解体された日常
ほのぼの日常コメディ、始まります。
「……念のため、もう一度聞くけど…」
もう何度目かわからない問いに、黙って頷いて応じる。
もとより、こちらに拒否権はない…のだろう。
だが、さすがにここまで疑われると、少々悲しくもなる。犯罪沙汰など、しようというのではない、迷惑をかけるつもりもなかったんだ。
それでも、彼女に黙っていたことは…よくなかったかもしれない。
しかし、簡単に言えることではない。
世間的には、たぶん…アウトであろうことは僕も承知している。
それくらいの分別はあるつもりだ。
ただ、このライフスタイルに馴染んでしまってからだいぶ経つので、少々緩んでいたのかもしれない。長い付き合いの中で、油断していたとも言える。
だが、止めろと言われたとしても、やめられないと思う。
そして、…やめるつもりもない。
一度知ってしまった、この甘美なる愉悦…。
どうしても受け入れられないなら、別れるしかないと思う。
僕としては、受け入れてほしい…などと高望みはしない。
最低限、見て見ぬふりをしてくれればそれで充分だと思っている。
ただ、その最低条件さえ危うい状況…なのだろう。
改めて、常識と云う名の同調圧力の影響力に、やるせなくもなる。
迷惑をかけるつもりはなかったのだが、彼女にとっては、やはり迷惑だったのだろうか。
「…他人の…、その……洗濯物とか……」
彼女は目をそらしながら、言いにくそうに聞いてくる。
「…欲しくなって……、つい…とか、そういう衝動は……、無いのね?」
「無いよ」
僕は、静かに、でもはっきりと答える。
むきになって否定したりしない。必死さが見えるとかえって疑わしいだろう。
「他の人が身に着けたものとか…やだよ……。そんなの触りたいとも思わない。」
「…うん。」
目は合わせてくれない、しかし、頷いて肯定は示してくれた。
別に潔癖というわけではないし、むしろ…、無精寄りでもある僕だが、自分の持ち物に他人が触れるのを嫌う事を、彼女は知っている。
清潔とか衛生面とか、そういう理由ではない。
自分は物を増やさない主義なので、周りにあるものは、基本的に全部「大事なもの」なのだ。
それを、無造作に手に取ったり壊されたりしてはかなわない。位置が変わってしまうだけでも気になる。他人が見れば散らかっているように見えるだろうが、僕には最適な配置なのだ。
そういった、自分の領域と他人の領域を明確に区別する癖があるので、当然、他人に対してもそこは厳格に守っている。他人の領域を侵さない。
だから…他人の持ち物を奪うなんて、もっての他だ。
そこは彼女も、理解…してくれるだろうと思う。
お互いに、「アドラー信奉者」を自認する者同士。シンパシーを感じて付き合い出したのだが、僕は他者との関係性をうまく維持できなくて、この心理学に縋ったのに対し、彼女は新しい社会のあり方を模索する「積極的なアプローチの方法」として、この思想を手に取ったのだった。
お互いの軸になる考え方が共通しているだけあって、衝突することは皆無だったし、意見が食い違っても擦り合わせたり尊重したりできていたのだ。僕自身は、理想的な関係だと思っていた。
だが、軸は一緒でも、彼女は現代社会にきちんと適応して生きている。
浮世離れした僕と違って、彼女は世俗の感覚も同時に持ち合わせているのだ。
僕とは違う……、常識人だ。
だから…、僕のやらかしによって…この関係は、終わるかもしれない。
彼女は今、深刻な顔をしている。
…自分にとってはささやかな趣味のつもりだったのだが、彼女にとっては受け入れられないものなのだろう。
それは、そうかもしれない。
自分を棚に上げて言うのもなんだが、彼女が男物の下着を愛用していたら、さすがにショックを受けるだろう。しかしながら、自分のいないところで着ているくらいなら、それは別に構わないとも思う。
……ただ、目の前でそうだったら…?
