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【完結】王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく  作者: 木風


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第一話 泡雪のように儚い舞踏会の夢

挿絵(By みてみん)

「御歳十九になられる王太子殿下の御生誕を祝う舞踏会で婚約者候補を探すらしい」


宮廷筋から流れたそんな噂は、侯爵家以上すべてに招待状が届いた翌朝には、社交界の話題を独占していた。


「信じられない!もし殿下の目に留まることがあれば、未来の王太子妃に!」

「でも、お姉様。侯爵家ごときでは分不相応な気が……」

「あら、知らないの?公爵家に養女に出す算段があるからこそのご招待に決まっているわ」


飛び交う噂は次々と尾ひれをつけて膨らんでいく。

侯爵家といえど我が家は末席に近い。到底そんな話が回ってくるはずはないと知りながらも、「もしかしたら」という期待を抱かせるには十分だった。


姉たちは浮き足立ち、ドレスに合わせる宝飾品や髪飾りを何度も鏡の前で合わせては大騒ぎしている。

けれど、わたくしにできるのは、数少ない手持ちのドレスを黙って見つめることだけだった。


アンナは五年前に母を亡くした後、三年前に父が再婚して、継母とその娘である義姉二人の新しい家族に囲まれる暮らしに慣れたつもりでも、居場所はどこか窮屈で、いつしか「余りもの」という立場を自覚するようになった。


