月色の約束(リング)
番外編的要素が強いため、わからない点があったり、強引なストーリー展開となっている点があります。本編は友人が執筆中ですが、公開は未定です。中途半端なお話でもよろしい方はどうぞ。
―――どさっ
年季の入った本の山を窓辺の椅子の上に置き、青年は息を吐いた。仕事が立て続けに入っていたため、最近まともに掃除が出来ていない。そこで、久々の休みに、家中を片付けて廻っていたのだが……。
「それにしても凄いですね……」
粗方は午前中のうちに終わったため、今日中には全て片付くだろうと思ったのだが、地下にある書庫に取りかかったところでそれが希望的予想であることが判った。
大量にある本の殆どが虫干しを必要とし、且つ再分類を行わなければならない状態だったのだ。取り敢えずとして、よく使うものだけを整理しているのだが、それだけでもかなりの冊数になる。
「――もうひと頑張りといきますか」
自分に言い聞かせるように呟いて、書庫に向かうために踵を返したその時、長い衣服の裾が引っかかり、先程持ってきた本を椅子もろとも倒してしまった。
慌てて直そうと屈み込んだ青年の目に、古びた手紙が映る。本の間に挟んであったらしいそれに宛名は無く、裏返すと差出人の名前が黄ばんだ封筒に書いてあった。
「これは――――……」
そこに綴られているのは、アルド=フレアル。青年の親友の名前に、間違いなかった。
片付けの最中だということも忘れ、青年は倒れた椅子を戻して腰掛ける。
―――かさ……
脆くなった手紙を破かないように、注意しながら開いていく。そうしながら、青年が思い出しているのは、もう十年も前の記憶だった。
◇ ◇ ◇
その日、ディトとアルドは、この世界で広く信仰されている宗教の陽光派の中心国、オラシオンを訪れていた。
「君がフレアル殿か。ディトから聞いているよ」
王城の一室、二人の少年の向かい側で話す老年の男性は、現国王の実の弟で、メイザースと言った。
「はい。アルド=フレアルと申します」
明るい茶色の髪に、深緑の瞳の少年は、声に多少の緊張を含んでいはいるが、しっかりとした態度で答える。
「それで、ディト。お前は彼を推すのだね?」
「ええ。彼は、家族はいませんが、セイン様に相応しいと思っております」
透き通るような銀髪に、紫紺の瞳の少年は、アルドよりも何歳か若いようだったが、慣れているのか、スムーズに応じている。
「お前がそこまで言うなら、一度話してみるか? セイン、入ってきなさい」
メイザースが言うと、二人が入ってきた方とは別の、正面にある扉が開き、同じ年頃と思われる少女がしずしずと入ってきた。
「お父様、お呼びでしょうか」
腰まで伸ばした濃い茶色の髪をひとつに纏めた少女は、凛とした藍色の瞳で父親を窺う。
「こちらはネオランビスの剣士、アルド=フレアル殿だ。ご挨拶しなさい」
少女は頷き、少年たちの方へ視線を向ける。上品なデザインのスカートを軽く持つと、王族らしい優雅な動作で言った。
「――セイン=ソレイユと申します」
そう微笑む少女は、メイザースの亡き妻によく似ており、陽光派ではその美貌で有名だった。そのため求婚者が後を絶たず、かわいい末娘を嫁がせたくない父親がより頑なになったため、彼女は成人した今も未だに婚約者が決まっていない。
それを見かねたディトがメイザースに助言をし、こうして親友を紹介しているのだが、その親友の態度が先程からおかしい。セインとの会話を楽しんでいる様子なのだが、何となく会話の端々でのイントネーションが違っている気がする。
「せっかくの天気ですから、湖畔を散歩してみてはどうですか? 私もついて行きますし」
いつまでもメイザースの前では堅苦しいだろうと思い、違和感には目を瞑ってそう提案する。最後の一言は、娘離れのできない父親に向かって言った。彼の父フェリックス=アルデバートは、オラシオンでも有名な魔術師であり、その息子のディトも、未成年ながらメイザースにはある程度信用されている。
「……そうだな。ディト、後は頼んだぞ」
「はい、承りました」
そう言い残し、メイザースはディトたちを残して部屋を出て行った。
いい天気、とは言ったものの、夏真っ盛りの昼下がりは、どこも暑苦しい。当然湖畔も、低めの気温を降り注ぐ直射日光が台無しにしている。
そんな湖畔を、三人は木陰を選んで歩いていた。
「まあ、それでは、アルド様はたった二ヶ月でこの国に来られたのですね」
三人といっても、当然遠巻きに家来がついてきている。そのため、話し方もどこかよそよそしくなってしまう。特に、彼女は……。
「……もう、声は届きませんよ」
家来と十分な距離ができたのを確認して、ディトは小声で言う。とたんに、アルドはいつもの調子に戻っていた。
「――無理してるみたいだけど、辛くないか?」
唐突に、アルドが呟く。言われたセインは、きょとんとした表情でしばし彼を見つめた後、それまでの淑やかな彼女からは想像もできないような、悪戯めいた笑みを浮かべた。
「あら、本当にいいのかしら?」
確認するように、そのままの表情で問う。これが、セイン=ソレイユの素の顔だった。うっかり見てしまって以来、彼女が日頃自分を抑えている気晴らしにディトをからかう対象としてしまったので彼は知っているが、他者の前では、彼女はそんな素の顔を微塵も感じさせない振る舞いをしている。実の父親であるメイザースでさえ知らないであろう彼女の本性に、初対面であるはずのアルドはどういうわけか気が付いていた。
「ああ、俺は構わない」
「そう、それなら、そうさせてもらうわね」
ディトの見る限り、彼女はいつになく楽しそうな表情をしている。
「そうなると、あいつらが邪魔だな――」
そう言ってアルドが向けた視線の先には、監視として付けられた家来たち。
「――よし、行くか」
突然、アルドはセインの手を取ると、湖畔の森の中へと走っていく。
「なっ、アルド! どこに行く気ですか!?」
言いながら、ディトは二人を追いかける。
「たまにはこういうのもいいだろ?」
上手く家来達を撒くと、アルドは上がった息でセインに言う。
「そうね。城ではいつも誰かの目があって、正直窮屈だったの」
同じく上がったでセインが答えていると、そこへディトが追いついてきた。
「あなたはまた勝手に……何かあったらどうするつもりですか」
悪びれた様子もないアルドは、ディトの言葉を無視する。
「無かったんだからいいだろ」
淡白な受け答えに、セインが小さく吹き出す。怒る気の失せたディトは、それ以上何も言わなかった。
「セイン、言いたいことがある」
そのあと唐突に、アルドは言う。珍しく改まった様子に、ディトの方が何をするのかと身構えていたら――。
