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逆巻きの力は長続きしない。
若さも治癒も、魔法の効果が消えればすぐに元どおり。
持続しようとすれば、レティシアの体には、計り知れない負担がかかることになる。
それなら短時間でも。
たとえ若返らせて視力を取り戻すのが、ほんの一時でしかなくても。それでも良いと、キャムは言った。その条件なら、なんとかなるかも知れない。
なにしろ魔法の効き目には、相手の意思も大きく影響する。
今まで逆巻いてきた相手は楽だった。王太后もフェイも、ラン爺もナフタンでさえ、レティシアが魔法を使うのを受け入れてくれていた。
オルテンはとても『かかりにくい』相手に見える。
亡きラン爺を剣の師とあおぐオルテンは、その死の経緯を聞いてどう思っただろうか。
こんな小物のために、なんて無駄なことをと呆れだろうか。よくも巻き添えにしてくれたと恨まれているだろうか。
とどめに聖剣の行方で争ったばかり。心証は最悪かも知れない。
レティシアは両手で額を覆った。
(負い目があると、こんな風に悪感情を持たれているように感じてしまうんだな……)
気まずいなんてものじゃない。胸の中に、重い石がみっしり詰まっている気がする。
キャムも同じ気持ちなのだろうか。
昔からずっと『こう』だと思っていたことが、ある日突然ひっくり返されて足元から崩れたら。動揺もするだろうし不安にもなるだろう。
(彼女は、失明の原因を作ったのが自分で、そのせいで父親に恨まれていると思い込んでいる)
記憶も残らないほどの幼い頃の話だ。誰も彼女を責めたりするはずないのに。
父親との関係回復は望まないという、その一方で。
たとえ魔法の力に頼ってでも、父親の意に反してでも、対面を成功させようとしている。
(それは自分の事を許して、愛して欲しいという気持ちの裏返し……?)
キャムの胸中を推し図ろうとして、レティシアはすぐにあきらめた。
難しすぎる。昨日今日知り合ったばかり。考えたって分かるものか。
親子の軋轢にわって入るような力なんてない。弱いのは変えられない。
そのかわり。
意地でも虚勢でもいいから胸をはりたい。誰かの役に立てる人間なら、少なくとも無力ではない。
キャム父娘の役に立ちたい。ラン爺が、命がけで助けた『かい』のある人間なのだと、オルテンに納得してほしい。
「オルテンを説得する、勝算はあるのか?」
フェイの問いに首を振った。あるはずがない。
勢いだけで啖呵をきったそばから恐怖で後悔したものだ。
それでも。
「当たって砕けろです」
レティシアは意を決してキャムに向き直った。
「もう一度、お父上と会談する機会を作ってください」
◇
ぶ厚い絨毯を敷き詰めた部屋の中央に、大きな揺りかごが置かれていた。
こまかく籐を編んだ寝床に、頑丈そうな木製の台座。天蓋までついていて、かなり上等な品だ。
オルテンの家は、その揺りかごに見合うだけの、広々とした立派な邸宅だった。使用人の多さときたら、居候させてもらっている大公邸を上回るくらいだ。
乳母だけでない。いったいどれだけの人数が、母と乳児の世話のために雇われているのだろう。
「父さんが見栄っ張りなのよ。私の帰省にあわせて、暇を出していた使用人まで呼び戻したみたいだから」
正直、人手が多すぎて持て余すくらいなの。
二人を部屋に招いたキャムが、苦笑まじりに説明した。
サリアは揺りかごの中、あう、あうあとご機嫌で声をたてている。
「可愛いですねぇ」
フェイと二人して、驚かさないようそうっと顔を覗き込んだ。
ふわふわした豊かな前髪を撫でたいのを必死にこらえる。せっかくご機嫌なのに、泣き出されてはかなわない。
「嫁ぎ先でも色々とあったけれど。この子の笑顔にどれだけ救われたかわからないわ」
「ぜひこの愛らしい姿を、お父上にご覧に入れたいです」
すでにキャムを通してオルテンには来訪を告げてある。
蜂の毒のことで、と言い添えていた。それで通じたはずだ。
すぐにガチャリ、と扉が開き、この家の主が姿を現した。気配だけで顔ぶれが分かるのか、足取りにはまったく迷いがない。