新しいドレスを最後に買ってもらったのはいつだったろう。思い出そうとしても記憶が曖昧になるほど昔のこと。

背丈が伸びては裾を出し、胸元のサイズが合わなくなっては縫い直しを繰り返したドレスは、もう流行から外れた古びた布切れに近かった。

とても王太子殿下のお隣に並べるような代物ではない。


いつか遠目に見た殿下の御姿は、今も鮮烈に焼き付いている。

漆黒の髪、青氷のごとき瞳。長身に軍服のマントを纏った姿は、まるで物語の英雄そのもの。

その一瞬を思い出すだけで胸が熱くなる。


アンナにとって人生で数度、拝見できるかどうか。

そんな高貴なお方の視界に、ほんの一瞬でも入れるなんて……きっとこんな機会は二度とない。

せめて誕生日のお祝いをお伝えし、ダンスを一度だけでもご一緒できたなら、それだけで一生分の思い出になる。


数えるほどしか訪れたことのない白亜の宮殿。

今宵は殿下の御生誕を祝うため、回廊の至るところに色鮮やかな花々が飾られ、天井から吊るされた無数のシャンデリアが、まばゆい光を放っている。

磨き込まれた大理石の床は光を映し、音楽隊の奏でる弦楽が空気を震わせる。甘い香の煙がほのかに漂い、アンナはただ立っているだけで胸が高鳴るほどの空間だった。


門前には顔馴染みの侯爵令嬢たちが列をなし、色とりどりのドレスに身を包んで談笑している。

その中でひときわ豪奢な馬車から降り立ったのは、公爵令嬢とその婚約者。

人々の視線を集めるのも当然と思えるほどの気品と美しさ。

……あの方と比べたら、わたくしなど塵芥に等しい。

あれくらいの家柄と美しい姿を兼ね備えていたなら、わたくしも自信をもっと持てたのかしら。

心の底からそう痛感しながらも、彼女が婚約者と連れ立っていることに、小さく安堵の吐息を漏らしてしまう。


対照的に、姉たちは終始浮き立っていた。


「今日の殿下はどんなお召し物かしら!?」

「殿下の目に留まれたらどうしましょう!」


まるで何度もお会いしているかのように語るが、実際には一度も視界に入ったことなどないのに。


……そもそも、殿下が十九歳の今日まで婚約者を持たれなかったのはなぜか。

巷では様々な噂が飛び交っていた。

既婚者との恋、身分違いの恋、あるいは女性に関心がないのでは……。

どの噂も真実味を欠きながらも、人々の憶測は尽きることがない。


国王陛下の開幕の言葉ののち、王太子殿下が正装で入場される。

凛然とした立ち姿は、記憶にある通り、いや、それ以上にお美しかった。

背の高さも人混みの中で際立ち、自然と視線が吸い寄せられてしまう。


晩餐の席には豪奢な料理が並んだが、誰一人として手をつける者はいない。

視線はただ、殿下お一人に注がれているからだ。


開幕の一曲は、本来なら公爵令嬢が務めるはずだった。

だが一人は婚約者があり、一人は病弱で出席できず。

特例として、侯爵家の中でも最上位の令嬢が選ばれた。


「今日は殿下が婚約者候補を選ぶらしい」という噂が真実味を帯び、会場全ての令嬢が色めき立つ。


殿下と並び立つ彼女は、得意げな笑みを浮かべ、「自分こそ最有力」と言わんばかり。

同じ侯爵令嬢でも、わたくしの家との格の違いを思い知らされ、胸が詰まる思いがした。


その一曲が終わると、次々と各家の令嬢が紹介され、殿下と舞踏を始める。

一人、また一人。

三十人を優に超える数の令嬢たちが、美しい衣装で殿下の前に立ち、三分ほどの舞踏を繰り返していく。


待ち時間は永遠に思えるほど長く、胸は張り裂けそうなほど高鳴っていた。


そして、アンナの番がやってくる。


震える指先で古びたドレスの裾を摘み、深く膝を折ってカーテンシー。

殿下は軽く会釈され、大きな手を差し伸べてくださる。


……あぁ、これが夢でなくて何だろう。


手袋越しでも伝わるのではと思うほど、アンナの手は震えていた。

けれど、その温もりに触れた瞬間、不思議と震えは収まっていく。代わりに胸の鼓動だけが、痛いほどに速くなった。


音楽が始まり、ステップを踏む。

恐れ多くて目を合わせることもできず、アンナは俯いたまま。

祝福の言葉を伝えようと思っていたのに、喉が塞がって声が出ない。


……こんな時、臆せず言葉をかけられる姉たちが羨ましい。


ほんの少しだけ目線を上げると、目の前には殿下のお顔。

整いすぎていると思えるほど端正な横顔に、呼吸を忘れてしまう。

どんな物語に登場する王子様でさえ、このお方には敵わない。

二度と触れることのない手。二度と並び立つことのない距離。

この瞬間を永遠に焼き付けたくて、瞬きすら惜しい。


心のすべてが殿下に支配される。

殿下と踊るわずかな時間は、まるで子供のころに読んだ絵本の舞踏会のよう。

おこがましくも、わたくしが物語のお姫様になったような錯覚に陥る。


けれど、それもあっという間だった。

長く待ち望んだ分、離れていく手の温もりがどうしようもなく寂しい。

たった一分ほどの夢のような時間は、瞬きする間に終わりを告げた。


最後にもう一度、深くカーテンシー。


「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」


初めて耳にした殿下の声は、澄んでいて、会場の喧騒すら消し去るほど特別だった。

緊張で声が震えながらも、必死に返す。


「……わ、わたくしの方こそ、光栄に存じます」


次の令嬢へと向かわれる背を見送りながら、お祝いを伝え忘れたことに気づく。


その後も殿下は、一人一人に礼を尽くされ、疲れを見せることなく舞踏を続けられた。

わたくしのような下位の侯爵令嬢にまで、平等にお優しい表情を向けられる。

……それは裏を返せば、殿下のお心を動かした令嬢は誰一人いなかったという証でもあるのだろう。


呼ばれただけでも奇跡。踊れただけで十分幸せ。

そう言い聞かせながらも、胸の奥では「もっと」と願う自分がいた。


あのようなお方が本当に心を奪われる女性は……どれほど美しい人なのだろう。

いつか現れるその人を想像すると、嫉妬する気持ちが湧いてくる。


形式的に一度だけの舞踏で満ち足りるはずだったのに。

今日の幸せを胸にもう帰ろうか……そう思った瞬間、アンナの足は鉛にでも繋がれたように動かなかった。


「たった一度踊っただけ、たった一言交わしただけ」

そのはずなのに、殿下のお姿をこれ以上見られないことが、たまらなく惜しい。


夢が壊れると知りながら、それでも最後まで……。

残された時間、余すことなく殿下のお姿を目に焼き付けたいと、強く願ってしまった。

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