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「つまり、2年以上前なら味が分かったってことだよな、ナフタン?」
念を押すようにフェイが訊ねたので、あ、とレティシアも思った。
病気を治すことはできない。
けれど逆巻きの魔法でしばらくの間だけ、たとえば2年分の時だけなら、戻すことができる。
その間に、秘伝の味を伝えれば良い。
(でもそれをするには、魔法をナフタンに受け入れてもらわないといけない。できるかどうかさえ、こんなに不安なのに……)
フェイは強制はしなかった。レティシアを見て、どうしようか?と目で問うてくる。
レティシアはごくんと息をのんだ。
大失敗をして王宮を追われた恐怖は、まだ記憶に新しい。
やっとの思いで魔法を使ったラン爺は、そのことがきっかけで、海から落ちて死んでしまった。
逆巻きの魔法を使うのは、崖のふちに立つような恐怖がある。
でも。
親しいレストラン店主が悔やんでいるのを知って、フェイがとても心を痛めているのが分かる。
それにフェイだって、長い奴隷生活を終えたばかりで、もっと豪勢に肉とか甘いものを食べたいはずなのに。
スープをよく食べたという話を覚えていて、レティシアのためにこの店に連れてきてくれた。
「私……やります。ナフタンさんの時を、魔法で病気になる前まで戻してみせます」
レティシアは、魔法の話を自分からナフタンに切り出した。
老コックは怪訝そうに顔をしかめるばかり。フェイが根気強く説明して、ようやく試してみてもいいとしぶしぶ了承した。
ただし。
「秘伝を見せるわけにはいかん。厨房には入るなよ」
「おいおい、ナフタン。そりゃ、ないんじゃないのか?」
「いいのフェイ。仕方ないわ」
正直、さらに条件は厳しくなった。
ナフタンは警戒心もあらわで。本当にできるのか?と言わんばかり。値踏みするような視線がつき刺さるようだ。
王宮で生活していた時、王太后の命を受ける時、周囲からさんざんに味わった視線だった。
「……大丈夫か?」
フェイは魔法への葛藤を気づかうように念を押した。レティシアは、にっこりと笑み返した。
大丈夫。心はやる気でいっぱいになっている。
ふだん態度は荒っぽいけど、フェイはこんなにも優しい。そのフェイのためなら。
「ええ。大丈夫です。フェイが私にご馳走してくれようとした特別なスープを、私も味わってみたくなったんです」
それに、一瞬の油断も許されなかった王宮とは状況がまったく違う。
極端な話、料理半ばで魔法が解けて味が分からなくなったら、またかけなおせばいいのだから。
そう考えると気分が軽くなった。そっと肩に手を乗せる。
「では、いきますよ」
料理の手をできるだけ止めたくない。しばらく離れていても消えないよう。レティシアは気合を入れて魔法をかけた。
(逆巻け、時よ……2年前。病気になる前まで……)
ちかちかと光る逆巻の魔力の細い輪が、ナフタン老の頭から足先までを通り抜けていった。
「どうでしょう?」
「……見た目はいっしょだなあ」
フェイが正直な感想をもらした。
「失礼」
ナフタンはフェイが食べ残していたスープをさっと味見した。
途端に表情が、くわっと険しく引き締まる。
「待ってろ」
テーブルの上の二人分の器を取り上げて、ナフタンは厨房へと消えていった。店内の弟子たちが、慌てて後を追っていくのが見えた。
しばらくして新しい魚介スープが運ばれてきた。沢山の具材が入っていて、やはりとても美味しそうではある。
「食ってみろ」
「……いただきます」
レティシアはおそるおそるスプーンを手に取った。
最初の一口を静かにすすったとき、前と同じ味だと思った。
一瞬遅れて、深い味わいが口の中に広がった。頬の内側がきゅうっとうずいた。
(えええ。何故?美味しい……さっきのスープとはまるで別物だわ)
夢中でスプーンを口に運んだ。体が自然に開いてするする奥へと入っていく感じだ。あっという間に食べ終わった。行儀が悪いのは承知で、器を手に持って最後の一滴まで飲み干した。
(はあ……満足)
ほっこりと頬がほころぶのが自分でもわかった。
フェイがほれぼれとしてつぶやいた。
「美味そうに食うなあ」
「……はじめて知りました。美味しいって、しあわせなことなんですね」
「見てるだけでもな」
弟子たちが同じ料理を運んできた。秘伝の味がぶじ継承されたらしい。
この日に居合わせた幸運な客たちは、歓声を上げながら久々の味を楽しんでいた。
「大した魔法だったな」
厨房から戻ってきたナフタンがじろっと睨んできた。
とうに魔法は解けている頃あいだ。レティシアは、また味の確認をしてみたいのかと思った。
「あの、もう一度、魔法を使いましょうか?」
「いらん。お前さん方の顔を見ていれば分かる……勘定はいい。食ったら帰れ」
「あ、あの」
老コックはレティシアの返事を待たなかった。ぷいと顔を背けて、すたすたとまた店の奥に入っていった。
「やったね。店のおごりだって」
フェイが声をはずませて、おかわりを追加注文していた。レティシアも魔法の報酬とわりきって、厚意に甘えることにした。
ふかぶかとフェイに頭をさげる。
「素敵なお店に連れてきてくださって、ありがとうございます」
「ん。ナフタンが不愛想で悪かったな。たまに機嫌良い時もあるんだけど」
「職人さんにはよくあることです。……ところでフェイ、ご帰宅の前に用意するものとは何だったのですか?」
「うん。……それはもう大丈夫みたいだ」
ほかほかとした湯気をはさんでレティシアの顔を眺めながら、フェイは幸せそうな顔で二杯目のスープを味わっていた。