「――俺と、結婚してくれ」
「な―――」
いきなりプロポーズをしたアルドに、ディトは声を詰まらせる。かなり無茶苦茶なことをやってのける親友だったが、ここまでやるとは思っていなかった。
「俺が、この国から連れ出してやる。だから、俺と一緒に来ないか」
ディトの驚きを無視し――単に視界に入っていないだけかもしれないが――アルドはセインに言う。
「な、何を言って――――」
「――ええ、喜んで」
止めに入りかけたディトの言葉を遮り、今度はセインが返事をした。
「本当だな?」
「もちろん。あ、ただ、私には未来を視る力と人の心を読み取る力があるの。それでも構わないならだけど」
確認するように言うアルドに、セインは言い加える。
「何でそんなことを気にするんだ」
それが、アルドの答えだった。
「お父様はなかなか許してくれないでしょうけど、それならお受けします」
楽しそうに微笑むセインを抱き寄せると、アルドは彼女に口づける。
「――信頼されて任されている私のことを、少しは考えていただけないでしょうか……」
傍らに立っているディトの嘆きなど、二人には聞こえていなかった。
◇ ◇ ◇
二人がオラシオンに着いて二週間後、セインの婚約者候補を決める武術大会が開かれた。各地から彼女の評判を聞いた者達が多く参加する中、アルドもまたディトの推薦でエントリーしていた。
「――始めっ」
審判の合図と同時に、相手は武器を抜く。勝敗は、一瞬で決まった。
―――キンッ
金属がぶつかり合う音がすると同時に、乾いた音を立てて、相手の剣が落ちる。向かい側では、更に素早く剣を抜いたアルドか、重心を低くして剣を振り上げた体勢のままで立っていた。
何が起きたのかに未だ理解の追いついていない相手をよそに、彼は力を抜いて、ゆっくりとした動作で抜き身の剣を鞘に戻す。
「勝者、アルド=フレアル」
そう告げる審判の声に、野次馬たちは歓声を上げた。
「順調に勝ち上がっているようですよ」
試合の歓声が聞こえてくるバルコニーで、ディトはセインにそう報告した。
「そう、よかったわ」
他者の目があるのであまり素を出すわけにもいかないが、それでも少し砕けた態度でセインは答える。心地良い風が、残暑に茹だる空気を流していった。
「こうしてセインさんと話が出来ないのが、アルドにはもどかしいらしいですが」
昨夜の会話そのままを伝えると、セインは顔を綻ばせる。
「私も、早くアルドちゃんと話がしたいわ」
セインの方が二つ年下なのだが、なぜかそう呼んでいても違和感がない。アルドですらそうなのだから、ディトは猶更だろう。
「では、本人にそう伝えておきますね」
「あら、ありがとう。それなら、アルドちゃんが優勝ね」
未来を見る力のある少女は、あの日の悪戯っぽい笑みで言う。
「そうですね――死者が出ない事を祈りますが……」
相手の息の根まで止めそうな親友を思い出しながら、ディトは苦笑する。
二人が話す視線の先では、決勝の試合が行われていた。
「そんな小さな剣で、諦めた方が身のためだぞ」
自信たっぷりに言う相手の挑発を軽く受け流し、アルドは決勝の舞台に集中していた。確かに、細めの剣を両手で扱う自分に対して、相手は重く破壊力もある斧を使っている。まともに戦うのは体力の無駄で、一発でも攻撃が当たればタダでは済まないだろう。しかし、今のアルドは負ける気がしていなかった。
「――始めっ」
開始の合図と同時に、すかさず相手が斧を振り下ろしてくる。かなりの重量の武器を扱っているのにも関わらず、さすがに決勝まで残っただけあり、早さも技術も並以上の実力者だ。
しかし、その重い一撃を反射的にかわすと、アルドは同時に抜いた剣の峰で、体勢を立て直しきれていない相手の手首を打った。剣の使用者と比べ動きが遅かったおかげで、的確な位置に当たる。これでしばらくは手に力が入らなくなるはずだ。そう考えているうちに、斧は自重でそのまま落ちる。
―――ドスッ
重々しい音と共に、斧が地面に投げ出される。一拍置いて、呼吸一つ乱していないアルドの耳に、歓声が聞こえてきた。
「優勝おめでとう、アルドちゃん」
人払いをした夕方のバルコニーで、セインはアルドに言う。
「セインが応援してくれたからさ」
答えるアルドは、ディトでさえも見たことがないような嬉しそうな表情をしている。
「これでアルドちゃんと結婚できるわ、って言いたいところなんだけど……」
苦笑したセインが向けた視線の先では、暗い廊下を歩いてくる家来の姿があった。
家来は、メイザースからの言伝を伝えると、すぐに帰って行った。それは、三日後にアルドとオラシオンの護衛長、ルトレット=ドロームとの手合わせを行うというものだった。
「恐らくお父様は、ドローム様に厳命を言い渡しているでしょうね」
セインは、確信に近い憶測を述べる。
「そうでしょう。アルドが負けた場合は、なんとか理由を作ってあなた達の結婚を認めないおつもりですよ」
ディトが補足すると、さすがのアルドも表情を曇らせる。
「それに、ドローム様は剣の名手です。アルド、いくらあなたが強いと言っても、勝率は五割あるかないかといったところでしょう」
それも事実に違いないので、アルドはますます苦々しい顔になる。陽も傾き始め、そろそろ涼しくなってもいい時間帯なのに、無風のバルコニーは試合中よりも蒸し暑く感じた。
「――でも、勝ってくれるのよね、アルドちゃん」
未来を視たのか、そえともただの勘なのか、けれどもセインは確信を持った瞳でアルドに訊く。
「……ああ、勝ってみせるさ」
アルドは、いつもの余裕が戻った表情で言い切る。
「――絶対に」
あの時セインと交わした約束は必ず守る、そう心に決めたのだ。そのためなら、邪魔になる迷いや不安は全て捨てる。それを思い出した瞬間、負けるかもしれないという弱気な考えは、完全に消えていた。
護衛長と向き合ったアルドは、自分の呼吸に意識を集中させながら精神を落ち着かせていった。皆の評判通り、向かい側で剣を構える壮年の男には、一部の隙も感じられない。
「――始め」
合図があっても、二人は動かない。しばらく互いに隙を窺い合っていたのだが、先に動いたのはアルドの方だった。
―――キンッ
左手に持った剣で、思いきって斬り込んでいく。無駄な動きは最小限に抑えたが、経験に大きな差のあるルトレットには、容易く避けられてしまう。だが、これも予想の範疇だった。
「くっ……」
剣を受け止めるルトレットに、利き手である右手に持った剣を、すかさず振り下ろす。しかし、普通は避けられないであろうこの攻撃を、彼は自分の長剣を巧みに扱って、逆にアルドを跳ね飛ばした。
