第三話 泡雪に抱かれた愚かな恋
「次のお前の誕生日は、夜会を開くので出席するように」
唐突な父王の言葉。
その真意は明らかだった……「いい加減、婚約者を決めろ」
それができるのなら、どれほど楽だろう。
だが、それができないからこそ苦しんでいる。
誰よりもよく分かっているのは、この俺自身だった。
幼き日のこと。
一人の少女と出会った。
それはほんの一瞬、片手で足りる程度の言葉を交わしただけの出来事だったのに……。
以降、どれほど多くの令嬢と顔を合わせようと、隣国の王女と舞踏を交わそうと、心が動くことはなかった。
心は、とうに奪われていた。
けれどその少女は、やがて別の男との婚約が決まってしまう。
たった一度きり、幼い日の会話だけ。
それ以降、まともに言葉を交わしたことすらない。
それでも、視線を追い、心で求め、記憶の奥に棲み続けるのは彼女ただ一人。
王太子としての責務は分かっている。
政略のために愛のない婚姻を結ぶ者など、いくらでもいる。
他の女性に目を向けたら、いつか忘れられるのではないか、彼女への思いを胸に、他の女性と……などというのは幾度も考えた。
だが、美しく成長した彼女を目にするたび、初めて出会ったあの日を鮮やかに思い出してしまう。
他の女性の顔は思い出せないのに、目を閉じれば、彼女だけは鮮明に甦る。
もし、彼女が婚約を破棄したら。
もし、結婚しても離縁したら。
そのときは……絶対に我慢などできない。
全力で彼女をこの手に抱きしめるだろう。
だからこそ、他の令嬢を妻に迎えることはできない。
婚約した令嬢や、妻を優先なんてできるわけがない。
側室として囲んだ彼女を、正妃以上に扱ってしまうのは目に見えている。
子を授かっていたとしても、なお彼女を優先してしまうだろう。
そんな男に、彼女以外の女性を幸せにできるはずがない。
誰一人として選ぶことの無い夜会に呼ばれる令嬢たちが不憫でならなかった。
「王太子と踊ること、それは令嬢たちにとって夢のようなことなのよ」
母の言葉に、無理やり納得する。
これも公務。そう思い込むしかなかった。
それでも……。
王太子の生誕を祝う夜会には、彼女も来るだろう。
彼女の姿を見るのはいつぶりだろうか。
祝いの言葉をもらえるのだろうか。
その期待だけが、夜会に向かう足を動かしていた。
「全てのご令嬢、ご到着されました」
従者の声に、深く息を吐く。
扉を開けば、もう王太子であらねばならない。
……ただの一人の男として、彼女に会いたいなどと思ってはいけないのに。
会場に入ると、眩い光とざわめきに包まれる。
無数のシャンデリアの下、煌めく宝石と絹の波。
開幕の一曲は、本来なら公爵令嬢が務めるはずだった。
だが一人は婚約者を持ち、もう一人は病に伏して出席できない。
ゆえに特例として、侯爵家の中で最上位の令嬢が選ばれる。
……名は思い出せない。家名だけで十分だ。
舞踏のあいだ、目の前の令嬢はひたすら「王家に尽くせる」と自分の利を語り続けた。
俺は笑みを浮かべ、用意していた言葉を口にする。
「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」
これが最上位とされる侯爵令嬢の答えか。
期待などしてはいなかったが、それでも落胆は隠せなかった。
三十人を超える令嬢、百を超える人々の海。
その中でも、彼女の姿だけは一瞬で見つけられる。
……あまりにも自然に、目が吸い寄せられるのだ。
婚約者と舞う姿。親族に笑みを向ける姿。
誘われるままに静かに手を取る姿。
その一つ一つを、目の端で追ってしまう。
俺の手を取ることは決してない彼女。
王太子であるはずの自分が、彼女と踊る男たちを羨む……そんな愚かさを、誰が想像できよう。
目の前には媚びを売るような視線ばかり投げて来る令嬢の姿で、一気に現実に連れ戻される。
それだけで、彼女でなければダメだ。と自覚するには十分すぎるくらいだった。
令嬢の誰一人として、名前はおろか顔すら覚えることもなく、全ての侯爵令嬢と踊り終えたころ、父王に呼ばれる。
「最後の曲だ。一人選べ」
思わず大きな溜息が出そうになるのを飲み込む。
誰でもよいなら、彼女を選びたい。
だが、彼女には婚約者がいる。
明らかに俺に近寄らないように、選ばれないようにと、親族の陰に身を隠しているのが見て取れる。
公爵令嬢であっても、王太子と踊ることは誉とされるはずが、ああやって婚約者を立てる姿を見ると、やはり彼女のような女性こそが王太子妃に相応しいと思わされる。
対して、こちらに視線を送る令嬢たちはどうだろう。
王太子妃としての品格の欠片も見えない、二度目を期待する物欲しげな眼差し。
二度踊れば勘違いを招くのは目に見えていた。
この先、もう同じ夜会を開くつもりはない。
ならば、弁えることのできる令嬢を選ぶのが最善だ。
視線を巡らせると、輪に加わらず、端に立つ令嬢の姿が目に入った。
……名前も顔も記憶にない。だが、彼女なら騒ぎ立てまい。
二度目でも、勘違いなどしないかもしれない。
群がる令嬢たちを手で制し、静かにその令嬢へ歩み寄る。
驚きの表情を浮かべながらも、深く礼をする彼女に手を差し伸べる。
最後の曲。
彼女とステップを踏みながらも、視線は抑えきれずに遠くを探す。
婚約者と舞う公爵令嬢の姿。
笑み、うなずき、揺れるドレスの裾。
その一つ一つを目に焼き付ける。
……もし、この手に伝わる温もりが、彼女のものだったなら。
一瞬でも錯覚できたなら、それだけで救われる気がした。
この曲が終わったら彼女も帰ってしまうだろう。
次に彼女に会えるのはいつになるだろうか。
今日の彼女の艶やかなドレスで踊る姿を目に焼き付ける。
王太子ともあろう男が、これだけの令嬢を前にして、いつか彼女と踊ることを夢見ているなど、なんと滑稽なことだろう。
ふと、腕の中の令嬢の視線が熱を帯びていることに気づく。
たった数分の舞踏で、心を捧げてくるその眼差し。
子供のころの思い出に囚われ続けている自分と、どこか重なる気がして、苦笑が零れた。
やがて音楽が終わり、形式どおりの言葉を告げる。
「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」
「……はい。あ、ありがとうございます……」
令嬢の顔がわずかに曇った気がした。
もしかすると二度目だったのかもしれない。
だが仕方がない。俺はただ一人しか見ていない。
何人もの令嬢と舞踏を交わした。
心に残る顔はひとつもない。
同じ笑みを浮かべ、同じ言葉を繰り返すだけ。
記憶にあるのは……婚約者と踊る公爵令嬢の姿だけ。
その微笑みを自分に向けてほしい。独占したい。
願うのは、それだけだった。
夜が更け、静寂が戻っても、胸は軋み続けた。
唯一踊りたいと願った相手のことだけを思い返しながら。
だからこそ、最後に舞った令嬢の名は……翌朝にはもう、思い出せなかった。
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