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遠くにお城が見える、潮風のやさしい月夜の浜辺。
海竜を従えた、不思議な小さな男の子。
手を引いて、ここから逃がしてあげると約束してくれた。
この周りじゅう敵だらけの、不自由な鳥かごの中から。
でも、かなわなかった。
すぐ追手に捕らえられて、連れ戻されてしまったのだけれど。
その夜のほんのひと時の自由は、ずっとレティシアの心に深く残り。
辛い時にはいつでもそっと記憶の奥からとり出して。
手のひらで転がす光の珠のような、大切な宝物となった。
◇
「この、役立たず!『それ』しか能がないくせに、『それ』すらも満足にできないなんて!無能にもほどがあるわ!」
激しく糾弾する声。
ラーマルス国、後宮の一番の権力者。王太后の怒りはすさまじかった。
矛先を向けられたレティシアは、真っ青になって震えながら、びくりと首をすくませた。恐怖のあまり喉がひきつって、弁明するどころかひと声もたてられない。
居並ぶ臣下や召使たちが、ひそひそと声をひそめて話す気配が背後から冷たく響いていた。
(ああ。大変なことをしてしまった……!)
「謀反人の娘であるお前を引き取って、養女にまでしてやったのに。その私にあんなに大恥をかかせるなんて、この恩知らず!」
王太后はなおも怒鳴り散らしている。
そう、レティシアは反逆の疑いで滅ばされた一族の娘。
まだ幼かったので処刑は免れたものの、王宮へ連れてこられて王太后の絶大な権力に支配される毎日を送ってきた。
この国では、王族や貴族は守護竜から魔法をひとつずつ授かることになっている。
レティシアが使えるのは逆巻きの魔法。手を触れた相手の時間を、ほんの少しだけ前に戻せるという、実に他愛ないものだった。
それでも王太后にとっては、自分の若さと美貌を保つために利用価値が高かったようだ。人前に出る時には、レティシアを片時も離さずそばに置いていた。
やがてレティシアは周辺諸国にまで評判がひろがるほど美しい姫君として成長した。
公式の場で、王太后の後ろに常に寄りそうレティシアを目にするたび、皆は口々に褒めたたえる。
ああ、なんとお優しい、なんと慈悲深くご立派な王太后さま。
謀反人の娘を寛大にもお許しになり養女にしたうえ、これほどまでに美しくお育てになった。
それはレティシアにとっての現実とはほど遠い評価だった。
王室御用達の職人が仕立てたきらびやかなドレスをまとい、長く伸ばした金の髪を高く結いあげ。高価な宝石で美しく飾り立てられた、あわれな人形。
自由も、ろくに息をつくゆとりもない。
逆巻きの魔法はとても負担が大きく、集中していないとすぐ解けてしまう。
ラーマルス国王宮の、ある晴れやかな祝祭の日。
連日の華やかな茶会。国賓を大勢招いた贅をこらした宴。
逆巻きの魔法を使い、王太后に若さを保ち続けることに疲れ果てたレティシアは、耐えきれずに途中で意識を失ってしまったのだった。
そして、気がついた時には、何もかもが終わっていた。
「お前の顔など二度と見たくないわ……ちょうど、お前にはもったいないほどの縁談がきていたの。レティシア、この国の王族として、サリーナ国王に嫁ぎなさい」
それは死刑宣告にも等しかった。
孫と祖父ほども年の離れた、悪評高い老王との結婚話に、レティシアは絶望した。
それでも仕方がないのだ。
心臓のなかに氷の塊が詰まっている心地がする。レティシアはがくがくと震える足をぐっと踏みしめて、こみあげてくる恐怖に必死に耐えていた。
王太后の怒りがどうあっても収まらないのは誰の目にも明らかだ。
なぜなら、気絶した途端にレティシアの魔法が解けて。
大勢の客が見ている前で、王太后の実年齢の顔がさらけ出されてしまったのだから。