すぐに体勢を立て直しながら、アルドは考える。武器の違いはあっても、実力の差は殆どない。むしろ、経験に圧倒的な差がある分、まともに倒すのを狙っていたら自分が不利だ。
――勝率は五割あるかないかといったところでしょう。
昨日のディトの科白が脳裏を掠める。この護衛長に比べたら、先日の大会参加者などは話にならないほど弱い。乱れた呼吸を整えながら、アルドは苦笑した。
――だが、俺は勝つさ。絶対に。
闘技場の端で、こちらを凛と見ているセインを視界の端に捉えながら、アルドは再び地面を蹴った。
「そろそろ、でしょうか……」
そう呟いたディトの目の前には、もう小一時間は戦い続けている護衛長とアルドがいた。初めの数回だけ激しく打ち合った以外は、互いに相手が消耗するのを待つことにしたらしく、両者一歩も引かないままに睨み合いが続いている。
二人のことをよく知るディトにも、どちらが勝つのかは分からない。総合的に見れば互角の両者だが、上手く取り繕っていても体力的にはもうどちらも限界が近いはずで、間もなく決着がつくのに間違いはなさそうだ。
ルトレットと一定の距離を保ちながら、アルドは自分の乱れた呼吸の音を聞いていた。
――早く、終わらせるべきだな……
疲労の溜まってきたアルドに対し、ルトレットは疲れているながらもまだ息を整える余裕を見せている。これ以上の長期戦は、自分が不利になる一方だ。
そう判断したアルドは、剣を握り直すと、ルトレットに向かって勢いよく振り下ろす。
―――ヒュッ
空気が鳴る音と共に、見事に避けられる。同時に繰り出された一撃を、アルドは身体を捻ってかわす。
「……っ」
そのはずだったのだが、避けきれなかった切っ先が左腕を掠め、皮膚に鋭い痛みが走る。眉を顰めたアルドに、ルトレットの意識がわずかに逸れた。
―――ガンッ!!
その隙を逃さず、アルドは渾身の一撃を長剣の柄に近い所を狙って打ち込む。危うく自分の剣も取り落としそうになったが、それをどうにか堪えていると、衝撃に力の入らなくなったルトレットの手から、長剣が滑り落ちる。
その様子を、アルドは冷静に眺めていた。
護衛長が負け、メイザースもようやく二人の結婚を承諾した。すぐに結婚式が挙げられ、その後多くの人を招いた壮大な披露宴が行われた。花嫁衣裳に身を包んだセインは、夫の隣で幸福な優しい笑みを浮かべていた。
「結局来なかったですね」
長かった披露宴も終わりが近付き、セインが着替え終わるのをベランダで待っていたアルドに、ディトはそう声をかける。結婚式には渋々といった様子で参加していたメイザースの姿が見当たらなかった。
「そうだな……」
アルドは、どこか上の空といった声で答える。
「――どうかしましたか?」
「いや、別に…………セインが綺麗で……」
「………」
いきなり惚気られ、ディトは呆れて言葉を失う。心配して損をした。
「……それはよかったですね」
ディトは親友の性格を忘れていた自分に後悔し、まだ惚けているアルドには適当に返しておいた。
「疲れているようだな」
何を話すでもなく立っていた二人に、突然背後から声がかけられた。
「――メイザース様!?」
驚いて振り返った二人の前に歩いてくると、彼はまずディトを見る。
「このようなことになると分かっていたら、お前の言葉を聞き入れるのではなかったな」
「……」
自嘲めいた言葉だったが、そう言うメイザースの声はどこか明るかった。
「――セインに会ってきたよ」
唐突に、彼は言う。昼間の暑さがうそのように、冷ややかな夜風が三人の間を通り抜けていった。
「この国で暮らさないかと、そう言ったのだが、見事に断わられた」
先程までの厳しい表情を崩し、メイザースは苦笑する。
この結婚式が終わるとすぐに、三人はアルドとディトの暮らすネオランビスに向けてここを出発することになっていた。未だにそれが諦めきれない彼は、セインが一人になったのを見計らい、説得を試みようとしたらしい。
「あそこまで言われては、諦めるしかないな」
「………」
メイザースの意外な態度に、ディトとアルドは顔を見合わせる。こんなに珍しいことがあるだろうか。
「だが――」
急に口調を変え、決してアルドの方を見ようとしなかったメイザースは、彼に向き直った。
「――必ず守れよ」
多くは語らないメイザースの厳しい視線を、アルドはしっかりと受け止める。
「はい――命に代えても」
しばらくの間、二人はそのまま動かなかった。ディトが固唾を飲んでそのやり取りを見ていると、メイザースが急に表情を緩める。
――代えられては困るのだがな。
そう呟くと、彼は踵を返して歩き出す。その後姿は、どこか頼りなさそうに見えたが、途中で緋色のドレスに身を包んだセインと行き会い、言葉を交わす時には、いつもの威厳を取り戻していた。
「お待たせ、アルドちゃん。行きましょう」
「ああ、セイン。よく似合ってる」
こちらも先程の真面目な様子を崩し、その上調子に乗ったアルドが、セインの腕を引いて頬にキスをする。
会場に戻るために階段を下りる二人を見送ると、ディトはそんな彼らに苦笑しながらも、別の入り口から入るために裏口を目指して歩き出した。
その二週間後、ディトたち三人は、アルドの故郷へ向けて、長い旅に出発した。
◇ ◇ ◇
オラシオンを出て四ヶ月。長かった冬もようやく終わりが見え始めた頃、三人はアルドの生国、ネオランビスに到着した。小まめに休息をとり、一度も国を出たことのないセインのために、途中で観光も兼ねつつ進んできたため、行きよりも倍の時間がかかった。
山沿いにある小国には、一年ほど前からディトと父のフェリックスが中心国から守護魔術師として派遣されている。人口こそ少ないが、陽光派の他の国や月光派の国々との位置関係から言っても、重要な国とされている。
国王のジークフリードへの謁見を済ませ、元は王族であるセインだったが、新しい環境に馴染むのに三日とかからなかった。
「どうしたんですか」
郊外の森に魔物の討伐にやってきたその夜、ディトは答えが分かりきった質問をアルドに投げかけていた。
「別に……」
対するアルドは、拗ねた子供のように機嫌の悪そうな声音で答える。
「『別に』じゃないですよ。仕事に来たんですから、諦めて真面目にやってくださいよ」
「……やだ」
短く言ってふて寝に走るアルドに、ディトは小さく溜め息を漏らす。こうなると、もう放っておくしか手段がない。なぜ、このようなことになっているかということだが……。
「……セイン――」
アルドが呟いた。そう、こうなっている原因は、セインにあった。いや、問題があるのはアルドの方なのだが。
とにかく、こうして泊りがけの仕事に来る度に、アルドは帰りたいと、子供のように拗ねるのだ。ペアを組んでいるディトにしてみれば堪ったものではないが、自分が二人を引き逢わせた手前、文句を言うわけにもいかず、毎回宥めにかかっている。
