声/耳/目
声
僕は声が出ない。そういう表現ではない。生まれつき声が出ない。不便だが、案外なんとかなる。どんな人とも意思疎通ができるように、いつも紙とペンを持ち歩いている。でもこの日はひどく酔っぱらっていて、正直それどころじゃなかった。記憶に残っているのは、友達に呼ばれたパーティーが思ったより大規模だったこと。初めて飲んだ名前も知らない酒が好みだったこと。何回もおかわりしたこと。それぐらい。だから今、隣に知らない女性がいることに戸惑っている。めちゃくちゃ戸惑っている。それに、なんだか気持ち悪い。
トイレに駆け込んでからしばらくして、トイレのドアを外からノックする音が聞こえた。思わず沈黙したあとに、もう一度ノックの音が聞こえ、観念してドアを開ける。
ドアの前には、ベッドに寝ていた女性が立っていた。お互いが無言のまま、気まずい空気が流れる。このままじゃまずい。何か伝えなければと思い、紙とペンを取りに行くためにジェスチャーでさっきまでいた部屋を指差す。女性は指差された方向に振り向き、困惑した表情を浮かべながら部屋に戻る。そのあとをそろりそろりと付いて歩く。部屋に入った女性がくるっと振り返り、それで?という顔をする。再びジェスチャーで少し待ってと手のひらを見せる。不審がる表情の女性に、早く何か伝えなければ。急いで紙とペンを探す。しかし、こういうときに限ってなぜか一向に見つからない。何しているの?というように、女性が首をかしげるので、何かを書くようなジェスチャーを見せる。すると、女性は驚いた表情を浮かべ、かと思いきや、急に落ち着きを取り戻し、自分のバッグから手帳とペンを取り出した。そして、女性自ら手帳に何かを書き始める。僕はというと、ずっとそわそわしている。
〈知っていたの?〉
そう書かれた手帳を女性に見せられ、僕は大パニックだ。一体、何の話だ。ジェスチャーがおかしかったか。いや、でも、変なことはしていないはずだけど。
〈別に怒っていない〉
再び女性に手帳を見せられ、少し考え込む。なるほど、これは分かった。酔っぱらってお持ち帰りしてしまったことに対して―ってことか。話を始める前に、私は怒っていないと教えてくれたわけだな。女性から手帳とペンを借り、書いている真似をして、手帳の上でペンを動かす。書いてもいい?という意味で。女性は頷く。
〈飲み過ぎちゃって、正直覚えていないんだ。ごめん。でも、まだチャンスがあるなら真剣に付き合ってほしいと思っている〉
我ながらひどい言い訳だ。女性が、はぁ?という表情をしているのも納得だ。
〈そういうことじゃないわ〉
えっ、そういうことじゃないの!?
焦る僕を見かねて、女性が続ける。
〈私のことを知っていたの?〉
質問の意味が・・・。でも、正直に答えないと。
〈知らないです〉
相変わらず冴えない表情の女性。そう言えば、紙に書いているのを不思議がらないのかな。
〈さっきトイレで、顔色が悪かったけど大丈夫?〉
女性がそう書いたので、僕と女性で紙とペンを順番に持ち替えながら、文字で会話を重ねていく。
〈吐いたらスッキリした〉
〈かなり酔っぱらっていたのね〉
〈君は酔っぱらわなかったの?〉
〈いいえ。だから今ここにいるのよ〉
〈それは申し訳ないことをしたね〉
〈気にしていないわ。楽しかったから〉
〈今更だけど、恋人はいる?〉
〈心外だわ。恋人がいたら、こんなことしない〉
〈それもそうだ。もし良かったら僕と付き合いませんか?〉
〈本気なの?〉
〈もちろん!〉
女性の手が止まる。少しして、また書き始める。
〈おかしいと思わないの?〉
〈何が?〉
〈私たち、ずっと紙で会話しているのよ〉
〈そうだね。でも、僕はいつもこうだよ〉
〈私もよ。ねぇ、やっぱりあなたもそうなの?〉
〈あ、君も?〉
そう書いた瞬間、女性はとても喜んだ。女性の手が見たことないような動きをする。意味は分からないが、それは手話だと分かった。
聞き慣れない着信音が部屋に流れた。思わず、びくっと反応すると、女性はとてもびっくりしたようで、
〈なに!?〉
と書いて見せてきた。
〈いや、君の携帯じゃない?鳴っているよ〉
そう書くと、女性は固まったまま動かなかった。しばらくして携帯の画面を確認した女性は、今度は明らかに不機嫌な表情をしながら書き出した。
〈嘘つき〉
