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頭がくらくらする。
強い魔法を使いすぎたせいかも知れない。
それとも、色んなことが一度に起こりすぎているせいかも。
レティシアは長く伸ばした金の髪をほこりまみれにしながら、船倉の床の上にうずくまっていた。
ラン爺の頼みを叶えるために、力をふりしぼって恐怖に抗い逆巻きの魔法を使った。無理をした反動で手足がまだガクガク震えている。
(でも、私にしかできないことを、やったんだわ)
そして今。乗っている船が、海賊に襲われかけている。
逃がしてもらおうと頼みにしていた護衛の剣士は、昔の仇で。
顔馴染みの掃除夫は老剣聖で。
船内には火の手があがり。
王太后は、追放だけでは飽き足らず、自分の命まで奪おうとしている。
こうもあれこれと続くと、何をどこからどうしていいのか一つも分からない。レティシアは混乱の極みにあった。
もともと、緊張したり驚いたりすると声が出なくなる性格で。今はもう何も考えられず、頭の中は真っ白だ。
「レティシア、なにしてる!」
火の粉が舞うなか床に座り込んだレティシアの手を、フェイがぐいと力強く引き上げた。
「おい、しっかりしろ。この船はもう駄目だ。海賊の船を乗っ取ってでも、逃げるんだ!」
レティシアは乱れた髪の隙間から、のろのろとフェイを見上げた。
逃げる?どこへ逃げるというのだろう。
生まれ育った家はとうになく。一族は絶え。
最期の希望さえたった今、断ち切られた。
「……駄目です。私はもう、どこへも行くところがないんです」
「なぜそこまで悲観されているのか、姫」
あっという間に老人に戻ったラン爺が、元どおり不自由な足をひきずって近づいてきた。その手にはセザルから取りもどした宝剣が、大事そうに握りしめられている。
「ああ、おじいさん……いえ、ランドリュース様。先ほどは助けていただいてありがとうございました」
「今まで通りラン爺と呼んで下され。それに礼を言うのは儂の方じゃ」
ラン爺はうほんと咳ばらいをした。
初代と当代の剣聖が、同じ船に乗り合わせたのは、運命の皮肉としか言いようがない。
おそらくすでに老いた身、動かない足では立ち向かうすべもなく。
剣聖を名乗る資格がない者が、その証をこれ見よがしにひけらかして歩いているのを、ずっと悔しいで眺めてきたんだろう。
「姫のその魔法のおかげで、本当に助かった」
心からの感謝の意はもちろんのこと。モップを剣に持ち替えた老剣聖の声には、レティシアを励まそうとする温かさがあった。
これまでの慣れない船旅の間、なにくれとなく手助けしてもらっていたのが思い出され、レティシアは胸がじんと疼いた。
「おじいさんの力になれたのは、本当に嬉しいです。でも私は本当に……あまりにも役立たずで。死んだ姉から託された意思も、自分の望みも、何一つ叶えることができませんでした。こんな私が、この先どうやって生きていけるでしょうか」
何もない。自分にはもう、何もない。
空っぽのがらんどう。
「何を言ってるんだ。そんなわけあるか」
フェイは掴んだままだったレティシアの手を、もう一度ぎゅっと握り直した。
顔をあげると、まっすぐ見つめる銀の瞳と目が合った。強い強い意思の光がまぶしいほどだ。
「よし決めた。じゃあお前、俺の嫁になれ!行くところもやる事もなくなったなら、俺が面倒みてやるよ」
あまりにも突拍子もなく、それでいて力強い求婚。
いつもなら石になっていただろうレティシアは、今日はもう驚くことがありすぎて、逆に心はゆっくり平静を取り戻していた。
ただ、泣き出しそうな声で告白した。
「駄目です。私、……男なんです」
ラーマルス王の兵が押し寄せてきた夜。
身代わりで命を落としたのは双子の姉……本物のレティシア。
弟の自分は瓜二つな見た目を幸い、死んだ姉に成りすまし、どうにか正体を隠しながら生き延びてきた。
いつの日か。
遠い異国に追放された親族や家臣を集めて、謀反の疑いを晴らし、一族を再興したい。
その希望を胸に、必死に王太后に仕えてきたけれど。臣下として信頼を得るどころか逆鱗に触れてしまって。
だから、最悪の事態を避けるため、サリーナ国王との婚礼の前に逃げ出そうと決めていた。
「私が男だと知れたら、国王はどれほど立腹されるでしょう。私を送り出した王太后さまにもご迷惑がかかってしまう」
フェイは?
フェイはどうだろうか。今まで『姫』として接してきたことを怒るだろうか。軽蔑されてしまうだろうか。
「ふうん」
レティシアの不安とは裏腹に。フェイの表情にも声にも、いつもと特に変わった様子はなかった。
「ならむしろ、意趣返ししてやれよ。その王太后って、お前を若返りの便利道具くらいにしか思ってない女だろ?しかも利用するだけ利用して、失敗したら殺そうなんて」
淡々と提案するフェイに、レティシアははっきりと首をふった。
「それでも逆賊の子である私を引き取って、この年まで育ててくださった方です。そのご恩には間違いありません」
「……そうか」
「ごめんなさい、フェイ。そういう訳ですので、せっかく娶っていただいてもあなたの妻にはなれません」
かしこまって深々と頭を下げるレティシアに、フェイは、白い歯を見せてにいと笑った。
「大丈夫。俺は女だ」