「……明日には帰れますよ」
そうディトが言った時、アルドはもう寝息を立てていた。何だかんだ言いつつ、与えられた仕事はきちんとこなしているので疲れたらしい。ディトは苦笑しながらも、ようやく大切な家族ができた親友を嬉しく思っていた。
アルドは、生まれてすぐに親に捨てられ、孤児院で育ったと以前聞いた。実力でのし上がり、現在の国王直属の討伐対の剣士という地位に就いているこの親友は、知り合った時から他人に対してどこか淡白な接し方をしていたのだが、セインと出逢ったことにより、それも変わろうとしているように見える。
セインも、ディトとはアルドより早く知り合ったのだが、他人の未来が視える上、考えていることまで分かってしまうという力のせいで、同じように、ディト以外には取り繕った自分しか見せていなかった。アルドの妙に鋭い勘のせいもあったのだろうが、今ではこの国でありのままの自分を見せている。
……そのために被る迷惑の数々には、取り敢えず目を瞑っておくことにしよう。そんなことを考えながら、ディトは眠りに落ちていった。
翌日、二人は森で目撃された魔物の討伐任務にあたっていた。
「ディト、そっち行ったぞ!」
逃げる魔物を追っていたアルドが、鋭く叫ぶ。
「任せてください!」
目の前に飛び出してきたそれは、よく見ると所々に葉らしきものが飛び出しており植物の特徴を残しているが、俊敏な動きは動物的なものだった。それを一瞬で視認すると同時に、ディトは意識を集中させ、魔力を開放する。
《ギヤァァァァ》
その躯が炎に覆われるやいなや、魔物は苦痛にのた打ち回る。その隙を逃さずに、アルドが魔法で効果を上げてある剣で一閃した。とたんに炎が消え、黒い煙を上げたかと思うと、後に残ったのはたった今死んだばかりの老木だった。
「――あと二体か」
そう呟くと同時に、アルドは魔物の気配のする方へと走り出している。ディトもその後に続いた。
彼らが倒したモノは、便宜上《魔物》と呼ばれている。数十年前に突如として現われ始めたそのモノの正体は、死にかけた動植物に命を持たない魂が取り憑いて魔物化したものだ。人を襲う性質を持つものが多く、各国では、魔物が侵入できないシールドを国全体に張る専属の魔術師が雇われ、また近隣に出没する魔物を駆除する討伐隊が編成されている。
今回のディトたちの任務も、目撃情報を頼りに、都市部に侵入してくる前に先駆けて魔物を排除するというものだった。
その後、課せられた任務を早々に切り上げ、二人は国に帰還することとなった。
「セインさんが心配しますから、うちで手当てしていったらどうですか?」
「いや、いい」
そう提案するディトに、アルドは即答する。一刻も早く自宅に帰りたい、というのがその主な理由らしかった。
「そう言いますが、かなりの怪我ですよ?」
ディトが言う先で明らかに浮かれているアルドは、全身に傷を負っていた。特に、左の二の腕に応急手当として布が巻かれた部分や、右頬に走った切り傷が痛々しい。初めの一体と違い、後の二体は攻撃性が高かったのだ。ディトにも傷はあるが、接近戦を強いられるアルドはより怪我を負いやすい。さすがのセインも肝を冷やすのではないかと思い、手当てを助言したのだが……。
「あら、おかえりなさい」
いつものように、こちらが開けようとする絶妙なタイミングで中から現われたセインは、ディトの予想とは異なり、傷だらけのアルドを見ても何も言わない。
「ただいま〜セイン」
それは当のアルドもそうで、まだ往来に人がいる時間帯だというのに、セインに腕を回すと、そのまま挨拶でもするようにキスをした。視線を彷徨わせたディトが周囲を見ると、そこに居合わせた人たちは特に何を気にするでもなくそれぞれの仕事を続けている。
――皆さん、苦労しているんですね……
半ば呆れたディトが内心で溜め息を吐いていると、セインの声がかかる。
「あら、ディトちゃんもいたの? 寄っていかない?」
「いえ、迷惑でしょうし……」
「もう何気にしてるの。いいから寄っていきなさいよ」
……邪魔だから帰れ、セインの隣でアルドがそう顔に出しているのでディトは断わったのだが、結局は彼女に言い包められて立ち寄ることになってしまう。
すぐ近くで舌打ちが聞こえてきそうだった。
「あら、アルドちゃん大丈夫? 手当てしなきゃいけないわね」
家の中に入ると、ようやくアルドの怪我に気付いたセインが、夫を椅子に座らせて言う。
「まあ、大した怪我じゃないけどな」
実際はかなりの傷なのに、アルドは何でもないという風に言う。……よく負傷する彼にとっては当たり前のことかもしれないが。
「砂だらけだし、先に汚れを落としてきたらどうかしら。こうすれば支障はないわ」
傷口をきれいに洗い、消毒を済ませると、セインは切れた皮膚の上に魔法で見えない膜を張って提案する。治癒魔法ですぐに傷を塞ぐこともできるが、細胞の再生速度を速める術なので、後々傷の部分の皮膚だけ老化が目立つ、なんてこともあり、この程度のものは自然に癒えるのを待つのが普通だ。
「セインが言うならそうするか」
立ち上がるアルドに、ディトは慌てて言う。
「それでは、私は帰りますね」
すると、セインが食卓に置いてあった鍋を持ってきて、ディトに渡した。
「今日の夕食のおかずなんだけど、明日の朝にでも食べてね」
「ありがたくいただきます」
そうお礼を言い、ディトは家を出ようと玄関に向かう。実を言うと、ディトが持っているその鍋は、彼の家にあったものなのだ。この国に来てから、セインはよく父子二人暮らしのディトに夕食のおかずなどを余分に作ってくれる。昼もよく掃除に来てくれているらしく、鍋を持っていってもいいか訊かれたと、以前父から聞いたように思う。
「……セインさんは、この国に来てよかったと思いますか?」
見送りに来てくれた彼女に、なんとなく気になっていたので訊いてみた。いくら自分を隠して暮らしてきたとはいえ、こうも遠くの国へ嫁いでは、故郷にもなかなか帰れない。そのきっかけを作ってしまった自分が本当に正しいことをしたのか、時々判らなくなることがあった。
一瞬不思議そうな顔をしたセインだったが、すぐに答える。
「ええ、もちろん。今が一番幸せよ」
優しく微笑むセインに、迷いの色はない。
「それはよかったです。それでは」
ディトは歩き出す。セインには、なぜ彼が唐突に訊いたのかが解っていたのだろう。少ししてディトが振り返ると、彼女はまだ戸口に立って彼を見送っていた。