女性が求めていたことがようやく分かった気がする。
〈騙すつもりはなかった。君と付き合いたいと思っているのは嘘じゃない〉
女性が今度は泣きそうな表情を浮かべた。
〈あなたはどうして書くの?〉
〈生まれつき声が出ないんだ〉
女性はひどくショックを受けたようだ。いよいよ泣き出してしまった。
〈傷つけるつもりはなかったんだ〉
女性が首を横に振る。少し落ち着いてから、また書き始める。
〈どうりでおかしいはずだもの。私の耳が聞こえないと分かっていたら、付き合いたいなんて思わなかったでしょう〉
〈それは違う。耳が聞こえていても、いなくても、君の魅力は変わらないよ〉
女性がふふっと笑う。
〈初対面なのに?〉
〈うん。だから自分を褒めたいね。いい子を連れてきたねって〉
女性がまた笑う。それから何か考え事をしている様子に変わり、女性がじっと僕を見つめる。ん?という風に僕が眉を上げて見せると、女性はまた書き始めた。
〈あなたは声が出ないけど、耳が聞こえる。だから今みたいに、音がすれば私に教えてくれるでしょうね。でも、私は耳が聞こえない。自分が上手く喋れているのかも分からない。だからあなたの言葉になることもできないわ〉
女性が書いた文字をじっと見つめる。そんな僕を見て、女性が続ける。
〈だから、私と付き合っても、あなたにとって何もメリットが無いのよ〉
女性から少し強引にペンを奪う。
〈じゃあ聞かせてみて〉
女性は少し驚いた顔を見せたが、すぐに元の表情に戻った。
「わたしの こと すき ですか」
女性が手話をしながらそう言った。
〈すきって手話でどうやるのか教えて〉
僕がそう書くと、女性は自分のあごに親指と人差し指をくっ付け、その指をあごから前に出し、親指と人差し指の先をくっ付けて見せてくれた。僕もそれを真似て見せた。
〈すてきな声だね!〉
僕がそう書くと、女性は声を出して笑った。
耳
私は耳が聞こえない。大抵の人は手話ができない。でも大抵の人は文字を書けるから、手帳を持ち歩いている。よく使う言葉は手帳に書き留めていて、すぐに相手に見せられるようにしてある。初めて呼ばれたパーティーにも、もちろん手帳を持って行った。そこで飲んだお酒が美味しくて、手帳なんか無くてもなんだか楽しくて、気が付いたら知らない部屋にいた。どうしたものか。
誰かいないのかと、部屋を見渡す。ベランダ、玄関、キッチン、順番に見て回る。もしトイレにいたら、いきなり開けるのはまずいよねと思い、一応ノックする。ドアは開かない。念のためもう一回。ゆっくりと開くドアに、内心、超びっくり。
顔色の悪い男の人がトイレの前に立っていた。つんとした臭いがして、トイレで何が起きていたのか想像できてしまう。何か伝えなきゃ。でも手帳は部屋にある。そうこう考えていると、男の人が部屋を指差した。手帳も部屋にあるしちょうどいいと思い、部屋に向かう。でも、なんでこの人、口を動かさないんだろう。私も不用心だったけど、まずは相手の動きを待とう。手のひらを見せてくる男の人。待てってことね。・・・それから結構待ったけど、何かを探しているのか、男の人はずっと慌てている。首を傾げて様子を伺うと、男の人は何かを書くような手ぶりを見せた。驚いた。この人、私の耳が聞こえないって知っていたのね。バッグからいつもの手帳とペンを取り出し、先に自分が書いて見せる。
〈知っていたの?〉
男の人は戸惑う様子を見せた。もしかして私の耳が聞こえないのを良いことに、何か後ろめたいことがあるのかしら。
〈別に怒っていない〉
少し考え込んだあと、男の人は私から手帳とペンを受け取ると、手帳の上でペンを動かして見せた。書いてもいい?という意味だろう。私は頷いて返す。
〈飲み過ぎちゃって、正直覚えていないんだ。ごめん。でも、まだチャンスがあるなら真剣に付き合ってほしいと思っている〉
この人、何言ってんだ。今は私の耳の話でしょうが。
〈そういうことじゃないわ〉
驚いた表情の男の人。往生際が悪いわね。
〈私のことを知っていたの?〉
〈知らないです〉
この人、どうして認めないのかしら。別に怒っていないって言っているのに。でもこうして、文字を書いてやり取りをしているのだから、私の耳が聞こえないのを知らないわけないでしょうけど。何か恥ずかしいことでもあったのね。私には何も聞こえていなかったけど。
