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栞の魔法使い

作者: 猪西
掲載日:2026/03/10


 窓の外では、雨が微かな調べを奏でている。


 しとしとと、あるいは断続的に。その音は、私の退屈で静止した世界に唯一の友人だった。


 私の周りには、常に人の気配がある。


 誰かが私の髪を乾かし、誰かが私の肌を拭い、誰かが私の着替えを手伝う。


 それは決して、私がわがままな高貴な身分を鼻にかけているからではない。


 ただ、私は自分の意思を奪われているからだ。


 「お嬢様、お加減はいかがですか? お背中、少しお直ししますね」


 若いメイドの声が響く。彼女の手は温かい。


 けれど、その温もりを感じる私の肌は、まるで遠い異国の出来事のように、感覚がどこか頼りない。


 私は、今から十三年前、この由緒ある貴族の家に生を受けた。


 生まれた瞬間は、きっと祝福に満ちていたのだと思う。少なくとも、私を抱く母の記憶の中にある私は、輝くような存在だったはずだ。


 けれど、その光はすぐに陰りを見せ始めた。


 異変に気づいたのは、私を世話していた古参のメイドたちだったという。


「この子は、自分から動こうとしない」


 赤ん坊なら誰もがするはずの、手足をばたつかせる仕草。


 母の指を握り返す力。それらが私には、絶望的なまでに欠落していた。


 口元はかろうじて動く。空腹を感じれば咀嚼するような動きを見せ、光が眩しければ瞬きもできる。けれど、それだけ。


 私の魂は、動かない肉体という名の檻の中に、最初から閉じ込められていた。


「そんなはずはないわ……! この子は、こんなに可愛いのに!」


 母の悲鳴のような声が、今も耳の奥に残っている気がする。


 両親は、国中で一番名高いと言われる医者を何人も呼び寄せた。


 真っ白なガウンを着た老人や、眼鏡の奥で鋭い光を放つ男たちが、私の体を代わる代わる調べた。


「……信じがたいことですが」


 ある老医者が、重い口を開いた。その言葉は、私の人生という物語を、あまりにも冷酷に書き換えてしまった。


「この方の全身の筋肉は、通常の人間……それも、生まれたての赤子と比較しても、あまりにも脆弱です。自分の骨を支えることすら、この筋肉にはできない。手を動かすことも、立ち上がることも、生涯、叶うことはないでしょう」


「そ、そんな…」


「治るのでしょう!? 先生、どうか、どんな対価でも払いますから!」


 父が医者の肩を掴んで揺さぶる。けれど、医者はただ悲しげに首を振るだけだった。


「医学の範疇を超えています。これは……言わば、魂と肉体を繋ぐ糸が、最初からほつれているようなものなのです」


 その日から、私の日常はベッドの上で始まり、ベッドの上で終わるようになった。


 鏡を見ることはないけれど、きっと私は、美しい絹の寝具に埋もれた、壊れかけの人形のような姿をしているのだろう。


 メイドたちは献身的に私に仕えてくれる。


 決まった時間に食事を口に運んでくれ、私の体の一部が痛まないように、丁寧に、丁寧に拭いてくれる。


 けれど、私の筋肉は、その慈しみさえ拒むように、年々、目に見えて衰えていった。


「あ……ぅ……あぅ……」


 喉を震わせて、言葉を紡ごうとする。


(ありがとう)

(そんなに悲しい顔をしないで)