魔物は辺鄙な土地に多く出没する傾向にある。そのため、商業の中心となって栄える平野部の端に位置する国では、魔物の駆除が大きな課題となる。なにしろ小さな国が多いため、隊を組織するだけの人材が足りないのだ。そこで、近隣の国々が協力し、魔物が現われた時に自国の隊を派遣するのも珍しいことではない。
その日、ネオランビスから派遣され、仕事を終えて帰路についたディトとアルドは、自国からほど近い街で宿をとっていた。
「なあディト、これどう思う?」
唐突にそう言って、アルドが差し出したのは琥珀の髪留めだ。何が、と訊きかけて止める。親友がこの手のことを言ってくる場合、その相手は決まっていた。
「セインさんにですか? 似合うと思いますよ」
そう答えると、案の定そうだったらしいアルドは、満足そうな表情で髪留めを眺める。
「俺が出かけてばかりだから、たまにはと思ってな」
いつもは自信に溢れているその顔に、ある種の申し訳なさが滲んでいる。
「あなたと結婚できて、セインさんは今までで一番幸せだと言っていました。何でも視通すあの人のことですから、こうなることも解っていたのではないですか?」
らしくない親友に、先日のやりとりを思い出しながら言った。
「そうだろうな」
軽く息を吐いて苦笑するアルドに、もう先程の自嘲気味な雰囲気は感じられない。それどころか、明日には帰れるというのに、またいつかのように今すぐに宿を出発すると言い出す。言い聞かせるのに苦労はしたが、これくらい元気な方が彼らしいと感じながら、ディトは眠りに就いた。
翌日の夕方、ディトとアルドはネオランビスに帰り着いた。相変わらずの二人のやりとりを軽く受け流して、ディトは夕食に招かれ、家の中に入る。
「セイン、プレゼントだ」
アルドが、昨晩ディトに見せた琥珀の髪留めを渡す。
「あら、綺麗な髪留めね」
言いながら、セインは後ろで一つに結んであった髪を解き、琥珀の髪留めで纏め直す。
「どうかしら?」
「よく似合ってる」
窺うセインに、アルドは満足そうに即答する。
「素敵なものをありがとう、アルドちゃん。大切にするわね」
微笑んだセインは、夕食を運んでこようと踵を返しかけて止める。
「そうだわ、アルドちゃんに言わなきゃいけないことがあるの」
「……何かあったのか?」
少し心配そうなアルドに対して、セインは悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「双子なんですって」
「……?」
唐突な言葉に、アルドは首を傾げる。セインはますますおかしそうにして続けた。
「赤ちゃん、三ヶ月なんですって。今日お医者様に診てもらったの。秋には産まれるそうよ」
「……」
面食らって黙り込む男二人を、セインは満足そうに眺めている。
「……本当なんだな」
しばらくして、アルドが確かめるように言う。
「ええ」
そう答えたセインを、アルドはいきなり高らかに抱き上げた。
「おめでとう、セイン。やったな」
「やだアルドちゃん、くすぐったいわよ」
喜びに沸く二人に、ディトはようやく我に返る。
「あの……この国に着いたのは一ヶ月前なのですが……」
控えめに言われたディトのその突っ込みは、浮かれている二人には届いていなかった。
◇ ◇ ◇
数ヶ月が経ち、再び季節は秋を迎えようとしていた頃、二人を含む数人の剣士たちで編成された中規模の討伐隊が、一週間の日程を持って派遣されることになった。
「よお、ディト」
出発の朝、親友はいつものように、先に来ていたディトに軽く手を上げてそう声をかける。
「来て大丈夫なんですか?」
言外に、臨月の妻を残して参加することへの非難を込める。考えてみれば、いつもは行きたくないと騒ぐ親友が、こんなにあっさりとしているのは妙なことだった。
「まあ、仕事だからな」
「……? そうですか?」
駄々っ子のように拗ねるアルドを宥めなくていいのに越したことは無いが、やはり何かおかしい。そうは思ったものの、ディトはそれ以上追求しなかった。
隊の任務は、三日間は何事も無く過ぎていった。しかし、四日目を終えて近くの村で休息を取っていたディトたちのもとに、ある知らせが舞い込んだ。
その知らせとは、まだ予定日は先のはずのセインが産気付き、双子は無事に生まれて元気だが、母親の方は意識が戻らないという深刻なものだった。
「後は私たちに任せて、早く帰るべきです!」
ディトはそう言い聞かせたたが、いつもなら真っ先に帰ろうとする当の本人が、どういうわけか戻ろうとしない。
「あと三日仕事が残ってるだろ」
あっさりとした口調で、アルドは言う。どうやら、それが《理由》らしかった。
「セインさんの緊急事態なんですから、途中で戻っても王は咎めたりしませんよ」
そう何度もディトが言うのだが、聞く耳を持とうとしないアルドは、早々に部屋に戻ろうと立ち上がる。
「――アルドッ!」
その背中に、ディトは思わず叫んでいた。しかし、何の反応も返さないまま、アルドはディトの視界から消えてしまった。
翌日、昨晩の親友の態度に納得のいかないディトは、もやもやした気分で討伐に参加していた。
目の前には、知らせを聞いた隊の他のメンバーからも同じような助言を受けているアルドがいたが、やはりそれを断わっている。
疑問だらけのディトだったが、討伐に集中していなかったわけではない。戦闘中は割り切る事態として、なるべく考えないようにしていた。その点、まだ成人していないせいなのかもしれないが、問題はディトにあったというよりも、異常な攻撃性を持ち合わせていた魔物の方にあったといってもよい。
「――っ!」
ディトは息を詰めて身体をよじる。先程まで自分の身体があった場所を、鋭利な刃を持った魔物の腕が通過していく。
「そっちに行ったぞ!」
この人型をした魔物は、執拗なまでにディトを狙ってきた。その上素早く、彼を助けようとした仲間がスピードについて行けずに、次々と負傷していった。ディトも反撃はおろか、その攻撃を避けるので精一杯だ。
「くっ……」
勢いよくしゃがみ込み、上半身を狙った攻撃を避ける。
―――ひゅっ
頭上で、恐ろしい速さで空気が切り裂かれた音がする。一瞬生まれた隙に、魔法を発動させるが、短時間ではごく初歩の低いものしか出せず、殆ど意味を成さなかった。
魔物は疲れを感じていないらしいが、生身の人間であるディトの体力は限界が近かった。息の上がりきったその身体で、どうにか逃げ続けているディトだったが、そうしているうちにどんどん足場の悪いところへと移動してきていた。そして――。
―――ずるっ
いつの間にか足元を覆いはじめていた苔を踏み、大きくバランスが崩れる。速さを増して向かってくるその魔物をぼんやりと眺めながら、ディトは自分の死の瞬間を待ったが、それが訪れることはなかった。
―――ガッ!