〈さっきトイレで、顔色が悪かったけど大丈夫?〉
〈吐いたらスッキリした〉
〈かなり酔っぱらっていたのね〉
〈君は酔っぱらわなかったの?〉
〈いいえ。だから今ここにいるのよ〉
〈それは申し訳ないことをしたね〉
〈気にしていないわ。楽しかったから〉
〈今更だけど、恋人はいる?〉
〈心外だわ。恋人がいたら、こんなことしない〉
〈それもそうだ。もし良かったら僕と付き合いませんか?〉
〈本気なの?〉
〈もちろん!〉
何かおかしいわ。耳は聞こえなくても、いつもは声の振動を感じているけど、この人からは何の振動も感じない。それに、いくら私の耳が聞こえなくても、ここまで口を動かさずにいるかしら。
〈おかしいと思わないの?〉
〈何が?〉
〈私たち、ずっと紙で会話しているのよ〉
〈そうだね。でも、僕はいつもこうだよ〉
〈私もよ。ねぇ、やっぱりあなたもそうなの?〉
〈あ、君も?〉
やっぱりそうなのね!なんだ!最初からそう言ってくれれば!あ、言っても聞こえないんだけどね!・・・あれ?どうして?手話が返ってこない。手話を知らないのかしら。珍しいわね。
男の人が突然びくっと動いた。
〈なに!?〉
〈いや、君の携帯じゃない?鳴っているよ〉
・・・聞こえてるじゃん。なんだよ。恥ずかしい。
〈嘘つき〉
〈騙すつもりはなかった。君と付き合いたいと思っているのは嘘じゃない〉
〈あなたはどうして書くの?〉
〈生まれつき声が出ないんだ〉
そうだったのね。でもそれなら尚更、私とは付き合えないじゃない。
〈傷つけるつもりはなかったんだ〉
そうじゃないのよ。
〈どうりでおかしいはずだもの。耳が聞こえないと分かっていたら、私と付き合いたいなんて思わなかったでしょう〉
〈それは違う。耳が聞こえていても、いなくても、君の魅力は変わらないよ〉
この人、おかしいわ。私の何を知っているっていうのかしら。
〈初対面なのに?〉
〈うん。だから自分を褒めたいね。いい子を連れてきたねって〉
変わっている人ね。でも、お願い。これで諦めさせて。
〈あなたは声が出ないけど、耳が聞こえる。だから今みたいに、音がすれば私に教えてくれるでしょうね。でも、私は耳が聞こえない。自分が上手く喋れているのかも分からない。だからあなたの言葉になることもできないわ〉
男の人は、私の文字の続きをじっと待つ。
〈だから、私と付き合っても、あなたにとって何もメリットが無いのよ〉
書き終えると同時に、男の人にペンを奪われる。
〈じゃあ聞かせてみて〉
変な声でも知らないわよ。
「わたしの こと すき ですか」
男の人は、にこっと笑う。
〈すきって手話でどうやるのか教えて〉
手話を教えると、男の人も同じように すき と手話をした。
〈すてきな声だね!〉
目
大音量で音楽が流れる空間。たくさんの人で溢れ返る部屋。ベロベロに酔っぱらっている人もいれば、部屋の隅で苦い顔をしながら酒を飲んでいる人もいる。
それにしても、さっきから同じ酒を何度もおかわりしているこの男、大丈夫だろうか。それに、俺を挟んで反対隣りにいる女も、酒を飲むペースがかなり速い。察するにふたりとも『こんな大きいパーティーなんて来たことにゃい!』と興奮しているのだろう。お子ちゃまだな、やれやれ。
みんなかなり酒が回って、何が何だか分からないといったような雰囲気も出てきたが、まぁ、酒を飲んで大騒ぎする場面には、ケンカも付き物なわけで。こういうのは苦手なのでそろそろ退散しよう。
外に出ると、空は明るくなり始めていた。少し離れた先に置いてある可愛らしいベンチに座ると、いつの間に居たのだろうか、先ほどの女が隣に腰を下ろした。適当に話しかけてみても女から返事はない。ただ優しそうに笑っているだけ。まぁ、悪くない。女のひざに座ると、女も嬉しいのか俺を抱きしめる。誰かに見られている気配を感じて目を向けると、酒をばかみたいにおかわりしていた男が、目をハートにして女を見つめていた。なるほど。今、俺は、人が一目惚れしたであろう瞬間を目の当たりにした。全く、俺はお前らの飾りじゃないんだぜ。女のひざから降りて、次なる目的地を目指す。腹も減ったし、いつもの家にでも行こうか。フェンスを越えて、屋根を5つ歩けばすぐに着くさ。
「おっ、来たな。今日はどんな話を聞かせてくれるんだい」
「にゃあ」