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夕焼けを預かる店

作者: iazok
掲載日:2026/06/28

第一章


 商店街の外れに、「預かり屋」という小さな店がある。


 看板もなければ営業時間も決まっていない。ガラス戸には「本日は営業中」と書かれた木札がぶら下がっているだけで、その文字も日に焼けて半分ほど消えている。


 私がその店を見つけたのは、雨の降る六月の帰り道だった。


 会社を辞めて三週間。


 次の仕事を探さなければと思いながら、結局何もできずに一日が終わる。求人サイトを開いては閉じ、履歴書を書いては途中で丸めて捨てる。


 傘を差す気力もなく歩いていると、軒先から声がした。


「そんなに濡れてると、風邪ひくよ。」


 七十歳くらいだろうか。


 白髪交じりの女性が、店先から私を見ていた。


「少し雨宿りしていきなさい。」


 断る理由も思いつかず、私は店へ入った。


 店の中には古い棚がいくつも並び、小さな木箱が隙間なく積み重なっていた。


 靴箱くらいのものから、指輪が入りそうな小箱まで。


 どの箱にも札が付いている。


 けれど中身は書かれていない。


「ここ、何のお店なんですか。」


「預かり屋。」


「何を預かるんです?」


 店主は少し考えてから笑った。


「忘れたくないもの。」


 私は思わず聞き返した。


「思い出の品ですか?」


「いいえ。」


 彼女は首を横に振る。


「夕焼けだったり、匂いだったり、誰かの声だったり。」


 ますます意味が分からない。


「例えばね。」


 店主は棚の一番上から小さな箱を下ろした。


 蓋を少しだけ開ける。


 その瞬間、潮風の匂いが店いっぱいに広がった。


 波の音が聞こえた気がした。


 ほんの一瞬だけ。


 すぐに蓋が閉じられる。


「今の……。」


「高校生の男の子が預けていった海。」


「海?」


「修学旅行の最終日に見た夕方の海ですって。」


 店主は箱を元の場所へ戻す。


「大学へ行けば、新しい景色をたくさん見るでしょう。だから忘れてしまう前に預けるんだそうです。」


「そんなこと……。」


「信じなくてもいいですよ。」


 彼女は笑った。


「この店は、信じる人だけ来る店だから。」


 雨が弱くなってきた。


 私は礼を言って帰ろうとした。


「あなたは何か預けていきますか。」


 呼び止められる。


「ありません。」


 即答だった。


「そう。」


 店主は少し寂しそうに頷いた。


「何も預けるものがない人は、大抵、何かを置いてきた人です。」


 その言葉だけが胸に引っかかった。


 翌日。


 私はまたその店へ行った。


 仕事探しの途中だった。


 ということにしていた。


 本当は、昨日の海の匂いが忘れられなかった。


「いらっしゃい。」


 店主は最初から私が来ることを知っていたみたいに笑う。


「今日は箱を開けてみますか。」


 店の奥へ案内される。


 棚の一角には「返却待ち」と書かれた札が掛かっていた。


「返すこともあるんですか。」


「もちろん。」


「誰に?」


「持ち主ですよ。」


 店主は一つの箱を取り出した。


「これは十七年前に預かったもの。」


 ゆっくり蓋を開く。


 今度は夏祭りの音が聞こえた。


 遠くで鳴る太鼓。


 子どもの笑い声。


 焼きとうもろこしの香ばしい匂い。


 それらが一瞬だけ店の中を満たす。


「返したんですか。」


「昨日ね。」


「どうして今まで。」


「受け取る準備ができてなかったから。」


 私は箱を見つめる。


「思い出って、そんなに重いものなんですか。」


「重いですよ。」


 店主は迷いなく答えた。


「だから人は、忘れるんじゃなくて、一度どこかへ置いて歩くんです。」


 その日の帰り道だった。


 駅前の横断歩道で、小学生くらいの男の子が転んだ。


 ランドセルから色鉛筆が散らばる。


 私は駆け寄って拾う。


「ありがとう。」


 男の子は笑う。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。


 弟だった。


 十年前に病気で亡くなった弟も、笑うと同じ目になった。


 忘れていたわけじゃない。


 思い出さないようにしていただけだった。


 私は色鉛筆を渡し終えると、その場にしゃがみ込んだ。


 夕焼けが街を赤く染めている。


 あの日も、こんな色だった気がする。


 気づけば私は、再び預かり屋の前に立っていた。


 店の戸は半分だけ開いている。


 中から店主の声がした。


「やっと預けるものが見つかったみたいですね。」


 私は返事ができなかった。


 店の奥では、小さな木箱が一つだけ、誰かを待つように蓋を開けたまま置かれていた。


第二章


 店の奥には、小さな机が一つ置かれていた。


 窓の外では夕方の雨が細く降っている。


 店主は湯呑みに温かいほうじ茶を注ぎ、私の前へ置いた。


「預けるものが見つかったんですか。」


 私は湯気を見つめたまま頷く。


「でも、何を預ければいいのか分かりません。」


「分からなくても大丈夫。」


 店主は棚の方へ歩いていく。


「思い出そのものを預かるわけじゃありませんから。」


「違うんですか。」


「ええ。」


 彼女は一番下の段から、空っぽの木箱を持って戻ってきた。


 蓋を開ける。


 中には何も入っていない。


「この箱は空です。」


「そうですね。」


「でも、預ける人が決まっています。」


「まだ来てないのに?」


「来る前から、置き場所だけ決まっていることもあります。」


 私は苦笑する。


「この店、不思議なことばかりですね。」


「人の心も、十分不思議ですよ。」


 静かな返事だった。


 私は木箱を見つめる。


 何を預けたいのだろう。


 弟との思い出?


 最後に交わした言葉?


 病室の匂い?