「何やってるんだ、ディト!」
アルドが、魔物の攻撃を受け止め、そのまま投げ飛ばす。我に返ったディトは、慌てて意識を集中させ、今度はきちんと発動させた魔法で魔物の動きを封じる。アルドがすかさず斬り、いつものように魔物が消えた後には、命を持たない魂に憑かれたであろう人間の骨が散乱していた。
「……ありがとうござ――……」
そう言いかけたディトの目の前で、親友の身体が傾いでいく。
「アルド!」
地面に倒れる直前でどうにかディトの支えは間に合い、そのまま仰向けに寝かせる。そうした親友の腹部では、隠しきれない大きな傷口から、絶えず鮮血が流れ出していた。その赤い液体は、見る間に二人の服を染め上げていく。
「なぜこんな――」
自分が避けようという意思を無くしていたせいで、それを庇ったアルドに無理がかかったのだ。答えの分かりきったことを呟きながら、ディトはすぐに治癒魔法を発動させようとする。しかし、その手を掴む者があった。
――いい。やるな。
激痛に震える手でディトの魔法を遮りながら、蒼白い顔の親友は、確かにそう言っていた。
なぜ。そう目で訊いたディトに、アルドは答える。
――もう、俺は助からない。
治癒魔法といえど、直せる傷や病気には限度がある。自分の傷がもうその一線を超えたことを、彼は誰よりもよく解っていた。
「――アルドッ!!」
最期に強い光を持った顔で笑い、アルドの身体から力が抜けていく。
――大袈裟なんだよ、お前は……
心配性な親友の叫び声に苦笑して、沈み逝く意識の中で、アルドはあの日の夜の出来事を思い出していた。
◇ ◇ ◇
「ねえ、アルドちゃん」
出発の日、まだ日も昇っていない時間に、セインは隣のベッドで寝ている夫に声をかけた。
「どうした、セイン」
そろそろ起きようかと考えていたアルドは、間もなく臨月を迎える妻を窺う。双子を身篭っているため、数ヶ月前から絶対安静を言いつかっているセインは、心配した程体調が悪い様子もない。
それなら、こんな早い時間にどうしたと言うのだろう。首を傾げるアルドに、彼女は何か考え込むように黙っている。その様子から、彼は大体のことを察した。
セインには、未来を見る力がある。そのため、彼女はこの先に起こることをある程度知っているのだ。だが、視えてしまう未来が、明るいものばかりだとは限らない。運命が変わってしまうからと、普段は決して視たことを言わないセインだが、お腹に子供がいるせいもあってか、不安を感じやすくなっているのかもしれない。その証拠に、いつもの明るい表情は影を潜めて、藍色の瞳が揺れていた。
「何があったんだ?」
促すように言えば、セインは視線を上げてアルドを見る。しばらく無言のまま彼を見ていたセインは、覚悟したように口を開く。
「――あと数日のうちに、私たち三人のうちの誰かが死ななければならない運命だって言ったら、アルドちゃんはどうする?」
思いがけない言葉に、アルドは黙り込む。
「……運命、って……?」
しばらくして、それだけを口にした。セインは、淡々とした口調で話し始める。
「……人は、様々な選択をしながら、人生という長い道を進んでいくの。そこに、進みやすさの違いはあっても、選択肢は確かに存在しているわ。けれど、時々どうしても避けて通れない出来事があるの。人はそれを《運命》と呼ぶのよ」
セインにしては回りくどいことを言っている。話の途中で我に返ったアルドは、先を促す。
「つまり……どういうことなんだ」
セインは、その視線をしっかりと受け止めた。
「つまり……このままだとディトちゃんが死ぬことになるのよ」
「……………」
冷静に聞こうと思ったのだが、伝えられた事実に二の句が継げない。
「……なぜ――」
こんなことを訊いても、誰も答えられはしない。そう解っていても、この理不尽な運命に、嘆かずにはいられなかった。
「それは、私にも分からないわ。でも……もしかしたら、私たちがこの子達の罪を肩代わりしたからかもしれないわ」
そう言ってお腹をさするセインの声音は穏やかで、アルドは自分の中にあった苛立ちが消えていくのを感じていた。
「この子達は、とても大きな力を持っているわ。今アルドちゃんが倒している魔物を生み出す原因になった月の神を、正常に戻すために太陽の女神が与えた魔法力。けれどこれは、人間が持ってはいけない力なの」
セインは、双子に言い聞かせるようにも言う。
「前世のこの子たちも、この力のせいで辛い思いを沢山してきている。だから太陽の女神は、魔力と魔法を使う技術を分けることにしたのね。けれど、それでも罪は大き過ぎて、誰かに害を与えてしまう。それを知った私たち三人や他の大勢の人たちが、罪の一部を背負うことにしたの。この運命も、それが影響しているんじゃないかしら」
これはあくまでも私の推測だけど。最後にセインはそう付け加えた。
「それで、セインはどうするんだ」
半ば答えを確信しながら、アルドは妻に訊く。
「――ディトちゃんが死ぬのなら、私が死ぬわ」
寂しげな、けれど凛とした微笑みを浮かべて、セインは言い切る。こうなると彼女が意思を変えるはずがないことを誰よりもよく分かっているアルドは、深い溜め息を吐いた。
「それなら、答えは一つだ。――俺がその役を引き受ける」
セインは、何も言わずにそれを聞いていた。アルドがそう言うことくらい、彼女には分かっていたのだろう。
「その様子だと、まだ何か視えてるんだろ?」
含むところのありそうなセインに、アルドは問う。それに直接答える代わりに、彼女は話し始めた。
「ええ。……数日後と十年後と十二年後、この三回で、私たち全員が死ぬことになる。そう視えたの」
「じゃあ、俺が最初に死ぬことになったら、どうなるんだ?」
自分でも驚くくらい冷静に、アルドは訊いていた。
「十年後にこの国が襲われて――これは月の神がやることだから、ディトちゃんに防げなくても仕方ないことなのよ――その時に私が、その二年後にディトちゃんが命を落とすことになる。そう視えるわ」
「――それなら、次にセインと会うのは十年後になるんだな」
数瞬考え、アルドは言う。セインを残して逝くのは不本意だったが、その選択に迷いはなかった。
「……」
わざとらしいくらい明るく言い、出発の準備を始めるアルドを、セインは黙って見ていた。
半時程して、出掛ける直前にアルドが寝室へ行くと、セインはまだ起きていた。
「その手紙、ディトちゃんへのね?」
