『革命は、針と糸から』
あの日を境に、私の世界はまた少しずつ広がり始めた。
午前はリュシアン先生との授業。
午後は図書室での復習。
そして夕方前…
ひとりでこっそり抜け出して向かう場所ができた。
「ちょっと外へ行ってきます」
荘園の使用人マリエルには、古語辞典と筆記帳を抱えて見せる。
彼女は少し不安そうな顔をしていたけれど、“書写の練習に”と言えば納得してくれた。
けれど、本当の目的地は、近くの町“セントリア小市”の市場だった。
学術都市ラフェリオンとは違い、セントリアは商いで栄える活気ある街。
焼き香草パン、すり蜜飴、革細工や染布。甘く香る香辛料と交渉の声。
————市場は、生きていた。
私はフードを深くかぶり、人混みに紛れて歩いた。
最初はただ観察するつもりだったのに、いつの間にか声をかけ、手助けするようになっていた。
ある日、小さな帳簿と格闘している少年に出会った。
「そこ、仕入れ単価が二重に計算されてますよ。これだと赤字になりますよ?」
少年は驚いたような顔をし私を見た。私より少し年上に見えた。
粗末なシャツにインクのしみがついた指先。
帳簿には慣れているが、数字には少し不安があるようだった。
「…..お嬢さん、そういうのわかるのか?」
「勉強中です。でも、数式は嘘はつきませんから」
私は地面に木炭で表を描き、帝国式“セプタム計算”で利益率を求める方法を簡単に説明した。
「…..すげぇな。貴族の子じゃねえよな?」
「さぁ?どうでしょう?勉強熱心な下働きかもしれませんし、誰かに仕える者かも」
笑ってごまかすと、少年は楽しげに名乗った。
「おれはテオ。仕入れと配送をやってる。….またくるか?」
「もちろん!!」
それが、私の“街の仲間“との最初の出会いだった。
そこから少しずつ、帳簿の計算につまずいていた布屋の娘、価格変動を記録していた青年、銅貨の仕分けに悩んでいたパン職人…..
彼らとの“知識の交換”をする関係が育っていった。
ある日、荘園の衣装室で次のドレスの仮縫いが進められていた。
ピンクのフリル、幾度にも重ねられたレース、大きな羽飾り。
鏡の中の私はどう見ても“お飾りの人形”だった。
ドレスの裏地には金糸で縫い取られた小さなルーン紋様—“高貴と幸運”を意味する古代文字だ。
「….これが今の“流行なの?”」
ついこぼれた私の言葉に、ドレス職人が戸惑ったように答える。
「ええ。帝都ではこの形が主流でして….ルシエール伯爵家の御令嬢なら、これくらい華やかでないと…」
「ありがとう。でも、もう少し“軽やかな”仕立てのものをお願いできるかしら?」
私はその日、心の中で決めていた。
この国の“美”は重すぎる——動けないし、苦しい美しさ。
もしそれを変えられるとしたら?
“動ける美しさ” “合理的で洗練された服”が広まれば、貴族女性の価値観も少しずつ変わっていくかもしれない…..