……さすがにちょっと、…となるのかな。
いや、脱がなければどうということはない、とも思う。
見せるのが目的でもないし、アウターに響かないような服装には僕だって気を遣っている。むしろ、そういうやりくりが楽しくて嵌まり込んだのだ。
改めて、この世界の奥深さを感じる。
着るものなんか、裸でなければいいだろう、の精神で平気で安物を着回していた僕だ。
3枚980円のシャツ、5足780円の靴下、ぱんつなんか穴が開いても穿いているほどだ。見えなければいいんだよ、どうせ仕事じゃずっと車に乗りっぱなしだ。誰も見ていやしないのだ。
…そんな考えだった。
世間的な普通がどうなのかはわからないが、僕の衣食住の経費比率でいけば、食費が6割を占めている。住居にかかる費用が3割程、衣服なんか1割でも多いくらいだ。
身に付けるものに、こんなにお金をつぎ込む日が来ようとは、自分自身思ってもみなかった。
だが、経費比率は今や大きく変動し、住居費を上回り食費の領域までをも浸食しようとしている。
しかし、さすがにそこまでお金をかけるのはどうかと思って、最近では中華系の通信販売を利用して安く上げようとしていた。
……結果的には、これがいけなかったのだろう。
薄い、くしゃくしゃのビニールの封筒状のもので包まれた品物が届けられたのが、つい一時間ほど前。
中華系の通販は、いつ届くか分かったものではない。時には2ヶ月くらい平気で遅れてくることもある。すでに注文したことを忘れていることさえあるくらいだ。
今回も、そんな遅れに遅れた配送物となって、予想外のタイミングで届けられた。
自分で受けとればよかったのだが、あいにく僕は入浴中だった。
日本郵政の小包扱いで届けられた、ブツ…。それを、部屋にいた彼女が受け取った。
悪いことに今回のは、ことのほか梱包が雑で封が不完全、中身が一部はみ出していたのだ。
「中が見えないような梱包でお届けしますのでご安心ください」
よくある売り文句だったが、これでは意味が無いだろう。
はみ出たゴム紐状の先に付いている、紫色のレース生地が見えていたことで、彼女が察した。
…浮気か?浮気なのか?!
別な女に贈るための下着を、こっそり買っていたと云うのか?!
彼女は、脱衣所の戸を開け踏み込んできた。
普段は、一緒に入ることもあるのだが、それ以外の時は決して踏み込んでくることがなかったので、こちらも油断していた。
脱衣かごには、僕が先ほど脱いだばかりのぱんつとブラが入ったままだった。
諦めた顔をした僕と、「…どゆこと??」という顔をした彼女。
風呂から上がり、とりあえず浮気ではないことを証明するために、彼女に見せた。
……僕の、宝物たちを。
今思うと、これは悪手だったかもしれない。
とりあえず浮気ではなさそうだと察したようではあったのだが……。
目にした女性下着の量が尋常ではなかったため、別な疑惑が湧いてしまったようなのだ。
リアルに慄いて後ずさる人間というものを、僕はこの時、初めて目にした。
──盗んで集めたものではないのか?
当然、その疑惑を持たれた。
まあ、男が女性下着を隠し持っている原因の筆頭であろう。
むしろ、それ以外は思い浮かばない人が殆どではなかろうか。
そこで疑惑を晴らすため、通販サイトの購入履歴を開示して確認して貰った。
自分で買ったものであることは、納得して貰えたようだ。
しかし……、
別の、例えば精神疾患のような…精神に異常性があるのではないか、という危惧が彼女の中に生まれてしまったようである。
これは、なかなか難しい。
異常者が、正常ですと言ったところで誰も信用しないであろう。現に、僕はすでに彼女の中では異常者扱いだろうから。
僕自身は、ごく普通、というか人には言えないまでも、異常性のあることだとは思っていなかった。
むしろ、目に見えるかたちで女装したり女として生活している方が、問題なのではないかとさえ思っているが、これは現代では差別に繋がるので口には出せない。
自覚があって隠す方が、異常と受け取られることの理不尽さを、今さらながらに感じる。
…世の中の、LGBTQの精神はどこへ行ったんだ?とさえ思う。
あるいは、同性愛者だと勘違いされたのではないかという危惧もあったが、彼女との性交渉は既に日常だ。最悪でも、両性愛者という認識をされているだろうか。
だが、声を大にして言いたいのは、僕は異性愛者です、ということだ。
問題があるのを承知で言うが、男なんか嫌いだ、見たいとも思わない。
僕は女の人が好きなんだ。…少し年上趣味ではあるけれど。
僕の頭の中は、ぐるぐるとかき乱される。
そんな中、沈黙を続ける……彼女の心の内は、わからない。
別れることになったとしても、僕は恨んだりはしない。
どっちが悪いかと問われたら、間違いなくそれは僕の方だろう。
別れたあと、ヒステリックにかつての男をSNSで晒したりするようなことも、彼女の場合は無いだろう。そもそも彼女はSNSを使っていない。今どき、珍しい…というか、いるのかそんな人?というレベルである。
そういうところにも惹かれて付き合うようになったのだ。
しかし、そんな絶滅危惧種とも云える女性とも、これでおしまいか…。
そう思うと無性に、寂しかった。
…哀しかった。
もとより、女性と付き合えるなんて思っていなかったのに加えて、それがこんな素敵な人だったなんて、僕にはあまりに出来すぎた幸運だったのだ。
そう思って、諦めることにしよう。
…そう、決意しようとしたところで、ぽろりと、涙がこぼれた。
ああ…、これが失恋か。
人生で、貴重な体験が出来たな、と、皮肉めいた自分が嘲笑うのが感じられた。
肩が震える。
「…やだ、ちょっと?…泣かないでよ…、ごめんね、私が悪かったわ…」
ん…?
