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困ったことにレティシアは、突発的なことが起こったり、予想外のことを言われたりすると、頭が真っ白になってしまう。
この時も、すうっと茫然自失。手を引かれるまま逃げ出しそうになって、ギリギリの処でハッと踏みとどまった。
「……っ、セザルさま、お待ちください。奴隷の鍵はどこにありますか。彼らの鎖を解いてあげなくては」
もし、海賊たちがこの船に乗り込んできたら。あるいは乗員がこの船を捨てて、ボートで逃げ出すことになったら。
鎖に繋がれたままの奴隷たちは、一方的に海賊に攻撃されるか、船底に置き去りにされてしまう。
この海の上では、いずれにしても命はない。
「逃げる前にそれだけは」
「とんでもない。鎖を解いたら最後、この連中は反乱を起こす。海賊と結託して、我々に切りかかってくるに違いありません」
「……っ、でも」
レティシアは肩越しにちらりと後ろを見た。
せめて檻の中のフェイだけでも、解放してあげなければ。
「まさか、そいつを外に出すつもりですか?」
「そう、です。どうか、セザルさま」
「話になりませんね。あなたは何も分かっていない」
セザルはレティシアの提案を鼻で笑った。
このセザルを、一体どうやったら説得できるのだろう。レティシアは気が遠くなりそうだった。ここまでの旅の途中でも、レティシアがフェイたちに近づくたび、卑しい汚らわしいとずっと小馬鹿にしていたのに。
「こいつは余計に駄目ですよ。魔法使い専用の、魔力を封じる枷がかけられている。たとえあなたの力でこいつを子供に戻しても、その鎖は外れない。おわかりかな、逆巻き姫?」
揶揄するセザルの声にぎくり、とした。
表向きには、ほんのわずかにだけ時を戻せることになっているレティシアの魔法。
けれど本当はもっと大幅に、数年分だって戻すことができる。それこそ、大人を子どもに変えることだって。
実際にそれほど大きく逆巻きする魔法を使ったのは、今までに数えるほどだ。
どうにもできなくなって逃げる時の切り札として、今までずっと隠してあったのに。
「セザルさま。どうしてその事を知っているのですか?」
「あまり私を甘く見ない事です……さあ行きましょう。貴重品などあれば先に私に預けてください」
「もうありません。私の宝石も持参金も、すべてあなたにお渡ししました」
本当に、手元には銅貨一枚残っていなかった。
悪名高い国王も恐ろしいが、その他にもレティシアにはどうしても、サリーナ国に嫁ぐわけにはいかない理由があったのだ。
(セザルさまにおすがりして逃がしてもらうつもりでいたから、国からもってきた財産といえるものはすべて差し出したのに)
「行くな、レティシア。そいつは信用ならないぞ!」
「ふふん。命乞いか?」
檻の中から呼びかけるフェイを、セザルはせせら笑った。
「ひとりで何を騒ごうと、お前はその檻の中でみじめに死ぬんだ」
「だから、そういうとこだろ……」
フェイは、怒りをこらえるように深く息をついた。
「レティシア。まだそんな奴を頼るつもりか?」
「だって……だって、この方は剣聖さまだもの」
困惑するレティシアの声は、弱々しく震えていた。宮廷しか知らないレティシアには、他に頼るあてなどあるはずもない。
『剣聖』とはラーマルス国の剣士すべてにとっての最高の栄誉。かつて国王の片腕となり数々の偉業を打ち立てた初代剣聖ランドリュースの伝説は、この国の民なら知らぬ者などない。
その称号と宝剣を受け継いだセザルなら、きっと切なる願いをかなえてくれるはずだ。レティシアはそう信じていた。
「……命がけで頼ってくる娘から、有り金すべて巻き上げるゲス野郎のどこが剣聖かのう?」
床の上に座り込んだラン爺さんが、ぼそりと鋭く指摘した。フェイがぷっと噴き出して同意した。
「黙れ!」
セザルが怒鳴り声をあげた。力任せにレティシアの手を引きながら、忌々しそうに吐き捨てる。
「海賊が攻めてくるのを待つまでもない。我々はボートで一足先にこの船を離れる。さっさと燃えてしまえ、ゴミ共!」
梯子をのぼりながら、セザルは船倉の柱にかけてあったランプを手にとった。
「何をするの。やめて!」
レティシアはとっさに逆巻きの魔法を使おうとした。セザルの腕に触れて、無力な子供に戻そうとする。
「触るな!」
パアンと高い音が響く。
頬が焼けたように熱くなって、レティシアは上りかけた梯子から床に叩きつけられた。くらくらする頭で、ぶたれたのだと悟る。
信じられなかった。仮にも宮廷剣士が王族に手を上げるなんて。いくら敵襲のさなかであっても尋常ではない。
「お前の力は知っている。その手に触れたものを、つかの間なら何十年でも若返りさせられるんだろう」
「どうして、どうしてあなたが、そんなに詳しく知っているのですか?」
レティシアは重ねて問いかけた。セザルはハハっと耳障りな笑い声をたてた。
「何年も前のことだ。見張りを若返らせて逃げたあと、海辺で誰かと落ち合って逃げようとしていたろう。……あの夜、たまたま運よくお前を捕らえた褒美で、私は王太后に取り立ててもらえたんだ」
「……あなたが!」
あのとき自分を押さえた兵の顔は、よく覚えていなかった。ただ恐怖に震えていた。
あの夜、レティシアが逆巻きの魔法を使った処を見たのか。逃げようとした自分とあの男の子を捉えたのは、セザルだったのか。
(あの時もし無事に逃げおおせていれば、今こんなことには……)
しびれる頬を押さえながら、よろりと立ち上がる。口惜しさと痛みに涙がこぼれ落ちた。
檻の中から、静かな声がかけられた。
「レティシア。俺が魔法の力を得たのは10才の時だ」
それより前ならば。魔法をもたない幼い頃ならば、枷に封じられることもない。
レティシアは反射的に振り返り、夢中で檻から手をさし入れた。
「フェイ!」
その手を、よく日に焼けた浅黒い……それでいて意外に柔らかい手がきゅっと握り返す。
(いまはほんの一時でいい。10才より小さく……)
「逆巻け、フェイの時よ!」
レティシアは夢中で念じた。
逆巻きの魔法の力で、フェイの体はみるみる縮んでいった。
慣れない相手には特に、ほんのしばらくしか魔法がもたない。それでもフェイには十分だったようだ。
魔力が消えたとたん、封印の効力を失った枷がフェイの腕からするりと抜け落ちた。
「開け、≪石英の華≫……!」
自信にあふれた詠唱の声が響く。
ばり、とフェイを中心として結晶のように石が放射され、檻が内側から砕け散った。