遺人(いびと)④
そのまま、天を仰ぎます。木々の間から青空がこぼれています。
「……あっ!!!」
ピンクの小花柄のパジャマを着た母が、私の顔をのぞき込むようにして立っています。
「かっ、母さん!!!」
母はだんだんかがんできて、その顔の距離は近くなります。
しかし、やっぱり顔は見えないのです。
「母さん……」
近づいて、近づいて私の鼻の高さすれすれに、母の顔がやってきました。
青紫色の唇だけが、ついに見えました。
母はニッと笑います。
その歯並びは悪く黄ばんでいて、黒くなっている部分はかけていたり、何本か抜け落ちているようでした。魚や卵が腐ったようなにおいと酸っぱいにおいが、生ぬるく鼻にかかります。
ニッと笑った口元が動きました。
「誰だよ? お前なんか誰も知らねぇよ。お前誰だよ、早く死ねよ」
私は誰なのでしょうか?
もう私は、私の名前も思い出せません。
意味がわからないと人は不安になり、いらいらします。
私はずっと、いらいらしています。
いらいらしているので、さようなら。
キダタクミ
「……なんだ、名前ちゃんと覚えてんじゃん」
この辺には面白い廃墟がたくさんあると聞き、散策してみようと車を走らせやってきたのだった。
「まさか、遺体を見つけるなんて思わなかったなぁ……」
林の中、道なき道を歩いていたら、もう骨だけになってしまった遺体を見つけてしまった。
ただ、本当に骨だけで衣類のひとつもなく、はじめは人のものかどうか確信が持てないでいた。
やがて頭蓋骨と、妙にきれいというか朽ちていない、新聞に挟んであるようなチラシの束が目に入り、通報したのだ。
「それにしても、チラシの裏にこんな不気味なものを書くなよ。つい読んじまったじゃねぇか」
ちょうど読み終わった頃合いに警察は来た。チラシは元の位置に戻しておいた。
一応の連絡先は聞かれたがすぐに開放してくれ、安心する。
「はぁ。今日のところは帰るか」
車に乗り込み、エンジンをかける。何気なくバックミラーを見た。
知らない女が後部座席に座っている。
「……はっ!?」
慌てて振り向けば、やっぱり座っている。
ぼさぼさの髪で顔は全く見えない。
「うっ、はっ……!!」
反射的にドアを開けようとするが、開かない。
すぐ窓の外に、ピンクの小花柄のパジャマを着た女が立っている。
だが、後ろにも同じ女が座っている。
「くっ、あぁぁあ!!!」
アクセルを踏んでも動かない。見れば、足元に女の顔がある。
荒れて伸び放題の髪の間から、濁った眼球と目が合った。
全く知らない女だった。
「お前誰だよ? 早く死ねよ」
ぬるく生臭いにおいでいっぱいになった車内で、すっかり黄ばんだ虫歯だらけの歯を見せる女は、笑っていた。