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遺人(いびと)①


 私は木田拓美といいます。年は三十五歳で、ごく一般的なサラリーマンでした。内勤の事務員です。


 とりたてて秀でた才能もなく、内向的な性格で趣味もなく、またお付き合いをしていた女性などもありません。


 ただ日々を、繰り返される同じ日々、しいて言うなら天気ぐらいが移ろっていくだけの日々を過ごしていました。


 だからと言って、不満はありません。


 むしろ変化の少ない、体がゆっくり気づかない速度でただおとろえていくだけの生活は安定しており、それはそれで有難いとさえ感じていました。


 そんな私の生活に大きな、とてつもなく大きな転機が訪れたのは五年ほど前の秋のことです。


 私には七十歳になる父がいました。


 身内といえるのは物心ついた時から父だけだったのですが、その父が病に倒れ入院したのです。今まで一度も床にふしたことのない人でした。


 私のために、生活のためにと必死で働いてくれた無理が今になってたたったのでしょう。


 この日のことははっきりと、この瞬間にもありありと思い出します。


「……父さん」


 開け放たれた病室の窓からは沈みかけの真っ赤な夕日が差し込み、また冷たくなりかけのしんとした空気が、私たちの距離を詰めるようにすっすっと入ってくるのでした。


 ベッドで横になる父は、白いがちょっとすすけた天井の一点をじっと見つめています。


「……父さん、どこか痛むかい?」


 なんと声をかけるべきか。このとき、私が父と再会するのは就職して以来のことで、もう十年よりも長い期間、会っていなかったのです。



 私は父との会話の仕方さえ、忘れてしまったのかもしれません。


 父が今何を思い、考えを巡らせているのか。想像もできませんでした。


 しかし、しばらく間があった後、父は開けていた目をさらにカッと見開いて、乾燥して切れている口の両端に、一瞬固く力を入れました。


 そして、小さな、小さな声を内蔵の奥からしぼり出すようにして、唇の隙間を細く通すようにして言います。


「こ、この話を……この話を聞いたからには……お前にも見えるだろう、あの女が……この話を、この話を聞いたから……お前にも、見える。あの女が……」


「あの女? この話って? なんだい、父さん!?」


 この話とは一体、なんのことなのでしょうか?


 そもそも何の話もしていないのです。


 意味がわからないと人は不安になり、いらいらします。私も例外ではありません。


 すぐに父の上から両肩をつかみ、ぐっと力を入れ強く、強く揺さぶります。


「父さん!? なに、なんの話? なぁ! なんの話なんだよ!! さっさと説明しろよ!! っざけんな、くそが!! お前なんかなぁ!!!」


 私は両手を、父の肩から首に移し力を入れます。


「……ぐっ、うっ……」


 父の白目は真っ赤に充血して、切れた口の両端からは、ねばついた泡が吹き始めました。


 すると、ぶるぶると小刻みに震える父はすっと右手を上げたのです。病室の角を指さします。


「……はっ、はっ、はぁ……」


 私は父にかけていた手を離しました。


 荒い呼吸をする父をよそに、私の目はさされた角に自然といきます。


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