プロローグ
風を切る感覚が俺を解放する。
アスファルトの上を滑るように疾走するバイクのエンジン音が耳に心地よい。
普段は街の喧騒に埋もれる音も、ここではあたかも竜の咆哮のように雄々しく響き渡る。
「まだまだ走れるよな、相棒」
愛車のタンクを軽く叩く。
返事はないけど、微かに応えるようなエンジンの震えを感じた気がした。
俺の名前は神谷烈火。20歳。
特筆すべき才能もなく、目立った特徴もない、ごく普通の若者だ。
強いて言えば、バイクを愛してるってことくらい。
ヘルメットのシールドに映る俺の顔は、黒髪に茶色の目。
今日もライダージャケットとグローブを身に着け、いつものように都会から離れた県道を走っている。
バイクの上に座ると、どこか別の生き物に変わった気がする。
毎週末のこのツーリングだけが、俺の生活の中で唯一、自分らしくいられる時間だった。
◇
最初にバイクに乗ったのは高校時代。
通学で使ったのがきっかけだ。
あの頃から、俺はどこか浮いた存在だった。
学校では一人で過ごすことが多く、帰宅してもマンションの一室で静かな時間が流れるだけ。
親とは悪くはないが、自立したくて早めに家を出た。
結果、誰とも深く関わらない日々が続いていた。
そんな俺を救ったのが、このバイクだった。
高校を卒業して、アルバイトを重ねて手に入れた愛車——黒を基調にした流線型のボディ、少し古いけれど俺の手で何度も磨き上げてきた相棒。
名前は「ドラグブレイザー」。
厨二病丸出しのネーミングだが、気に入っている。
「時速120キロ……今日もいい調子だな」
メーターを見ながら呟く。
そうしたとき、不思議なことが起きた。
一瞬だけ、計器が意味不明な数値を示したのだ。
次の瞬間には元に戻ったが、それは今日に始まったことではない。
この現象は数週間前から時々起きている。
バイクショップで見てもらっても原因は分からず、単なる計器の故障だろうと言われただけだった。
でも俺は、それ以上のものを感じていた。
特に、あの事故の後から顕著になった気がする。
半年前、深夜のワインディングロードで、急カーブを曲がりきれずにガードレールに激突しかけたことがあった。
その瞬間、バイクが自ら体勢を立て直したような、そんな不可思議な感覚があった。
普通なら間違いなく大ケガをする状況。
でも俺は無傷だった。
まるでバイク自身が俺を守ったかのように。
もちろん、そんなことを人に話せば笑われるだけだ。
でも俺は知っている。
このバイクには何か特別なものがある。
そして、それは日に日に強くなっているような気がしてならない。
◇
「もっと走りたい……」
県道の直線コースで、ふとそんな思いが湧き上がる。
毎週末のこのツーリングだけじゃ足りない。
もっと遠くへ、もっと自由に、どこまでも走り続けたい。
そんな思いが胸の奥でうねるように膨れ上がってくる。
「行くぞ、相棒!」
アクセルをひねり、エンジン音が高く鳴り響く。
風がさらに強く頬を撫でる。
ヘルメットを突き抜けて、風の匂いと、土の香り、そして鉄と油の混じった愛車の匂いが鼻腔をくすぐる。
これこそが俺の生きてる証だった。
速度はさらに上がり、周囲の景色がぼやけ始める。
いつもなら怖気づく速さだが、今日はさらに加速したい衝動に駆られる。
そのとき——。
前方の空間が、不自然に歪み始めた。
「な、何だ……あれは?」
道路の先に、光の靄のようなものが渦巻いている。
霧……?