それが、私の最初の一歩。
次の日、私は市場で“布”と“仕立て”に強い人物を探した。
そのときだった。
色褪せた小さな工房の店先で、目の引く刺繍布に出会った。
「この縫い方…..フリンジ手法じゃない?どうして?」
思わず声をあげると、作業をしていた小柄な女性が顔を上げた。
「へぇ、わかるのかいお嬢さん?これ、帝国じゃまだ珍しいんだけど」
飾り毛のない革のエプロンを着た彼女の指先は、器用に針を操っていた。
「お名前は?」
「エリナ。市場じゃ“布鬼って呼ばれてる。あんたは?”」
「アリ….エリーって呼んで。ちょっと、相談したいことがあるの」
その日の夕方、屋敷の書斎に戻ると、リュシアン先生が本から目を上げて、静かに言った。
「…最近、君は少し浮きたっている様に見える」
「そう思いますか?」
「動きやすいドレスに興味を持ち、流行に対する違和感を口に出し始めた。そして最近のノートには帝都の装飾事情まで記されている….」
やはり、見抜かれていた。私は少し戸惑いながらも、まっすぐに答える。
「これも“文化“です。ファッションも、学べき知識の一部だと私は思います」
リュシアン先生は、私をじっと見つめた。
「文化とは形を変えて残るものだ。君が学びの中で何を選ぶのか、それを私は見ていよう」
そして、目を細めて静かに言った。
「….続けたまえ。ただし、“学びの延長”である限りはな」
その声には、どこか確信のようなものがあった…先生はもう気づいていたのだ。
私がただ遊んでいるのではなく——変革の種を蒔こうとしていることを。
私はぎっしりと積まれた衣装箱の前で立ち尽くしていた。
誰にも着られなくなった古いドレス。
刺繍こそ美しいが、“重く” “動きにくそう“それらを見て、私は決めた。
「…..なら“動けるドレス”に生まれ変わってもらいましょう」
次の日、私は市場へ向かった。
古いドレスを包んだ布の束を抱えて。
それは、テオが朝一番に倉庫から運びだしてくれたものだった。
「荷が多い日がいつでも呼んでくれ。お嬢さん」
彼はそう言って軽く笑い、馬車に布束を積んでくれた。
「来たね、エリー。今日は何の用かな?」
エリナが、針をくるくると回して笑う。
「これを見て!」
私は古いドレスを布に包んで持ってきた。
美しい刺繍があるが、形はひどく古臭い。
「このままじゃ誰も着ない。でも、布地も縫製も上質。リメイクすれば…..」
「ふーん…..いいね。刺繍も使えるし、布の質も最高。やってやろうじゃないの!ただし、報酬はちゃんともらうよ?」
「もちろん。その代わり、完成品は“貸し出し用”として使わせて。貴族のパーティーで話題にできれば、きっと広がると思うの」
「貸し出しドレスね。ふふ、なるほど。あんた、頭の回転いいね」
「それと……マーメイドドレス、ハイロードレス、フリンジドレスを作って欲しいの」
「それはどんなドレスなの?」
私はスケッチを描きながら説明した。
「それ面白そうなデザインね。やってみようじゃない!」
「それからね….コルセットは使わないでできれば一人でも簡単に着られるようにしたいの」
「どうやって?」
「“滑らせて留める金具“を作れないかと考えてるの。服の端同士をかみ合わせて、ひと引きでぴたっと閉じられる仕組み….」
「そんなもの…あるわけ——」
そりゃそうだ。前世でも“ファスナー”が開発されたのは19世紀のこと。
「まだ、ない。でも、糸の通る道筋や、小さな鉤と輪の組み合わせで、近いものは作れると思うの。例えば、歯車のように細かく金属同士が噛み合って、一息で閉じる、そんなイメージ」
エリナが目を丸くしたが、私は続けた。
「それを私は“滑留め具”って呼んでるの。構造は簡単、でも繊細、だから、精密加工ができる人じゃないと無理」
「……まさか、あんた」
「ええ、学術都市ラフェリオン。錬金術師に試作を頼むわ。あそこなら、きっと可能性がある」
「面白い….ほんと、あんた、ただの女の子じゃないわね」
「ありがとう。滑留め具ができれば、もっと自由に、もっと早く着替えられる。誰かの手を借りることも少なく、あるいはいらなくなる!自分で服を着られるって….それだけでも、価値があると思うの」
「私は、変えたいの。この国“美”と“価値観”を。だから、“滑留め具“ができるのを待ってて」
「…いいわ。滑留め具とやらが手に入るなら、協力してあげる。一週間後またここで」
「ありがとう、エリナ!それから、終わったら言いたいこともあるの」
こうして私は、学術都市ラフェリオンへと文を送った。
宛名には、兄から一度だけ教えてもらった“銀細工のように繊細な魔導部品”を作る、不思議な青年の名を記して。
——その出会いが、のちに私の“商団“の未来を決定づけることになるとは、このとき、まだ知る由もなかった。