにくそうなので、オディールは布を借りて拭いた。近づいてから、思ったより腕が太いことに気がつき、済むとすぐに離れた。
「ありがとうございます。あなたは、よく料理を?」
「習い始めたばかりです。家では、夕食の準備の邪魔になってしまうので」
「私もです。早く混ぜれば早くできると思って、ソースを飛ばしてしまいました」
「私、同じことを卵でしました」
どちらも作った物は食べた、と話して笑った。
シルヴァンは旅行中の朝食のことも教えてくれた。小さな宿で食べた、チーズを入れたオムレツが忘れられないらしい。オディールが半熟の卵が好きだと言うと、彼は少し考えた。
「では、私より早く火から下ろすのでしょうね」
「固く焼くのがお好きなのですか」
「焼けていない気がして、つい長く待ってしまいます。好みと言っていいのかどうか」
焼き上がったタルトを食べる頃には、互いの皿を見て、どこを失敗したのか言い当てられるようになっていた。シルヴァンのタルトは片側だけ生地が厚い。オディールのものは、あんずが少し酸っぱかった。
「私はこれくらい酸っぱいほうが好きです」
「でしたら、もう一切れいかがですか」
「あなたの持ち帰る分が減ってしまいますよ」
「母の分は、別に取ってあります」
差し出すと、シルヴァンはためらわずに受け取った。食べ終わって、皿に残った生地のかけらまでフォークで集める。
それを見ていたら、オディールもつられてもう一切れ食べたくなった。
帰り支度の途中、叔母が次は何を作ろうかと尋ねると、シルヴァンはオディールを見た。
「オムレツをお願いしてみませんか」
「ええ。今度は卵を飛ばさないようにします」
帰りの馬車には、持ち帰るタルトの甘酸っぱい匂いがした。
母に話したいことが多くて、屋敷に着くまでに順番を考えた。
◇
宝飾店の請求書を見せられた彼の父であるレイモンド・ファーヴルは、不機嫌そうにガスパールを見る。
オディールは、父親に借金のことまで話したらしい。少し待てばまた会いに行けると思っていたのに、家には立替金の明細まで届いている。
「髪飾りは取り消す。だから、そちらの金だけ先に貸してくれないか」
レイモンドは机の向かいにいる宝飾店主、オクターヴ・マルタンを見た。
オクターヴが箱を開くと、真珠を留めた金の葉が薄紙の上で光った。
「完成後のお取り消しは承れません。ご注文の際にもお伝えしました」
「ほかの客に売ればいいだろう」
「お名前を彫っておりますので」
裏には、コレットへ贈る言葉とガスパールの名が入っている。店主に勧められるまま、喜ぶ顔を思い浮かべて、料金も確かめずに頼んだ。
レイモンドが箱を閉じる。
「支払日は五日後だ。それまでに工面しなさい」
「父上、店の人がいる前で」
「おまえが店に知らせた支払人は、注文に関わっていない。ここからは自分で話をしなさい」
翌日、ガスパールはコレットを訪ねた。
髪飾りを用意していることは知っているので、金の都合さえつけば、また喜んでくれるだろう。婚約解消を聞いていたコレットは、真っ先に理由を尋ねた。
「私への贈り物のために、オディール様にお金を借りようとしたの?」
「一時的にだよ。すぐ返すと言ったんだ」
「前のショールも?」
「……あれは、まだ返していない」
「ガスパール。そんなことまでして買ってほしいなんて、頼んでいないわ」
コレットはそれ以上、髪飾りの出来を聞かなかった。
ガスパールは急いで言った。
「少し貸してもらえないかな。来月になれば」
「私の誕生日の贈り物でしょう?」
「そうだけれど、今は金が足りないんだ。あれを受け取るためなんだから」
「受け取らないわ」
はっきり言われて、ガスパールは言葉に詰まった。
「君のために注文したんだぞ」
「払えないなら、そう言ってくれればよかったのに。オディール様に借りて、今度は私にも? 今日はもう帰って」
コレットが立ち上がって呼ぶと、ペラン家の侍女メラニー・ブランが廊下から現れた。黒髪を一本の三つ編みにした、以前から来客の対応をしている女性だ。
奥へ去るコレットを追いかけられず、ガスパールはメラニーに従って玄関へ向かう。借りたい金額さえ、まだ伝えていない。
支払日の朝、ガスパールは自宅の馬小屋にいた。
前年に買った栗毛の馬が寄ってきたので、額の白い毛をなでた。せめて別の馬を売れないかと思うが、ほかは父親のレイモンドが所有している。
買い手のロドルフ・ペルティエは、男爵家の次男で、乗馬仲間でもある。以前から欲しがっていたはずなのに値切り、ガスパールがその額で了承すると、すぐに代金を持ってきた。
今月の遠乗りにも連れていく予定だった馬を、手綱を渡す直前にもう一度だけなでた。
売却代金から店への残金とオディールへの返済分を引けば、新しい馬を買えるほどの金は残らない。レイモンドは家令に送金を任せ、領収を確かめてから息子へ言った。
「来月から、小遣いは半額にする。一年間だ。掛けで物を買うことも認めない」