 どれも違う気がした。


「弟さんですか。」


 不意に店主が言う。


 私は顔を上げる。


「……話しましたっけ。」


「いいえ。」


 店主は微笑む。


「あなたが色鉛筆を拾ったときの顔を見れば分かります。」


 私は湯呑みに視線を落とした。


 熱いはずなのに、少しも温かく感じなかった。


「十歳、離れてたんです。」


 自然と口が開く。


「小学校一年生でした。」


 弟は身体が弱かった。


 入退院を繰り返していた。


 それでも病室ではいつも笑っていた。


 将来は恐竜博士になるんだと言って、図鑑を何度も読み返していた。


「お姉ちゃん。」


 その呼び方だけは今でも思い出せる。


「これ描いて。」


 恐竜の絵。


 宇宙船。


 変な形のロボット。


 私は絵を描くのが好きだったから、弟は何でも私に頼んだ。


 上手だね、と言って笑ってくれた。


「最後に描いたのは?」


 店主が尋ねる。


「ティラノサウルスでした。」


 私は少し笑う。


「口が大きすぎるって文句を言われました。」


「そう。」


「描き直したら今度は怖くないって。」


 二人で笑った。


 ほんの一瞬だけ。


 すぐに笑顔は消えた。


「その一週間後に亡くなりました。」


 店の時計が小さく鳴る。


 外の雨は少し強くなっていた。


「それから絵を描かなくなったんです。」


「どうして?」


「描く理由がなくなったから。」


 店主は何も言わない。


 責めもしない。


 慰めもしない。


 私は続ける。


「誰かに褒めてもらいたかったわけじゃないんです。」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。


 今まで気付かなかった。


「弟が笑ってくれるのが好きだった。」


 それだけだった。


「だから、いなくなったら。」


 続きが出てこない。


 私は言葉の代わりに息を吐く。


 店主は静かに頷いた。


「あなたは絵をやめたんじゃありません。」


「え?」


「喜んでもらう相手を失ったんです。」


 その一言で胸の奥が少しだけ痛んだ。


 私は初めて泣きそうになった。


 店主は棚へ歩いていき、一つの箱を持ってくる。


 古い木目の箱だった。


「開けてみますか。」


 私は頷く。


 蓋がゆっくり開く。


 すると、小さな笑い声が聞こえた。


 幼い子どもの笑い声。


 風鈴。


 蝉。


 縁側を走る足音。


 どこかの夏休み。


 誰かの思い出。


 数秒で蓋は閉じられる。


「今の人は?」


「四十年前に預けていった人。」


「返したんですか。」


「いいえ。」


 店主は首を振る。


「返そうとしたんですが。」


「?」


「受け取らないって言われました。」


「どうして。」


 店主は箱を優しく撫でる。


「もう思い出さなくても、生きていけるようになったからだそうです。」


 私は箱を見つめる。


「それって忘れたってことですか。」


「違います。」


 店主は少しだけ笑った。


「忘れた人は、預けたことさえ覚えていません。」


 店の外で雨が止む。


 夕焼けが雲の隙間から差し込んできた。


 橙色の光が棚を照らす。


 その光を見ながら店主は静かに言った。


「人は悲しいから預けるんじゃありません。」


「……。」


「いつか、自分の手で抱え直せるようになるまで預けるんです。」


 私は窓の外を見る。


 雨上がりの商店街。


 水たまりに夕焼けが映っていた。