「邪魔しているよ、オルテン」
フェイはいつも通りの気さくな調子だ。
「長のおつとめから帰られた途端、このような家の内情にまで骨を折られるとは。過分なお心遣い、いたみいりますな」
「そう言うな。この件でがんばってるのは俺の結婚相手なんだ」
「はい。どうしても、お話したくて」
正確には結婚(予定)相手ですと内心で訂正しながら、レティシアはすばやく進み出た。
「蜂の毒の話だと? 貴殿が娘になにかいらぬ話を吹き込んだのか?」
「違います。けれど、お伝えするために来ました……娘さんは、あなたの失明の原因が自分にあったと知って、罪の意識で苦しんでいらっしゃいます」
「な、何を馬鹿な」
覚悟してこの場に現れたのだろうに、明らかにうろたえた様子だった。
「違うというなら、話してくれよ。オルテン」
……真実を。
フェイに促されたオルテンは、手を振って周囲に合図した。
人数分の椅子を並べて、使用人はすべて下がっていった。しんと静まった室内に、あうあうと高い声が響いている。
愛らしい喃語に耳をすませながら、オルテンはぽつりぽつりと話し出した。
「……キャムを産んだ後で妻が早逝し。儂は妻の分まで精一杯、大事に娘を育てると墓の前で誓った 」
にもかかわらず、悔やんでも悔やみきれない事故は起こってしまった。
なぜ目を離してしまったのかと打ちのめされていた時。オルテンは、周りの者が話しているのを偶然、耳にしたのだという。
『いくら母親がわりをすると言っても、所詮は男親だ』……と。
「本当の母親なら、子どもから目を離さない。そんな危険な目にあわせはしないと…… まったくその通りだ」
オルテンは、閉じた両目の間を疲れたように指で揉みほぐした。
全身を蜂に刺され、施療院に運び込まれて。
毒による高熱にうかされて隣を見ると、次第に暗くなっていく視界の中、火のつくように泣いているキャムがいた。
いつもは小枝のような細い腕が、鞠のように赤く腫れ上がっていた。
まだこんなに小さいのに、どれだけ辛いだろう。苦しいだろう。
すまない、すまないと。涙にぼやける視界が最期の記憶だ。
「まして、この目だ。もう親として娘を守るのは無理だと思った」
多くの有能な使用人を雇える身分になろうと思ったのは、そのためだった。見えない目で、必死に剣で身を立てて地位と財産を得て。
至らない無力な自分に代わって、細やかに気のつく経験豊富な女性の召使いを数多く集めた。
それもこれもすべては。
「私のため?そんな。どうしてそこまで……だって私の悪戯のせいで、父さんの目は光を失ってしまったんでしょう?」
だから嫌い、遠ざけた。だから顧みなかったんでしょう?
一人娘なのに、他国に嫁ぐことをあっさりと認めたのもそのせいでしょう?
信じられないというキャムに、フェイが静かに問うた。
「だったら逆の立場ならどうだ? サリアが蜂に襲われ、かばったお前が重傷を負ったら。原因となった娘を恨むのか、キャム?」
「まさか。ありえないわ!もしそうなったら、娘が無事でよかったと……」
言いかけてキャムは、言葉を切った。震える手で、口元を押さえる。
「そうね親ならそう思うわね。……父さんもそう思ってくれたのね……」
「儂こそ恨まれていると思っていた。幼いお前から目を離して、蜂の巣に触れさせたのは、親である儂の落ち度だ。お前の体に、一生残る目立つ醜い傷を負わせてしまった」
(醜い傷? 痕は残っていても、今では艶やかな花の刺青と変わらないのに。この人は知らないんだ)
見えていれば、こんなに苦しまなくて済むのに。
レティシアは、過去を償おうとするキャムの想いの強さと、オルテンの嘆きの深さとの狭間で言葉を失っていた。
危険を顧みず、命さえ投げ出して誰かを守ろうとする人たちの軌跡に触れると、胸の奥が痛いほど波打つ。自分もまた、姉やラン爺の献身のおかげでここにいる。
だからこそ、助けられた方がどう感じるのかも、わかる。
キャムもまた、命をかけてもらった『かい』を示したい。自分にとっての生の証を、父親にはっきり感じて欲しいんだろう。だったら。
(『たった一目』を叶えるために、全力を尽くしてみよう)