「そんな額で、どうやって付き合いを」
「その額で買える物を買いなさい」
真珠の髪飾りは、ガスパールの手元に残った。
レイモンドに連れられて買い取りに出しても、細工代は戻らず、金と真珠の値段しかつかない。自分の名のある品を渡すときは、オクターヴの顔を見られなかった。
◇
次の料理の集まりの前、オディールは返された立替金を母と確かめ、受領の返事を送った。
ガスパールの父、レイモンドからの手紙には息子が清算したとあるものの、どう工面したかまでは分からない。
二度目の集まりで、オディールは卵を割り損ねた。殻のかけらを取ろうとすると、シルヴァンが小さなスプーンを差し出した。
「指で追いかけると、逃げます」
「もう追いかけてしまいました」
彼のほうにもかけらが入っていたので、二人で料理人に取り方を聞いた。
この日は叔母が先に卵を焼いた。形は少し崩れているが、チーズがよく溶けていて食べたくなる。オディールも同じように折ろうとして、フライパンの上で卵を破いてしまった。
「ああ、また」
声を出すと、隣で焼き始めたシルヴァンがこちらを見た。
「どこで破れましたか」
「返すのを急ぎました。もう少し待ったほうがよかったようです」
「分かりました。では、もう少し」
待ちすぎた彼のオムレツは、きれいな形で皿に移ったものの、裏側が茶色かった。
オディールが笑いをこらえると、彼は自分の皿を見て吹き出した。
「次は、二人の間くらいで」
「焼け具合は、ご自分の卵を見てください」
料理人の注意に、今度は二人で謝った。
シルヴァンとは、夏の間に何度も会った。
料理の集まりのほか、母たちと散歩に出る日もあれば、モレル家で昼食をごちそうになる日もある。食事が終わってもまだ話したくて、別れ際には次の集まりの日を確かめた。
手紙には旅先で見た景色や食べた物が詳しく書かれている。オディールが自作のオムレツについて知らせると、焼き色をつけなかったことを褒める返事が届いた。ところが、その横には卵が三つ描いてある。
八月のある日、叔母の家で、二人はクッキーの生地を切り抜いていた。
シルヴァンは持ってきた型紙を、馬の絵だと説明する。形に沿って切った生地を焼いてみると、脚が太くつながって、何の動物か分からなくなった。
「手紙の卵もそうでしたけれど、絵はあまりお得意ではありませんね」
「あれは、あなたのタルトを描いたつもりでした」
「三つとも?」
「三つとも」
オディールは笑って、焼けたクッキーを一枚取った。少し冷ましてからかじると、シルヴァンが残りを見ていた。
「味はいかがですか」
「おいしいです。馬には見えませんが」
「では、馬のほうはもう少し練習します」
こんなことを話して笑っている時間が好きだった。出会ったばかりの頃は、別の男性と会うのが早すぎるだろうかと思ったこともある。今は、彼が来ると聞けば朝から落ち着かない。
冷めたクッキーを包み終えた後、オディールは台所の隅で、元の婚約について話した。
父母の付き合いがあるのだから、事情をまったく知らないわけではないだろう。それでも、自分から話しておきたかった。
「お金を貸したのは私です。返してもらえないまま、また貸しました。嫌だと言えば済んだのに」
「言えなかったのですか」
「嫌われたくなかったのでしょうね。今なら断れるのに、あのときは」
シルヴァンは包みのひもを結び終えてから、オディールへ向き直った。
「今は、私に言いにくいことがありますか」
慰められると思っていたので、すぐには答えられなかった。
少し考えてから、オディールは彼の手元を指した。
「それは、お母様のお好きなレモン入りです。あなたの分は右に」
「あっ。危なかった」
包みを取り替える様子に笑ってしまい、用意していた深刻な話し方を続けられなくなった。
オディールはエプロンのひもをほどき、たたんだ。
「もう一つあります」
「はい」
「この集まりがなくても、お会いしたいです」
シルヴァンはクッキーの包みを置いた。
「私もです。次は、私からお誘いしていいですか」
「ええ」
彼は台所の壁の暦を見た。
「来週の日曜はいかがですか」
オディールはその日にある刺繍の稽古を思い出した。
夕方なら空いていると答えると、彼は庭の散歩と夕食に誘ってくれた。
◇
秋になり、オディールはモレル家の庭を歩いていた。
隣にはシルヴァンがいる。母たちは先に屋敷へ戻り、二人もそろそろ戻ろうとしたところで、彼が歩みを止めた。
「オディール様。今日は、お願いがあります」
いつもはよく話す彼が、夕食の間も何度か黙り込んでいた。気になっていたオディールは、体調でも悪いのかと思っていた。
「私と結婚していただけませんか」
シルヴァンは小さな箱を取り出した。
オディールは彼の顔と指輪を交互に見ながら、返事ができずにいた。うれしいのに、母へ何と話そうかと考えてしまう。今はまず、彼に返事をしなくては。
「はい。私でよければ」