 伝えたいことは、海のように心の中に溢れているのに。


 けれど、唇から漏れ出るのは、意味をなさない掠れた吐息だけだ。


「はい……そうですね、お嬢様。……すぐに、お加減を整えますからね」


 メイドのひとりが、私の言葉を汲み取ろうとして、けれど結局は分からずに、申し訳なさそうに視線を伏せる。


 彼女の瞳に宿るのは、いつだって深い「哀れみ」だ。


 私はそれが苦しくて、けれど拒絶する手段さえ持たなかった。


 そんな私の、唯一の娯楽。


 それは、本を読み聞かせてもらうことだった。


 物語の中にいる間だけ、私は自由になれる。草原を駆け抜け、誰かと恋に落ち、時には剣を持って戦うことさえできる。


 「それでは、今日はお嬢様が一番お好きなお話です」


 エレーナという名の、まだ若いメイドが、大切そうに一冊の本を取り出した。


 使い込まれて角が丸くなったその本の名は、『栞の魔法使い』。


 私はこの物語を聞くたびに、胸の奥が締め付けられるような、不思議な感覚に陥るのだ。


 昔々、あるところに、とても貧しい家に生まれた少年がいました。


 両親は少年と幼い弟たちを捨てて、どこかへ消えてしまいました。


 少年はまだ子供でしたが、自分がこの家の大黒柱にならなければならないと決意しました。


 少年は、朝から晩まで一生懸命に働きました。


 朝早くに森へ入り薪を割り、昼は街で荷運びをし、夜は冷たい水で人の家の洗濯物を洗いました。


 彼の手はいつもあかぎれで血が滲み、冬になれば感覚がなくなるほど凍えていました。


 けれど、少年が働いて得たわずかなお金は、弟たちの温かなスープになり、一切れのパンになりました。


働いて、食べさせ。

働いて、食べさせ。

働いて、食べさせ……。


 少年にとって、それは血を吐くような辛い生活でした。


 自分の食事はいつも最後。弟たちが残したパンの屑を啜るだけの毎日。


 けれど、弟たちが「お兄ちゃん、おいしいね」と笑ってくれる、その一瞬の笑顔だけが、少年の乾いた心を潤す唯一の雫でした。


 しかし、現実はどこまでも残酷です。


 ある年、街に恐ろしい流行り病が蔓延しました。


 それは、一度かかれば高熱に浮かされ、骨の髄まで蝕まれる、治し方の分からない難病でした。


 最初に、一番下の弟が倒れました。


 次に、その上の弟が。


 少年は必死で看病を続けました。自分の睡眠時間を削り、薬を買うためにさらに無理をして働きました。


 けれど、病の魔の手は容赦なく、少年の家を飲み込んでいきました。


 ある朝、少年が目を覚ますと、隣で眠っていたはずの弟たちは、皆、冷たくなっていました。


 昨日まであんなに温かかった、少年の宝物たちが、一人残らずいなくなってしまったのです。


 少年は泣きました。声が枯れるまで、涙が枯れ果てるまで。


 「今まで、何のために頑張ってきたんだろう」


 「どうして僕だけが、取り残されたんだろう」


 虚無感に襲われた少年の体にも、やがて異変が訪れます。


 弟たちの病が、彼にも移っていたのです。


 もはや立ち上がる力もなく、冷たい床に横たわった少年の視界に、これまでの人生が走馬灯のように浮かんできました。


 働いてばかりの、苦しくて、惨めな人生。

楽しい思い出なんて、指で数えるほどしかない。


 けれど、その数少ない記憶の中に、弟たちの弾けるような笑顔がありました。


(ああ……僕は、幸せだったのかもしれない)


 少年は、最後に一筋の涙をこぼしました。


 その時です。


 枕元に、音もなくひとりの男が現れました。


 真っ白なローブを纏い、同じく真っ白なシルクハットを被った、不思議な男。


 帽子のひさしが深く、顔はよく見えませんでしたが、帽子の隙間から零れる髪は、眩しいほどの金色でした。


 男は静かに、けれど慈しむような声で言いました。


「私は『しおりの魔法使い』。……君が最後に望むものは、なんだい?」


 少年は、もう声が出せませんでした。


 けれど、彼は心の中で、ただひとつの願いを叫びました。


(もう一度だけ、みんなに会いたい)


 魔法使いは、静かに頷きました。


 すると突然、少年の視界が眩い光に包まれました。


 気がつくと、彼は見たこともない、美しく温かな家の前に立っていました。


 恐る恐る扉を開けると、そこには、あの日失った弟たちが元気に駆け回っていました。


「お兄ちゃん、おかえり!」


 その声に導かれるように奥へ進むと、そこには自分たちを捨てたはずの両親が、優しい微笑みを浮かべて待っていたのです。


 それは魔法が作り出した幻だったのかもしれません。


 けれど、少年が抱きついたその体は、何よりも温かく、本物でした。


 少年は子供のように泣きじゃくり、再会を喜びました。


 栞の魔法使いは、少年のその安らかな顔を遠くから見届けると、誰に気づかれることもなく、そっと夜のとばりの中へ消えていきました。


 おしまい。


 エレーナが本を閉じると、部屋に再び雨の音が戻ってきた。


 彼女は、どこか複雑な表情でこちらを見ている。その大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。


 私は、このお話が好きだ。


 少年の人生は、客観的に見れば悲惨で、報われないものだったかもしれない。


 けれど、彼は最後まで誰かのために必死に生きた。だからこそ、魔法使いは彼を見つけ、最後に「救い」を与えてくれたのだと思う。


 ……けれど私の目の前に栞の魔法使いは現れないだろう…。


 私はこの十三年間、何一つ成し遂げていない。


 誰かを助けるどころか、自分の体を支えることさえできず、ただ人のお世話になり、リネンを汚し、誰かの人生を私の世話という義務で縛り付けている。


 物語の少年のように、頑張った形跡なんてどこにもない。


 ただ、ベッドの上で呼吸をしているだけ。


(ごめんなさい……)