 その景色を見た瞬間、不思議なことに弟の顔ではなく、病室で一緒に笑っていた自分の姿が思い浮かんだ。


 私はずっと、弟を思い出すことばかり怖がっていた。


 でも、本当に怖かったのは。


 あの頃の自分へ戻れないと認めることだったのかもしれない。


 店主が空の木箱を私の前へ置く。


「まだ預けますか。」


 私は箱を見つめる。


 しばらく考えてから、ゆっくり首を横に振った。


「……もう少し考えます。」


 店主は安心したように笑う。


「それでいいんです。」


「え?」


「急いで預けるものほど、急いで返してほしくなりますから。」


 帰り際、私は店の戸口で振り返った。


 棚いっぱいに並ぶ木箱は、どれも静かだった。


 けれど、その静けさは何かを閉じ込めるためではなく、誰かがもう一度受け取りに来る日を、気長に待っているように見えた。


第三章


 それからしばらく、私は店へ行かなかった。


 仕事を探し始めたから、という理由もあった。


 朝起きて、履歴書を書く。


 昼は面接へ向かう。


 帰り道、本屋へ寄る。


 そんな当たり前の毎日が少しずつ戻ってきた。


 けれど夕方になると、商店街の方角へ目が向いてしまう。


 店主は元気だろうか。


 あの棚は今日も静かなのだろうか。


 そう考える自分に気づいて、私は少し笑った。


 ある日の夕方。


 久しぶりに店を訪ねると、戸は開いたままだった。


 しかし店内に店主の姿はない。


 代わりに机の上へ一枚の紙が置かれていた。


『裏庭にいます。』


 店の奥へ進む。


 初めて見る小さな庭だった。


 紫陽花が咲き終わり、青葉が風に揺れている。


 店主は脚立に乗って、小さな柿の木を剪定していた。


「久しぶりですね。」


 私に気づくと、彼女は笑った。


「仕事は見つかりましたか。」


「まだです。」


「そうですか。」


 それだけだった。


 励ましも慰めもない。


 それなのに、不思議と肩の力が抜ける。


「今日は預けに来たんですか。」


 私は少し考えた。


 そして首を横に振る。


「違います。」


「じゃあ返してもらいに?」


「……何も預けてません。」


「そうでしたね。」


 店主は剪定ばさみを閉じる。


「では、どうして来たんでしょう。」


 私は答えに詰まる。


 理由なんてなかった。


 ただ、ここへ来れば、自分が立ち止まっていた時間を思い出せる気がした。


「見せたいものがあります。」


 私は鞄から一冊のスケッチブックを取り出した。


 新しいページ。


 描かれているのは、駅前の交差点だった。


 夕暮れ。


 信号待ちをする人たち。


 傘を持つ学生。


 犬を散歩させる老人。


 ありふれた街の風景。


「描いたんですね。」


「下手ですけど。」


「前より?」


 私は笑う。


「たぶん。」


 店主はスケッチブックを静かに閉じた。


「誰かに見せたかったんですか。」


 その問いに、私は少し驚いた。


 弟はいない。


 だからもう、見せたい相手なんていないと思っていた。


 けれど違った。


「……見てもらいたかったんです。」


 その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどける音がした。


 店主はゆっくり頷く。


「人はね。」


 風が木の葉を揺らす。


「誰かを失っても、誰かに何かを伝えたい気持ちまでは失わないんです。」


 私は空を見上げる。