レティシアはそっとオルテンの手をとった。
「蜂の大群に襲われた時、あなたはその身を投げうって娘さんを救われた。それはあなたにしかできないことです……そこに女親か男親かどうかなど 関係ありましょうか」
「親の儂にしかできないこと……か。ふむ、奇遇だの。かつて我が師にも同じことを言われたわ」
どこか懐かしそうに、オルテンはふっと笑った。そして、光を失った目を開いてレティシアに向き直った。
「レティシア……姫。あなたのお力を賜りたい。この二人がマーレハスを去ってしまう前に、一目で良い。孫の顔を見ておきたい」
望むものを一つ一つ、血のにじむような努力で手に入れてきたとしても。どんなに必死に力を尽くしても、それだけは叶わないから。
レティシアはしっかりと肯いた。
「承りました」
◇
レティシアはオルテンの手を引いて、揺りかごの前まで進んだ。
(逆巻け、時よ。20年……いいえ、もっと昔。毒で失明する前まで……)
慎重に呼吸を整え、かつてなく精神を集中して念じる。
逆巻の魔力の細い輪がいくつも現れ、光を放ちながらオルテンの頭から足先までを通り抜けていった。
とたん、鍛え上げられていた筋肉がさらにぐっと引き締まり盛り上がる。
ラン爺の時と同じだった。魔法の光が消えた時、しっかりと顔が起こされ、見違えるほど若くなった姿のオルテンが、そこにいた。
ぴたりと焦点があった双眸には、明らかな意志の光が宿っている。
オルテンは傍らのキャムをしかと見つめ、その左腕に視線を落とした。それからすばやく振り返って、揺りかごの中を覗き込んだ。
翡翠のような明るい緑色の瞳が、おびえた様子もなくオルテンを見上げていた。
「おお……」
オルテンは孫娘に痛いほどの眼差しを注ぎ、ふさふさした豊かな金の髪にそっと触れた。
そこで魔法の効果はとぎれた。その間、ものの十秒もない。
オルテンはまたたく間にもとの盲人に逆戻り。慌てるレティシアに、フェイの揶揄が追い打ちをかけた。
「なあおい、今までの最短記録じゃないか?」
「す、すいません。かけ直します」
かなり本気で集中して魔法をかけたつもりなのに。気合い負けしてしまったのだろうか?
レティシアが再度手を取ろうとすると、オルテンは静かに首を振って辞退した。
「いまの数秒あれば十分だ。儂が見たかったものは、すべてこの目の奥に焼き付けた。もう他のものは何も見たくない。見なくていい」
オルテンは、まぶしさにくらんだ目を鎮めるように目頭を押さえていた。
「これでいつか向こうに逝ったとき、待っていてくれる妻に申し訳がたつ。……儂らの孫娘は、娘の生まれた時にそっくりだったと伝えよう」
「父さん……」
キャムが声を震わせた。揺りかごの中からサリアを抱き上げ、胸にぎゅっと抱きしめた。
「よかった……レティシアさま、ありがとうございます」
「そんな、お礼なんてとんでもない。私は……私も、誰かのお役にたてた。それだけで……」
ほほえむレティシアを、フェイが後ろから包み込むように抱きしめてくれた。胸の中が切ないくらい温かくなった。
(私がいまどんなに嬉しいか、フェイは分かってくれている)
オルテンたちの役に立ちたいと思った。フェイの力になりたいとも思った。
でもいかに魔法があっても、自分の力だけではろくにそれを使いこなすことができない。
逆巻きの力の正しい使い道を、100でも思いつくといった。フェイが導いてくれたのだ。
「そうだ。大事なことを忘れていた。本当は、はじめに会ったときに言うべきことだった」
オルテンはふいにレティシアの足元に跪いた。
「師はラーマルス王家に忠誠を誓い、その剣と命とを捧げてきた。長き放浪の末、王家の『姫』を守るために命を落としたなら、さぞかし本望だっただろう」
「そ、そんな。私はそこまでは……」
自分は王族だから、ラン爺は臣下だからと、割り切ることなどとてもできない。
驚いて止めようとするレティシアにかまわず、オルテンは深々と頭を下げた。
キャムもサリアを抱いたまま、父親に寄りそうようにその隣に跪いた。
「老いたる我が師のため、そして剣聖の栄誉のために、稀有なるお力添えをいただいたこと。心から御礼申し上げる」