 私は心の中で、私を慈しんでくれる全ての人に謝った。


 頑張っていない私には、きっと最後のご褒美なんて訪れない。


 そんな資格、どこにもない。


「……お嬢様。……本当に、おいたわしくて……」


 エレーナが堪えきれずに涙を零し、部屋を飛び出していった。


 私に向ける彼女の目は、いつだって「哀れみ」しかない。


 たまに部屋を訪れる両親でさえも、私の顔を見るなり「ごめんなさい、私たちがこんな体に産んでしまったばかりに」と泣き崩れる。


 「ごめんなさい」という言葉は、本来なら謝罪の言葉のはずなのに。


 今の私には、どんな刃物よりも深く心を削り取る、鋭い棘のように突き刺さる。


 私は謝ってほしいんじゃない。


 私は……。


 そんな生活が、明日も、明後日も、この先もずっと続くのだと思っていた。


 けれど、その日の夜。


 運命の歯車が、音もなく、けれど決定的に狂い始めた。


 深夜。


 メイドたちが寝静まり、部屋を照らすのは小さなランプの灯火だけになった頃。


 自分自身でもはっきりと分かるほどの異変が、私を襲った。


 ドクン、ドクン……と、心臓が耳元で鳴っているかのように、激しく鼓動し始める。


 それとは対照的に、指先から、足先から、じわじわと体中の感覚が消えていくのが分かった。


 いつもは「動かないけれどそこにある」と感じていた自分の肉体が、まるで霧に溶けていくように、実体を失っていく。


 呼吸が浅くなる。肺に空気が入ってこない。


 視界が急激に狭まり、ランプの灯りが遠く、小さな星のように明滅している。


(ああ……死ぬんだ)


 恐怖はなかった。


 ただ、どこか他人事のような、妙に冷めた納得感だけがあった。


 私の人生、何にもなかったな。


 頑張ることも、誰かを愛することも、自分の足で大地を踏みしめることも。


 ただ、真っ白なシーツの上で、誰かの涙を見続けるだけの十三年だった。


 けれど。


 けれど、最後くらい。


 あの物語の少年のように、私も……。


「――おしまいやす、お嬢様」


 突然だった。


 閉ざされかけた意識の隙間に、鈴の音のように澄んだ、けれどどこか浮世離れした男の声が入り込んできた。


 音もなく。


 気配もなく。


 鍵のかかっているはずの私の部屋の、すぐ真横に。


 驚いて目を見開こうとしたけれど、もはや瞼を動かす力さえ残っていなかった。


 けれど、私のぼやけた視界の中に、その男は鮮明に映り込んでいた。


 真っ白なローブ。


 形の良い真っ白なシルクハット。


 そして、帽子の下から零れ落ちる、月の光を織り込んだような、美しい金色の髪。


 彼は、私がさっきまで読み聞かせてもらっていた本から抜け出してきたかのような姿で、そこに立っていた。


 男は優雅に帽子に手を添え、私に向かって深々と一礼する。


 男はまるで私の心の声を聞き取ったかのように、優しく微笑んだ。


「失礼いたしましたなぁ。驚かせてしもて、堪忍やわ。……私の名前は『栞の魔法使い』。あるいは、そう……『魔法の収集家』やと言うた方が、お嬢様には分かりやすいかもしれまへんな」


(……栞の……魔法使い?)


 声にならない私の疑問を、男は鮮やかに掬い上げます。


 なぜ、本の中の存在が目の前にいるのか。私の瞳に宿った困惑の色を見て、彼はふっと目を細めて、柔らかく微笑みました。


 「おや。まさか、あのお話を知ってはるんや。……ふふ、それはそれは光栄なこっちゃ。ええ、あの本に書かれとるんは、私に間違いおへん。正確に言えば……。……おっと、いけまへんな。本題から逸れてしまうところどした」