 夏の雲がゆっくり流れていた。


「預けるもの、決まりました。」


 店主が静かに言う。


 私は驚く。


「え?」


「あなたが預けたかったのは、弟さんとの思い出ではありません。」


「……。」


「『もう誰にも見せられない』という諦めです。」


 言葉が出なかった。


 私はずっと思い出を抱えていると思っていた。


 違った。


 抱えていたのは、その先へ進んではいけないという罪悪感だった。


 弟が喜んでくれたから描いていた。


 ならば弟がいない今、自分が楽しんではいけない。


 そんなことを、誰に言われたわけでもないのに信じていた。


 店主は空の木箱を持ってくる。


「預かりますか。」


 私は木箱を見つめた。


 長い間、黙っていた。


 そして、ゆっくりと首を横へ振る。


「いいえ。」


「理由を聞いても?」


「持って帰ります。」


 自分でも不思議なくらい、自然に言葉が出た。


「たぶん、まだ重いです。」


「ええ。」


「でも。」


 私は箱を店主へ返した。


「少しだけ持てそうな気がします。」


 店主は何も言わなかった。


 ただ嬉しそうに笑った。


 帰ろうとしたときだった。


「そうそう。」


 店主が私を呼び止める。


「一つだけ教えておきます。」


「何ですか。」


「この店には、もう一つ名前があります。」


 私は振り返る。


「何というんです?」


 店主は夕焼けに染まった空を見上げる。


「返却屋。」


 私は思わず笑った。


「預かり屋じゃなくて?」


「ええ。」


「本当は、預かることが仕事じゃありません。」


 店主は店内の棚を見つめる。


「いつか持ち主へ返すために預かっているだけです。」


 私はもう一度店の棚を見る。


 あの無数の木箱は、誰かの悲しみを閉じ込める箱ではない。


 誰かがもう一度、自分の人生を抱えられる日まで待つ箱だった。


 店を出る。


 西日が商店街を長く照らしている。


 家へ帰る途中、小さな公園の前を通りかかった。


 一人の男の子がベンチで泣いていた。


 画用紙が風に飛ばされている。


 私は拾って渡す。


「ありがとう。」


 男の子は涙を拭きながら笑った。


 その画用紙には、大きな恐竜が描かれていた。


「かっこいいね。」


 私が言うと、男の子は照れくさそうに笑う。


「でも、口が変なんだ。」


 私は思わず吹き出した。


「それなら、もう少し大きく描いてみたら?」


 男の子は目を輝かせる。


「そうしてみる!」


 画用紙を抱えて、公園の向こうへ走っていく。


 その後ろ姿を見送りながら、私は空を見上げた。


 街は茜色に染まっている。


 弟も、こんなふうに笑っていた。


 そう思った。


 胸は少しだけ痛んだ。


 けれど、その痛みは前ほど鋭くなかった。


 私は鞄からスケッチブックを取り出す。


 真っ白なページを開く。


 夕焼けの輪郭を、一本の線でなぞり始める。


 風が吹く。


 紙の匂いと、夏草の匂いが混ざる。


 世界は何一つ変わっていない。


 弟は帰ってこない。


 預かり屋が本当に存在したのかさえ、もう確かめようとは思わなかった。


 それでも私は描く。


 誰かのために。


 自分のために。


 そして、いつかもう一度誰かが笑ってくれる日が来ることを信じながら。


 その日の夕焼けは、まだどこにも預けなくていいと思えた。

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