「…誰にだって…、い、言えないことあるもんね。……で、でも、大丈夫!あたし、誰かに言いふらしたりしないから…!」
うん、知ってるよ。
そういうことは、しない人だもん。
だから…、好きになったんだ。
「…ありがとうね、…今まで」
……そう言うのが精一杯だった。
別れ際にいい人ぶるのは、もしかしたら卑怯なのかもしれない。悪党になりきって恨みを全部請け負って別れれば、彼女もすんなり次に行けるのかもしれない。
でも、口から出てきたのは、そんな陳腐な感謝の言葉だった。
「…こっちこそ、ごめんね?…言い出せなくて…辛かったでしょう?」
…あぁ、別れ際でも優しいな。
でもね…、それだと僕が余計に辛くなるんだ…。
僕は、財布と携帯を掴んだ。
別れて出ていくなら、僕の部屋にある私物とか、洗面道具とか諸々…痕跡を消したり、回収したりしておきたいだろう。
そこに僕が立ち会うことすら、彼女には不快かも知れない。
気持ちの整理にも、時間が要るのかも知れない。
いずれにせよ、ここは彼女を一人にしなければ、解決しないだろう。
「…しばらく、留守にするから…。荷物の整理できたら、連絡して…。」
僕はそう言って、立ち上がった。
「うん、……うん?」
彼女は、きょとんとしている
そして、
「え、ちょっと…。なに?…出ていけ…ってこと?」
「……ううん、荷物の整理ができてからでいいよ。それまで僕、外に泊まるから…。」
僕は答える。
「だから、出ていけってことでしょ…!?」
彼女が掴みかかってきた。
「だから…!ごめんなさいっ…て、勝手に郵便物開けちゃったりしたのは悪かったから…。だから、…もうしないから!…追い出さないで!」
何故か、彼女は涙目だ。
「あたし…、もう30なんだよ!?…天音に捨てられたら、あたしもう後がないの…!」
なんだか、言っていることがおかしい。
捨てられるのは、…僕のほうじゃないのかな?
「……あの、…いてくれるんだったら、それは…ありがたいけど…。」
まだ、そんな余地があるのだろうか。
もう一度、座り直す。
「でも……、嫌じゃないの?…その、変態と一緒にいるのが…。」
「え…、天音、変態なの?」
「……そう、思われたと思って…。」
彼女は、ほっと、一息ついて情けないような顔をした。
「そ、そりゃ…ちょっと、ち…ちょっとだけ…うん。ちょっとだけ!驚いたけど…」
そうして少し怒ったような顔をする。
「…それで嫌になって、別れるとか…、無いから。…ありえないから…!」
…そうなのかい?
「まだ、…一緒にいてくれるの…?」
「むしろ、……あたしのほうが、その…、かってに天音の領域に踏み込んじゃったから…。」
……どうやら、
お互いに勇み足だったようだ。
彼女は、はっ、としたような顔をして、両方の拳をぐっと握りしめた。
そして、彼女がいつも使う言葉が飛び出す。
「外交努力!!」
僕も、つられて復唱する。
「が、外交努力…!」
…そうだ。
争いは、外交の失敗の結果だ。
話し合える余地があるなら、それはまだ決裂には至っていない。
「まだ、この件は全然…一度も、話し合えてないのよ…!」
言われて気づく。
本当だ。…郵便物見られて驚いて、隠し事が一つ露見しただけだ。
お互い、混乱したままで結論を出すなんて、愚かしいことだ。
まだ、全然話し合っていない。
「…ほんとだ。」
僕にも、ようやく力ない笑みが浮かんだ。
それを見て彼女も、うんうん、と頷く。
「お互いどうするかは…、話し合いが済んでから、でしょ?」
……そうだった。
付き合い始めた時に、決めたことがある。
何かあっても、感情的にならずに、話し合いで決めよう。
お互い納得する形で、ちゃんと議論しよう、と。
僕も、隠し事が露見したことで、冷静じゃなかったかもしれない。
「とりあえず…」
うん、と、一つ頷いてから、
「お風呂入ってくるわね。」
彼女がそういう。
そうだ、今日は珍しく僕が先に入っていたから、彼女はまだ入れていないのだ。
落ち着くには、丁度いいかも知れない。
「……一緒に入ろっか…?」
そして、彼女はそんなことを言ってくる。
「で、でも、…僕もう入ったよ?」
すると、彼女は、
「ちゃんと洗った?…なんか、無理やり上がらせちゃったみたいになってたから…。」
言われてみれば、中途半端にしか風呂のルーティーンをこなせていないような気がする。
「…頭、まだだった気がする。」
「ほら。」
彼女が、ふふふっ、と笑った。
「洗ったげるから、もう一回入ろ?」
そうしようか。
僕も、ちゃんと落ち着こう。
話し合いは、それからだ。
少なくとも、このまま二人はお終い、という事態は避けられたようだ。
「うん」
僕も、ようやく…微笑んで、頷いた。