 私は息を呑みました。


 喉はひきつり、音一つ出せないはずなのに。


 なぜ、この男は私の思考を容易く読み取ってしまうのでしょうか。


「不思議どすか? 私は魔法使いやさかい。お嬢様が今、何を考え、何に惑うてはるのか……そんなん、手に取るように分かりますのや。」


 「おほん。……さて、私がなんであんさんの前に現れたかと言いますとな、先ほども言うた通り、私は『収集家』なんですわ。あんさんという美しい物語から、たった一つの魔法を分けてもらいに来たんどす」


(……魔法? 私には、そんなもの……)


「確かに、魔法を扱うには筋の良さが必要どす。けど、私はその『一回分の才能』を授けることができるんどす。」


「よろしゅう聞いておくれやす。あんさんの知るあの本の中では、魔法使いが少年の願いを叶えてあげたように書かれてましたやろ? けど、事実はちょっとだけ違うんどす」


 彼は細い指を立て、空中に見えない円を描きました。


 「事実はこうどす。私は少年に魔法の才を『お貸し』した。そして、少年が自分自身の意志でその才を使い、彼が心底望んだ魔法を『編みはった』んどす。」


 「彼の場合は、『最愛の人らと夢の中で会う魔法』どしたな。……そして、ここからが私の仕事。少年が亡くなった後、彼が編んだその美しい魔法の残り香は、私の元へ返ってくる。」


 「そうやって私は、世界中の想いが詰まった魔法を、一つずつ集めて回っとるんどす。」


「……今から、あんさんにも同じことをしてもらおうと思てますのや。……ここまでの話、何か聞きたいことはおへんか?」


 頭の中が真っ白になりました。


 これは死の間際に見ている、あまりにも鮮烈で甘美な夢なのでしょうか。


 けれど、彼から漂う古い紙のような香りと、雨の湿り気は、あまりにも「現実」としてそこに存在していました。


 私は消えゆく意識を必死に繋ぎ止め、一つだけ気になったことを彼に投げかけました。


(……私を、助けてくれるの……?)


