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◇
二人を乗せた船は、やがて大きな港へとすべりこんだ。
「着いたぞ。ここが俺の故郷、マーレハスだ」
久々の陸地。船を降り、桟橋を歩くフェイの足取りが、弾むように軽やかだ。
フェイは初めての街におどおどとするレティシアの手を引いて、港の大通りを案内して歩いた。
(ここが……竜の塚を守るフェイの一族の、本拠地……?)
竜の墓場。千年生きた竜が、最後に訪れる場所。
それはきっと静寂に包まれた、神聖で厳粛な場所だろうと想像していた。
実際は、だいぶ違う。なにしろ明るくてにぎやかだ。
四方を海に囲まれているという美しい公国。良港と観光資源に恵まれたマーレハスは、竜で町おこししてさらに発展を遂げているようだ。
街の目抜き通りにある大きな噴水の前に立って、レティシアは軽いめまいを覚えていた。
(すごい……竜の骨格が、こんな無造作に噴水に沈んでいるわ……ほ、本物よね……?)
ほかにも竜にちなんだ品物をぎっしり積み上げて立ち並ぶ商店。竜骨を利用した建物や飾りがあちこちに目立つ。通りには観光客があふれ、竜のおもちゃを持った子どもたちが走り回っている。
そして、この街でフェイは相当な有名人であるようだった。
「おお!お久しぶりです。姫さま!」
「まさかフェイ嬢さまかい!今までどこ行ってたんだい?」
街をいく人々がひっきりなしにフェイに声をかけてくる。
それらすべてに、フェイは楽しそうに応えていた。
『姫』とか『お嬢様』とか呼ばれるからには、フェイは本当に女の子だったようだ。いや、性別だけの問題ではない。
「フェイ、あの。いま姫さまと……」
「ああ。俺、ここの大公の妹なんだ」
「えええ!で、では、すぐにご生家に戻らないと……」
そんな高い身分の生まれだったのか。
しかも2年も音信不通だったのだろうから、戻ったら大騒ぎになるのではないだろうか。
そんな久々の帰郷に、こんなふらふら出歩いていたり。兄君との再会という大事な時に、自分のような部外者がフェイにくっついていて。
(はっきり言ってお邪魔なのでは……?)
考えると、色々と身がすくむような思いがする。
フェイはそんなレティシアをじっと見て言った。
「その前に準備するものがあるみたいだな」
フェイは、まず飯にしよう、とレティシアを誘った。
「お前、スープが好きなんだよな?」
「ええ、まあ」
好きというより、単に王太后の美容法につきあって、薬草とか霊茸とかのスープばかりに偏った食生活だったのだが。
(船の中でちらっとだけした話を、覚えていてくれたんだ)
フェイに気にかけてもらえるのが、いちいち嬉しい。
「この先に、うまいレストランがあるんだ。腹ごしらえしていこう」
船ではロクなもん食べてなかったからな。楽し気に提案するフェイにぐいぐいと手を引かれ、レティシアは葡萄の蔦がからんだレンガのアーチをくぐった。
昼時を過ぎているせいか、レストランの客は少なかった。
「ついてる。空いているぞ。いつも席を探すのも一苦労なんだ」
フェイは適当な二人掛けの席を選ぶと、慣れた調子で名物の魚介スープを注文した。
「スープ以外に好きなものはある?」
「さあ、どうかしら……」
レティシアは苦笑して首をかしげた。
正直、王宮で毎日の習慣になっていたのは、美味しいとか楽しいとかそういう食事ではまったくなかった。
食事の目的は、ともかく美容に良いこと。太らないこと。それから見た目も美しく上品に食べること。
王太后の権威を彩るための飾り人形。生きたアクセサリーとして。
それでも王宮に連行されるまでは罪人の子として扱われていたので、カビたパンや腐った野菜が出されることも珍しくなかった。
それ以降レティシアは、出される食事はなんであれ深く感謝して食べてきた。
「食べられれば、なんでもいいんです」
「へえ」
運ばれてきた魚介スープは真っ赤だった。具材がたっぷり入って、石の器の中でぐつぐつと煮えている。
「なんだか……とても、辛そうですね」
「いや、赤いのは野菜の色だから辛くはないよ。まずは食べてみな」
フェイにとっても久々のちゃんとした食事だ。にこにことして勧めながら、自分も木のスプーンで口に運んでいた。
その手がふと止まる。
「あれ?」
「どうかしたの?」
「なあ。このスープの味、どう思う?」
レティシアもひと匙すくって食べてみる。
「とても美味しいわ」
「そう……ならいいけど」
なんだかすっきりしない反応だ。フェイは美味しくないのだろうか。
「フェイ嬢さま」
「よお、ナフタン。久しぶり」
「とんでもなくな」
「色々あったんだよ」
しゃがれ声で話しかけてきた老人を、フェイは店長のナフタンだよ、と紹介した。フェイとは顔なじみのようだ。
「そうそう、ナフタン。こいつはレティシア。俺、こいつと結婚しようと思って連れてきたんだ」
「はじめまして、ナフタンさん」
いきなりそんな紹介もないだろうに。レティシアがぎこちなくお辞儀しても、相手は無言。
奇妙なものでも見るような不躾な視線を投げるばかりだった。
こいつは結構、偏屈なんだ。気にするな、とフェイはレティシアに小さく耳打ちした。
「なあ、ナフタン。最近、何か変わったことあったか?」
フェイはあっさりと話を切り替えた。老人は腕を組んでむっと黙っている。あとから来た弟子らしい青年が、代わりに説明した。
「それが大ありで。親方は2年ほど前に病気にかかって、治った後も、味覚が戻らないんです」
「それは残念だな。でも、弟子たちがいてよかったじゃないか」
「それが……」
店長かつコック長であるナフタンの舌が効かなくなったせいで、名物の魚介スープの味がきちんと再現できなくなってしまったらしい。
フェイは目を丸くした。
「レシピはないのか?」
「あるにはあるんですが。秘伝の味付けは気温や食材の状態でも変わる繊細なものだから、決め手は舌とでもいいますか」
弟子の説明を聞きながら、ナフタンは横で重い息をついていた。
弟子は5人いる。皆、才能があり熱心だ。誰か一人を選ぼうとして選びきれず、いつかいつかと迷っているうちに病気になってしまった。
「ずい分とお弟子さんが多いのですね」
「ええまあ。親方は飢えた孤児を見つけると、みんな拾ってきて弟子にしてしまうんです。私もその1人で」
「うーん。誰か1人なんて言ってないで、5人仲良く教えておけば良かったのにな」
「フェイ。それは難しいのではないかしら」
秘伝というくらいだ。レストランのスープの味は、限られた相手にだけ極秘裏に受け継がれ守られてきたのだろう。
レティシアの意見に、ようやくまともに口を開いた老コックが、いいや、と首を振った。
「フェイ嬢さまの言うとおりだ。いつか、なんて迷っていたのが間違いだった」
三代続いた味だったが、店は俺の代でしまいだな。
力のない声でぼやくナフタンに、フェイはふと思いついたように質問した。
「なあ。その……病気になったのってほんの2年前だったよな?」