いや、違う。
それは霧というより、空気そのものが揺らめいているようだった。
虹色に光る靄が、徐々に大きくなっていく。
減速すべきだと頭では分かっていた。
だが、体は思うように動かない。
いや、むしろ加速していた。
バイクが自らの意志で走っているかのように。
「おい、やめろ!」
パニックになって制御しようとするが、加速は止まらない。
靄はどんどん大きく広がり、前方の景色を完全に飲み込んでいく。
そしてその瞬間、背筋に電流が走った。
バイクから、声とも唸りともつかない振動が伝わってきたのだ。
微弱だがはっきりと感じ取れる、竜の咆哮のような響き。
「何なんだ……!」
答える間もなく、俺とバイクは光の渦に飲み込まれた。
◇
意識が遠のく。
体が宙に浮いているような感覚。
耳鳴りと目眩で現実感が失われていく。
だが、確かに感じる——。
バイクの鼓動のような振動が、俺の体と一体化していくのを。
「もっと……走りたい……」
自分の声なのか、別の何かの声なのか分からない言葉が、意識の片隅に浮かび上がる。
そして完全な闇に沈む前、最後に聞こえたのは——。
まるで竜が天に向かって吠えるような、轟音だった。
◇
耳元で誰かが呼ぶ声がする。
女性の声だ。
目を開けると、見知らぬ少女が俺を覗き込んでいた。
栗色の髪を短くカットし、黄緑がかった瞳が不安そうに揺れている。
作業着のような服装に、首からはゴーグルをぶら下げている。
「良かった……気を失ってたから心配したよ」
彼女はほっとしたように笑った。
「あ、あんた……誰だ?」
俺は慌てて上体を起こす。
すると全身に鈍い痛みが走った。
「ゆっくり動いて。転んだみたいだから」
少女は手を貸してくれる。
小柄だが、しっかりとした腕の力で俺を支えてくれた。
それにしても、ここはどこだ?
周囲を見回すと、そこは森の中だった。
アスファルトの道路ではなく、柔らかな土と草に覆われた地面。
頭上には巨大な樹々が茂り、見慣れない植物が生い茂っている。
空気は新鮮で、都会では感じられない草木の香りが鼻をくすぐる。
そして、そこにあったのは……相棒のバイク――ドラグブレイザーだった。
愛車は倒れることなく、まるで主を待つかのように止まっていた。
急いで近づこうとして、俺は再び痛みに顔をしかめる。
「大丈夫、あなたのこの鉄の乗り物は無事だから」
少女は興味深そうにバイクを眺めながら言った。
「これ、凄いわね……こんな魔導具、見たことないわ。どこの工房で作ったの?」
魔導具?
工房?
何を言っているんだ、この子は。
「いや、これは普通のバイクだよ。オートバイ。知らないのか?」
彼女は首を傾げた。
「オート……バイク? 初めて聞く名前ね。でも、これが『普通』なわけないでしょ? こんな魔力波動、普通の鉄の塊からは出ないわ」
何を言っているのか分からなかったが、俺はふらつく足でバイクに近づいた。
愛車はいつもと同じ姿のはずなのに、何か違和感がある。
よく見ると、タンク部分に微かな紋様が浮かび上がっているようだ。
炎を思わせる赤い紋様が、パルスを打つように明滅している。
「これは……」
触れようとした瞬間、バイクから熱が放たれた。
まるで生きているかのような温もり。
そして、エンジンがかかっていないのに、バイクが震えた。
少女は目を見開いて叫んだ。
「うわっ! 見て! 自己修復してる!」
確かに、転倒したはずのバイクの傷が、目の前で消えていく。
傷ついた金属が炎に包まれるように光り、元通りになっていく。
まるで魔法のようだ。
「どういうことだ……これ」
混乱する俺に、少女は両手を腰に当て、得意げに言った。
「これはただの鉄の乗り物じゃない。強力な魔力を帯びてる」
バイクから再び低い唸り声のような振動が伝わってきた。
さっきの光の渦に飲み込まれる直前に感じたのと同じ振動だ。
「見て! 反応してる!」
少女は興奮した様子で言った。
「あのさ……君は誰なんだ? そしてここはどこだ?」
俺はようやく冷静さを取り戻し、基本的なことを尋ねた。
少女は我に返ったように頭を下げた。
「ごめんなさい、自己紹介が遅れたわ。私はロゼッタ・アイアンワークス。このスチームギア地方で魔導技師をしてるの。そしてここは、大陸北部の境界森林よ」
スチームギア?
大陸北部?