アルドが持っていた封筒に目を留め、セインは訊く。
「ああ、あの莫迦のことだから、いつまでも落ち込んでそうだからな。セインも迷惑だろ?」
封筒を渡そうとして、アルドは言う。
「そうね。あ、それは戸棚の引き出しに入れておいてくれないかしら」
アルドが言われた通りに手紙を入れるのを見ながら、セインは身体を起こして笑う。
「……ねえ、一つ頼んでもいいかしら」
頷きながら、アルドはベッド脇の椅子に腰掛ける。
「この子達の名前を考えてほしいの。一卵性の双子だから、よく似た可愛い女の子になるわよ」
そう言って、セインは愛おしそうにお腹をさする。その横顔は、もう母親のものだった。
「――ルイとレイでどうだ」
実は双子だと聞いた時から考えてあったのだが、少しだけ考えるフリをして、アルドは言う。しかし、そんな考えもセインには筒抜けだった。
「ルイ=フレアルにレイ=フレアル――いい名前ね。アルドちゃんのこと、よく話しておくわ」
くすくすと笑いを漏らしながら言うセインは、けれども急に笑みを引かせる。
「アルドちゃん、このことはディトちゃんに言わないでおいてもらえるかしら」
――ほんの些細な言動が、運命を思いもよらない方向へ捻じ曲げてしまうから。
それ故に、未来を視る力を持つ者は、見てしまったことを己の胸の内にそっと仕舞い込んでいる。運命を変えようとして起こした行動が、未来を更に悪い方向へ導いてしまうことも珍しくなかった。
「もちろん。――二人の生きる先は、幸福で満ちているといいな」
二年に満たない短い間だったが、セインの傍にいたアルドには、その辛さがよく解っていた。だからディトには何も伝えないと決めて、敢えて、セインに訊くように言う。
「それは、私にも分からないわ。遠過ぎる未来を視ようとするせいか、靄がかかったようにハッキリしていないの。……もしかしたら、まだ決まっていないのかもしれないわね。でも――」
「――信じよう。きっと大丈夫さ」
セインの言葉を、アルドは代わって言う。そうすると、根拠はなくても、未来がそうあるような気がした。この瞬間に、決められた運命ではなく、確かに自分の意思で自分の行く先を選んだのだと信じたい。
「――セイン、左手を出してくれないか」
長く話しているうちに、外では空が微かに明るくなり始めていた。出発の時が、刻一刻と近付いている。
「ええ」
得心した様子で、セインは手を差し出す。
その細い薬指に、アルドはサイドテーブルに置いてあった結婚指輪をはめる。
「セイン――十年後、また逢おうな」
セインも同じように指輪を手に取り、アルドの指にはめた。
「ええ、アルドちゃん。十年後に――……」
セインが最後まで言い切らないうちに、アルドは彼女を引き寄せて、一年前の結婚式の時と同じように口づけた。
少しして、立ち上がったアルドに、セインは優しく微笑む。
「――行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
短い会話。踵を返したアルドは、一度も彼女を振り返ることなく、部屋を、そして家を出て行く。
遠くなる足音を聞いたセインの頬に、たったひと雫だけ、涙が伝い落ちていった。
◇ ◇ ◇
数日後に、討伐隊はネオランビスに帰還した。死者を出し、生き残った殆どの者が負傷するという最悪の状態だったが、与えられた任務は全て完了されていた。
「セインさんのところに行ってやれ」
王への報告を終えた帰り、比較的軽症だった隊のメンバーが、ディトに言う。
数日前に昏睡状態と伝えられていたセインはようやく意識を取り戻し、今は回復に向かっていると、医師は言っていた。
「会って、お前の口から説明してやれ。いつまでも隠しておくわけにはいかないからな……」
「………はい」
返事をし、行き先を変えて歩き出す。できることなら行きたくなかったが、そもそもの原因が自身にあるのだから、どうしようもない。通い慣れた道を一人で歩きながら、ディトはどう伝えようかと思考を巡らせていた。
控えめに扉を叩くと、すぐに返事が聞こえてきた。
「いらっしゃい、ディトちゃん」
ディトが部屋に入ると、少し前まで昏睡状態だったというセインは、はっきりした意識で彼を待っていた。
「あの……」
事実を伝えることに対する迷いと、セインへの後ろめたさで、彼は言葉を詰まらせた。彼の次の言葉を待つセインに、部屋には沈黙が流れる。
猶も言えずにいると、セインが使っているベッドの脇で、泣き声が上がった。そしてその声はすぐに二倍になる。
「はい、ディトちゃん」
セインは生まれたばかりの双子の片割れを抱き、もう一人をディトに押し付ける。
「え、あ……は、はい」
小さい子に接するのも慣れないディトは、慌てながら見よう見まねで抱き上げる。そんな彼の混乱をよそに、先程まで泣いていた双子は、それぞれ静かな寝息を立て始めた。
「……あの人、逝ったのね」
しばらくして、双子に見入っていたディトに、セインはポツリと言った。
「え……」
「知っているわ、何があったのか。私が、アルドちゃんに言ったんだもの」
驚いて言葉を失ったディトに、セインはアルドとのやりとりの一部を話した。始めは意味を測りかねていたディトも、それでようやく起こったことを理解する。
「ねえ、ディトちゃん。そこの戸棚の、右から三つ目の引き出しを開けてもらえないかしら」
それでも呆然と突っ立っているディトから双子の片割れを抱き取り、セインは促す。ディトは、言われた通りに引き出しを開けた。
「これ、ですか?」
中に一通だけ入っていた封筒を取り出し、セインに渡す。
受け取ったセインは、何度か確認するように手紙を見て、それからディトに差し出した。
「はい、ディトちゃん。これは、アルドちゃんがあなたに宛てた手紙よ」
「え……?」
思わず受け取ってしまった手紙を、まじまじと見つめる。宛名こそないが、裏にある署名は、親友のものに間違いなかった。
「読んでちょうだい」
促されるままに、ディトは封を開けて手紙を取り出す。そこには、見慣れた文字で、親友の最後の言葉が書かれていた。
◇ ◇ ◇
よう、ディト。
お前がこれを読んでいるということは、俺は死んだんだろうな。セインには、そう頼んでおいたから。
大体のことはセインから聞いたと思う。
言っておくが、俺はセインのために死んだ。お前のためにくれてやるような命は持ってない。
