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第13話 嫌いじゃない

「明莉、この三文字だけ言えばいいんだよ。簡単でしょ?」


 柳さんは笑顔でどんでもないことを要求してきた。いきなり下の名前で呼べたなんて。柳さんに取っては大したことではないかもしれないが、俺にとっては全然違う。一生下の名前で呼ぶのは家族しかない俺には、あまりにもハードル高い要求だった。


「周、早く」


 柳さんが圧をかけてきた。俺はなるべく柳さんの視線を避けて答えを濁そうとしたが、彼女は俺の両肩をガッと掴んだ。


「明莉と呼んでよ」

「あ・・・・・・あ・・・」

「そうそう、その後も」

「あ、あ・・・柳さん!」


 どうしても柳さんを下の名前で呼ぶのは無理だった。明莉という三文字がどうしても口から出てこなかった。


「ああ、やっぱ無理だったか。期待したのに」

「ごめん」


 俺は残念そうな柳さんに謝った。別に俺が悪いわけではないけど、雰囲気上なんとなく俺が悪いようだった。


「どころで急になんでそんな提案をしたんだ」

「なんかさん付けすると距離あるみたいな感じだから、私たち仲良しなのに」

「そう・・・だっけ」

「なんだ、周はそう思わなかったの? 私は周のこと親友だと思ったのに」

「いや、それは・・・えーと」

「ひどい」

「・・・・ごめん」


 今回も俺は柳さんに謝った。今回ばかりは、誰が見ても俺が悪かった。


 柳さん俺のこと親友だと思っててくれたんだ。


 誰かに親友だと言われたのは初めてで、ちょっと嬉しかった。


「それで周は私の提案を聞いてくれるの?」

「提案って、下の名前で呼んでってやつ? それは無理だってば」

「じゃさんは?」

「それは、努力してみる」


 今すぐ柳さんを柳と呼ぶのは無理だけど。


「そう、わかった」


 意外に柳さんは理解してくれだった。唇が尖っているのが見えたけど。


「それで泉くん、今日は何を習うの」

「今日はここの部分を練習するつもりだけど・・・さっき泉くんと言ってない?」

「うん、言ったよ。言ったけどなに」

「柳さんは俺を下の名前で呼ぼうとしたんじゃなかった?」


 さっきから平然と下の名前で呼んでたから、てっきり柳さんは下の名前で呼ぶと思った。


「泉くんが私を明莉と呼んでくれるようになったら、下の名前で呼んであげる。それまでは泉くんだよ」


 柳さんはにっこりと微笑んだ。


「だから私に下の名前で呼ばれたいなら、私を下の名前で呼べるように頑張ってね」

「いや別に下の名前で呼ばれなくてもいいけど」

「はあぁ!? ひどい」


 柳さんは拗ねたのかか頬を膨らませた。その姿が可愛くてついぼーっと見惚れてしまった。


 可愛い人はどんな表情をしても可愛いんだ。


 人生に役に立たない知識が一つ増えた。

 このまま拗ねた柳さんの顔を見ているだけでも十分楽しいが、そろそろレッスンを始める時間だった。俺はピアノ椅子から立ち上がった。


「まあまあ頑張るから、機嫌直して」

「マジで?」

「うん、本当。だからもうレッスン始めよう」

「わかった」


 俺は柳さんを宥めながらピアノ椅子に座らせた。


「今日は何を習うの」

「さっきも言ったけど、今日は・・・・・・」


 こうやって今日のレッスンが始まった。



 そして時間は経ち、レスんが終わったあと、俺と柳さんは音楽室を出た。


「うあ〜疲れたぁ!」


 柳さんが音楽室の前で大きく伸びをした。


「泉くんはこれから店の手伝い?」

「うん」

「すごいわね。私はもうクタクタになったのに、泉くんはこのあと店の手伝いするんだね」

「まあ、俺はピアノ弾いてないから。あともう慣れてる」


 そんなやりとりを交わしながら俺たちは廊下を歩いた。もう陽が沈んだあとで、廊下は暗かった。


「でも私前よりは上手くなった気がするんだけど、泉くんはどう思う?」

「最初のときよりずっと良くなったと思う」

「マジ?! ナイスッ!」


 暗くてよく見えなかったが、柳さんが喜んでいるようだった。


「でも明日からは別々に音楽室に行くのか。一緒に行きたいのに」

「ん? 柳さん俺の提案聞いてくれうの?」

「当たり前じゃん。私、いやと言ったことないよ」


 それは・・・そうだね


「でも俺は柳さんの提案を聞いてくれなかったから、柳さんも俺の提案を聞いてくれないと思ったんだ」

「言われてみれば、なんか私だけ損してる気がする」

「それはごめん」

「まあそもそも学校に噂が広まったのは私のせいだし、泉くんのためにもそうしないと。あと泉くんには感謝してるよ」


 柳さんが俺に顔を向けた。


「私は噂のせいで泉くんがレッスンもうやめたいって言い出すんじゃないか、不安だったんだ。正直、もし私のこと嫌になっちゃったのではないか、不安だったよ」


 柳さんの表情は見えない。けど、


「それで泉くんが私に提案したいことがあるって言い出した時、ちょっと緊張してた」


 いつもより声に元気ないのだけはわかった。


「柳さん、心配しないで」


 俺は静かに口を開いた。すると柳さんが顔を上げて俺を見るのが微かに見えた。


「俺は柳さんがもう十分って言うまで勝手にやめるつもりはないから」

「・・・・・・」

「あと、俺は柳さんのこと嫌いじゃない。むしろ、すごくいい人だと思ってる。噂だって全然気にしてない・・・とは言えないけど、そんなことで柳さんを避けたりしないから、だからそんなことで不安にならないで」


 暗くて、柳さんの表情は見えない。そのため柳さんの様子が伺えない。柳さんがどう反応するかはわからないが、俺が言いたいことを全部言った。だから俺は黙って待つだけ。


 ・・・だけど


 静かすぎる。何分待っても柳さんからは何も返ってこない。


 まさか俺、余計なことをしたのか。


 急に不安になってきた。この気まずい沈黙が、俺のせいで・・・。


「柳さん、ごめん。俺、また余計なことを」

「泉くん、ごめん。私、ククラスに忘れ物しちゃったよ。今取りに行くから泉くんは先に帰って」

「そういうのなら一緒に行っても」

「いや大丈夫。あと待たなくてもいいから」

「でも」

「またね」


 柳さんが手を振りながら反対側に走っていった。俺は訳もわからず一人で帰ることになった。

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