聞いたことのない地名ばかりだ。
「日本じゃないのか?」
「日本? そんな国は聞いたことないわ」
ロゼッタは不思議そうに首を傾げた。
彼女の話し方や服装、そして周囲の異質な雰囲気——全てが俺の知る世界とはかけ離れている。
まさか――。
「ここは、異世界なのか?」
ロゼッタは「異世界?」と小声で繰り返したあと、こう言った。
「あなたが言いたいのは、自分の世界とは違う場所ってこと? だとしたら、そうかもね。あなたの服装も乗り物も、この世界のものとは全然違うし」
異世界——そんな荒唐無稽な話を簡単に受け入れてしまう自分に驚いた。
でも、目の前の現実は否定しようがない。
「ちなみに、あなたの名前は?」
「俺は神谷烈火だ」
そう名乗ると、ロゼッタは明るく笑顔を見せた。
「烈火さん、よろしくね! その不思議な乗り物と一緒に森で倒れてたから、何かと思ったけど……」
彼女は再びバイクに視線を移し、目を輝かせた。
「これはすごい研究材料になりそう! よかったら調査させてもらえない? もちろん、あなたを助けるためにも力になるわ」
研究材料?
正直、少し警戒した。
だが、この異世界で頼れる人間がいないよりはマシだろう。
「ああ、いいよ。でも壊したりしないでくれよ」
「もちろん! 魔導技師としてのプライドがあるから、大事に扱うわよ!」
ロゼッタは嬉しそうに両手を合わせた。
その時、森の奥から何かの唸り声が聞こえてきた。
ロゼッタは急に表情を引き締めた。
「まずい、魔獣の気配……ここは危険よ。すぐに街に戻りましょう」
魔獣?
ますます分からないことだらけだ。
「俺のバイクなら、二人乗りできるぞ」
「乗れるの、 それ!」
ロゼッタの目が輝いた。
「当たり前だろ。俺の相棒だからな」
俺はバイクに跨り、キーを回す。
すると——。
普段のエンジン音とは明らかに違う、力強い唸りを上げてバイクが始動した。
「うわっ! すごい魔力反応!」
ロゼッタは驚きの声を上げた。
確かに違う。
いつものバイクなのに、何かが違う。
エンジン音は低く、まるで生き物の呼吸のようだ。
そして、メーターパネルが魔法陣のような光を放っている。
「何が起きてるんだ……」
困惑する俺に、バイクが答えるように震えた。
まるで『大丈夫だ、俺についてこい』と言っているかのように。
「とにかく、乗れ!」
俺はロゼッタに手を差し伸べた。
彼女は躊躇なくバイクの後部シートに飛び乗り、俺の腰に手を回す。
「烈火さん、街はそっちよ!」
彼女は森の向こうを指さした。
「よし、行くぞ、相棒!」
アクセルを回すと、バイクは強烈な加速でスタートした。
通常のエンジン音を超えた、竜の咆哮のような轟音が森に響き渡る。
見知らぬ世界の森を駆け抜けながら、俺は思った。
ここが異世界だろうとなんだろうと関係ない。
ここでも自由に走り抜いてやる。
どんな運命が待ち受けていようと、俺とこのバイクで切り開いてみせる。
そしてそれは——これから始まる、前代未聞の異世界ツーリングの幕開けだった。
◇
厚い森を抜け、開けた草原が視界一杯に広がった。
地平線まで続く緑の絨毯と、どこまでも高い青空。
地球とは違う、何とも言えない色彩が目を引く。
空気も澄んでいて、都会では感じられない草の香りと土の匂いが鼻腔をくすぐる。
「すごい景色だな……」
思わず感嘆の声が漏れる。
ロゼッタは俺の背中から顔を覗かせた。
「でしょ? この大陸の境界森林を抜けると、こんな風に開けた場所が広がってるの。ここからまっすぐ行けば、スチームギアの街に着くわ」
遠くには塔のようなものが見え、薄い煙が立ち上っている。
「あれが街か?」
「そう、私の住んでる街よ。技術系の魔導師が集まってる場所なの」
バイクを走らせながら、どんどん新しい光景が飛び込んでくる。
頭上を何かが飛んでいる——鳥のような生き物だが、鱗が光っているように見える。
「あれは何だ?」
「ウィンドドレイク。風の精霊が宿った小型竜よ。この辺りじゃ普通に見かけるわ」
竜だって?