だから、後悔とか後ろめたさとか、とにかく暗くなるのは止めろ。今すぐに。
はっきり言ってこっちが迷惑だ。
ただ、これで俺はどうやっても現実に干渉出来なくなった。メイザース様との約束も果たせなくなったし、セインが困っていても助けてやることは出来ない。
だから、親友としてのお前に、俺から頼みたいことが一つだけある。
お前が重荷に感じるなら、引き受けなくても構わない。セインも、それは承知している。
だが、俺はお前を信頼して言う。
―――セインと双子を頼む。
◇ ◇ ◇
掃除の途中に偶然出てきた手紙を手にしたまま、青年――ディトは、長い間動かなかった。懐かしい親友の文字で書かれたそれは、何度も読み返したためにボロボロになっている。
「私は……あなたとの約束を守れているのでしょうか」
あれから、手紙を受け取ったあの時から、もう十年が経った。成人して間もなく父を亡くし、代わってこの国の守護を任された傍ら、夫を亡くしたセインの助けになれるように生きてきた。幼かった双子も、もう十歳になる。
何度か国王からセインとの結婚を勧められ、ディトは彼女がそうしたいと言うのならと承諾したのだが、当の本人にその気は全く無く、その度にキッパリと断わられた。ディトの援助も受けず、元は王族だった彼女は、良くも悪くもたくましく暮らしている。
ディトがしていることといえば、双子の師となり魔法を教えていることくらいだろうか。まるで力を二人で分けたかのように、一人では初歩的な魔法でさえ満足に発動出来ない双子だったが、二人揃えば師である自分をも凌ぐ力を持っている。婚期を逃したディトに内心では嘆いていた国王も、これで後継者ができたと喜んでいた。
そうして、何事も無ければ、彼と同じように月日が流れ行くのを見ていたであろう人が居ないこと以外は、何の変わりもない日常が、日々繰り返されている。
その中で、後悔や後ろめたさは感じないものの、ディトは胸の中にぽっかりと空いたままになっている場所を埋められずにいた。
「アルド――私は、あなたとの約束を果たせているでしょうか……」
再び呟く。
掃除のために開け放った窓から、太陽の光を含んだ暖かい風が吹き込んでくる。風は、ディトの手から古びた手紙を奪い、後ろで纏められている長い銀色の髪をさらっていった。
―――タッ、タッ、タッ……
落ちた手紙を拾い上げたディトの耳に、遠くから聞こえてくる小さな足音が届いた。
恐らくは双子だろう。気付けば、いつの間にか二人が魔法の練習に来る時間になっていた。
――また今度にしますか
かなりの時間物思いに耽っていたらしい自分に苦笑し、ディトは親友からの手紙を同じくらい古びた封筒に入れ、挟まれていた本に戻す。床に散乱していた本を積み直していると、誰かが玄関の扉にぶつかる音がした。続けて、少し遅れていたもう一つの足音も止まる。
――来たみたいですね。
服に付いた埃を掃い、邪魔になるので束ねていた髪を解くと、ディトは親友の忘れ形見を出迎えるために、ゆっくりと歩き出した。
―fin―
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
唐突に始まり唐突に終わった物語でしたが、いかがだったでしょうか。なるべくサイドストーリー色をなくそうとしてはみたのですが、やはり中途半端なお話になってしまいました。
本当は本編で全て書かなくてはいかないのですが、どのようなつながりになっているのかを、この後書きで補足的にいくつか書いてみようと思います。
まず私、柊の投稿作品の中に、「月色の水晶」というタイトルの作品があります。時間軸的には「月色の約束」が後で、「水晶」の方に出てきたエルピスという青年の生まれ変わりが、この「約束」のディトであり、最後の方に出てきた双子は「水晶」の主人公フィオレンティーナの生まれ変わりという設定です。
ややこしくなってきましたが、「月色」シリーズの核を成している月の神様と太陽の女神にまつわる宗教の解説は「水晶」の後書きにちょこちょこと書いてありますので、気になる方はそちらもチェックしてみてください。
さて、話を元に戻しまして、双子と両親に関する設定を少し書いてみます。
「水晶」で月の神様の身勝手な行いから存在という罪を背負ってしまったフィオレンティーナは物語の最後に心を壊し、精神だけの存在になった彼女を太陽の女神が天に連れ帰りました。
この世界では、月の神様が精神(心)に器を与えて魂とし、太陽の女神が命を与えることによって魂は地上に生まれることができます。つまり、女神がいなくなれば地上に生命が生まれなくなり、神様がいなくなってもやがて循環する魂がいなくなってしまうために地上に命あるものが消滅してしまうことになります。
太陽の女神は、精神だけになってしまったフィオレンティーナに器を与えました。彼女は、女神の創った唯一の魂となります。
なぜ女神がこのようなことをしたかと言うと、世界の歪みにとり憑かれ本来の役目を放棄した月の神様を元に戻すための人材が必要だったからです。
しかし、彼女を創るにあたり、一つ問題がありました。フィオレンティーナの罪――世界を滅ぼす程の魔力とその力を使うだけの才能(意思)を共に持ってしまったこと――をどうにかしなければ、神様を戻すと同時に世界までも滅ぼしかねなかったのです。
そこで女神は、彼女の持つ魔力と才能とを分け、二つの魂としました。更に、双子の両親となる魂を選び出し、力を与える代わりにその罪の一部を肩代わりさせることを持ちかけました。それを受け入れた両親が、この物語に出てくるセインとアルドです。
母親セインは、フィオレンティーナの持っていた全ての行く先を視る力を引き受けたため、生きることに楽しさを見出せないという代償を背負い、父親アルドは、生まれてすぐに親に捨てられ孤児院で育ったため愛情を知りません。更に二人とも、若くして命を落とす可能性が高いという代償も背負っていました。
この「約束」の最後でなんとか無事に生まれた双子たちは、この後、狂ってしまった神様を戻すための旅に出ることになります。
双子の活躍する本編の公開は未定なままですが、いずれ「月色」シリーズとして別視点からの物語を書けたらと思っているので、気長に待っていただけたらと思います。
まだまだ未熟ですが、これからもより面白い物語が書けるよう精進していきますので、時々覘きに来ていただけると幸いです。