「あなたにお願いしています」
シルヴァンに手を取られ、指輪をはめてもらった。
指には少し緩い。直してもらおうと言われてうなずいたものの、今は外したくない。
「領地へ帰ったら、こちらほど頻繁に集まりは開けません。料理は続けたいですか」
「はい。でも毎日の食事を全部作るのは、まだ無理です」
「それは私も困ります。あなたと食べるつもりなので」
シルヴァンが笑ったので、オディールも笑えた。
「休みの朝などに、二人で作れたらうれしいです」
「では、料理人にもそう話しましょう。毎回あの大きな台所を占領しては、叱られます」
シルヴァンと手をつないだまま客間へ入ると、母が立ち上がった。
オディールが左手を見せて求婚を受けたと告げると、母は娘を抱き寄せた。ようやく、泣きそうになる。
◇
それから二週間ほど後、ガスパールが謝罪のために面会したいと手紙を寄越した。
父を通じて一度だけならと伝え、母にも一緒にいてもらう。
以前より地味な上着で客間に現れたガスパールは、挨拶を済ませるとオディールの左手に目を留めた。指輪はもう、指に合う大きさに直してある。
「新しい婚約者ができたのか」
「はい。シルヴァン・モレル様です」
「そんなに早く」
オディールが黙っていると、ガスパールは母を見た。母は娘の代わりに答えることなく、話を続けるよう促す。
「君が怒った理由は分かった。コレットも、もう頼ってこない。二人で出かけることもなくなった」
「そうですか」
「馬も売ったんだ。あんなに気に入っていたのに。父からも小遣いを半分にされて、店で掛けにすることも許してもらえない」
オディールは、ファーヴル家から届いた返済の手紙を思い出した。何を売った金なのかは知らなかったが、馬を失ったからといって、返した金を惜しむ話をされても困る。
「あなたが返してくださったお金は、受け取りました」
「だから、もう一度考えてくれないか。以前の僕たちに戻れないかと、ずっと考えていたんだ」
ガスパールは身を乗り出した。
「コレットに贈り物はしない。これからは、君に金の管理を頼みたい。君なら、こんな失敗はさせないだろう」
オディールは婚約していた頃、彼の買い物について何か言おうとすると、まだ妻でもないのにと遮られたことを思い出した。
結婚するのだから払ってくれとも言った。今日は、失敗させないでほしいという。
「お断りします」
「すぐに決めないでくれ」
「お金をどう使うかは、ご自分でお考えください。私があなたと結婚したいと思うことは、もうありません」
ガスパールはオディールの指輪を見た。
「モレル様なら、君の望む物を何でも買ってくれるのか」
「私が何をしたいのか、聞いてくださいます。一緒にできることも、たくさんあります」
「僕だって、聞けば」
「何度もお話ししました」
ガスパールは口を開いたが、オディールは待たなかった。
「今日で最後にしてください。今後は、お会いしません」
母がミレーヌを呼んだ。
ガスパールはしばらく立たなかったが、オディールが話を再開しないと分かると、ようやく腰を上げた。
見送りを母に任せて自室へ戻ると、窓辺には結婚後に使うリネンの見本が広げてある。シルヴァンが、自分も見て決めたいと言ったので、明日の午後に一緒に店へ行くことになっている。
オディールは気に入った二枚を残し、ほかを畳んだ。
◇
翌年の春、結婚して間もないオディールは、夫と領地の屋敷の台所にいた。
早起きして、台所が忙しくなる前に少し借りる約束だった。
白髪で痩せた料理人、レジス・クレマンが、卵とチーズを用意して待っている。この屋敷の食事を任されている彼に見てもらいながら、二人でフライパンを火にかける。
「そろそろでは?」
「まだ。そこを触ると、また破けるわ」
シルヴァンが差し出しかけた木べらを戻した。
オディールは卵の端を確かめ、ゆっくり畳んだ。今度は破れない。皿に移すと、シルヴァンが先に喜んだ。
「きれいにできたね」
「あなたのほうは?」
彼は急いで自分の卵を火から下ろした。
裏側に少し焼き色がついていたが、以前ほどではない。オディールは笑いながら、自分のオムレツを半分に切った。
「半分ずつにしましょう」
「私のは、少し固いかもしれない」
「チーズをたくさん入れたでしょう。そちらも食べたいの」
皿を持っていこうとする彼を呼び止め、オディールは頬に口づけた。
シルヴァンが驚いて振り向く。もう一度、と言われて、料理人に聞こえるからと小声で返すと、彼は笑って台所の戸を開けてくれた。
窓辺の小さなテーブルへ朝食を運び、二人で食べ始める。
シルヴァンのオムレツには、思っていたよりもたくさんチーズが入っていた。
完。
お読み下さりありがとうございます。
星で評価いただけると嬉しいです。
長編もよろしくお願いします。
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