ロゼッタの言葉に動揺しつつも、バイクは絶好調だ。
いや、むしろいつもより調子がいい。
エンジンの振動が、まるで生き物の鼓動のように感じられる。
タイヤが地面を捉える感覚も鋭く、バイクと一体になっている気分だ。
ふと前方に、何かの動きを感じた。
草むらから大きな影が飛び出してきた。
緑色の体を持ち、二本足で立つトカゲのような生き物。
だが、通常のトカゲとは比較にならないほど大きく、体長は優に2メートル以上ある。
「危ない! グリーンザウルス!」
ロゼッタが叫んだ。
その生物は鋭い牙をむき出しにして俺たちに向かって突進してきた。
「くそっ!」
咄嗟にハンドルを切り、バイクを横に滑らせる。
ドリフトを決めるように生物をかわした。
「すごい反応!」
ロゼッタが驚いた声を上げる。
しかし、その生物——グリーンザウルスは諦めず、再び俺たちに向かってきた。
「まだ来るぞ!」
「烈火さん、直進して! あれは縄張り意識が強いから、境界を越えれば追ってこないはず!」
言われた通り、バイクを全開にする。
だが、猛烈なスピードで追いかけてくるグリーンザウルス。
予想以上に速い。
「いけっ!」
アクセルを全開にすると、バイクからいつもとは違う反応があった。
タンク部分の紋様が鮮やかな赤色に輝き、エンジンから轟音とともに炎が噴き出した。
「なっ……!?」
驚く俺だが、バイクは信じられない加速を見せる。
まるでロケットのように前に飛び出した。
「うわあああっ!」
ロゼッタが俺の背中にしがみつく。
グリーンザウルスはあっという間に遠ざかり、小さな点になった。
「何が起きたんだ……」
バイクのスピードを緩め、ゆっくりと停止させる。
降りて確認すると、タンク部分の紋様はまだ微かに発光しており、排気口からは炎の名残のような熱が残っていた。
「信じられない……」
ロゼッタはバイクから降り、興奮した様子で周りを走り回った。
「魔力を増幅して推進力に変えてる! これはもう単なる乗り物じゃない。魔導バイクよ!」
「魔導……バイク?」
「魔法の力を帯びた乗り物ってことよ。でも、こんな洗練された魔導具、見たことない。本当に別の世界から来たんだね、あなたは」
俺はバイクを見つめた。
いつもの相棒は、この異世界で何か別のものに変わりつつあるようだ。
「相棒……お前、一体何なんだ?」
すると、まるで応えるかのように、バイクのエンジンが小さく唸った。
ロゼッタは両手を叩いて言った。
「これは素晴らしいわ! 街に着いたら、工房で詳しく調べさせて。絶対に面白い発見があるはず!」
彼女の目はキラキラと輝いていた。
「ところで……」
俺はふと気になったことを尋ねた。
「この世界では、こういうことが普通なのか? 別世界から来た人間とか、魔法の乗り物とか」
ロゼッタは少し考え込んでから答えた。
「異世界からの訪問者は珍しいけど、伝説にはあるわ。昔から『星の彼方から来る勇者』という言い伝えがあって……でも、ほとんどの人は信じてないわね」
彼女は俺を見上げた。
「烈火さんが本当に異世界から来たのなら、とても貴重なケースよ。それに、その魔導バイクも含めて」
遠くに見える街がだんだんと大きくなってきた。
赤茶色の壁に囲まれ、中からは高い塔と複数の煙突が見える。
中世の街並みのようだが、ところどころに近代的な要素が混ざっている奇妙な光景だ。
「あれがスチームギアの街……」
初めて見る異世界の街並み。
緊張と興奮が入り混じる。
「行こう」
再びバイクに跨る。
ロゼッタも後ろに乗り込んだ。
「烈火さん、街に入ったら驚かれるだろうけど、気にしないで。私が説明するから」
彼女の言葉に頷き、バイクのエンジンを始動させる。
再び低い唸りを上げ、バイクが震えた。
まるで新しい冒険に胸を躍らせているかのように。
「よし、相棒。新しい世界、走り抜いてみようぜ」
俺たちは街へと向かって走り出した。
未知の景色、未知の世界——そして、これから始まる予測不能の物語へと。
風を切る感覚は、どの世界でも俺を解放する。
異世界であろうと、ただひたすら走り続ける。
それが俺の、神谷烈火の生き方だから。
あとはただ、この先に何が待ち受けているのかを、この目で確かめるだけだ。