 魔法使いは、慈しむような、けれど残酷なほどはっきりと首を振りました。


 「一つだけ言うておきます。お嬢様。……あんさんの死を遠ざけることは、私の魔法でもできまへん。運命の栞は、もう最終ページに差し掛かってますさかい。」


 「……それからな、私からこの才能を受け取らんという選択肢もありまっせ。そのまま静かに眠りに落ちるんも、あんさんの自由どす。……けどな」


 彼は私の心の奥底を見透かすように、黄金色の瞳を細めました。


 「人生の最期に、自分が望む幻想を現実に変える力を持てるっちゅうのは、この寂しい物語に後悔を残さんために、とてもええことやとは思いまへんか?」


 「 ……なんで私がここに来たか。私には分かりますのや。今夜、誰の物語が幕を閉じるのか……誰が、伝えきれん想いを抱えてはるのか。」


「……さあ、疑問は晴れましたな。お嬢様。……どないしはります? 私は、あんさんの物語の最後の一行を、あんさん自身の筆で書いてほしいと思うてますのやけど」


 私は、自分のこれまでの十三年間を思い返しました。


 動かない手。喋れない喉。


 天井の模様だけが友達だった毎日。


 誰かが私のために泣く声。


 「ごめんなさい」という、聞きたくなかった言葉。


 もし。


 もし、魔法が使えるのなら。


 死ぬ間際の一瞬だけでもいい。


 私は、あの少年が見たような、温かな「もしも」の世界を見てみたい。


 私の思考が揺れた瞬間、魔法使いは満足げに微笑み、長く美しい指を「パチン」と、涼やかに鳴らしました。


 「――交渉成立どすな。今、あんさんに魔法の才を一回分、お預けしましたえ」


 その瞬間、体の中に、熱い何かが流れ込んでくるのを感じました。


 氷のように冷たかった指先が、一瞬だけ熱を帯びる。


 「さて。あんさんは、一体どんな魔法を編み上げはるんやろか……。楽しみにさせてもらいまひょ」


 私の瞼の裏に、眩いばかりの幻想が広がっていきました。


 それは、どこまでも平穏な日常。


 私の体は軽やかで、自分の足で冷たい石畳を蹴って走ることができる。


 「おはよう」と、普通の声で両親に挨拶をする。両親はもう泣いていない。ただ、当たり前のように微笑んで、私の頭を撫でてくれる。


 メイドたちは私を「可哀想なお嬢様」としてではなく、少しお転婆な一人の少女として、呆れながらも可愛がってくれる。


 そこは、誰も私を哀れまない世界。


 私は、自分の力で人生を謳歌する。


 朝露の残る道を歩いて学校へ行き、友達と他愛もない噂話に花を咲かせる。


 夜遅くまで勉学に励み、時には窓から星を見上げて、名もなき誰かに恋をする。


 転んで膝を擦りむいたり、喧嘩をして泣いたり、そんな「痛み」さえも、私にとっては宝石のような経験。


 自分の力で困難を乗り越え、自分の足で明日へと踏み出す。


 そんな、ありふれた、けれど私にとっては奇跡のような幻想を、私は――。


 ふわり、と。


 私の胸の奥から、柔らかな白い光が溢れ出しました。


 その光は、部屋に満ちる雨の音をかき消すほどに優しく、温かく広がっていきます。


 魔法使いはその光を眺め、少しだけ驚いたように目を見開きました。


 光の粒は、私の体から離れ、蝶のように舞いながら彼の手元へと吸い込まれていきます。


 「……それが、あんさんの編みはった魔法どすか」


 魔法使いは、慈しむような、それでいてどこか感嘆したような微笑を浮かべました。


 その姿が、光の中に溶けていきます。


 「見事な物語どした、お嬢様。あんさんの紡いだ魔法、大切に持っておきますよって。……ほな、おやすみなさい⋯」


 そう言い残し、彼は煙のように消え去りました。


 後に残されたのは、激しかった心臓の鼓動が嘘のように静まり返った、暗い部屋。


 私は最後の一息を、深く、深く吐き出しました。


 不思議と、もう苦しくはなかった。


 窓の外の雨音も、いつの間にか止んでいました。


 夜が明け、朝が訪れます。


 いつものように、メイドたちが重いカーテンを開け、お嬢様を起こしに来る時間。


「お嬢様、おはようございます。今朝はよく眠れましたか?」


 若いメイドのエレーナが、明るい声を出しながら部屋に入ってきました。


 けれど、返事はありません。


 ベッドの上で横たわる少女は、まるで美しい絵画のように静かでした。


 その表情は、今までのどんな時よりも安らかで、口元には微かな微笑みさえ浮かべています。


 「……お嬢様……?」


 エレーナの手から、お盆が滑り落ちました。


 彼女の悲鳴が屋敷中に響き渡り、やがて両親が血相を変えて駆け込んできました。


 絶望と悲しみの渦が、静まり返った寝室を飲み込んでいきます。


 けれど。


 泣き崩れる両親を支えようとしたエレーナは、ふと、ベッドの横のサイドテーブルに目が留まりました。


 そこには、今まで見たこともないものが置かれていたのです。


 一枚の、真っ白な便箋。


(そんな…はずわ⋯)


 震える手でその手紙を取り上げたエレーナは、そこに記された流麗な文字を見て、息を呑みました。


 「これ……お嬢様の……?」


 エレーナは、溢れる涙を拭いもせず、その手紙を両親へと差し出しました。


 震える手で受け取った父と母が、その内容に目を通します。


 それは、この十三年間、一度も声に出して伝えることができなかった、彼女の「魂の声」でした。


『お父様、お母様。

そして、私を支えてくれた皆さまへ。

まずは、身勝手な私をここまで愛してくれて、本当にありがとうございました。

私の体は不自由でしたが、私の心は、あなたたちが注いでくれる愛情のおかげで、いつも自由でした。


 お父様、お母様。


「ごめんなさい」なんて言わないでください。


 私は、お二人の子供として生まれてこれたことを、一度も呪ったことはありません。

むしろ、こんなに脆い私を、今日まで大切に守り抜いてくれたことが、私の人生の誇りでした。


 エレーナ。


 あなたが読んでくれる本の時間が、私の唯一の冒険でした。

 

 物語の中で、私はどこへでも行けた。あなたが物語に込めてくれる優しい声が、大好きでした。


私は、幸せでした。


 十三年という短い物語だったけれど、そのすべてのページに、あなたたちの優しさが綴られていました。


 だから、どうか悲しまないでください。

私の物語は、これで、ハッピーエンドなのです。


 今まで、本当にありがとう。


 大好きです。


 あなたの娘より』


 手紙は、母の涙で濡れていきました。


 父は娘の冷たくなった手を握り締め、初めて「ごめんなさい」ではなく、「ありがとう」という言葉を口にしました。


 彼女が最後に求めた魔法。


 それは、失われた機能を取り戻すことでも、夢のような幻想に逃げ込むことでもありませんでした。


 今まで一度も自分の意志で動かせなかったその手で、


 一度も出すことができなかったその声で、


 心の奥底に溜め込んでいた愛を、一枚の手紙に託すこと。


『想いを手紙にする魔法』


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